おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

凶悪

2019-04-15 07:02:13 | 映画
「凶悪」 2013年 日本


監督 白石和彌
出演 山田孝之 ピエール瀧 池脇千鶴 小林且弥
   斉藤悠 米村亮太朗 松岡依都美 村岡希美
   白川和子 吉村実子 リリー・フランキー

ストーリー
藤井(山田孝之)はスクープ雑誌「明潮24」で働く記者だが、スクープばかり追う仕事に疑問を感じていた。
そんなとき会社に、東京拘置所に収監中の死刑囚・須藤(ピエール瀧)から手紙が届く。
編集長・芝川(村岡希美)から話を聞いてこいと命ぜられた藤井が須藤から聞かされたのは、白日のもとにさらされていない3件の殺人事件についてと、その首謀者である「先生」と呼ばれる男・木村(リリー・フランキー)の存在だった。
須藤は首謀者の木村が娑婆でのうのうと生きていることが許せず、雑誌で取り上げて追い詰めてほしいというのだった。
藤井は早速編集長である芝川に話すが、芝川は根拠もないことは記事にできないとボツを言い渡す。
しかしあきらめきれない藤井は、職場を放棄してまで須藤の話をもとに裏付けを取っていく。
調べて行くうちに徐々にその信憑性が増していき、事件の取材に憑かれたように徐々にのめりこんでいく。
3件の殺人事件は、いずれも須藤と先生・木村が共謀して殺害実行・証拠隠匿を謀ったものだった。
木村が殺した男を焼却炉で焼く事件(1つめ)、土地持ちの老人を生き埋めにする事件(2つめ)、借金を抱える電気店の老父を殺し、その保険金で借金を帳消しにさせる事件(3つめ)…。
そのうち3つめの事件は、電気店の家族の協力もあり、裏付けも充分に取れた。
藤井は取材をまとめて記事にして芝川に提出すると、芝川もGOサインを出し記事がとうとう雑誌に載る。
このスクープ記事は世間を騒然とさせ、警察も動き始め木村は逮捕される。
裁判が始まり、藤井は証人として法廷に上がったが、そこで須藤の本当の理由を知ることになる。
真相を知って愕然とする藤井に、須藤は不敵に微笑む・・・。


寸評
「凶悪」というタイトルの通り、とんでもない悪人が登場する。
一人は死刑囚の須藤で、もうひとりは人の弱みにつけ込んで平気で人殺しを指揮する木村という男。
このふたりは誰が見ても極悪人なのだが、実は市井の中にもそれに似た感情を有している人間が居ることを合わせて描いているところがこの映画のすごいところだ。
冒頭から須藤の極悪非道ぶりが容赦なく描かれる。
ヤクザの中にはこんな残虐な奴がいるのかと思わされるくらいひどいことをやる。
須藤は自分を裏切るやつが許せない。
彼の許せないとは、すなわちその対象者を殺してしまうことである。
彼らがなぜ殺されることになったのかは後半で明らかになるが、須藤は人を殺すことを何とも思っていない。
先生と呼ばれている木村は金になる相手を見つけ出しては、須藤に殺人を持ちかけて始末していく。
彼は一見優しそうで親切そうな男に見えるが、この男が一番のワルだ。
殺人を楽しんでいるようなところが有り、その優しそうな物腰から発せられたとは思われないような恐ろしい言葉を、通常会話のように言うのだ。
人をいたぶる時には「やらせて、やらせて」と興味本位の行動を取る。
焼却されていく様を眺めながら、「なんかいい匂いするね」とのたまうのだ。
聞いた須藤が返す言葉が、「焼肉、食いたくなっちゃった」だから、悪人を通り過ごして、もはや狂人だ。
彼らふたりは借金苦の一家のために、生命保険詐欺でじいちゃんを酒を飲ませ続けて始末しようとする。
じいちゃんは死ぬのが嫌になり、家に帰りたいと言い出す。
そこで木村は、じいちゃんの家に電話して家に帰していいかどうかを聞く。
息子は「今は迎えに行けない」とやんわり拒否する。
ばあちゃんに、このまま酒をのまし続けていいかどうかを聞くと、ばあちゃんは「飲ませてください」と返答する。
木村は脅かしているわけではないが、しかし、一家が保険金でしか立ち直れないことを知っている。
一家もそうするしか自分たちの生きる道はないと思っている。
じいちゃんが作った借金の後片付けとは言え、命と引き換えにする選択をしてしまうこの一家にも悪の心が住み着いてしまっている。
藤井の妻は認知症の義母に暴力を振るい、「死んでしまえばいい」と願ったことを告白するが、死んでくれるのが一番いいと思う気持ちは案外と誰にでもある思いのような気がする。
病気に苦しむ家族の姿を見たとき、看病に疲れきったとき、認知症が進んで徘徊を繰り返す親を持ったときなどに、そんな気持ちが湧いてくることは想像に難くない。
だからと言って、本当に殺してしまう人は滅多にいるものではないのだが。
最後に須藤は裏切ってはいなかった五十嵐を木村の策動によって殺してしまう。
そして自分が一番嫌った裏切りを木村に対して行うのだが、その行為は自分が生きるためという身勝手なものだ。
人の命を奪っておきながら、自分は生きていたいという、実に身勝手な人間で憎悪を覚える。
木村が「俺を殺したいと思っているのは被害者でもなく、須藤でもない」と面会者の藤井を指差すが、指さした相手は我々観客でもあった。
そんな悪人を演じたピエール瀧とリリー・フランキーの怪演はこの映画の見所。
役者はスゴイ!
ピエール瀧が薬物使用で逮捕されたのは残念だし惜しい。

キューポラのある街

2019-04-14 10:15:17 | 映画
「キューポラのある街」 1962年 日本


監督 浦山桐郎
出演 東野英治郎 杉山徳子 吉永小百合 市川好郎
   鈴木光子 森坂秀樹 浜村純 菅井きん
   浜田光夫 北林谷栄 殿山泰司 加藤武
   岡田可愛 小林昭二 小沢昭一 吉行和子

ストーリー
鋳物の町として銑鉄溶解炉キューポラやこしきが林立する埼玉県川口市は鋳物職人の町である。
石黒辰五郎も、昔怪我をした足をひきずりながらも、職人気質一途にこしきを守って来た炭たきである。
この辰五郎のつとめている松永工場は今年二十歳の塚本克巳を除いては中老の職工ばかりで、工場が丸三という大工場に買収されるためクビになった辰五郎ほかの職工は翌日から路頭に迷うより仕方なかった。
辰五郎の家は妻トミ、長女ジュン、長男タカユキ、次男テツハルの五人家族で路地裏の長屋に住んでいた。
辰五郎がクビになった夜、トミはとある小病院の一室で男児を生んだが辰五郎はやけ酒を飲み歩いて病院へは顔も出ず、その後、退職の涙金も出ず辰五郎の家は苦しくなった。
ささいなことでタカユキが家をとびだすような大さわぎがおこり、タカユキはサンキチのところへ逃げ込んだ。
サンキチの父親が朝鮮人だというので辰五郎はタカユキがサンキチとつきあうのを喜ばなかったし、克巳が退職金のことでかけあって来ると、「職人がアカの世話になっちゃあ」といって皆を唖然とさせた。
ある日、タカユキが鳩のヒナのことで開田組のチンピラにインネンをつけられたことを知ったジュンは、敢然とチンピラの本拠へ乗り込んでタカユキを救った。
貧しいながらこの姉弟の心のなかには暖かい未来の灯があかあかとともっていた。
やっとジュンの親友ノブコの父の会社に仕事がみつかった辰五郎だったが、新しい技術についてゆけずやめてしまいジュンを悲しませた。
街をさまよったジュンは、母のトミが町角の飲み屋で男たちと嬌声をあげるのを見てしまった。
不良の級友リスにバーにつれていかれ睡眠薬をのまされてしまったジュンは、危機一髪のところで克巳が誘導した刑事に助けられた。
学校に行かなくなったジュンを野田先生の温情がつれもどし、克巳の会社が大拡張され、克巳の世話で辰五郎もその工場に行くこととなり、ジュンも昼間働きながら夜間高校に行くようになった。


寸評
浦山桐郎監督のデビュー作でもあるが、初々しい吉永小百合がまぶしい作品だ。
僕が子供の頃、吉永小百合はラジオドラマの「赤胴鈴之助」で主演の鈴之助の声優をやっていたが、声優が誰かには興味がなく、それが吉永小百合だったという記憶はない。
やがて映画デビューを果たすが脇役的な娘役ばかりで、本作で初めて主演女優としての開花を見せた。
その後にも数えきれない作品に主演した吉永小百合だが、僕はやはり本作での吉永小百合が一番だ。
17歳だった吉永小百合が中学生を演じているが等身大で共感できる。
当時の日活ではカップルで売り出していた作品が多く、石原裕次郎には北原三枝、小林旭には浅丘ルリ子、そして吉永小百合には浜田光夫だった。
北原三枝の引退があって、石原裕次郎の相手役は浅丘ルリ子に代わったり、小林旭には松原智恵子が加わったりしたが、吉永小百合の相手役はずっと浜田光夫だったような印象がある。

子供たちはたくましい。
僕の育った村は農村地区で、さすがにこの作品のような雰囲気ではなかったが、それでも周りにはタカユキやサンキチのような子供はいたし、石黒家のような家庭は存在していた。
新聞配達や牛乳配達をしている少年に違和感がなかった時代である。
今見ると僕のような年代の者には、冒頭のテレビ中継で大鵬、柏戸の大相撲が写っているのが懐かしいし、タカユキが名物プロ野球解説者だった小西得郎の物まねを度々やっているのも面白く見ることが出来る。
石黒家は貧しい職人の家庭である。
父親はぐうたらで、タカユキは不良まがいの少年だが、次男のテツハルや在日朝鮮人であるサンキチからは親方と呼ばれて慕われている。
だらしない父親に代わって弟をしつけているのはしっかり者のジュンで、中学生にしてはすごく大人びている。
貧困と差別が混在している社会が描かれているのだが、それにもかかわらず中身は明るい。
演じたジュンの吉永小百合、タカユキの市川好郎によるバイタリティあふれる姿がそう思わせたのだろう。
どん底生活のようにも見えるが希望が見える。
それは父辰五郎の現場復帰であり、ジュンの定時制高校への進学であり、サンキチを見送ったあと駆け出していくジュンとタカユキの姿で、清々しいものを感じさせる。

特筆すべきは在日朝鮮人の北朝鮮帰国運動を肯定的に描いていることだ。
北朝鮮こそがユートピアだと信じて帰国していった人々が多いと聞くが、はたして当時帰国した人々の幸せはどうだったのかと思わせる昨今の北朝鮮である。
サンキチは再婚してしまった母に会えず、父と姉が待つ北朝鮮に帰っていく。
見送るジュンたちとお互いに「頑張れよ」と声を掛け合うが、はたしてサンキチに幸せは訪れたのだろうか。
日本は高度経済成長を見せ、石黒家に起きたようなことは少なくなったのだろうが、反面弱くなってしまった若者や子供たちを感じ、貧困は人間を強くするのかもしれないなと思ってしまう。
差別は問題だが、帰国を美化する描き方は現在にはなじまない。
それがなければこの映画の存在はないのだが、なければ僕の評価はもっと上がっていただろう。

吸血鬼

2019-04-13 10:58:45 | 映画
「吸血鬼」 1967年 アメリカ / イギリス


監督 ロマン・ポランスキー
出演 ロマン・ポランスキー ジャック・マッゴーラン
   シャロン・テート アルフィー・バス
   ファーディ・メイン イアン・カリエ
   テリー・ダウンズ イーアン・クワリエ
   フィオナ・ルイス

ストーリー
バンパイア退治の旅に出たアブロンシウス教授(マッゴーラン)と助手のアルフレッド(ポランスキー)は、ヨーロッパ中部トランシルバの片田舎にたどり着く。
あたりに漂うバンパイアの気配に勇み立つが、村の人間は吸血鬼の城を教えてくれない。
二人が宿屋に泊まっている間、アルフレッドは宿屋の主人ヨイン・シャガールの娘、サラ(シャロン・テート)に好意を抱くようになる。
しかし、クロロック伯爵という名の吸血鬼がサラをさらっていくのを見たアルフレッドは、教授と共に雪の上に残された足跡をたどり、雪に覆われた丘の隣にある伯爵の住む不吉そうな城にたどり着く。
城に入るや否や、伯爵の使用人のコウコルのわなにかかり伯爵のもとへ突き出される。
それから二人は、おしゃれな同性愛者にして伯爵の息子であるハーバートに出会った。
その時ヨインは既に吸血鬼になっていて、今度は自分の美しき女中を吸血鬼の花嫁にしようとたくらんでいた。
心配をよそに、アブロンシウス教授らは伯爵から来た城への招待を受け入れた。
翌朝、アブロンシウス教授はサラの運命を忘れ、城の秘密を暴いて伯爵を殺す計画を立てた。
秘密は猫背の男コウコルが守っており、2人は少しうろついた後、屋根にある窓から上って侵入することにした。
しかし、アルフレッドが伯爵を殺そうとしたところで教授が動けなくなり、アルフレッドも手を出せないと感じる。
アルフレッドはサラを探したが、彼を最初に口説き落とそうとしたハーバートに出くわす。
しかしハーバートの姿が鏡に映っていないことにアルフレッドが気づくと、ハーバートは本性をあらわにし、アルフレッドに噛み付こうとする。
2人はハーバートから逃げて暗い廊下を駆け抜けるがつかまってしまう。
そのとき夜が来て墓石が開き、その下からたくさんの吸血鬼が出てきて城へ向かう。
城に侵入し、納棺堂の吸血鬼の死体に杭を打つことに失敗した二人は、バンパイアの怪奇な舞踏会に紛れ込んで、なんとかサラを城外に救出する事に成功し馬車で逃げる。
しかし時既に遅く、サラはアルフレッドに噛み付く。
かくして、吸血鬼は世にはびこることとなった。


寸評
愉快!
映画が始まってすぐのシーンが印象的だ。
映写が始まると、MGM映画なのでトレードマークであるライオンがガォーッと吠えるシーンから始まるが、そのライオンが吸血鬼のアニメに変わり、牙からしたたり落ちる血の雫がタイトルバックをつたって落ちていく。
このタイトルバックが一番面白い。
吸血鬼の城主の息子ハーバートが、ホモの吸血鬼で男しか襲わなかったり、サラと吸血鬼の結婚披露パーティーに仮装で紛れ込んでいくところなど、断片的なシーンにもポランスキーの才気がみなぎっている。
タイトルの原題は「不適な吸血鬼殺し」となっているのだが、これは怪奇映画ではなくて、非常にメルヘンチックな喜劇映画である。
多数のコントで構成されているが、古びた城館の内部のセットは凝っているし音楽も実に重厚なもので手抜きはない。
吸血鬼はニンニクが嫌いで十字架に弱く鏡にも映らないという吸血鬼伝説の決まりも取り入れている。
二人は宿屋にたどり着くが、アブロンシウス教授は寒さのために固まっていて、助手のアルフレッドは懸命に溶かして温めると教授が息を吹き返すという喜劇的シーンを見ると、これは喜劇なのだと実感させられる。
ふたりの目的は吸血鬼退治なのだが、武器はハンマーと木杭だけというのも実感したことに輪をかける。
アルフレッドは吸血鬼退治に来ているが、とても臆病でそのことが物語の行方を左右していくという展開である。

なにより面白いのは、ポランスキーに噛み付いたシャロン・テートが本当に吸血鬼だったことだ。
なぜなら、彼女はその毒牙でポランスキーをダンナにしてしまっているからだ。。
あるいは、ポッチャリとしたこのかわいいバンパイアにポランスキーがまいってしまったのかもしれない。
この映画が縁で翌1968年に二人は結婚したのだが、不幸なことに翌1969年に狂信的なカルト信奉者によって、一緒にいた他の4名とともにロサンゼルスの自宅で殺害された。
更に殺害当時彼女は妊娠8ヶ月であったといいから実に悲惨な事件であったと言え、現実社会は吸血鬼が住む世界よりも恐ろしかったということであった。

CURE キュア

2019-04-12 09:19:01 | 映画
「CURE キュア」 1997年 日本


監督 黒沢清
出演 役所広司 萩原聖人 うじきつよし 中川安奈
   螢雪次朗 洞口依子 でんでん 大杉漣
   戸田昌宏 大鷹明良 河東燈士 田中哲司

ストーリー
ひとりの娼婦が惨殺された。
現場に駆けつけその死体を見た刑事の高部(役所広司)は、被害者の胸をX字型に切り裂くという殺人事件が、秘かに連続していることをいぶかしがる。
犯人もその殺意も明確な個々の事件で、まったく無関係な複数の犯人が、なぜ特異な手口を共通して使い、なぜ犯人たちはそれを認識していないのか。
高部の友人である心理学者・佐久間(うじきつよし)が犯人の精神分析を施しても、この謎を解く手掛かりは何も見つからない。
そのころ、東京近郊の海岸をひとりの若い男(萩原聖人)がさまよっていた。
記憶傷害を持つ彼は小学校の教師(戸田昌宏)に助けられるが、教師は男の不思議な話術に引きずり込まれ、魔がさしたように妻(春木みさよ)をXの字に切り裂いて殺してしまう。
その後、男は警官(でんでん)に保護され、そして病院に収容されて同様の話術を警官や女医(洞口依子)と繰り返した。
警官と女医は、それぞれに殺人を犯し、被害者の胸を切り裂いてしまう。
催眠暗示の可能性に思い至った高部は、事件の捜査線上に浮かび上がったこの男・間宮を容疑者として調べ始めた・・・。


寸評
間宮は話術によって猟奇殺人を起こさせる一種の洗脳技術を持つ人物のようでもあるが、記憶障害を持ちつい先ほどのことも覚えていない薄気味の悪い、そして見ているうちに嫌悪感を抱いてしまう男で、その間宮を萩原聖人がけだるそうに演じていてこの映画をホラー化することに成功させている。
高部の深層心理を描く場面は強烈だ。
高部は妻の世話をしながら忙しい刑事でありストレスが溜まっている。
そこに間宮が入ってくることによって、妻に対する憎悪が爆発してしまうのではないかという恐怖だ。
妻が首吊り自殺をしている幻想を見たのは、正に妻に対する殺意の現れである。
煩わしい妻を殺害したいという衝動に駆られるのは何も映画に限ったことではなく現実社会でもある。
現にそのような事件も起きているが、大抵の場合その行為を押しとどめているのは人が持つ理性だ。
劇中で心理学者の佐久間も「殺人は悪いことだと思っている人に催眠術によって人を殺させることは出来ない」と
高部に告げている。

間宮は殺人教唆の容疑をかけられているのだが、映画の中では間宮が直接殺人をそそのかす場面は描かれていないので、僕は間宮は殺人を教唆したのではなく、催眠術行為によって殺人を犯してはいけないという理性を取り除いたのではないかと思っている。
もちろん教唆があったのかもしれないが、間宮と会話を交わした者は心の内を見透かされ殺人を行ってしまう。
催眠、あるいは洗脳に影響を与えるのが、ある時は光であり、ある時は水である。
ライターの火、コップの水は直接的であるが、チカチカと点滅している電灯、遠方に見える煙突の光の点滅、踏切の赤信号のアップなどは観客に催眠の体験をさせるという明らかな意図がみてとれる。
場面のことなるシーンを交互に挿し込むという黒沢演出は、観客を混乱させ不安にさせることに成功している。

殺人を犯すのは教師、警官、医者といういわゆる聖職者たちだ。
殺人は犯さないが変調をきたしてしまうのが佐久間だ。
高部が佐久間の家に行ったとき、書斎の電気がついて壁に大きなX印が描かれていることに気付き「それはなんだ?」と聞くと、佐久間は壁を引っ掻き、取り乱しながら「おれにもよくわからない!」と返答する。
一番まともな男であった佐久間がおかしくなってしまったことに気付いたとき、観客の不安は最高潮に達する。
そして「いいかげんにしてくれよ」とつぶやいていた高部はついに最終手段に出てしまう。
「CURE キュア」という哲学めいたタイトルながら、一連の展開はエンタメ性を強く感じる優れた演出だ。
見終ってからあれこれ想像させるのが衝撃を感じさせるラストシーンだ。
高部はレストランで食事しているが、同じ場面が前にも登場していて、その時は出されたメニューのほとんどを残していたのにラストシーンではそれらを間食していて満足そうにコーヒーを飲み干す。
ウエイトレスの行為は何を表しているのか?
僕は高部が間宮化したのではないかと思っている。
高部はウエイトレスに暗示をかけたのだと思うし、高部の妻・文江が猟奇殺人の餌食になったのも、おそらく高部が看護師に命じたのではないかと納得できるのだ。
心理ホラー作品としては実によくできた作品で、恐しさよりも怖さを感じさせる黒沢清渾身の一作だ。

紀ノ川

2019-04-11 08:47:45 | 映画
「紀ノ川」 1966年 日本


監督 中村登
出演 岩下志麻 司葉子 田村高廣 東山千栄子
   丹波哲郎 有川由紀 沢村貞子 穂積隆信
   菅原文太 野々村潔

ストーリー
明治32年、22歳の春を迎えた紀本花(司葉子)は紀州有功村六十谷の旧家真谷家に嫁いだ。
婚儀は盛大なものだったが、敬策(田村高廣)の弟浩策(丹波哲郎)は花を好いていてうかぬ顔だった。
夫の敬策は二十四歳の若さで村長の要職にあった。
翌年の春、ようやく真谷家の家風に慣れた花は、実家の祖母豊乃(東山千栄子)に教えられて慈尊院へ自分の乳房形を献上し安産を祈ったところ、紀ノ川が台風に荒れ狂う秋、長男政一郎が産れ、長男誕生の報に喜んだ敬策は紀ノ川氾濫を防ぐ大堤防工事を計画するのだった。
日露戦争が始まった年、浩策は持山全部をもらって分家し、敬策は県会議員に打って出ようと和歌山市内に居を移した。
やがて花は、日本海海戦大勝利の中で長女文緒を産んだ。
十七歳の文緒(岩下志麻)は和歌山高女に学び、新時代に敏感な少女に成長した。
東京女子大に進学した後も、男女平等を標榜し敬策や花を心配させたが、大人たちの手に乗って結婚した。
夫の転勤と共に上海に渡った文緒は生後間もない長男を失い、二度目の出産のため日本に帰った。
昭和七年、文緒は長女華子を生み、そして大戦が始まる少し前、長年政界にあった敬策が急逝した。
花は真谷家を守ろうと和歌山市内から六十谷へ戻った。
やがて華子(有川由紀)が花のもとに疎開してきたが、終戦を迎えて真谷家は地主の地位を失った。
ある日、花は真谷家の家財を売り払い盛大な法事を開いたが、翌日脳溢血で床につき、やがて花はその生涯を閉じた。
明治、大正、昭和と三つの時代を生きぬいた花の臨終だった。


寸評
紀ノ川の上流にある紀本家から、下流にある真谷家に花が嫁いでくるシーンから始まるが、この輿入れの描写が古き時代の嫁入りを静かにとらえていて中々いい。
紀ノ川を船に乗ってやってくる一団には花以外に花嫁衣裳をまとった二人のお嫁さんも乗っているのだが、花だけは立派な籠に乗っている。
他の二人と違って、格式の高い家の娘であることがわかる。
嫁ぎ先の真谷家も地域一帯の大地主で立派な屋敷を有していて、結婚は家柄が大事だったことを物語る。
花はすぐに器量の大きさを見せ、夫である敬策のよきアドバイザーとなるのだが、家の思想が定着していた時代で「家」に嫁いだ花であるはずだが、真谷家を守っていくための伝統を義父母からしつけられているシーンはなく、いい嫁が来てくれたとの両親の会話があるだけで、家を守っていくことの大変さは割愛されている。
「家」の重要な構成員である義父母の葬儀の場面は描かれていない。

それを補うかのように、兄弟の確執が挿入される。
家は長男が継ぎ、次男は財産分けをしてもらい分家させられる。
当主は徴兵されないこともあって、戦争に出したくない家では子供を次々分家させたという事例も聞く。
ここでは病弱な丹波哲郎の弟が森林など貰うものをもらい、家も建ててもらって分家する。
花への思慕の情を抱いているのが話に色を添える。
この浩策は女中に来ていた女性と結婚することになるが、分家の嫁として本家に一歩引いている描写もいい。
戦後、材木高騰で分家は財を成し、反対に本家は衰退していくので、その描写が効いていたと思う。
私の母の生家も分家だったが、本家は寂れてしまって大きな屋敷も荒れ放題となっている。
小作人だった人が農地解放で得た土地で土地成金となり、今や資産家という実例を挙げればきりがない。
栄枯盛衰は世の常で、真谷家も例外ではない。
我が村を見渡しても、その家の繁栄は結局のところ人によるもので、人材を輩出できなかった家は衰退しているように思える。
真谷家も長男の政一郎が頼りなく、花は政一郎の代で滅びると感じ取っている。
長男に比べれば長女の文緒はとげとげしいが、しっかり者である。
この進歩的な女性を岩下志麻が好演し、甲高い声で怒鳴りまくっているのがアクセントになっている。
二号さんの存在を知りながらも、その目の前の大きな屋敷を別宅として買い取る母の姿は、母親は家の犠牲になっていると思っている文緒には想像できない花の度量の広さだ。
叔父にあたる浩策は文緒と気が合い、父親に死なれた文緒がてきぱきと動くのを見て「ああいう悲しみ方もあるのだ」という。
また、母親に比べて叔父さんは何もしてこなかったと食って掛かられた時も、「お前もその歳になってお母さんのことが分かるようになったか」と言い、「歳を取ることはいいもんだ」とも言っている。
僕はハッとした。 そうだ、歳を取ることはいいことなのだ。
僕は最近今までと違ったものが見えてきているように感じている。
敬策のような大事業を残せなくても、一つぐらいは人様のためになることをとも思えてきた。
本作は中村登としては最高作だと思うし、司葉子にしても最高作ではないだろうか。

Kids Return キッズ・リターン

2019-04-10 06:53:41 | 映画
「Kids Return キッズ・リターン」 1996年 日本


監督 北野武
出演 金子賢 安藤政信 森本レオ 山谷初男
   柏谷享助 大家由祐子 寺島進 モロ師岡
   北京ゲンジ 下條正巳 丘みつ子 石橋凌

ストーリー
懐かしい顔をシンジ(安藤政信)は見つけた。
高校時代の同級性マサル(金子賢)で、いつも、何するのも一緒だった。
腕っ節の強いマサルが兄貴分で、シンジはその尻について歩いていた。
ふたりは二流進学校の落ちこぼれだ。
それなりに自覚はあるが、担任(森本レオ)やほかの教師からお荷物扱いされれば気分はムカつく。
だからマサルとシンジは自由気ままに振る舞った。
なじみの喫茶店でまず一服し、看板娘のサチコ(大家由祐子)に色目をつかうヒロシ(柏谷享助)にちゃちゃを入れ、気分が乗れば学校へ向かう。
といってもふたりは、弱い者いじめの番長グループにお仕置したりして、どこか普通のツッパリじゃない。
冬、大学入試が近づき、授業もテクニック重視の実戦型に変わって、ハジかれる一方のマサルとシンジ。
いつものようにカツアゲでメシ代を稼ぎ、いい気分で入ったラーメン屋で、ふたりは先客のヤクザ(寺島進)に絡まれた。
あわや喧嘩のところを貫祿でさばいた若頭(石橋凌)に、マサルは尊敬の眼差しを浮かべる。
ある夜、以前カツアゲした高校生から呼び出しがかかり、ふたりで指定の場所へ着くとスリムで小柄な若い男(石井光)が現れ、次の瞬間マサルは左ストレートを食らって舗道に延びていて、呆然と立ち尽くすシンジ・・・。
卒業式の日、自転車置き場でシンジはマサルから声をかけられた。
自転車で伴走したシンジは、マサルに言われるままボクシングジムに入門した。
数ヶ月後、シンジは前座戦でデビューを飾り、やがて挑戦者の資格を得た。
会長(山谷初男)が、軽快なフットワークでジャブを繰り出すシンジを食い入るように見つめていた・・・。


寸評
マサルとシンジは落ちこぼれの高校生で、彼等のやらかすバカぶりが何とも滑稽だ。
ベテラン教師がマサルとシンジによって自身に模した手作りの人形で窓の外から授業を妨害されるシーンは包括絶倒で、よくもまああんな小道具を思いついたものだと感心してしまう。
高校時代は落ちこぼれだった僕も結構バカをやったと思うが彼等のようなバカは出来なかった。
特にカツアゲなどは犯罪行為で、それを行う生徒は僕の学校にはいなかった。
彼等は金がなくなるとカツアゲをやっているのだが、おかしなことに他の不良グループに目をつけられている同級生をかばってやったりしている。
兎に角、マサルとシンジというキャラクターが生き生きしていて、主演の二人が脇役人に囲まれて輝いている。

上には上がいるもので、それは暴力の世界でも同様だ。
マサルは同級生の中では一番強い番長だが、プロのボクサーである男には一発でノックアウトされてしまう。
面目を失くしたマサルが学校に来なくなってしまうが、一番を自負していた者が一番の友達の前で無残な姿をさらしてしまったことへの居たたまれなさを表していたのだと思う。
マサルはヤクザになり、先輩を追い抜いてのし上がっていき羽振りを利かすが、若頭らしい寺島進には散々に痛めつけられる。
その寺島進も頭が上がらないのが組長である石橋凌なのだが、その組長もあっけなく射殺されてしまう。
シンジはボクサーとして成長していくが、ハヤシの悪い誘いもあって大事な試合で滅多打ちされてしまう。
そのどれもこれもが、上には上がいるんだよと言っているようだ。

マサルとシンジは落ちこぼれの不良に違いないが、それでも彼らなりの世界で挫折を知らない高校生活を送ってきているところで、二人とも初めてともいえる挫折を味わう。
マサルは前述のリンチを受けてヤクザの世界を追い出されたことであり、シンジはボクシングの試合でみじめな敗戦を経験したことである。
それはあたかも青春には挫折がつきものなのだと言っているようでもある。
若さが裏目に出て苦い挫折をした二人は、通っていた高校の校庭でかつてのように自転車の二人乗りをする。
それを見た日本史の先生は「まだバカをやってる」とつぶやいたところで、シンジはマサルに「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな?」と問いかける。
マサルは「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」と答えるのだが、この言葉にはいろんな見方があるもののやはり彼等の未来に期待を寄せているのだろう。
挫折を経験したけれど、「これぐらいで終わりはしないぞ、まだまだこれから大暴れするんだ」との決意表明だったと思うし、シンジに対する激励の言葉だったと思う。

北野武はいろんなジャンルの作品を撮った監督だが、この作品で見せたシンプルなストーリーに支えられた若々しい表現は並み大抵なものではない。
北野映画への好き嫌いはあっても彼の才能を感じずにはいられない作品である。

傷だらけの栄光

2019-04-09 09:04:35 | 映画
「傷だらけの栄光」 1956年 アメリカ


監督 ロバート・ワイズ
出演 ポール・ニューマン ピア・アンジェリ
   サル・ミネオ アイリーン・ヘッカート
   ジャドソン・プラット ハロルド・J・ストーン
   エヴェレット・スローン ロバート・ロジア
   スティーヴ・マックィーン パティ・デューク

ストーリー
ニューヨークのイースト・サイド、その貧民街に育ったロッキー(ポール・ニューマン)は、遊ぶ金に困ると靴磨きのロモロ(サル・ミネオ)らを誘って盗みを働く少年だった。
或る日、土地の不良団と喧嘩して感化院に送られた。
やがてそのまま陸軍に引っぱられたが第1日目に脱走した。
彼はスティルマン体育館に行き、ボクサーとして出発しようとした矢先、軍にみつけられて刑務所に送られた。
しかしそこでボクシングを習って彼は自分の進むべき道を知った。
出所した彼は再び体育館を訪れた。
或る日妹の友達ノーマ(ピア・アンジェリ)と知り合い2人は結婚した。
娘も生まれて彼の未来は開けてきたようにみえた。
トニー・ゼイルとミドルウェイト級の世界選手権を争うことになった時、刑務所時代に知り合った男が八百長を頼んできたのを断った事から、ニューヨークの試合をボイコットされ、加えて新聞に彼の前歴を悪しざまに書かれる不運に見舞われたが、妻はそうした失意の彼を暖かく慰めた。
やがてロッキーの努力は酬われ、1947年あらためてトニー・ゼイルに挑戦、ついにチャンピオンとなった。


寸評
ボクシング映画の原点と言ってもいい作品だ。
アメリカの元・ボクシング世界ミドル級チャンピオン、ロッキー・グラジアノの生涯を描いた伝記映画だが、オリジナル・ストーリーを感じさせる描き方は見る者を引き付ける。
ハッピー・エンドの成功物語だが、そこに至るまでの描写と気の利いたセリフがたまらない。
前半では不良仲間と喧嘩や窃盗を繰り返す日々が描かれるが、何度も描かれる悪事なのにくどいと感じない。
おそらく描き方にテンポがあったからだろうし、服役中の出来事を要領よく描き、年数の経過も会話の中で示して中抜きされたような気がせず、軍隊時代も同様で、むだなシーンを排除した演出には好感が持てる。
勝手な想像だが、梶原一騎とちばてつやの名作劇画「あしたのジョー」も、シルベスタ・スタローンの出世作「ロッキー」も影響を受けていたのではないかと思う。

確執のあった父親が年老いて力が弱り、ロッキーの相手ではなくなっている。
「俺はついてた。親父は運が悪かっただけだ。親父に何をしてやれる?教えてくれ」と言うと、父親は「チャンピオンになってくれ。オレの夢だったんだ」と答え、ロッキーが決戦の場へ向かっていくストーリーはありきたりだが、その前と後のセリフが泣かせる。
ロッキーは昔なじみのベニーの店に行き、昔の仲間の末路を聞かされるが、誰もがろくな行く末を辿っていない。
そこで店主のベニーはロッキーの制止も聞かず言い聞かせる。
「うちの店も外も同じだ。飲んだら払わないといけない。悪事にも、代償を支払う必要がある。単純なことだが分からんヤツもいる。支払うときになって怒り出すんだ。“何でオレが?”って。ソーダを飲んだからだ。払う覚悟もなくソーダを頼むなっていうんだ」。
更生したロッキーは被害者意識を持っているが、仕出かした悪事の実績は消えない。
その代償としての中傷には耐えていかねばならないし、悪事の誘いは断固として拒絶しなければならない。
それを支える母親と妻のノーマの献身ぶりが胸を打つ。
母親はいつまでも子供のことが心配だし、妻は強くなり必死で夫を励まし続ける。
弱くなりかけたノーマに母親が「私と同じ過ちを犯さないで」と励ますシーンにも胸打たれる。
チャンピオンになったロッキーがパレードで喝さいを受けながら妻のノーマに言う。
「今のうちに喜べ。いずれ負けるんだから。右のパンチもそのうち弱くなる。でも王者になった事実は誰にも奪えない。おれはツイてた。神様に好かれてる」。
仕出かした悪事の事実も消えないが、王者になった事実も消えないということとの対比が見て取れる。
アメリカは寛容の国で、反省した人への再評価を当然としている国なのだと感じさせる。

不良仲間の一員としてスティーブ・マックィーンが一瞬登場しているが、彼にとってこれが映画デビュー作というのも何かの縁か。
アクターズ・スタジオ時代からライバルであり、友人だったジェームズ・ディーンが亡くなって、転がり込んだ役を演じることになったポール・ニューマンの実質デビュー作でもあり、ノーマを演じたピア・アンジェリはジェームズ・ディーンの元恋人だったという因縁映画でもある。
不思議な縁を感じる作品だ。

岸和田少年愚連隊

2019-04-08 06:38:23 | 映画
「岸和田少年愚連隊」 1996年 日本


監督 井筒和幸
出演 矢部浩之 岡村隆史 大河内奈々子 宮迫博之
   木下ほうか 八木小織 山城新伍 小林稔侍
   宮川大輔 原西孝幸 山本太郎 白竜 正司花江
   秋野暢子

ストーリー
1975年、大阪・岸和田、リョーコは恋人のチュンバを鑑別所まで送るためにバスに揺られながら、昨年の夏からのことを想い出していた。
中学生の悪ガキコンビ・チュンバと小鉄は、仲間のガイラやアキラとつるんでは喧嘩を繰り返す毎日を送っていたが、ある日、岸和田西中の安藤たちと大乱闘を繰り広げたチュンバたちは、安藤に加勢した高丘中の宿敵・サダから付け狙われるようになる。
サダは、数の力にものを言わせてチュンバたちを痛めつけたが、翌日、チュンバはサダを待ち伏せると、カバンに仕込んだ鉄板でキッチリと借りを返すが、サダはまたしても数で圧倒し、チュンバと小鉄、ガイラと間違われた双子のサンダ、鑑別所から戻ったばかりのサイの4人にヤキを入れる。
チュンバたちはお礼参りにサダの学校に乗り込んで、今度こそ徹底的にサダをぶちのめした。
この一件でチュンバは家庭裁判所の世話になったが、おかんの泣きの芝居で鑑別所送りだけは免れた。
リョーコは飽きることなく喧嘩を繰り返すチュンバに呆れていたが、それでも内心では心配せずにいられないでいたのだが、そんな彼らもなんとか卒業を迎え、チュンバと小鉄は工業高校へ進学し、リョーコはスーパーに就職、ガイラとサイはヤクザの仲間入りをする。
入学初日に喧嘩を売ってきたゴリを叩きのめしたチュンバは、ある日、小鉄とつまらないことから仲たがいをしてしまい、小鉄が岸和田の町から姿を消した。
人生に思い悩んだチュンバは偶然再会した小鉄とともに住み込みでレストランで働くことにした。
しかし、弟の仇を取るために現れたゴリの兄・ダイナマイトの薫に喧嘩魂を再燃させられたチュンバと小鉄は、薫を見事返り討ちにするのだった。
こうして、チュンバはついに鑑別所送りとなったのである。


寸評
岸和田と言えば「だんじり祭り」が思い起こされ、一年の全てをそれに賭ける熱い人たちの町という印象があり、登場する人物たちは本当に居そうな気がしてくる。
秋野陽子が演じるチュンバの母親は、息子のケンカを励ましたり、うそ泣きの芝居で鑑別所送りをまぬがれさせたりする頼もしいお母ちゃんなのだが、時にシリアスな面を見せて存在に疑いを持たなくなってくるから不思議だ。
全編アドリブかと思わせるようなボケとツッコミの会話が繰り返されて包括絶倒のコミカル映画なのだが、安上がりなギャグ映画ではない若者のエネルギーを感じさせる青春映画に昇華している。
チュンバと小鉄は暇さえあれば喧嘩ばかりしている不良なのだが、家庭が恵まれているとは思えない彼等にとっての喧嘩は持て余したエネルギーのはけ口である。
この喧嘩に吉本興業の若手芸人が絡んで、そのやり取りがたまらなく可笑しい。
主演のチュンバの矢部と小鉄の岡村を初め、サダの木下ほうか 、サイの宮迫博之 、安藤のブラックマヨネーズ吉田敬、ゴリを演じるのはお笑いコンビFUJIWARAの原西孝幸、 アキラの宮川大輔たちが所狭しと暴れまくって楽しませてくれる。
それに前述の秋野陽子やお好み焼き屋のオバチャン正司花江が滅茶苦茶面白いツッコミを入れてくる。
小林稔侍のヤクザ(当たり屋?)のかおるちゃんなど、よくわからない人も出てきたりするが、とにかく明るい連中が次から次へと登場して楽しませてくれる。

そん中で一番光っているのがチュンバに扮した矢部浩之である。
滑稽でありながら時折見せるナイーブな表情が何とも言えない。
母親にかける言葉に強がりの中からでる母を慕う気持ちを感じさせた。
普段はオバハンと呼ぶ母親に、「オカン、白髪染なかっこ悪いで」と言ったり、一人暮らしを始めた母親を訪ねた際のやりとりなどはしんみりさせるものがあって、作品中のアクセントになっている。
一方の岡村隆史の小鉄は、僕の中学時代にもいた不良の一人を髣髴させて懐かしさを感じさせる。
身体が小さく喧嘩もそんなに強くはないが、不良番長の影でやけに粋がっていた。
一人、警察に出頭しようとする小鉄の行動は青春の挫折の一つの形だったのかもしれない。
映画のラストで冒頭シーンに戻り、結局チュンは鑑別所送りになるのだが、彼はそんな時になってもリョーコに「お前も来るか」と強がりを言うことしか出来ない。
リョーコはそんなチュンバを気遣っているが、同時にこんなバカとはもうこれ以上付き合っていられないとの思いもあって、チュンバの母親が言った「バカな男と付き合っていると苦労するだけや。早いこと別れたほうがええ」が思い起こされる。
それでもリョーコはチュンバを待っているかもしれない。
そんな余韻を感じさせる最後はなかなか味わいがあった。
喧嘩しか描いていない作品なのに、なぜか共感する物を感じさせるのは、誰しもにあった青春時代の一端を思い出させてくれたためだろうか。
元気の出る映画である。
だんじり祭りはリョーコのナレーションの中でしか登場しないが、「岸和田少年愚連隊」というタイトルは、大阪人の僕には馴染みが持てるし、内容を的確に表しているからタイトルは原作者の中場利一氏のヒットだ。

岸辺の旅

2019-04-07 09:52:28 | 映画
「岸辺の旅」 2015年 日本


監督 黒沢清
出演 深津絵里 浅野忠信 小松政夫
   村岡希美 奥貫薫  赤堀雅秋
   蒼井優  首藤康之 柄本明

ストーリー
3年前に夫である優介(浅野忠信)が失踪してのち、喪失感を抱えていた瑞希(深津絵里)はピアノ教師をわずかに続けることで世間との接触を保っていた。
そんな彼女の前に、ある日突然に優介が現われる。
口調も態度も往時と変わらない彼に、富山の海ですでに死んだ身だと説明され混乱する瑞希だが、自分が旅してきた美しい思い出の地を瑞希にも見せたいと持ち掛けられ、そのことばに従うことにした。
電車に乗って辿り着いた街で、ふたりは新聞配達業に携わる老人、島影(小松政夫)の店を訪ねる。
家事の助け手として瑞希の存在にも馴染み始めた島影だったが、ある日消え失せてしまう。
島影もまた死者であり、優介のことばで迷いを振り切ってあの世に旅立ったのだ。
さらにふたりは夫婦の経営する食堂の扉をくぐる。
店の手伝いをする毎日のなか、瑞希は2階に残されたピアノを見つけ、それをめぐる妻フジエ(村岡希美)と死別した妹との思い出を聞かされる。
ある日、優介に宛てた一通の手紙をめぐってふたりは口論になり、瑞希は優介と接触をもっていた女、朋子(蒼井優)にひとりで逢いにゆくことを決めたが、朋子の毅然とした態度を通じて自己嫌悪に打ちのめされ、消えてしまった優介の名を後悔をもって呼ぶ。
山奥の農村へ向かい、そこの人々に向けて夫が私塾を開いていたことを知った瑞希は、働き手であったタカシ(赤堀雅秋)を失った妻(奥貫薫)とその父(柄本明)、息子に出会う。
ふたりは己を振り返るとともに、この旅のすえに別れねばならないことを思い知らされた。


寸評
死者が愛する人を守るためにあの世から現世にやってくるという話は時々作られているが、この作品は趣を変えて別れを確認する物語だ。
この作品でいう岸辺とは、三途の川のあちら側、すなわち彼岸のことをいっているのだが、同時にこちら側である此岸(しがん)も意味していたと思う。
彼岸にいる優介と此岸にいる瑞希が共に旅するが、そのおかしな状況を変だと思わせない。
あの世と、この世をつないでいるものは何なのかを考えさせる。
本作では死者がこちらの世界に現れるのだが、しかしそれはたぶん幻影なのだろう。
優介と旅した瑞希は、自分が知らなかった優介の一面を知ることになる。
長年連れ添った夫婦でも、相手の本当の気持ちや知らなかったことってあるものだと再認識させられた。

瑞希にも時々死者の姿が見えるが、それは死者の魂がこの世をさまよっているようでもある。
しかしそれは、生存している人に死者への思いが残っているために生じているもののようにも感じ取れる。
新聞配達所の島影さんは責任感の強い人で、あちらの人になっているが今も新聞配達をしている。
折り込み広告などの花の写真を切り抜いては部屋に飾るのが趣味の人だ。
見えていた島影さんが見えなくなると、新聞配達所は廃墟となっている。
趣味の花の切り抜きが崩れ落ちる場面は幽玄の世界を思わせたが、しかし怪奇的なものを感じなかったのは、僕たちが優介、瑞希、島影さんが生と死が交差する中に身を置いていたことを感じ取っていたからだと思う。
食堂の奥さんは生前の妹に対してとった態度を悔いているのだが、ピアノを弾く妹の幻影を見て救われた気持ちになったのではないか。
農家の主人の息子は亡くなっているが、その嫁はふっきれないものを持っている。
しかし、さまよっているのは優介があちらの世界で出会った夫の方で、未だに荒れた姿でいるのだが、妻と別れたくなかった想いを告げて姿を消す。
死者への思い、死で分かたれた後でも残る未練が切々と伝わってくる。
優介、瑞希の旅の中で異彩を放つのが生存している松崎朋子の存在だ。
朋子は生前歯科医だった優介の浮気相手だが、今は子供を宿していて平凡な家庭生活に入ろうとしている。
彼女は生きていても、つまらない生活が続く死んだも同然の生活が続くのだと言う。
蒼井優は怪しい女優で、登場はわずかの時間だが、あの薄笑いは印象的だった。
あの世とこの世は一続きである。
生者も死者もともに存在していることを感じさせる。
そしてそれは宇宙につながり、生命の誕生につながり、この世に存在するすべてのものが元をただせば同じなのだと優介に語らせる。
瑞希は優介との別れを恐れているが、やがてその日がやってくる。
しかしそれは映画としては当然ながら悲劇的なものを感じさせない。
ふっきれた瑞希が明るくというラストではないが、それでも瑞希は夫の死を受け入れて、新たな人生を歩みだすに違いないと感じさせる。
生と死を考えさせるに十分な音楽もよかった。
あとからじんわりとしみ込んでくる映画だ。

キサラギ

2019-04-06 11:30:03 | 映画
「キサラギ」 2007年 日本


監督 佐藤祐市
出演 小栗旬 ユースケ・サンタマリア
   小出恵介 塚地武雅 香川照之
   末永優衣 米本来輝 平野勝美
   酒井香奈子 宍戸錠

ストーリー
あるビルの一室に、五人の男達がいた。
家元(小栗旬)、オダ・ユージ(ユースケ・サンタマリア)、スネーク(小出恵介)、安男(塚地武雅)、イチゴ娘(香川照之)である。
五人は、一年前に焼身自殺したマイナーなグラビアアイドル、如月ミキのファンサイトの常連であり、一周忌を機に、家元の呼びかけで、顔を合わせることにしたのだ。
アイドルオタクの五人は、無名の如月ミキに、早くから目をかけていた。
だが、如月ミキは、一年前にマネージャーの留守番電話に遺言めいた言葉を残し、自宅マンションに火をつけて焼身自殺を図ったのである。
初めて直に顔を合わせた彼らは、ミキの思い出に浸り、自慢話で盛り上がる。
初めのうちは、なごやかに如月ミキの思い出話に花を咲かせる五人だったが、しかし話せば話すほど、明るかったミキの自殺という事実に釈然としない気持ちが湧いてくる。
誰もが、如月ミキは決して自殺のような真似をする子ではない、と思っているのだ。
遂にオダ・ユージが、如月ミキは誰かに殺されたのではないか、と口火を切る。
それをきっかけに男達は、真相を知るべく推理を重ねていく。
次々と、如月ミキに関する事実が明かされ、その死の謎に迫り始めると、物語は急速にミステリーの様相を呈してくる。
そして、最後に五人は、ある一つの真実に辿り着く。


寸評
脚本が良く出来ているなあというのが第一印象で、上質の舞台劇を見ているようだった。
舞台はビルの屋上にある物置小屋のような一室のみと言ってもよく、その中で留まる事のない会話に問題提起、次々と明らかになっていくそれぞれの素性と如月ミキとの関係がテンポよく進み全く飽きさせない。
まるで密室劇を見ているようで、時折挿入される一室以外のシーンはストップモーションだったり、分解写真のようなコマ落ち映像だったりしているのでその錯覚は尚更強調される。
それらの演出は意図されたものであることは、最後の如月ミキのシーンで確信した。
エンドロールでいかにもB級アイドルっぽくてハマっているヘタな歌を披露させるのは、予想は付いたがやはり楽しい仕掛けだ。

場面はほぼ追悼会場の狭い一室のみで、派手な仕掛けは何もない。
密室劇は会話が勝負になってくるのは当然なのだが、これがとても良くできている。
彼らが交わす会話が起伏に富んでいて、事件の真相が二転三転していく。
そして秀逸なのが5人のキャラクター。
ファンサイトを運営している家元、いかにも堅物のオダ・ユージ、逆に軽薄なスネーク、典型的なオタクキャラの安男、変態オヤジ風のいちご娘など、ハンドルネームで呼び合う彼らがみんな個性的で魅力タップリなのだ。
売れないアイドルの熱烈なファンという設定だけあって、5人のやりとりはオタク魂が炸裂して愉快だ。

全体のタッチはコメディ仕立てで、三谷幸喜あたりも好きそうなシーンが満載で、オダ・ユージのユースケ・サンタマリアに「事件は現場で起きているんだぞ!」なんてセリフを言わせたりしているのはその典型。
少しホロリとさせられるシーンも用意されているのは構成として当然だろうが、答えを教えてもらう前にきっとこの人はこうに違いないと、自ら答を発見したような感激を観客に味わせる演出も上手いと思った。
スネークだけはちょっと予想できなかったけれど、ほかの4人は関係が明らかになる前に推測できた。

ミステリー映画風に登場する小栗旬のシーンから、ポップなタイトルが表示される時点で、この映画の雰囲気に飲み込まれていくし、エンドロールのやけっぱち気味のダンスが最後まで笑わせてくれた。
密室に変化をもたらす光の取り入れ方もいいし、カメラアングルも決まっていた。
その光線と構図が舞台劇を思わせるのに一役も二役も買っていたが、第一は5人がガップリ組み合った演技であったことは言うまでもない。
最後に宍戸錠を登場させて、まだまだ続くぞこの話は、と思わせるのも追加のサービスだった。

テレビドラマの延長のような配役陣であまり期待もしていなかったが、出演者の頑張りもあってなかなかどうして上質の仕上がりになっていたと思う。
小栗旬てこんなに上手かったんだ。
ワンシチュエーションのドラマは実力がないとこなせないものだと思う。
イチゴ娘の香川照之は、イチゴ娘というだけで面白いと思うが、この人は何をやっても上手いなあと思う。
イチゴ娘ですと名乗って、ちょっと小首を傾ける仕草には思わず笑ってしまった。

飢餓海峡

2019-04-05 10:32:54 | 映画
「飢餓海峡」 1965年 日本


監督 内田吐夢 
出演 三國連太郎 左幸子 伴淳三郎 風見章子
   加藤嘉 進藤幸 加藤忠 岡野耕作
   三井弘次 沢村貞子 藤田進 高倉健

ストーリー
昭和22年9月20日10号台風の中、北海道岩内で質店一家三人が惨殺され、犯人は放火して姿を消した。
その直後嵐となった海で、青函連絡船の惨事が起き、船客530名の命が奪われた。
死体収容にあたった函館警察の刑事弓坂は、引取り手のない二つの死体に疑惑を感じた。
船客名簿にもないこの二死体は、どこか別の場所から流れて来たものと思えた。
そして岩内警察からの事件の報告は、弓坂に確信をもたせた。
事件の三日前朝日温泉に出かけた質屋の主人は、この日網走を出所した強盗犯沼田八郎と木島忠吉それに札幌の犬飼多吉と名のる大男と同宿していた。
質屋の主人が、自宅に78万円の金を保管していたことも判明した。
弓坂は、犬飼多吉の住所を歩いたが該当者は見あたらず、沼田、木島の複製写真が出来るまで死体の照合は出来なかったが、弓坂は漁師から面白い話を聞いた。
消防団と名のる大男が、連絡船の死体をひきあげるため、船を借りていったというのだ。
弓坂は、直ちに犬飼が渡ったと見られる青森県下北半島に行き、そこで船を焼いた痕跡を発見した。
その頃、杉戸八重は貧しい家庭を支えるために芸者になっていたが、一夜を共にした犬飼は、八重に3万4千円の金を手渡し去った。
八重はその恩人への感謝に、自分の切ってやった爪を肌身につけて持っていた。
そんな時、八重の前に犬飼の件で弓坂が現われたが、八重は犬飼をかばって何も話さなかった。
八重は借金を返済すると東京へ発った。
一方写真鑑定の結果死体は沼田、木島であり二人は、事件後逃亡中、金の奪い合いから犬飼に殺害されたと推定され、その犬飼を知っているのは八重だけだった。


寸評
「飢餓海峡」がとりわけ素晴らしいのは、刑事もののサスペンスでありながら、貧困ゆえに運命に翻ろうされる人々の罪と罰を描く骨太の社会劇となっていることに加えて、純愛物語としての側面もある多角的な切り口を見事に紡いでいる点にある。
強盗、放火による大火、青函連絡船の転覆事故による救出作業を利用した逃亡という導入部は、フィルムの反転処理をはさみテンポの良いダイナミックなもので、次第に抜き差しならない因縁の発端となる出来事と人間関係を簡潔かつ的確に描いていて見事だ。
刑事の弓坂は犬飼の聞き込みに八重を訪ねるが、犬飼に恩義を感じていた彼女は嘘をついて犬飼をかばう。
「私、嘘つく必要ありませんからね」ととぼけ、「刑事に本当のことを言えるか」と吐き捨てる左幸子の演技は忘れがたい。
犬飼はここで行方をくらまし登場しなくなり、八重の犬飼によせる感謝の気持ちの描写と生活ぶりが続く。
夜の飲み屋街の乱闘に警察官が駆け付ける中で、現場から逃げ去る八重の姿を長回しで俯瞰撮影したシーンは、大掛かりなセットで人々の行き交う盛り場の様子を映しながら八重のおびえを無言のうちに描き出している。
八重が大湊の宿で切ってあげた犬飼の爪を取り出して自分の顔や首に這わせて犬飼の愛撫を思い出すという官能的なシーンは、八重を演じる左幸子の妖しいばかりの演技に魅入らされる。
八重は犬飼の爪を自分の守り神のように扱い、いつか犬飼に恩返しをしたいと思っている。
その甲斐甲斐しさを左幸子が熱演している。

八重は樽見京一郎と名前を変えた犬飼と再会し殺されてしまう。
何度も使われるフィルムの反転が二つの殺人を効果的に描く。
樽見は篤志家の顔を持ちながらも、貧困から富を築き社会的地位を確立した男の猜疑心とエゴイスティックな自己防衛本能を見せるが、犬飼と同一人物と暴かれる場面は少しあっけなく、ここがドラマチックであれば僕は超一級作品の烙印を押しただろう。
宿帳には犬飼多吉他2名の記述だったはずで二人の名前があったわけではないし、DNA判定のなかった時代にあの爪が犬飼のものとどうして断定できるのかと疑問をもつ。
樽見の自供を描くのが少し早すぎたように思う。

ちょっとした係わり合いから殺人と放火の主犯になってしまい、同情を寄せた女からは必要以上の感謝をされて殺人を犯すことになり、無関係の人間も巻き込んでしまうという運命の悲劇が切ない。
人間社会における係わり合いにおける不幸な出来事と言えるが、元はと言えば貧困から脱出したいと言う人間の欲望から発したことだ。
犬飼にも八重にも同情してしまうが、貧困だからと言って犯罪を容認するわけにはいかない。
その役目を同じように貧困生活を味わう伴順三郎の弓坂刑事にあてがっている。
最後の悲劇が起きた津軽海峡の大海原は、人間の悪行をすべて飲み込むようにずっしりと重い。
船のはるか向こうには八重の眠る故郷の下北半島があったのだ。
三国連太郎、左幸子、伴順三郎、名優ここにありで、内田吐夢渾身の一作である。

祇園の姉妹

2019-04-04 08:14:43 | 映画
「祇園の姉妹」 1936年 日本


監督 溝口健二
出演 山田五十鈴 梅村蓉子 久野和子
   大倉文男  深見泰三 いわま桜子
   林家染之助 葵令子  滝沢静子
   橘光造   三桝源女 

ストーリー
京都の祇園乙部の若い芸妓「おもちゃ」(山田五十鈴)は、 男に尽くしぬく昔気質の同じく芸妓の姉・梅吉(梅村蓉子)とは正反対で、 自分らを慰み物にする男たちから出来るだけ搾り取ってやろうという考えである。
梅吉を世話していた古沢(志賀迺家辨慶)が破産して 「おもちゃ」たちの家に転がり込んでくると、「おもちゃ」は姉の意に背いて古沢を追い出す。
そして、何人もの男たちに甘言を弄して自分と梅吉の旦那になってもらい、金品を得ようとする。
しかし、結局は男からの報復を受ける。
だが、「おもちゃ」は男には負けぬと悲憤の叫びを発するのであった。

寸評
1936年の製作とは思えないようなテンポの良さで男に翻弄される女たちの生き方を描いている。
ファーストカットからして流れるような語り口に引き込まれてしまう。
語り口に負けないのが流麗なカメラワークである。
オープニングはタイトルバックの軽快な音楽には似合わないもので、事業に失敗した木綿問屋の古沢の家財道具が競売にかけられている殺伐とした光景だ。
カメラは滑らかに横へと移動して日本家屋の中を隅々まで見渡すかのように長廻しによって捉えられる。
奥まった部屋で主人の古沢が番頭(林家染之助)にのれん分け出来なかったことを詫び、嫁入り道具を売り飛ばされて実家へ帰る妻と言い争いをして家を出ていってしまう。
面倒を見ていた梅吉の家に転がり込むのだが、道楽者ともいえるこの古沢の滑稽さに違和感がない。
一気に見せるこの導入部は秀逸だ。
カメラは京都の町家が並ぶ細い路地を、これまた古沢の姿を捉えながら流れるように切り取っていく。
八坂の塔が見える通りは時代を感じるものの今の風景と大して違いはない。
京都の裏通りを縦の構図に捉え、花売りの声が聞こえたり、着物姿の通行人とすれ違ったりする薄暗い路地に日差しがスポット的に当たり、カメラが建物の影の中を通り抜けて移動していくのは何とも言えず、古き良き日本映画を感じさせる。

芸妓でありながら人間らしく生きることは不可能なことなのか。
姉妹は二人揃って男からひどい目に合わされるわけだが、姉の梅吉は男を恨もうとはしない。
一文無しになった古沢を世話になった義理から見捨てることが出来ない。
梅吉は本当に古沢を好いていたのかもしれない。
骨董屋聚楽堂の主人(大倉文男)の世話になろうとしているが、古沢の居所を聞いて思わず妹と同居していた家を飛び出しそちらに走ってしまう。
結局、古沢に捨てられてしまうのだが、それでも梅吉は古沢を気に掛ける女である。
反対に妹のおもちゃは若さも手伝ってドライに生きる女で、嘘方便を使って男をたぶらかしチャッカリ生きて今の貧困生活からの脱却を願っている。
妹のおもちゃは、姉の梅吉をふがいないと思っている。
姉は世間体を気にするが、妹の方は、世間がいったい何してくれたというのだと開き直っているのである。
妹のおもちゃは男に呼び出され、日本髪のカツラをつけて出かける準備をするが、この時の山田五十鈴は日本の女の色気を集約したような色っぽさを見せる。
聞けばこの時、かの大女優山田五十鈴はまだ10代だったそうである。
大女優の片りん既にありで、彼女の見事なタンカが心地よく、男を手玉に取っていくのを許してしまえるのだ。
それに比べれば芸妓の世話をしようとする男たちも、芸妓に入れ込む男達もみな情けない。
おもちゃは悔し涙を流すが、きっとそんな男たちを見返すことになるのだろう。
男どもを見下してやるという心意気が、山田五十鈴の表情からは伝わってくる。
男に虐げられている女たちであるが、どっこい女はしたたかで強いのだと思わせる。
何処がフィルムの喪失ヶ所なのかもわからないし、今見ても十分すぎるくらい堪能できる作品だ。

黄色いリボン

2019-04-03 11:36:17 | 映画
4月に入りました。
新元号も「令和」と決まりました。
今日から「き」で始まる映画の中でこれはと思う作品を紹介していきます。


「黄色いリボン」 1949年 アメリカ


監督 ジョン・フォード
出演 ジョン・ウェイン ジョーン・ドルー
   ジョン・エイガー ベン・ジョンソン
   ハリー・ケリー・Jr ヴィクター・マクラグレン
   ミルドレッド・ナトウィック ジョージ・オブライエン
   アーサー・シールズ マイケル・デューガン
   
ストーリー
1876年。西部の白人達は、一斉蜂起したインディアン種族のために苦境に立たせられた。
スタアク砦のブリトルス大尉(ジョン・ウェイン)は老齢のためあと6日で退役の身であったが、最後の奉公としてシャイアン族の掃蕩作戦を指揮することになった。
亡き妻と息子の墓に別れを告げた大尉は、砦の隊長であるオールシャード少佐(ジョージ・オブライエン)の夫人(ミルドレッド・ナトウィック)とその姪オリヴィア(ジョーン・ドルー)が東部へ帰るのを護衛しつつ、タイリイ軍曹(ベン・ジョンソン)を先導として軍を進めた。
しかし、騎兵隊の一行が到着してみると、二人の婦人が出発すべき駅馬車の宿駅はすでに焼き払われており、やむなく隊は砦に馬を返すことにした。
オリヴィアをめぐって、若いコーヒル中尉(ジョン・エイガー)とペネル少尉(ハリー・ケリー・Jr)の間には恋のさや当てが始まっていたが、1千に余るインディアンに追尾されていることが分かると、隊は個人の愛憎を捨てた。
渡河点にコーヒル中尉を残して砦に引き揚げた本隊は、早速ペネル少尉を長として河に引き返した。
隊員から餞別の時計を贈られた大尉は、従卒クィンカノン(ヴィクター・マクラグレン)を振切ってひとりカリフォルニアに旅立ったが、贈られた時計が任期の期限までまだ4時間ほど残されていることを告げる。
渡河点の隊員が気になって馬を返すと果して部下達は苦戦に陥っていた。
大尉の作戦で隊はインディアン集落に夜討をかけ、馬を全部追払って敵を抗戦不能におとしいれてから、大尉は西へ去ったが、あとを追って来たタイリイ軍曹が携えてきたのは、彼を左官待遇でインディアン偵察官に任ずるという辞令だった。


寸評
始まってすぐに先住民に襲われた騎兵隊の馬車が疾走してくる。
馬車の疾走は西部劇における見せ場の一つで、開始早々に西部劇の雰囲気に浸らせてくれるのだが、全体の雰囲気は極めて旅情的だ。
モニュメントバレーを背景にして開拓時代の美しい風景画を描こうとしているような気がする作品である。
映画は騎兵隊を舞台にしているがホームドラマと言ってもいいような作りである。
優しそうな夫であるオールシャード少佐に、しっかり者の奥さんがいて、預かっている姪は美人だが気の強い女性で、この女性を奪い合う若い男性がいる。
主人公であるブリトルス大尉は少佐の部下ではあるが、この一家とは家族同様の付き合いで遠慮がない。
妻を亡くし独り者のブリトルス大尉には歳を取ったタイリイ軍曹が執事のように寄り添っているというそれぞれの人間関係は典型的なホームドラマと大して変わりはない。

そして付け加えられているのが老人賛歌で、歳を取った人々の言葉や行動が点描されていく。
まず冒頭でカスター将軍率いる第七騎兵隊が全滅したことが伝えられ、顔見知りだった者が死亡したことを知ったブリトルス大尉が妻の墓参りをすることで、彼が一人ぼっちになってしまうことを描いている。
ブリトルス大尉は、渡河作戦で守備に廻る隊の選抜をさせた時にその任務の危険が大きいことを気に掛けて、”第二分隊は家族持ちが多いぞ”と言って編成の組み換えを命じている。
駅馬車が出発する場所への到着が遅れて焼き払われてしまったこと、またその為に夫人と姪を東部へ帰すことが出来なかったことを悔いて少佐に報告するブリトルス大尉を女性二人は慰めるのだが、ブリトルス大尉は”老兵と言うものは往生際が悪いものですな”と自嘲気味に話す。
退役の日、ブリトルス大尉は時計を贈られるのだが、裏に刻まれた文字を読むために眼鏡を取り出す。
ブリトルス大尉はインディアンとの和平交渉に向かうが、交渉相手の先住民も老人である。
そしてその老人はブリトルス大尉を長年の付き合いをした友人として迎え、若い者への発言力が無くなったと言うのだが、大尉は自分たちは歳を取ったが戦いをやめさせる事はできると力説する。
退役を2週間後に控えているタイリイ軍曹が酒場で、老人のマスターと共に暴れまくり若い騎兵隊員を赤子の手をひねるようにしてやっつける。
そのように老人が活躍する場面が多いと感じる作品である。
先住民と騎兵隊の派手な銃撃戦は描かれることはなく、マッカーサーの言葉ではないが「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」ということを述べるために描かれ続けていると思える。

赤い夕陽を目指して去っていくブリトルス大尉がシルエットのように浮かぶシーンはエンディングにふさわしいと思ったのだが、ところがここで年寄りも見捨てたものではないと再召集の任命書が届き、彼を迎える大パーティが開かれる。
確かに年寄り大歓迎ということなのだが、一旦しんみりとした余韻に浸りかけていた気持ちは、大尉が妻の墓へお参りするだけでは戻らない。
僕には余分なエピソードのように感じられ、これがなければもっと良かったのにと思ってしまう。
でも騎兵隊を描いた正統作品としてはいい映画で、世代を超えて安心して見ることが出来る映画ではある。

がんばっていきまっしょい

2019-04-02 09:54:23 | 映画
「がんばっていきまっしょい」 1998年 日本


監督 磯村一路
出演 田中麗奈 清水真実 葵若菜 真野きりな
   久積絵夢 中嶋朋子 松尾政寿 本田大輔
   森山良子 白竜 松尾れい子 桜むつ子
   大杉漣 有薗芳記 神戸浩 徳井優
   ベンガル 小日向文世

ストーリー
1976年、春。東校に入学した篠村悦子こと悦ネエは、以前から憧れていたボート部に入部を希望するが、東校には女子ボート部がなかった。
そこで強情な性格の彼女は、ないのなら作ればいいと先生に直訴し、自ら女子ボート部を創設してしまう。
ナックル・フォアという5人競技が女子の主流であると聞いた悦ネエは、新人戦のある10月までという条件でヒメ、リー、ダッコ、イモッチの4人のメンバーを集める。
悦ネエの幼い頃からの天敵で男子ボート部の関野ことブーにバカにされながら、練習を開始するのであった。
現役を引退した3年生の安田がコーチについてくれたお陰で、彼女たちのオールさばきも漸く様になっていく。
夏合宿を経て、いよいよ新人戦。
だが、東校女子ボート部の実力は勝利にはほど遠かった。
約束の期間を終えた悦ネエは、ボート部に付き合ってくれたヒメたちに感謝の言葉を述べる。
ところが、試合の敗北に苦渋を味わったヒメたちの気持ちは固まっていた…。
シーズンも終わり陸トレに励む悦ネエたちに、顧問教官がコーチ・入江晶子を紹介した。
元日本選手権メンバーであった晶子は、しかしその輝かしい経歴とは裏腹に全くやる気がない。
ある日、貧血で倒れた悦ネエを心配したブーが、途中まで自転車に乗せて送ってくれた。
ブーの意外な優しさに心揺れる悦ネエだが、借りた手袋を返そうと思った彼女は、ブーが新体操部の桃子と一緒にいるところを目撃して憤慨する。
春休み、再びボートのシーズンがやってきて新入部員もひとりだけであったが入部し、今や東校女子ボート部は自分たちだけでボートを海に出せるくらい逞しく成長していた。
ところが好調に見えたのも束の間、悦ネエが腰を痛めて医者から安静を言い渡されてしまう。
そんなある日、温泉療養に出かけた悦ネエは、そこで晶子に会う。


寸評
青春映画によくあるパターンを踏襲しているので目新しさはないし、もう少し脚本を練り上げればよかったのにと思う点もあちこち見受けられるが、それでも田中麗奈の個人的魅力もあって清々しい作品になっている。
オープニングは荒れ果てたボート部の元艇庫の描写で、そこには今はもう大人になってしまったであろう古めかしい女子高生の写真が残っている。
懐かしむように彼女たちの高校生時代が描かれていく導入部は何回も見たパターン。
最初にこのシーンがあるなら、最後はやはりこのシーンにつなげて欲しかったという思いは残る。
悦ネエこと篠村悦子は姉と違って家族の期待は集めていなさそうで、優秀校と思われる伊予東高校によく合格できたと姉に言われる。
実際入学してみると数学の問題が解けず、答案用紙に手も足も出ませんと雪だるまの絵を書く始末である。
このようなキャラは男子学生によく見られる設定だが、女子高生に設定しているところは新鮮だ。
舞台は伊予東高だから、愛媛県のはずれの街を舞台にしていると思われるが、背景に写る伊予の海や渡し舟の様子だけで絵になってしまうから、田舎が舞台の映画はそれだけでも作品を押しあげる。
花火やビーチボールで戯れる彼女たちはやはり初々しい。
惨敗から立ち上がっていくのも、これまたパターンではあるが、その間の努力の様子は少し省きすぎ。
したがって、勝利の時(と言ってもビリからの脱出だが)の盛り上がりに少々欠ける。
そう言えば、部員もアッサリ集まっていた。
途中から入江晶子というコーチが登場するが不思議とやる気なし。
その態度はオーバー演技すぎるくらいなのに、その心境が描かれていたとは言えない。
「いつもキャアキャア言って元気でうっとうしい」と発言しているけど、それだけでは説明不足だ。
後半でコーチがやる気を出す理由がイマイチ伝わらないのはその辺にあると思う。
たった一人入部してきた新人も、いつの間にか物語から消えてしまっているし・・・。
ことほど左様に突っ込みどころ満載の脚本なのだが、それを補っているのがやはり五人の女子校生たちだ。
特にこれがデビュー作の田中麗奈はいい。
つり上がった眉、切れ長の目、一文字に結んだ口元、ボーイッシュな体型など、彼女の存在そのものが映画になっている。
彼女は両親から期待されていないと思い込んでいるが、しかし親はどんな子でも気にかかるものだ。
女子高生を支える家族愛はほとんど描かれていないが、それを描いている唯一のシーンが悦子がレース結果を報告する場面だ。
レース結果を報告する悦子に対して父親は、貧血は大丈夫か、ギックリ腰は大丈夫かと気遣いながらもお客が来たからとつれない返事をする。
悦子はそれが不満だ。
電話を切った父親はアイロンあての手を休めふと娘を思いやる。
ちょっとしたシーンだが、僕は何気ないこんなシーンが好きだ。
結末はこれでいいと思ったが、もう少し余韻が欲しかったなあ。
それにしてもこの映画の田中麗奈ちゃんはいい。
その年齢でしかやれない役というものがあるが、彼女にとってこの悦ネエはまさしくそんな役だった。

カンバセーション…盗聴…

2019-04-01 09:15:00 | 映画
「カンバセーション…盗聴…」 1973年 アメリカ


監督 フランシス・フォード・コッポラ
出演 ジーン・ハックマン ジョン・カザール
   アレン・ガーフィールド ハリソン・フォード
   テリー・ガー ロバート・デュヴァル

ストーリー
どこといって特徴のない中年の男の眼が、広場を散歩している1組の若い男女に注がれている。
だが、仲むつまじいカップルを監視しているのはこの中年男だけでなく、近くのビルの窓と広告塔の上から望遠レンズを持った男たちが2人の姿を追い、大きな紙袋を下げた別の男も、2人のすぐ近くをウロウロしている。
男は、アメリカ西海岸ではその道一番の腕ききといわれるプロの盗聴屋ハリイ・コールだった。
彼は依頼主の注文を受け、例の若い男女の会話をテープに収めているのだ。
平凡な恋人同志の語らいに、助手のスタンは立腹したが、ハリイは黙々と仕事を続ける。
その日の仕事が済むと、ハリイは久しぶりで恋人アミーを訪ねた。
アミーはハリイから毎月の生活費を貰うほどの間柄でありながら、彼が何者か、どんな仕事をしてどこに住んでいるのかさえ知らなかった。
他人のプライバシーに入り込むことを商売としている彼は異常なまでに自分のプライバシーを明かさなかった。
この夜、彼女がいろいろな質問をするためにハリイは怒ってアパートを飛びだした。
翌日、男女の会話を収めたテープを依頼主に渡すために豪華なオフィスを訪ねたが、当の依頼主である専務は不在だったため、秘書のマーティンが引きとめるのをふりきって、そのオフィスをでた。
そのときの秘書の脅しのセリフが、好奇心を捨てたはずのハリイに疑惑を抱かせた。
古い工場を改造した仕事場に戻ったハリイはそのテープに耳を傾けた。
そして雑音しか聞こえなかった部分から“彼に殺されるかも知れない”といっている男の声をキャッチした。
若い恋人たちは殺人事件に捲き込まれようとしているのだろうか?


寸評
ハリイは盗聴に関してはその世界で有名な男であるが、超人的な活躍を見せる盗聴者ではなく、むしろ普通の男のように見えるが、人の会話を盗聴するという仕事内容によってもたらされる変人性をも同時に持った男だ。
盗聴と言うプライバシーを侵害することをやっておきながら、自分のプライバシーには異常なくらい過敏だ。
冒頭で管理人が合い鍵を持っていることにも反発する姿が描かれていて神経質な面を見せている。
さらにハリイは孤独であるが、その孤独感は自ら生み出しているような面もある。
彼とより親密な交際を求める恋人とも別れることになってしまうのも、自ら孤独の世界へと向かってしまうからだ。
仕事においても仲間に心を打ち明けないし、仕事内容すら打ち明けない。
相棒のスタンがそんなハリイと袂を別かとうとするくらいだ。
ハリイの人物設定がサスペンス性を高めていく。

彼は時々自分の行ったことでもたらされた悲劇の幻想に悩まされる。
依頼されたことを行っただけではあるが、プライバシーの究極である会話の録音を依頼者に渡したことによって引き起こされた殺人事件などである。
かれは淡々と仕事をこなし、依頼内容への興味を全く示さない。
そのように描かれるから観客である僕たちは、何のために盗聴しているのかを想像しなくてはならない。
大掛かりな盗聴を仕掛けてまで知りたいこととは何なのかとの疑問が湧いてくる。
単なる浮気調査ならもっと安価で手短な方法があるはずだ。
機器は自分で開発するとハリイが言っていたが、それにしても盗聴機器としてこれに近いものが存在しているとしたら、街中での会話など盗聴し放題で、少し怖いものを感じる。
ウォーターゲート事件などを見ると、盗聴って思ったよりも世の中で行われているのかもしれない。
ハリイも公的機関からの依頼を受けていたことが描かれているから、政府機関も盗聴を駆使しているのだろう。
実際CIAが各国首脳の携帯通話を盗聴していたことが報じられた。

ハリイが依頼事項に無関心なのは無理やり装っているようでもあり、本当は人間らしくその背後にあるものを想像し悩んでいたのかもしれない。
ハリイは盗聴に関してはプロ中のプロである。
その彼が盗聴されていると思った時の混乱状態がすさまじい。
どこかに盗聴器が仕掛けられているかもしれないと疑った時に、プロだけに自分が仕掛けそうな所が気になって仕方がなくなってくる。
ここぞと思うところを探しまくるが、そうすることで自分の住まいが崩壊していく。
プライバシーを侵害すると言うことは、結局このようにその人の生活を崩壊させることになるということなのだ。
ハリイは益々孤独に落ちていき、そんな自分が孤独から逃れることが出来るのは、一人サックスを吹き演奏の世界に浸る時間だけだったのだろう。
そんなハリイという人物をジーン・ハックマンが渋く演じている。
サックスを吹く彼の姿が哀愁を帯びていた。
下積み時代のハリソン・フォードが出ているのも今となっては話題の一つ。