おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ゴジラ-1.0

2024-05-16 07:43:15 | 映画
「ゴジラ-1.0」 2023年 日本 


監督 山崎貴
出演 神木隆之介 浜辺美波 山田裕貴 青木崇高
   吉岡秀隆 安藤サクラ 佐々木蔵之介

ストーリー
太平洋戦争末期。特攻隊員の敷島(神木隆之介)は、零戦の故障で大戸島の守備隊基地に着陸した。
しかしベテラン整備兵の橘(青木崇高)は、戦闘機に異常がないことから敷島が特攻から逃げてきたことを悟った。
その夜、巨大な恐竜のような生物が基地に襲来し、ある整備兵は、それが島の伝説にあるゴジラではないかと言った。
橘は敷島に零戦に搭載された砲弾で攻撃するように言ったが敷島は攻撃できず、橘と敷島を残して部隊は全滅してしまう。
1945年の冬、焼け野原になった東京に帰ってきた敷島は、隣に住む澄子(安藤サクラ)から両親が空襲で亡くなったことを知らされた。
厳しい生活のなか、彼は闇市で空襲中に託された赤ん坊・明子を抱えた典子(浜辺美波)と出会い、成り行きで共同生活をすることになった。
やがて敷島は、秋津(佐々木蔵之介)、野田(吉岡秀隆)、水島(山田裕貴)と共に米軍が残した機雷撤去の仕事に就き、収入を得た敷島は家を建て直した。
1946年の夏、ビキニ環礁で行われた米軍の核実験によって被爆したゴジラはさらに巨大化し、放射線を放つようになっていた。
その後、米軍の船舶が被害を受ける事故が続発し、ゴジラは日本に近づいてきた。
そんななか、敷島たちが乗る「新生丸」に、巡洋艦・高雄が日本の海域に戻るまで、ゴジラを足止めするよう命令が下った。
ゴジラに襲われた彼らは、回収した機雷をゴジラの口の中に放り込み、機銃で撃って爆発させたがゴジラは死ななかった。
絶体絶命と思われたとき高雄が到着しゴジラを攻撃したが、ゴジラが吐いた青い熱戦によって高雄は海の藻屑と消えてしまった。
その後、典子は明子とともに自立するため、銀座のデパートで働き始めた。
そんな折、ゴジラが銀座に上陸したので、典子の身を案じた敷島は彼女のもとへ駆けつけたが、ゴジラの放った熱線の爆風によって典子は吹き飛ばされてしまった。
絶望した敷島は、秋津たちからゴジラ討伐作戦に誘われた。
元海軍の兵士をメインとした民間のゴジラ討伐部隊が結成され、戦時中に兵器の開発に携わっていた野田は、「ワダツミ作戦」を発案した。
それは、ゴジラをフロンガスの泡で包み込んで一気に深海まで沈め、その急激な水圧の変化によってゴジラを倒すというものだった。
さらに二次攻撃として、海中で大きな浮袋を膨らませゴジラを海面まで引き上げることで、急激な減圧によって息の根を止めるという作戦だった。
敷島は野田にゴジラを予定海域に誘導するための戦闘機を探してもらう。
野田は開発段階で終戦を迎え、実践で活躍することのなかった最新の戦闘機「震電」を見つけてきた。
敷島は機体の修復のために橘を探し出した。
敷島は「震電」に砲弾を数多く搭載し、ゴジラの口の中へ“特攻”することを決めていた。
ゴジラは予想より早く東京に上陸したのだが、戦闘機に乗った敷島はゴジラを相模湾沖まで誘導することに成功した。
充分な深さのある海域まで誘導すると、野田の指示で2艘の戦艦がゴジラの周りを取り囲み、フロン爆弾を爆発させた。
作戦通りゴジラは海底に沈み、第二段階の浮袋でゴジラを浮上させようとしたが浮袋を破られ失敗となった。
そこで一か八か、2艘の戦艦でゴジラを引き上げる作戦に変更したが、2艘だけでは引き上げる力は弱かった。
誰もがあきらめかけたとき、水島が多くの民間の船を率いて加勢するためにやってきた。
こうして引き上げに成功したが、ゴジラは息絶えておらず放射熱線を放とうとした。
そこへ敷島の乗った戦闘機が飛来し、ゴジラの口の中に特攻を仕掛けた。
爆弾を爆発させ、ゴジラの頭を吹き飛ばすことに成功した。
野田や秋津が敷島の身を案じていると、空中でパラシュートが開いた。
橘は戦闘機に脱出装置をつけていたのだ。
無事に帰還した敷島は澄子から電報を渡され、明子とともに病院に向かった。
そこには典子がおり、重傷を負ってはいたものの、意識もはっきりしていた。
「あなたの戦争は終わりましたか?」と言う典子を抱きしめ、敷島は涙を流しながら頷いた。
しかし典子の首には、黒いアザのようなものが浮き上がっていた。
一方、海中ではゴジラの肉片と思われるものが漂い、再生しようとしていた。


寸評
これはゴジラ掃討作戦の物語であるのと同時に、特攻隊の生き残りである敷島の再生物語でもある。
敷島は特攻隊員として出撃していったが怖気づいて目的を果たせず帰還してきた。
その行為を慰めてくれる者もいたが、当時の軍人たちから見れば卑怯者だ。
ゴジラに怖気づいた敷島は零戦に搭載された砲弾で攻撃することも出来ず、部隊は敷島と橘を除いて全滅してしまう。
ゴジラの破壊力からして、敷島が砲撃していたとしても部隊は全滅しただろうが、そのことは敷島のトラウマとなって彼を苦しめることになる。
終戦を迎えても敷島にとっての戦争は終わっておらず、彼がどのようにしてケジメをつけるのかが物語の一方の柱である。
焼け野原となった日本はゼロからの出発を始めていたが、そこにゴジラが来襲してゼロどころかマイナスからの出発を余儀なくされてしまう中でのゴジラとの戦いがもう一方の柱になっていることは当然である。
日本が危機に陥っても連合国は助けてくれないし、駐屯する米軍も助けてくれない。
自衛隊はまだ存在せず政府は無力で情報も開示しない。
国民を守るべき連中が、まったく役立たずなのだ。
日米安保があったとしても、いざとなったらアメリカは助けてくれないのではないかとの疑問がわく。
特攻隊の生き残りたちは死ぬとは限っていないのだから戦時中よりましだとゴジラとの戦いに挑んでいく。
政府が何もしなくても民間人は健在だ。
なんの後ろ盾もない日本の民間人たちが、ゴジラを殲滅すべく立ち上がる。
戦後復興を成し遂げたのは、正に戦争の生き残りの人たちだったのだとも思わせた。
水島たちが船団を組んで駆けつけてくるところなどはダンケルクを髣髴させて身震いがした。
佐々木蔵之介、吉岡秀隆、山田裕貴のオーバーアクションも、ゴジラ映画では違和感がない。
政府は三流、民族は一流と言っているようだ。
練りに練った脚本は無駄を省いており、テンポの良い描き方は時間を忘れさせた。
ラストはその後を想像させるものとなっている。
僕は想像した。
敷島と典子はきっと結婚するだろう。
しかし典子の首のアザをみると、典子は原爆症を発症して苦しむのかもしれない。
もちろんゴジラはその再生能力で復活してくる・・・。
「シン・ゴジラ」「ゴジラ-1.0」とゴジラ映画は完全復活どころか進化を遂げている。
もう子供だましのゴジラ映画は作れない。
次のゴジラは大変だぞ。
個人的には神木隆之介と浜辺美波のキャスティングに疑問を持った。

GONIN サーガ

2024-05-15 06:20:56 | 映画
「GONIN サーガ」 2015年 日本


監督 石井隆
出演 東出昌大 桐谷健太 土屋アンナ 柄本佑
   安藤政信 テリー伊藤 井上晴美 りりィ
   福島リラ 松本若菜 菅田俊 井坂俊哉
   根津甚八 鶴見辰吾 佐藤浩市 竹中直人

ストーリー
大越組襲撃事件から19年後、大越組の若頭だった久松茂の息子、久松勇人(東出昌大)は母(井上晴美)と共に真っ当な人生を歩んでいたが、大越組の組長の息子、大越大輔(桐谷健太)は五誠会会長の孫である式根誠司(安藤政信)に振り回されていた。
式根誠司の愛人である菊池麻美(土屋アンナ)は、五誠会の隠し金を奪うことを大越に提案する。
19年前の事件を追うルポライターの富田慶一(柄本佑)は、情報を集める為に、勇人の母である安恵に情報を与えたところ、安恵は久松茂の名誉回復のため五誠会に突撃するものの、始末されてしまう。
慶一は、安恵に行動させてしまったのは自分のせいということで、勇人と大輔に隠し金の強奪計画を話し、勇人と大輔はそれに参加し、麻実の協力もあり、強奪計画は成功した。
誠司の父である式根隆誠(テリー伊藤)は、報復の為ヒットマンの明神(竹中直人)と女殺し屋の余市(福島リラ)を雇い慶一を殺害しようとするが、大輔により阻止され明神はビルの屋上から突き落とされた。
麻実は余市に反撃して殺害に成功し何とか逃げ出した。
慶一は勇人と大輔をとある病院に案内したが、そこには大越組襲撃事件に関わり、植物状態で生きていた氷頭要(根津甚八)がいた。
慶一は氷頭も含め、誠司の結婚式を襲撃しようと計画するが大輔は自身の父を殺した氷頭を殺しにかかる。
しかし慶一が「紅い花」を流しそれを聴いた氷頭は目を覚まし計画に参加した。
麻実も計画に参加し、自身が大越組襲撃事件の主犯格である万代樹彦(佐藤浩市)の娘ということを明かす。
誠司の結婚式の日、会場に式根隆誠と誠司が現れたことを確認し、勇人達は銃撃を開始した。


寸評
傑作だった「GONIN」の19年ぶりの続編である。
19年ぶりとなると、前作を知らないでこの作品を見る観客もいるわけで、そのような人は前作のあらすじだけでも頭に入れておいた方がよいだろう。
前作の回想シーンから「GONIN サーガ」は始まるが、やはり背景はわかりづらい。
どうやら今回のテーマは「復讐」なのだと分かってくる。
桐谷健太と東出昌大が演じるのは、前作で氷頭達によって壊滅した大越組の、組長と若頭の息子達だ。
彼らは、富田慶一と名乗る抗争のとばっちりを受けて殉職した警察官の息子と、元アイドルで五誠会に囲われている情婦の麻美の誘いに乗って、五誠会の隠し資金を奪う計画を立てる。
彼らの襲撃シーンは、前作の襲撃シーンを意識して似たような描き方をしているなど工夫がなされているが、如何せん前作に比べればキャストの小粒感が否めない。
五誠会の二代目がテリー伊藤なのも笑ってしまうキャスティングで迫力はない。
佐藤浩市、本木雅弘、根津甚八、竹中直人、椎名桔平、ビートたけし、鶴見辰吾、永島敏行、室田日出男とそろった前作はスタイリッシュな描き方と相まって凄かった。
今回、竹中直人はヒットマンの明神として登場しているが、凄みよりも滑稽さが先に出てしまっているのは彼本来のキャラクターによるものだろう。

前作のメンバーはそれぞれが事情を抱えていたのだが、今回は遺児たちの復讐劇というシンプルなものに絞られている。
場面場面ではハッとするような映像表現があるので、分からない内にも引き込まれて行き最後まで見てしまう力強さは健在である。
撃れても撃れても、なかなか死なないのはこの作品らしい。
相手側はすぐに死んでしまうのに主人公はなかなか死なないのはヒーローものによく見られることである。
「GONIN サーガ」では相手側もなかなか死なずにしぶとい。
明神があの状態でも死なず、余市の首を持ってやって来るなんてマンガの世界である。

金を奪われた二代目の安藤政信が咎めを受ける場面は面白い。
ヤクザ映画ならヘマを責められ殺されるか、指を詰めることになるのだが、ここでは笑えるような始末の付け方であるのだが、それが安藤政信の最後への伏線となっている。
彼らは復讐の機会を狙って床下に何日も潜んでいる。
やがて階上では三代目の結婚披露宴が行われ、参加者はダンスに興じる。
この作品の制作年度は2015年で、世の中は格差社会がどんどん広がっている頃である。
階下に潜む彼らは格差社会に反撃したとも見て取れる。
実生活における余命が残り少なくなっていた根津甚八が前作の生き残りとして意外な姿で登場する。
彼も加えて5人なのだろうけど、それにしても根津甚八の風貌はすっかり変わっていて、僕はその事の方が胸に迫ってくるものがあった。
根津甚八はこれが遺作となってしまった。

GONIN2

2024-05-14 06:42:20 | 映画
「GONIN」はバックナンバーから2019-06-04をご覧ください。

「GONIN2」 1996年 日本


監督 石井隆
出演 緒形拳 大竹しのぶ 喜多嶋舞 夏川結衣
   西山由海 余貴美子 永島敏行 鶴見辰吾
   松岡修介 左とん平 多岐川裕美 片岡礼子

ストーリー
暴力団野崎組から激しい借金の取り立てを受けていた外山正道(緒形拳)は、野崎組傘下の中嶋組のチンピラたちに輪姦され自殺した妻・陽子(多岐川裕美)の復讐のために組を襲撃、現金500万を奪って、陽子の誕生日に498万の猫目石をプレゼントするという約束を果たそうと宝石店に向かった。
そのころ、宝石店には中嶋組の梶(松岡俊介)と直子(片岡礼子)ら強盗団が押し入っており、それぞれに個人的な問題を抱える5人の女たちがたまたま居合わせていた。
フィットネスクラブを経営する蘭(余貴美子)は金に困り、ポケットにスタンガンを忍ばせてこの店を訪れた。
蘭がスタンガンを買うところを偶然目撃した早紀(夏川結衣)は、彼女の後をつけてきていた。
夫の浮気現場を目撃した志保(西山由海)は、抜けなくなった結婚指輪を外してもらうために宝石店を訪れる。
宝石店の店員ちひろ(喜多嶋舞)は実は梶の恋人で、裏で強盗団への手引きをしていた。
セーラー服姿の売春婦サユリ(大竹しのぶ)は17歳という嘘が通用しなくなり、フラリと宝石店に入ってきた。
蘭はスタンガンを使って強盗団から銃と宝石を奪い、早紀とサユリと志保もこれに加わる。
蘭たちはちひろを楯にして店を出ると、なぜかそのままついてくるちひろとともに横浜のディスコ跡に逃げ込むが、ちひろの密告を受けた梶と直子がこれを襲った。
梶は宝石を持ち逃げしようとしたサユリを撃ち殺すと、ちひろを見捨てて直子と逃げようとする。
しかし、猫目石が持ち去られたことを知った正道が強盗団を追ってその場に現れ、梶たちに斬りかかった。
正道は宝石を手にすると、何処へともなく姿を消す。
ちひろはこっそりディスコへ戻るが、そこで野崎組の放った刺客・代市(鶴見辰吾)に監禁される。
さらに蘭と早紀も捕らえられるが、猫目石を発見できなかった正道が再び現れ、組員たちを惨殺した…。


寸評
「GONIN」の続編と思いきや、全く別の話で継承しているのは5人という人数と撮影場所と小道具だけで、それも脚本の稚拙さのためか単なる人数合わせになってしまっている。
今回は女5人というのが新鮮なところ。
とは言え、途中では女6人の様な展開で戸惑ってしまう。
これはバイオレンス・アクションなのだと言ってしまえばそれまでなのだが、全体の印象としては描くべきところを描いていないので、今一歩作品にのめり込むことができなかった。

前作同様、鉄工所を経営している戸山がヤクザからの借金で取り立てに追いまくられている。
なけなしの金で妻に誕生日祝いのイヤリングをプレゼントする導入部は良かったと思うのだが、その妻がヤクザにレイプされるシーンから粗さが目立つ。
あれは強姦未遂だったのかというような描き方で拍子抜けする。
未遂だったら妻の陽子は自殺などしないだろうから、やはり陽子はレイプされたのだと思う。
演じているのが多岐川裕美だったためか、ひどい犯され方をされていないので実行犯に憎しみが湧かない。
二人が落としたイヤリングを必死で探す場面は共感を持てたが、その後の戸山の復讐心を掻き立てる悔しさを描くには消化不良だ。

女たちはそれぞれ問題を抱えているが、そのキャラクターは中途半端な描き方でよくわからない。
女たちは宝石店で偶然出会うという設定だが、大竹しのぶのサユリはどうして宝石店に入ってくる必要が有ったのか不明で、彼女が死んでも一人減ったという感覚しか湧かなかった。
もう少し彼女に心情移入できても良かったと思う。
夏川結衣の早紀は以前にレイプされたことがあり、そのトラウマに苦しんでいるようなのだが蘭がスタンガンを買ったのを目撃しただけで尾行していってしまう行動もよくわからない。
男性観客にとっては、宝石店の店員ちひろ役の喜多嶋舞がゴムチューブで縛られている全裸姿がサービスシーンとなっていたのだが、このキャラクターもあっち行ったり、こっち行ったりでイマイチ魅力に欠ける。

ラスト近くで余貴美子の蘭が「男が変わるたびに趣味の変わる女がいる。 やりたくもないゴルフだったりハンティングだったり。強くなりたかったの。自分であり続ける女。 こんな話どうでもいいか。」とつぶやくのだが、自分自身であり続けることがこの映画のテーマだったのだろうか?
だとすると、主婦の志保が仲間(?)から抜け出し、平凡な主婦に戻って浮気した夫のための手料理を作る姿が一瞬挿入されるが、こういう変節する女が一番強いのだと言いたかったのかもしれないなあ。

バイオレンス・アクションといってもしょせんは女なので、すごいアクションシーンがあるわけではない。
そこにいくと緒形拳は流石の雰囲気で、ヤクザの親分が拳銃を取り出して振り向きざまに撃とうとしたら、いつの間にか後ろに移動していてなどというシーンでは鶴見辰吾の代市以上に殺し屋的だった。
どうしても前作と比較してしまうが、映画としては断然前作の方がいいと思う。


コーダ あいのうた

2024-05-13 06:19:11 | 映画
「コーダ あいのうた」 2021年 アメリカ / フランス / カナダ


監督 シアン・ヘダー
出演 エミリア・ジョーンズ エウヘニオ・デルベス
   トロイ・コッツァー フェルディア・ウォルシュ=ピーロ
   ダニエル・デュラント マーリー・マトリン

ストーリー
聴覚障害者の父フランク、母ジャッキー、兄レオとマサチューセッツ州の海辺の町に暮らす高校生のルビーは、家族の中で唯一の健聴者。
漁師の父・兄とともに登校前の早朝からルビーは船に乗り、作業を手伝いながら無線の対応や、他の漁師や仲買人との通訳をこなしている。
町でも有名な聾唖者家族の一員であるルビーは学校でも浮いた存在で、選択授業を何にするか迷っていた彼女は、気になっている男の子・マイルズが選んだ“合唱”を選択した。
人前で歌うことに慣れていないルビーは、歌うことができず音域チェックの場から逃げ出してしまう。
翌日ルビーは先生をたずね他人の目が怖いと告げたが、先生は独特の言い回しで励ましてくれた。
授業でようやく歌えたルビーの歌声を褒める先生は、マイルズとルビーに秋のコンサートでデュエットするよう指示し、ルビーにはバークリー音楽大学に進む気はないかと声を掛けた。
母に合唱を始めたと話したルビーは、自分たちに聞こえないことを始めた娘に対し「反抗期なのね」と言い放った母に怒りをあらわにした。
ルビーの部屋にマイルズがやってきて練習を始めると、となりの部屋から突然母の大きな喘ぎ声が聞こえてきたので、あわててドアを開けると正に真っ最中の両親…。
怒ったルビーはマイルズを帰らせ部屋にこもってしまう。
翌日、学校でそのウワサはすでに広まっていたので、ルビーは失望しマイルズを拒絶するようになった。
一方、漁師たちは有料で監視員を定期的に船に乗せなければならなくなった。
腹を立てた父はルビーの助けを得て、つい組合をつくる、みんな参加してくれと宣言してしまった。
母は最初反対していたが、ルビーが一緒にいてくれたら自分も頑張れると協力を約束した。


寸評
両親と兄が聾唖者で、家族の中で話せるのは主人公のルビーだけという極限状態とも言える家族を描いた作品なので重い映画かと思っていたら、聾唖の三人が型破りの面白い人物たちで、手話で発する言葉におもわず笑ってしまう愉快な映画である。
もちろん想像を超える家族関係だから同情せずにはいられない辛い場面もあり、家族の中で揺れ動くルビーの葛藤も伝わってくるせつない映画でもある。
ルビーは家族の通訳係として青春を犠牲にしている所があり、日本でも問題となっているヤングケアラーの存在を思い浮かべる。
言葉を発せないので手話のシーンが多いのだが、それを補うようにルビーが唄う歌声などが盛んに挿入され、そのアンサンブルが心地よさをもたらす。
その構成が巧みで、この映画を暗いものにしていないのだろう。

母親がルビーの部屋に秋のコンサートで着るためのドレスを用意して入ってくる場面がある。
そこで母親のジャッキーは出産時にルビーに聴覚障害があることを祈り、健聴者だと知ってわかり合えないと思ったと振り返る。
母のジャッキーは自分が母親に理解されなかったからだと言うと、ルビーは家族でひとりだけ健聴者である自分も疎外感を感じていたと告げる。
サラリとした会話なのだが実に切ない思いがするやりとりで、本当の気持ちだったのだろうことが分かるだけに胸に迫るものがある印象的なシーンとなっている。
いつもルビーに頼りっぱなしの状況をこころよく思っていない兄の存在がルビーと観客を救っている。
家族はルビーが出場する音楽発表会に出席するが、当然彼らにはルビーの歌声は聞こえない。
観客を彼らと同じ状況に置くために突然無音となり映像だけが流される。
しばらく続くそのシーンは家族にとっての音楽会であり、手話で発表会と関係ない話を始めてしまうのも分かるというものだ。
観客の反応を見てルビーの歌声の素晴らしさを知るのは、まるでベートヴェンが経験したオーケストラの初演のようだと思った。
夜、家に帰ってくると、父は少し外で涼んでから入るといって外に残る。
ルビーが父の横に座ると、もう一度ここで歌ってほしいと父が頼む。
不思議に思いながらルビーが歌い始めると、父は両手をルビーの首に押し当て体で歌声を感じようとする。
無骨な父親の娘に対する愛情の表現だ。
おそらく父親のフランクは音楽大学進学に反対していた母親のジャッキーを説得したのだろう。
家族みんなでルビーを見送る。
4人で抱き合うロッシ一家、再び車に乗ったルビーは助手席からハンドサインを送る。
そのハンドサインは「本当に愛している」だ。
感動的なラストシーンだが、ルビーの去った一家はこの後どうしただろうと思わせる家族の中でのルビーの存在であった。
ヤングケアラーの存在は何とかしなければならないと再度思わせた。

恋をしましょう

2024-05-12 07:03:07 | 映画
「恋をしましょう」 1960年 アメリカ


監督 ジョージ・キューカー
出演 マリリン・モンロー イヴ・モンタン トニー・ランドール
   フランキー・ヴォーガン ウィルフリッド・ハイド=ホワイト
   デヴィッド・バーンズ ミルトン・バール ジョー・ベサー

ストーリー
ジャン・マルク・クレマンは億万長者で、色事もなかなか達者だ。
クレマンのPR係コフマンが、バラィエティ紙にクレマンを皮肉った芝居のリハーサルが行なわれている記事を見つけた。
クレマンの弁護士は芝居を止めさせようといったが、彼は1度芝居をみてからにしようといった。
ある晩、クレマンはコフマンを連れて、内緒で劇場を訪ねた。
舞台ではアマンダ・デルがセクシーな踊りを踊っていた。
一目でひかれたクレマンは、コフマンに彼女と食事をする用意を命じた。
プロデューサーのバークンズはクレマンに似た役者を探していた。
それを知ったクレマンは彼女に近づくため、アレクサンドル・デュマと名乗ってその役を買って出た。
アマンダがクレマンと親しくなるにつれて、彼女が金持ちを軽蔑し、夜学に通っていることがわかった。
彼女はなかなかクレマンの誘いにのらない。
どうも一座の中の若いハンサムな歌手トニーと仲がよいらしい。
クレマンは弁護士ウェールスをプロデューサーに化けさせ、一座に経済的援助を与え、自分を主役にさせて彼女をモノにしようとした。
計画はあたり、主役はトニーからクレマンに変った。
やがて、アマンダはクレマンとの夕食を承諾した。
彼は求婚したが、アマンダの真意はトニーに主役をかえしてくれということで、彼とは友情意外なにもないという。
しかたなくクレマンはアマンダに本物に会ってショーの上演を頼もうといった。
彼女はクレマンの事務所を訪ねた。
そこで同行のアレクサンドル・デュマと名乗っていた男が、本物のクレマンだとわかった。


寸評
この映画は作品によってと言うよりも、マリリン・モンローとイヴ・モンタンのスキャンダルとして記憶にある。
マリリン・モンローは恋多き女だったと思うが、僕は当時の年齢もあり共演者とのロマンスを聞いたことがなく、後年に本作の相手役モンタンと激しい恋に落ちていたことを知った。
イヴ・モンタンの方もアメリカに行きっ放しになるほど夢中だったようだ。
そのためにイヴ・モンタン夫人のシモーヌ・シニョレが辛い思いをしていたようで、自殺未遂を起こしたという噂もあったようである。

第33回アカデミー賞で     ミュージカル映画音楽賞にノミネートされるなど、本作はミュージカルに数えられているようだが、はたしてこの映画をミュージカルとして見て良いものかどうか。
劇中劇としてモンローや、トニー役のフランキー・ヴォーンが唄ったりしているが、あくまでもショーの中身として唄われている。
イヴ・モンタンも唄ってはいるが場面は少ない。
ミュージカルとしては唄い踊られるシーンが少ない。
僕としてはマリリン・モンローとイヴ・モンタンの歌声をもっと聞きたかった気持ちでいっぱいである。
話は単純で、プレイボーイとして有名な億万長者のジャン=マルク・クレマンが舞台で歌い踊るアマンダに一目惚れし、偽名を使って本人役を演じながら彼女の気を引くために四苦八苦する、言わば喜劇だ。
演じられるショーでは、マリア・カラスやプレスリー、クライバーンなど知った名前が登場する。
愉快なのはクレマンが歌のレッスンを受けたり、ダンスのレッスンを受けるシーンで、その様子も楽しいものだが、教えているのがビング・クロスビーとジーン・ケリーで、彼らが本人役で出ていることだ。

モンローはセックス・シンボルらしく、ポールをタイツ姿で滑り降りて登場してくるのだが、そこからの描かれ方は工夫があっても良かったように思う。
脚本が悪かったのか、あるいは監督ジョージ・キューカーの力量だったのかもしれない。
アマンダとトニーは恋人のように見えるが、彼女は秘かにクレマンに思いを寄せていたという事だったと思うが、その変化が上手く描けていなかったように思う。
徐々にアマンダがクレマンに魅かれていく過程が描かれていないので、彼女の気持ちが分かった時には「えっ、そうだったの?」という気持ちが湧いた。
彼女の素行調査として、トニーとの関係や別の男と教会で密会している事が報告されているが、実は彼女は・・・という描き方も一コマで処理されている。
全体としては非常に散漫な感じを受ける内容となっている。

イヴ・モンタンの道化ぶりを見せられていると、モンローの映画と言うよりモンタンの映画と言う気になってくる。
やはり僕はマリリン・モンローを期待していたのだなと自覚した。
古参でお坊ちゃまを見守ってきたと思われるウェールスのウィルフリッド・ハイド=ホワイトが素敵な老人として印象に残る。

恋人たちの時刻

2024-05-11 08:38:16 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/11/11は「つぐない」で、以下「椿三十郎」「罪の手ざわり」「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」「冷たい熱帯魚」「ディア・ドクター」「ディストラクション・ベイビーズ」「ティファニーで朝食を」「テキサスの五人の仲間」「テス」と続きました。

「恋人たちの時刻」 1987年 日本


監督 澤井信一郎
出演 野村宏伸 河合美智子 真野あずさ 加賀まり子
   高橋悦史 大谷直子 石田純一 宮下順子

ストーリー
札幌に住む西江洸治(野村宏伸)は医大を目指す予備校生。
彼は歯科医院で、先日海岸で不良達に強姦されそうになっているのを救けた女性と再会した。
その女性は村上マリ子(河合美智子)と名乗り、彼女に魅かれた洸治はデートに誘うが、彫刻のモデルをしているからと断られる。
彫刻家との約束で、作品が完成するまで男性とつき合ってはならないというのだ。
彫刻家、桑山(高橋悦史)の妻、啓子(大谷直子)は乳ガンで入院中で、桑山は利加子(真野あずさ)という女と愛人関係を続けながら、住み込みモデルのマリ子に身の回りの世話をさせていた。
ある日、洸治はマリ子から呼びだされ、かつての親友、山崎典子の行方を探してほしいと頼まれた。
早速小樽を訪れ、典子が住んでいたアパート、通っていた理容学校を訪ね歩くが、浮かびあがったのは典子のすさんだ生活ぶりだった。
札幌に戻った洸治は、典子に会ったらきっと魅かれるとマリ子に告げた。
マリ子は何故か、もう典子を捜さないでくれと憤るのだった。
不思議に思いながらも好奇心に駆られた洸治は、典子の実家のある漂津に向かった。
そして、典子の義理の母と親友に会い、彼女の写真を手に入れ典子はマリ子だということを知る。
マリ子は過去を知ってもらえば、洸治も自分が嫌いになるだろうと思っていた。
だが徐々に洸治に魅かれ、過去を知られるのが恐くなっていたのだ。
洸治はマリ子の過去を知っても、自分の気持は変わらないと告げ、その夜二人は結ばれた。
マリ子は洸治と暮らすことになった。
その事を伝えに桑山宅を訪れた彼女は、彼の妻の死を利加子から知らされる。
その利加子が別の男と結婚することも……。


寸評
懐かしさを覚えてしまうような映画の作りで、若い二人にリアリティを感じないので乗り切れないものがある。
演技力のなさはどうしようもなくキャスティングの失敗もある。
澤井信一郎には「Wの悲劇」や「時雨の記」などの秀作もあるが、本編における演出には冴えが見られない。
荒井晴彦の脚本が悪いのか、澤井信一郎の演出が悪いのか、登場人物の人間関係に深みがないのだ。

利加子は桑山の愛人ではあるが、桑山と利加子の愛人として関係は希薄な描かれ方だ。
当初はギクシャクしたような描かれ方なのだが、その後は桑山との愛人関係を復活させている。
桑山の妻で入院している啓子は利加子の存在を知っていたのだろうか、それとも知らなかったのか。
本妻と愛人の間にあるもの、あるいは妻の夫への感情もよくわからない。
桑山は彫刻家でマリ子をモデルに裸婦像を制作しているが、妻が乳がんの手術で片方の乳房を取ったために、裸婦像の乳房ももいでいる。
桑山の妻への思いはどうだったのだろう。
妻はモデルとして見てもらえても、女としては見てもらえないとマリ子に語っているのだが、どこか唐突感のあるシーンだった。
いっそ妻の啓子を登場させなくても良かったのではないかとさえ思う。
洸治の父親は医者だったが亡くなっている。
母親(加賀まりこ)はさっぱりした人で、父親の弟と一緒になるらしい。
洸治は家が嫌で飛び出したとマリ子に語っているが、その事が理由だったような気もするが真の原因は分からないし、母親と洸治の関係を見るとそうではなさそうな気もするのだ。

洸治が山崎典子を訪ね歩くシーンは映画としてもう少し盛り上がりを見せても良かったように思う。
一度は関係を持つが二度目はない女で、相手は典子を想うあまり精神的におかしくなったり、金を払おうとしたら倍額を要求されたりとしていて悪女的な女性のイメージながら、会う人々は優しすぎる子だったと言う。
証言を通じて典子の魅力が伝わってこなかったことが、劇的展開を希薄なものにしている。
真相がわかると、なぜマリ子が典子を探して欲しいと頼んだのかの理由を観客に納得させなければならないのだが、その役目を果たしているとは言い難い。
おそらくマリ子は洸治に愛を感じ始めていて、本当の自分を知ってほしかったと言うことなのだろうが、それは想像するしかなく突きつけられたものではない。
ラブロマンスあるいは悲恋物としては弱いところだ。
ラストで「したいからした」というマリ子の言葉だけはこの女性の本質を著していたと思う。

僕は澤井信一郎に期待した時期もあったのだが、「蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜」を見て見限った。
多分これは僕がチケット代を払って劇場で見たことにもよる。
貧乏性の僕にはチケット代を返せと思った出来栄えだったことが大いなる要因だ。
食べ物の恨みは金の恨みよりも強いとは言われるが、僕にとっては金の恨みは・・・だったのである。

源氏九郎颯爽記 白狐二刀流

2024-05-10 07:13:22 | 映画
「源氏九郎颯爽記 白狐二刀流」 1958年 日本


監督 加藤泰
出演 中村錦之助 河野秋武 大川恵子 清川荘司 柳永二郎
   八汐路佳子 岡譲司 上田吉二郎 岸井明 浜田伸一

ストーリー
兵庫の港町に上陸した九郎(中村錦之介)は、尊皇攘夷の悪夢に踊る貧乏公郷今出川兼親(河野秋武)と許婚の志津子(大川恵子)、浪人比嘉忠則(清川荘司)に不逞の襲撃を浴びた英人船長の娘マリー(ヘレン・ヒギンス)と従者ジョン(ジョニ・ジャック)を救った。
そして、それを機に大阪奉行兵庫勤番所与力の富田(杉狂児)と同心の幸田(里見浩太朗)らと知己となり、同心長屋にしばしの宿を定めた。
一方兼親らも同じく尊皇攘夷を口にする浪人犬山(上田吉二郎)によって、そのかくれ家に伴なわれた。
そこでは、かつての海賊、今は大阪奉行をも篭絡する密貿易商播州屋十兵衛(柳永二郎)とその配下新海(岡譲司)たちが義経の遺宝に眼を光らせていた。
兼親はかつて九郎に思慕を抱いていた志津子を彼の許に向け、京都より志津子の兄桜小路忠房(二代目中村歌昇)を呼び寄せた。
志津子に誘い出された九郎は犬山らの浪人たちに襲われ、急を聞いて駈けつけた幸田、富田らに救われたのだが、播州屋の手は九郎の仮住居である同心長屋に及び、焼き討ちをかけてきた。
長屋の一同を逃した九郎は、秘剣揚羽蝶の活躍でその場を切り抜けた。
忠房を仲介に播州屋と顔を合せた九郎は、彼の卑劣な眠り薬の奸計に今はこれまでと思われたが、志津子の必死の働きで脱出に成功した。
やがて、一味から離れた志津子を連れた九郎は源九郎判官義経の真の宝を見せようと無人島へ向ったが、二人の後を兼親と播州屋、新海がそれぞれつけていた。
宝庫の前、播州屋も新海も九郎の刀に倒れた。
呆然自失する兼親に、祖先義経が私に遣したのは観音慈悲の心だったとその悪夢をさまし、涙する志津子をあとに、九郎は再び何処ともなく去って行った。


寸評
当時全盛を誇っていた東映時代劇の代表的なプログラム・ピクチャの一篇である。
駅裏には「平和座」と「住映」という2番館があって1週間ごとに上映作品が入れ替わっていた。
2番館とは言え田舎町に映画館が2館もあった時代があったのだ。
子供たちはチャンバラごっこに興じていたから、東映の時代劇は人気の上映作品だった。
立ち回りにしろ、衣装にしろ、リアリティには程遠く、大抵の場合主人公は「旗本退屈男シリーズ」に代表されるように白塗りの化粧である。
本作でも源氏九郎の中村錦之助は源義経の末裔を強調するためもあって、異様なぐらいの白塗りである。
長屋の住人たちがこぞって非難しなければならない理由はよく分からないが、活劇シーンを盛り上げるためでもあったのだろう。
源氏九郎は二刀流を披露するが、中村錦之助の二刀流と言えば、何といっても「宮本武蔵」だな。
中村錦之助は宮水武蔵もやれば源氏九郎もやるし、一心太助のような役もやったし、文芸作品や社会派劇もやった東映の中にあっては演技派として稀有な俳優だった。
萬屋錦之助を名乗るようになった晩年は時代劇の大御所的な存在になって活躍したが、僕は中村錦之助時代の錦チャンが好きだった。
男性映画が多かった東映にあって女優陣はわき役的な人が多かった。
いわゆるお姫様女優と呼ばれた人たちで、本作では里見浩太朗を慕うお鈴の丘さとみ、今出川志津子の大川恵子などを見ることができる。
特に大川恵子は東映の事実上の創業者である大川博の秘蔵っ子で、芸名も大川の名前をもらっている。

話や設定はもうメチャクチャで、当時人気のあったファッションモデルのヘレン・ヒンギスが変な踊りを見せて錦之助の源氏九郎にモーションをかけたり、一体この地理はどうなっているのかと思わせるほど九郎や志津子の場所移動が飛んでいる。
長屋を出て海岸を行ったかと思ったら山道を歩いていたり、悪党どもがバンバン拳銃をぶっ放したり、それだけ拳銃があれば皆で源氏九郎を撃てばいいようなものだが、九郎と戦う段になると刀に持ち替えてバッタバッタと切られてしまう。
決して弾は九郎には当たらない。
九郎は相手を斬りまくるが返り血を浴びることはないので、真っ白な着物が汚れることはないし、着崩れすることもなく、どこまでもカッコいい錦之助なのである。
反面そんなところがプログラム・ピクチャの面白いところでもある。
コメディアンの由利徹と南利明による掛け合いシーンも用意されていて観客の笑いを誘うのもその一端である。
描かれる内容は常に勧善懲悪で、誰が善玉で誰が悪玉かは登場した時から明白なことが多い。
中村錦之助や里見浩太朗が善玉として活躍し、柳永二郎や上田吉二郎は悪玉として描かれるが、悪玉役の柳永二郎はハマリ役である。

今出川志津子たちは尊王攘夷運動を行っているのだが、源氏九郎に「これからは外国と上手くやっていかなければならないのに」と言わせているのは、当時の日本の状況を反映しているのかもしれない。

化身

2024-05-09 06:57:22 | 映画
「化身」 1986年 日本


監督 東陽一
出演 黒木瞳 藤竜也 阿木燿子 淡島千景
   三田佳子 青田浩子 梅宮辰夫

ストーリー
京都から帰京した文芸評論家の秋葉大三郎(藤竜也)は、東京駅に降りた時、「鯖の味噌煮が食べたい」と珍しいことを言っていた銀座のホステスを想いだした。
里美(黒木瞳)というそのホステスのいるバー「魔呑」へ友人の能村(梅宮辰夫)と出かけた秋葉は彼女をデートに誘い、その日、泥臭さが抜けきらないが素朴なところに魅かれた秋葉は、里美を抱いた。
里美は本名を八島霧子といい、不思議な魅力を持っていた。
髪形やファッションを変えると見違えるように変身した。
秋葉には編集者で38歳の田部史子(阿木燿子)という愛人がいたが、霧子と付合うようになって仲が遠のいていたのだが、「魔呑」の売れっ子となった霧子を別荘に連れて行った秋葉は、そこで史子と出くわす。
史子は秋葉の心変わりを知った。
霧子は「魔呑」を辞め、秋葉は彼女のために高級マンションを与えた。
彼は日毎に容姿も肉体もいい女になっていく霧子に充足感を覚えていた。
霧子が代官山に洋服のリサイクルの店を出したいと言ってきたので、二千万近い資金は秋葉が都合した。
新しい情報と品物の仕入れの為に霧子がニューヨークに発った。
秋葉も同行するはずだったが、母の久子(淡島千景)が脳血栓で倒れたため、仕方なくニューヨーク在住の商社員、室井達彦(永井秀和)に霧子の世話を頼む。
ある日、秋葉は「阿木」から出て来た史子と会った。
彼女とは一年近くも会っていなかったが、昔のことにはふれず逆にサバサバした様子だった。
帰国した霧子をで出迎えた秋葉は別人のように美しくなった霧子を見て呆然とする。
霧子の身辺は急に多忙になり、マスコミの付合いなどで秋葉が介入する余地がないほどだ。
霧子は自立する女に変りかけていた・・・。


寸評
黒木瞳は宝塚歌劇入団2年目で大地真央の相手役として史上最速となる男役・娘役通じて娘役トップになり、娘役ながら大地に迫るほどの人気を博していたのだが、大地と共に退団し映画主演第1作となったのがこの「化身」である(在団中の1982年に東宝映画「南十字星」に出演している)。
黒木瞳の為に企画されたような作品で、全裸になることが条件だったのかもしれない。
実際にこの作品での黒木の脱ぎっぷりは見事で、宝塚出身女優でヌードシーンを見せたのは黒木瞳以外にはいないのではないかと思う。

原作者の渡辺淳一は総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる「光と影」で直木賞作家となったが、一つのジャンルとして恋愛ものも手掛けており「化身」、「失楽園」、「愛の流刑地」などでは大胆な性描写が話題になった。
本作でも冒頭から一方の主人公である秋葉大三郎と愛人の田部史子とのベッドシーンから始まる。
田部史子を演じているのはミュージシャンで俳優でもある宇崎竜童夫人で自身も作詞家でもある阿木燿子であり、彼女も裸身をさらしている。

黒木はホステスとしてすぐに登場し、初対面の秋葉と深い仲になるのだが、なぜ黒木演じる霧子が中年の秋葉に初対面で関係を持ち恋愛感情をいだいたのかの説明がなく、極めて唐突感がある。
渡辺淳一の恋愛ものは大抵が、中年男が魅惑的な女性と出会ってその女性にのめり込んでいくというパターンなのだが、ここでも秋葉が霧子にマンションをあてがい、家を担保に金を借り店を持たせている。
田部という愛人がいながら霧子に乗り換えるのは若くて美貌を有しているからかもしれないが、兎に角強引に命令調で関係を結んでいる。
霧子は初対面の秋葉をどうして拒まなかったのだろう。
彼女も秋葉に一目ぼれしたということだろうか。
その後は逢瀬を重ねる二人がこれでもかと描かれていくのだが、どうも僕にはきわもの映画にしか思えないもので、イマイチ二人の心情に入り込む事が出来なかった。

秋葉は自分の思い通りに霧子を支配しようとするが、逆に霧子は一人の女として自立するようになり、今度は秋葉が霧子に支配されていくようになってくる。
離れていく霧子を何とかつなぎとめようとする姿は惨めにさえ見えてくる。
この逆転現象が面白いと思うし、物語の上では見せ場となる展開なのだが、その変化は通り一辺倒な描き方で物足りない。
男の見苦しさに比べて女達が強いのは男女の本質なのかもしれない。
霧子は自分の出現で見捨てられたはずの田部と仲良くなり、まるで共闘を組んでいるような関係になる。
田部史子という女性は本当に納得していたのだろうか。
東陽一作品として、どろどろとした三角関係を想像した僕の予想は見事に裏切られる展開となっている。
その為に乗り切れない作品だったのだが、ラストシーンで秋葉が掛ける電話のシーンだけはよかった。
見事な変身を遂げた女二人が乗るシースルーのエレベーターは女の強さを決定づけている。

キル・ビル Vol.2

2024-05-08 06:53:22 | 映画
第1作「キル・ビル」はバックナンバーより2017-10-16をご覧ください。

「キル・ビル Vol.2」 2004年 アメリカ


監督 クエンティン・タランティーノ
出演 ユマ・サーマン デヴィッド・キャラダイン
   ダリル・ハンナ マイケル・マドセン
   ゴードン・リュウ マイケル・パークス
   サミュエル・L・ジャクソン パーラ・ヘイニー=ジャーディン

ストーリー
かつて闇のエージェント”毒ヘビ暗殺団“で最強と言われた殺し屋ザ・ブライドは、結婚式の最中に、花嫁姿のまま瀕死の重傷を負わされ、身篭もっていた娘をも殺された。
彼女は、自分を襲った組織のボスであるビルとその部下たちへの復讐の旅に出ていた。
昏睡から奇跡的に目覚めた彼女はビルへの復讐を誓い、襲撃に関わったかつての仲間たちを次々と仕留めていった。
残る標的は3人――バドとエル・ドライバー、そしてビル。
ビルの弟バドはストリップ・クラブの用心棒をしながら、薄汚れたトレーラーで酒浸りの日々を送っている。
片目にアイ・パッチをした女、エル・ドライバーは、ザ・ブライドの代わりにビルの愛人の座に納まっていた。
ザ・ブライドはテキサスの荒野へと降り立ち、まずはバドを殺しにいく。
だが逆に倒されてしまい、彼女は土の中に埋められる。
しかし中国の僧侶パイ・メイのもとでの武術の修行の日々を思い出したザ・ブライドは、拳で棺桶の蓋を突き破り、地上に出ることに成功。
一方バドは、エル・ドライバーの裏切りにより毒ヘビに噛まれて死亡。
そこにザ・ブライドが現われ、エル・ドライバーの残っている片目をえぐり取る。
そしてビルとの対決。ザ・ブライドとビルの間に産まれた娘は生きていた。
ビルの愛を知ったザ・ブライドだが、それでも対決の末にビルを倒す。
翌日から、娘と共に彼女は新しい生活を始めるのだった。


寸評
上映前から梶芽衣子の「怨み節」をBGMとして流されて前作の快感が自然と湧きあがってきたが、始まってみると前作のタッチとは違っていてちょっと面食らった。
一本の映画としてみた時の描き方は、前作と今作ではすごく違っていて、そのアンバランスには戸惑ってしまう。
漫画チックな大立ち回りもなくなっているし、劇画シーンもない。
かろうじて前回の脳みそ丸見えシーンに匹敵するのが、くり抜いた目ン玉を踏み潰すシーンぐらいか。
あとはある意味、オーソドックスとも言えるアクションシーンで処理している。
その分、やたらと会話が多くなっていて、ちょっと説明が多すぎるのではないかと感じた。
Kill is Love のテーマが大きくなりすぎていたんじゃないかなあ?
僕としては、第一作の方が面白く見られた。

多分、タランティーノはVol.1とVol.2の作風を意識的に変えたのではないかと想像する。
今回は、アクションはごく控えめにして、その代わりに、この復讐劇に至った背景や複雑な愛憎劇を解き明かす人間ドラマを描いている。
ザ・ブライドとビルの避けられない二人の対決が意外にあっさりと終わる。
クライマックスになるはずの二人の戦いをこれだけあっさり済ませるというのは、この映画でタランティーノが描きたかったのが、アクションなどではなく人間ドラマだったのだと物語っていたように思う。

オープニングのモノクロシーンで、これまでの経緯をコンパクトに説明しているが、ユマ ・サーマンが車をドライブしながらの独白は、なんだか懐かしさがあふれる映像だった。
そして、前作の最後で、子供が生きている事を知らされていたし、前宣伝でもその事をうたっているが、それは最後まで伏せておいても良かったのではないかなと感じた。
第一部を見ていることが前提になっているけれど、最後のエンドタイトルでは、出演者がそれぞれのシーンと共に紹介され面白かった。
「Vol.1」も含めたキャストが、実にていねいに紹介されているので、異様に長いタイトルロールになっている。
いかにも映画大好きなタランティーノらしい。
そして前作で描かれなかった教会での殺戮前の出来事が、結構長時間モノクロで描かれた導入部と、最後のクレジットにかぶって写されるユマ・サーマンが同じくモノクロで、初めと終わりで対になっているようでデザイン・センスを感じた。

ただ前述の「怨み節」が最後にフルコーラス流れるけれど、字幕が入るのは誰の指示?
英語の字幕が流れるならわかるけど。
翻訳者が勝手に入れたわけでもないだろうに・・・。
それと、最後の最後にワンカット挿入された撮影シーンは何の意味?
単なるオマケだったのかなあ。

キネマの神様

2024-05-07 06:42:48 | 映画
「キネマの神様」 2001年 日本


監督 山田洋次
出演 沢田研二 菅田将暉 永野芽郁 野田洋次郎
   リリー・フランキー 前田旺志郎 志尊淳
   松尾貴史 原田泰造 片桐はいり 渋谷天外
   北川景子 寺島しのぶ 小林稔侍 宮本信子

ストーリー
現代。
出版社に勤める円山歩(寺島しのぶ)の元に借金取り(北山雅康)からの電話がかかってきた。
歩の父“ゴウ”こと郷直(沢田研二)、御年80歳がギャンブルと酒で作った多額の借金で、ゴウの妻で歩の母である淑子(宮本信子)に内緒で借りた金だった。
歩と淑子はゴウの通帳とキャッシュカードを没収し、ギャンブルを禁止した。
居場所を失ったゴウは淑子がパートとして働いている映画館「テアトル銀幕」に向かい、経営者で旧友でもある“テラシン”こと寺山新太郎(小林稔侍)から今度リバイバル上映する予定のとある映画のフィルムチェック試写に誘われた。
そんなゴウが思わず見入ったのは、かつての銀幕スター・桂園子(北川景子)が主演した1本の映画だった…。
…50年前。
若き日のゴウ(菅田将暉)は映画監督になることを夢見て松竹撮影所の門を叩いた映画青年だった。
ゴウは映写技師だった若き日のテラシン(野田洋次郎)と酒を酌み交わし、いつか自分にしか撮れない映画を作ると息巻いていた。
テラシンもまた自らの映画館を持つという夢を抱いていた。
この頃のゴウは映画界の巨匠と名高い出水宏監督(リリー・フランキー)のもとで助監督として働き、当時の大スターだった園子に可愛がってもらっていた。
ゴウが当時の映画人たちと共によく入り浸っていたのは撮影所近くの食堂「ふな喜」だった。
「ふな喜」の看板娘は若かりし頃の淑子(永野芽郁)で、テラシンは淑子に一目惚れしてしまっていた。
しかし淑子の気持ちはゴウにあり、ゴウもまた淑子に想いを寄せており、二人は初めてキスを交わした。
そして、ゴウが書き上げた脚本「キネマの神様」がゴウ自身の初監督作品として製作が決定したのだが・・・。


寸評
当初郷直役には志村けんがキャスティングされていたのだが、志村けんが新型コロナウィルスで亡くなってしまったので急遽沢田研二が代役となった作品である。
映画は日本開催となったラグビーのワールドカップにおける2019年9月28日のアイルランド戦から始まる。
ジャパンが世界ランク1位のアイルランドを19対12で破り、世界に再び衝撃を与えた一戦だったのだが、寺島しのぶがテレビ中継に興奮している所から映画が始まるので、ラグビー好きの僕は同じ気持ちで作品に入り込めた。
2020年2月3日にクルーズ船・ダイヤモンド・プリンセス号が横浜港に入港して日本でも新型コロナウィルス騒動が始まるのだが、そのことで映画館が受けた状況も描き込まれている。
そんな時代に生きるゴウを取り巻く人たちの姿と、50年前に映画制作の現場で夢を描いていた若かりし頃のゴウに起きた出来事を対比させながら映画は進んでいく。

現在のゴウはギャンブルと酒に依存していて借金まみれで、その借金返済で妻子は四苦八苦している状態だ。
娘の寺島しのぶが借金取りを追い返したり、妻の宮本信子が困りながらもダメ亭主の沢田研二を甘やかしてしまうことなどが描かれるが、肝心の沢田研二のギャンブル依存、アルコール依存、借金まみれの様子が伝わらないので、家族に同情するよりも沢田研二を可愛らしく思ってしまうところがある。
ゴウの映画を愛してやまない姿も、もう少しあっても良かったような気がする。
菅田将暉によるゴウが若い時代のパートは、当時の製作現場の雰囲気はこんなだったろうなと思わせ、楽しめるものがある。
三角関係のエピソードも、ありきたりと言えばそれまでだが、いいアクセントになっている。
いっそトップ女優と若手スタッフの恋をからめた四角関係でも良かったのではと思ったりもしたのだが、そこまでやるとやりすぎか?
でも園子は随分とゴウに肩入れしていたなあ。
清水宏や小津安二郎へのオマージュがプンプンなのだが、ゴウはその後に登場する松竹ヌーベルバーグに代表されるような新しい映画監督の象徴的人物だろう。
ゴウはベテランの撮影監督との対立が原因で現場を去ることになるが、時代の過渡期における若手監督のいら立ちの結果でもあり、それは当時における山田洋次の思いでもあったのかもしれない。
ゴウが淑子と結婚し、歩という娘が生まれ、その歩は離婚して一人息子を育てているのは分かったけれど、テラシンはその後どのような人生を経て今に至っていたのだろう。
映画館を持つと言う夢は叶えたようだが、ずっと淑子を思い続けていたのだろうか。
そうだとすれば二人並んで映画を見るシーンなんてすごく良かったのだけれど、どうもテラシンノの気持ちが見えなかった。

山田洋次は「キネマの天地」でも娘の主演作を見ながら死んでいく父親を描いていたが、ここでも同じシチュエーションで締めくくっているから、彼には自分も好きな映画を見ながら死にたいとの願望があるのかもしれない。
僕は許されるならそんな死に方をしてみたい。
年齢を重ねて山田洋次には冴えとキレが亡くなってきたように感じるけれど、たたき上げ監督の安定感があり常にアベレージ作品を送り出しているのは流石だと思う。

カリートの道

2024-05-06 08:36:44 | 映画
「カリートの道」 1993年 アメリカ


監督 ブライアン・デ・パルマ
出演 アル・パチーノ ショーン・ペン
   ペネロープ・アン・ミラー ジョン・レグイザモ
   イングリッド・ロジャース ルイス・ガスマン
   ヴィゴ・モーテンセン エイドリアン・パスダー

ストーリー
1975年、ニューヨーク。カリート・ブリガンテ(アル・パチーノ)は、組織のお抱え弁護士クレインフェルド(ショーン・ペン)の尽力で、30年の刑期を5年で終えて出所した。
かつては麻薬王としてならした彼も、今度こそ足を洗い、バハマのパラダイス・アイランドでレンタカー屋を営むことを夢見ていた。
だが、従兄弟の麻薬取引のトラブルに巻き込まれたカリートは、心ならずも手を血で染める。
彼は昔なじみのサッソ(ホルヘ・ポルセル)のディスコに、死んだ従兄弟の金を投資し、儲けを貯め始める。
街はすっかり様変わりし、信頼していた仲間のラリーン(ヴィーゴ・モーテンセン)は検事の手先となって偵察にきたうえ、チンピラのベニー・ブランコ(ジョン・レグイザモ)がのしていた。
昔の恋人であるダンサーのゲイル(ペネロープ・アン・ミラー)と再会したカリートは、彼女への愛に生きることを誓う。
その頃、コカインと汚れた金に溺れていたクレインフェルドは服役中のマフィアのボス、トニー(フランク・ミヌッチ)に脅されて脱獄の手引きをさせられるのだが、彼に恩義があるカリートは断りきれずに手を貸すことになった。
だがクレインフェルドは深夜のイーストリヴァーで、脱獄したトニーとその息子フランクを殺したことで、二人はマフィアに命を狙われることになる。
一方、ノーウォーク検事(ジェームズ・レブホーン)はカリートに、クレインフェルドの犯行を証言すれば免罪にすると司法取引を持ちかけ、検事は、彼がカリートをハメようと虚偽の証言をしたテープを聞かせた。
カリートは取引に応じず、裏切り者のクレインフェルドをマフィアに殺させるように仕向けてカタをつけた。
ゲイルと落ち合うグランド・セントラル駅へ急ぐカリートは、追って来たトニーのもう一人の息子ヴィニー(ジョゼフ・シラーヴォ)一味と構内で壮絶な銃撃戦を演じる。
追撃を逃れたカリートが待ち受けるゲイルと列車に乗り込もうとした瞬間、一人の男が現れた。


寸評
カリートが友人の弁護士クレインフェルドの力によって、30年の刑期を5年で出所してくる。
その間にチンピラだった男が顔役になっていたが、カリートはその男を殴り倒す。
カリートはかつての恋人ゲイルと再会を果たす。
堅気になる気でいたカリートだったが、クレインフェルドのもめ事に巻き込まれてしまい、命を狙われることになってしまう。
エピソードの主なものは以上のようなもので、補足的にカリートの独白が所々に入る。
僕はこの独白が作品の緊張感を削いでいるし、テンポを緩めていると感じている。

映画は誰かに撃たれて死の間際にいるカリートの独白から始まるから、作品はそこに至るまでが描かれるのだと分かる。
そして割と早い時期のカリートの独白によって、カリートが誰に撃たれたのか想像できてしまう。
クレインフェルドが服役中のマフィアのボスに脅されて脱獄を手助けせざるを得ない理由も想像できてしまう。
盛り上がりに欠ける単調な描き方は狙ったものかもしれないが、やはりノワール物としては淋しい気がする。
渋さがあると言ってしまえばそれまでなのだが、それを支えているのはアル・パチーノの存在感とショーン・ペンの狂人ぶりである。
とくにショーン・ペンの弁護士が汚れた金に溺れて薬物中毒になっている男として、特異なヘアスタイルもあって際立った存在を見せている。

前半のまったりとした展開に比べ、ラストに至る流れは豹変する。
病院にいる偽警官に対するカリートの独白がはいるものの、その男を利用してカリートは裏切った男への後始末を行い待ち合わせの駅に向かう。
ここから始まるカリートを狙うマフィアたちとの追っかけごっこは見応えがある。
先ずは電車内でカリートが追い詰められていくのだが、乗客となった警官を利用して脱出する。
そこからは待ち合わせている駅構内での逃亡劇でリアル感があり、エスカレーターを使った逃亡と銃撃戦も魅せるものがある。
電車内では役立たずだった肥満の男が、肥満ゆえの効果をもたらすのも納得させる。
そして究極の裏切りと顛末へとつながっていく展開はスピード感がある。
この小気味よさを最初から出せなかったものかと思うと、少々残念な思いが生じる。

刑務所からマフィアのボスが脱走する場面はないし、マフィア同士の結束の強さも描かれていないことも緊張感を和らげているように思う。
駅にいた警官たちは、その後どんな動きをしたのかもわからず、ラストシーンとして冒頭のシーンに戻る。
パラダイスで踊るシルエットはカリートが見たゲイルの幻影だったのだろう。
上手く撮れば心に残る作品になっていたような気がするが、それでも名優二人が最後まで僕を引っ張ってくれたことで最後まで見ることが出来た。

影の軍隊

2024-05-05 07:07:06 | 映画
「影の軍隊」 1969年 フランス


監督 ジャン=ピエール・メルヴィル
出演 リノ・ヴァンチュラ シモーヌ・シニョレ
   ジャン=ピエール・カッセル ポール・ムーリス

ストーリー
フィリップ・ジェルビエは、ある日、独軍に逮捕され、キャンプに入れられてしまった。
そして数ヵ月後、突然、ゲシュタポ本部へ連行されることになった。
だが、一瞬のすきをみて、そこを脱出した彼は、その後、抵抗運動に身を投じることとなった。
そうしたある日、彼はマルセイユに行き、フェリックス、ル・ビゾン、ルマスク等と一緒に裏切り者の同志ドゥナの処刑に立ちあった。
その後に、彼は、ジャン・フランソワに会った。
ジャンの仕事は、名高いパリの女闘士マチルドに、通信機をとどけることだった。
彼はそのついでに、学者である兄のリュック・ジャルディを訪ねたが、芸術家肌の兄を心よくは思わなかった。
一方、新任務のためリヨンに潜入したジェルビエのところへやって来たのは、意外にもジャンの兄のジャルディだった。
やがて無事、その任務を果したジェルビエのところへフェリックス逮捕さる、の報が伝えられた。
さっそく、救出作戦を展開したが、ジャンの犠牲も空しく、失敗に終ってしまった。
ジェルビエが再び逮捕されたのは、それから間もなくであった。
独軍の残虐な処刑に、もはや最後と思っていた彼を救ったのは、知略にすぐれたマチルドであった。
それからしばらくたった頃、隠れ家で休養をとっていたジェルビエを、ジャルディが訪ねて来た。
彼の来訪の目的はマチルドが逮捕されたことを告げるためと、口を割りそうな彼女を射殺するということだった。
現在、仮出所中の彼女も、それを望んでいる、と彼は伝えた。
ある日、エトワール広場を一人歩く彼女に、弾丸をあびせたのは、彼女を尊敬するジャルディ、ジェルビエ、ル・ビゾン、ルマスク等仲間たちだった。
しかし、遅かれ早かれ、彼等の上にも、同じような運命が待ち受けているのだった。


寸評
レジスタンスを描いた作品だが、登場人物たちが独軍を混乱に陥れるとか、設備の破壊活動を行うとかするという彼等の活躍シーンがあるわけではない。
かろうじて描かれているのはドーバー海峡を行き来する人々の手助けをしているシーンぐらいである。
この映画で描かれているのはレジスタンス達がコソコソ逃げ回る姿であり、捕まって拷問を受ける姿である。
たまに脱獄を手伝って成功させるシーンがあるものの暗い気分になる映画で、その重い気持ちはレジスタンス内における鉄の規律と、組織内の裏切り者を粛清していく様子によってもたらされている。
その感情を増幅させるのが暗いトーンの映像である。
映画にできるだけ自然採光を持ち込もうとしているせいでもあるのだが、かれらの置かれた立場を示す色調だ。
ナチス・ドイツを相手とするレジスタンス映画では、ナチス・ドイツは悪でレジスタンス側は善という決まり切った構図が通常の描き方だ。
しかしここではレジスタンス側にも悪の部分があったのではないかと思わせるし、悪の部分を生み出してしまうのが戦争なのだと思わせる。

彼等の粛清は、近藤・土方が率いた新選組が、敵を殺した人数よりも、厳しい規律で隊士を粛正によって殺した人数の方が多かったということを思い浮かばせた。
ジェルビエは裏切り者のドゥナという若者の処刑に立ち合う。
隠れ家に連行されるドゥナは暴れるでもなく、行きかう人に助けを求めることもしない。
処刑場所となった隠れ家の隣の家の人に気付かれてもいけないので音を立てることもできないのだが、そこでもドゥナは諦めているのか抵抗するわけでもなく大声を出すこともしない。
銃が使えないのでナイフを探すが、ナイフどころか包丁もない。
しかたなく台所のフキンを使って絞殺するのだが、彼等の非常さを示す残酷なシーンとなっている。
ドゥナは仲間を裏切ったのだろうが、そうせざるを得なかった事情は描かれていない。
彼の無抵抗は、やむを得ず裏切った彼の覚悟でもあったと思うのだが、ここでのドゥナの描き方は最後のマルチドの描き方に引き継がれていて、当人の苦悩を想像させるものとなっている。
連合軍によってパリが解放される直前の話だと思うが、マルチドに続き、闇の部分を持ったボスのシャルディやジェルビエ達が夢見たパリ解放を知らずに散っていったことが示される。
彼等の戦いとは何だったのだろう。

フランスを離れるべきだと忠告するマルチドにジェルビエは「色んなレジスタンス組織をまとめるのが自分の役目で、離れるわけにはいかない」と告げる。
マルチドは「あなたがいなくなれば誰かがやる」と言って立ち去るのだが、それは僕の社会人時代に目の当たりにしたことでもある。
これは自分にしかできないと思っているのは自分だけで、必要なことならその仕事は誰かが立派に引き継いでいたし、必要でなかった仕事は誰もやらなくなっていたのだ。
彼等の仕事は必要なことだったのだろうが、善とされる勝者の側にも表に出ない悪があったのだと言っているようであり、レジスタンスの活躍ばかりを見せられてきた僕には新鮮に映る作品となっている。

怪物

2024-05-04 07:55:43 | 映画
「か」行になります。

「怪物」 2023年 日本


監督 是枝裕和
出演 安藤サクラ 永山瑛太 黒川想矢 柊木陽太 高畑充希
   角田晃広 中村獅童 田中裕子

ストーリー
消防車がサイレンを鳴らしながら向かった先には、上部から激しい炎を吹き出す雑居ビルの姿があった。
翌日、早織がクリーニング店で働いていると、ママ友の女性がやってきて、昨夜の火事の出荷元は雑居ビルの3階にあるガールズバーで、湊の担任の保利が通っていたらしいと噂した。
湊が塞ぎこんでいるので心配した早織が問いただすと、湊は自分の脳が「豚の脳」だと担任の保利から言われたと告げた。
早織は校長の伏見に会い抗議したが、学校の対応は事なかれ主義で無難なことばを言ってお茶を濁そうとする。
早織はまた学校へ出かけ、保利を見つけた早織が追いかけると、保利は湊が同じクラスの生徒・星川依里(より)をいじめていることを告げられた。
家に帰った早織は、湊の部屋を覗くと、部屋に点火棒ライターがあったので動揺する。
保護者たちが呼び出され、その前で保利が湊に暴力を振るったことが明らかにされた。
保利は謝罪し、地元の新聞にも大きく報じられた。
それからしばらくの後、巨大な台風8号が日本列島に接近した。
翌朝、早織が目覚めると、湊がいなくなっていた・・・。

保利は覇気がないように見えて誤解されやすいのだが、彼なりに教師として努力していた。私生活では広奈という恋人がおり仲も順調。
学校で起きた事柄も保利の視点から見ると、また違ったものだった。
同じように湊と依里の視点から見れば、また違った。


寸評
嘘、欺瞞、事なかれ主義がはびこっているのも現実の社会だ。
早織はシングルマザーで一人息子の湊を必死で育てている。
しかしその必死さは盲目的に息子を信じさせてしまっている。
子供との信頼関係を疑うことはなく、息子の言うことに嘘はないと確信している。
しかし、子供は巧妙な嘘をつくものなのだ。
事故で亡くなった夫への愛を今も持ち続けているようだが、夫は不倫相手との旅行中に事故死していて、実はその事を息子である湊も知っている。
湊は仏前で見せる早織の態度に疑問をいだいていたのではなかろうか。
校長の伏見に教育に対する熱意は感じられず、自ら先頭に立つことはない。
スーパーで走り回る子供を注意するのではなく、足を引っかけて倒すことで自分の気持ちを表している。
伏見夫婦は孫を誤ってひき殺しているが、運転していたのは夫なのか妻なのか不明である。
もしかすると夫は妻の身代わりとなったのかもしれない。
その態度は学校側の事なかれ主義を助長していく。
事なかれ主義は大人たちの間にあるだけではなく、湊も依里も取り繕うことでもめ事から逃避している。
背景にはモンスターペアレントの存在やイジメ問題がある。
見て見ぬふりをする体質はイジメの実態を見逃がしてしまう。
物語はそれぞれの視点で描かれていくが、多くの謎を残したまま進んでいく。
サスペンスとして謎解きを追求するのではなく、浮かび上がってくるのは人間の愚かさだ。
大人の世界、子供の世界、学校という組織など、存在している社会で行ってしまう人間の愚かな行為である。
真相が徐々に明らかになってくるのは構成上自然な流れである。
たしかに子供たちは怪物的要素を持っているが、ここで言う怪物はむしろ学校側の者たち、いや学校と言う組織そのものだったのかもしれない。

オッペンハイマー

2024-05-03 06:54:13 | 映画
「オッペンハイマー」 2023年 アメリカ


監督 クリストファー・ノーラン
出演 キリアン・マーフィ エミリー・ブラント マット・デイモン
   ロバート・ダウニー・Jr フローレンス・ピュー
   ジョシュ・ハートネット ケイシー・アフレック
   ラミ・マレック ケネス・ブラナー ディラン・アーノルド
   トム・コンティ ゲイリー・オールドマン

ストーリー
1926年、ハーバード大学を最優秀の成績で卒業したオッペンハイマーは、イギリスのケンブリッジ大学に留学するが、そこでの環境や実験物理学に嫌気が差して、ドイツのゲッティンゲン大学に留学する。
留学先で出会ったニールス・ボーアやヴェルナー・ハイゼンベルクの影響から理論物理学の道を歩み始める。
1929年に博士号を取得した彼はアメリカに戻り、若く優秀な科学者としてカリフォルニア大学バークレー校で教鞭を取っていた。
オッペンハイマーは自身の研究や活動を通して核分裂を応用した原子爆弾実現の可能性を感じており、1938年にはナチス・ドイツで核分裂が発見されるなど原爆開発は時間の問題と考えていた。
第二次世界大戦が中盤に差し掛かった1942年10月、オッペンハイマーはアメリカ軍のレズリー・グローヴス准将から呼び出しを受ける。
ナチス・ドイツの勢いに焦りを感じたグローヴスは原爆を開発・製造するための極秘プロジェクト「マンハッタン計画」を立ち上げ、優秀な科学者と聞きつけたオッペンハイマーを原爆開発チームのリーダーに抜擢した。
1943年、オッペンハイマーはニューメキシコ州にロスアラモス国立研究所を設立して所長に就任、全米各地の優秀な科学者やヨーロッパから亡命してきたユダヤ人科学者たちとその家族数千人をロスアラモスに移住させて本格的な原爆開発に着手する。
ユダヤ人でもある彼は何としてもナチス・ドイツより先に原爆を完成させる必要があった。
一方で原爆開発に成功しても各国間の開発競争や更に強力な水素爆弾の登場を危惧していた。
1945年5月8日にナチス・ドイツが降伏したので原爆開発の継続を疑問視する科学者もいたが、日本に目標を切り替えて開発を続けてゆく。
1945年7月16日、人類史上初の核実験「トリニティ」を成功させた。
実験成功を喜ぶ科学者や政治家、軍関係者たちを見たオッペンハイマーは成功に安堵する反面、言い知れぬ不安を感じる。
原爆完成を受けてトルーマン大統領は日本を無条件降伏に追い込み、ヨーロッパで影響力を強めるソ連に対する牽制として広島と長崎へ原爆を投下した。
戦後オッペンハイマーは原爆の父と呼ばれ、多くのアメリカ兵を救った英雄として賞賛されることに困惑、降伏間近だった日本への原爆投下によって多くの犠牲者が出た事実を知って深く苦悩していた。
1949年、事前の予想より早くソ連が原爆開発に成功、衝撃を受けたアメリカでは水爆など核兵器の推進が盛んに議論される事態となった。
当時、アメリカ原子力委員会の顧問だったオッペンハイマーはソ連との核開発競争を危惧して水爆開発に反対する。
トルーマン大統領に国際的な核兵器管理機関の創設を提案したが、大統領は彼の姿勢を弱腰と決めつけ提案を無視した。
その行動が核兵器推進派の科学者や政治家との対立に繋がり、彼のその後の人生を暗転させてゆく。


寸評
第二次大戦中に原子爆弾の開発は各国で行われていた。
米国は無論だし、ドイツ、ソ連も同様で、日本だって開発に着手していたのだ。
完成間近だったヒトラーのナチス・ドイツが完成前に降伏したのは幸いだったと思う。
作品は原爆の父と称されるオッペンハイマーの伝記映画だが、果たしてどこまで真実が描かれていたのだろう。
僕のオッペンハイマーに対する知識は知れたものだが、僕はオッペンハイマーには功名心や出世競争への執着もあったのではないかと思っている。
誤認かもしれないがオッペンハイマーはドイツで学び、アメリカに渡った時には名声を得ていた学者が既に存在していたのだが、マンハッタン計画では責任者に選ばれ、彼の先を越すことになった。
しかしその後、水爆開発でとってかわられ、彼がその道の責任者になりオッペンハイマーは追い落とされたと認識していた。
映画を見ながら、ドイツで師事したのがハイゼンベルクで、アメリカでのライバルがエドワード・テラーだったと知識を刷り込んでいた。
ユダヤ人のオッペンハイマーはドイツよりも先んじねばならないと言う使命感もあったと思うが、同時にハイゼンベルクに負けたくないと言う思いもあったのではないか。
そしてマンハッタン計画ではライバルに勝ったという満足感も得ていたのではないかと、僕は勝手に思っているのだが、そのようなことは描かれていなかったので、それは僕の妄想なのかもしれない。

時間が前後して描かれているし、やたら人物が登場して会話劇の様相を呈しているので難解に思える。
それを解消するためにカラーとモノトーンを使い分けているのだが、切り替えは時間軸によるものだったと思う。
原爆開発の功罪と開発者の苦悩が描かれているが、日本人僕は開発成功を喜ぶ姿や、投下場所を選定するところなど、やはり嫌悪感が湧いてくる。
オッペンハイマー自身に起きたことではないから省略されたのだろうが、原爆の被害が語られるだけでは納得がいかない。
広島、長崎の被害がどのようなものであったのかを未だに知らないアメリカ人も多いのではないか。
報告を聞いて落ち込むオッペンハイマーを映しているが、記録フィルムを見てとした方が良かったように思う。

開発メンバーの1人であるテラーが1回の核爆発で大気中の原子に連鎖反応が起きて大爆発になってしまうという核の連鎖反応の理論を提唱する。
それに対し、オッペンハイマーは連鎖反応の起きる確率はほとんど0に近いと判断する。
ラストでオッペンハイマーがアインシュタインに「核の連鎖反応は、成功したと思います」と告げるのだが、これは各国の核開発競争が起きたと言う意味で、自分が否定した核の連鎖反応は正しかったのだと言っているのだ。
そうなってしまった以上、日本の進むべき道、立場はこれでいいのかと思ってしまう。

男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇

2024-05-02 06:47:33 | 映画
「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」 1997年 日本


監督 山田洋次
出演 渥美清 倍賞千恵子 浅丘ルリ子 下絛正巳 三崎千恵子
   前田吟 太宰久雄 笠智衆 吉岡秀隆 江藤潤
   新垣すずこ 比嘉美也子 金城富美江 佐藤蛾次郎 関敬六

ストーリー
セールスマンとして日本各地を飛び回っている満男は、最近、同じ旅の空の下にいる伯父の寅次郎のことをよく思い出していた。
満男は特に印象深かったリリーの夢を見る。
かつて寅が想いを寄せたキャバレー歌手のリリーが沖縄で倒れた。
彼女は沖縄の基地のクラブで唄っていたが、急病で倒れ、入院中だという。
そして、手紙には「死ぬ前にひと目寅さんに逢いたい」と書いてあった。
五年振りの再会に、リリーの大きな瞳は涙でいっぱい、そして彼女の病状も寅次郎の献身的な看護で快方に向かい、病院を出られるようになると、二人は療養のために漁師町に部屋を借りた。
一方、リリーは快方に向かいキャバレーを回って仕事をさがしはじめた。
体を気づかう寅次郎に、リリーは夫婦の感情に似たものを感じる。
たが、寅次郎は自分のことをタナに上げ、リリーと下宿屋の息子・高志との関係を疑いだした。
好意を誤解されて怒った高志は寅次郎と大喧嘩をし、翌日、リリーは手紙を残して姿を消した。
リリーがいなくなると、彼女が恋しくてならない寅次郎は、寂しくなり柴又に帰ることにした。
三日後、栄養失調寸前でフラフラの寅次郎がとらやに倒れるように入ってきた。
おばちゃんたちの手厚い看護で元気になった寅次郎は、沖縄での出来事をさくらたちに語る。
それから数日後、リリーが寅次郎が心配になって、ひょっこりとらやにやって来た。
そんなリリーに寅次郎は「世帯を持つか」と言うが、リリーは寅次郎の優しい言葉が素直に受けとれない。


寸評
渥美清は1996年8月4日に亡くなった。
代表作の「男はつらいよ」シリーズで寅さんとして親しまれた風来坊の主人公「車寅次郎」を演じ、没後に国民栄誉賞が贈られたが、俳優としては1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目であった。
渥美清は演技で見せる社交性のある闊達さとは対照的に、実像は公私混同を非常に嫌い、芸能活動の仕事を一切プライベートに持ち込まなかったため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかったという。
喜劇役者として野村芳太郎監督の「拝啓天皇陛下様」や、東映で撮った「喜劇列車シリーズ」などもあるが、渥美清と言えば何と言っても「男はつらいよシリーズ」、フーテンの寅さんは渥美清と同一人物と錯覚してしまうほどのハマリ役で、逆に言えば寅さんのイメージが強すぎて、他の作品で脇役として登場しただけでも笑い声が起きた。

「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」は1997年の作品で没後に再編集されたものである。
公開された48作の中から「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」が選ばれ、タイトルが出る前と最後にシーンが付け加えられている。
監督の山田洋次が好きな作品らしいが、僕もリリーが登場する4作の中ではこの作品が一番好きだ。
何といってもシリーズの中で一番、寅さんが所帯を持つのではないかと思わせる作品なのだ。
「男はつらいよシリーズ」は寅さんの片思いで終わるのがほとんどだが、中には女性が寅さんと所帯を持ってもいいと思う作品もあった。
しかしその作品における女性たちとの所帯生活を僕は想像できなかった。
唯一の例外が浅丘ルリ子のリリーで、寅さんが所帯を持って暮らしている姿に違和感のないのがリリーなのだ。
寅さんの相手となるマドンナは毎回違っているが、複数回登場しているのは第4作、36作の栗原小巻、第9作、13作の吉永小百合、第22作、34作の大原麗子、第27作、46作の松坂慶子、32作、38作、41作の竹下景子、第42作、43作、44作、45作の満男の恋人役でもある後藤久美子らである。
そのなかでも第11作、15作、25作、48作にリリーという同じ役で登場する浅丘ルリ子が光彩を放っている。
したがって作品の出来も非常に良い。
ただ42作目あたりから渥美の体調がすぐれず、満男のサブストーリーに時間が割かれるようになっているので、結果的に最後の作品となってしまった48作目の「男はつらいよ 寅次郎紅の花」の出来はイマイチと感じる。

さて本作は、妹さくらの息子である、つまり寅さんにとっては甥にあたる満男が、「寅さんはどうしているだろうか、会いたいなあ」と思いをはせリリーとの思い出を懐かしむ形式をとっている。
リリーとの思い出シーンは1973年の「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」、1975年の「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」のシーンを使用しているのだが、シリーズを見てきた者にとっては満男でなくても懐かしく感じる。
そしてシリーズ第25作が始まる。
最後に寅さんと同じように地方へセールスに行っていた満男が柴又に帰ってくるところが付け加えられている。
満男は寅さんのように陽気ではなく、ちょっと疲れているように見える。
寅さんは今もどこかを旅しているという設定だが、満男の後ろ姿からはもう寅さんと会えない淋しさを感じる。