デイサでの空き時間に『ラ・ロシュフコー箴言集』を読んでいたら、こんな文言が目についた。
「142 少ない口数で多くを理解させるのが大才の特質なら、小才は逆に多弁を弄して何ひとつ語らない天分をそなえている。」
この文章を読んだとき、私の脳裏に浮かんだのは、記者会見に臨むキシダくんの姿である。キシダ首相は菅前首相とは違い、流暢に、まるで立て板に水を流すように多弁を弄する。けれどもその弁舌は空疎で、記者の質問に何ひとつ答えていない。キシダくんが小才たる所以(ゆえん)である。
だが、そのキシダくんも最近、戦略を変えたのではないか。「多弁を弄する」戦略から、「少ない口数」の戦略へと方針を変えたのではないか。
そう思ったのは、「追求の矢、取り合わぬ首相 衆院予算委」とタイトルが振られた、朝日新聞の次の記事を読んだからである。以下、全文を引用すると長くなるので、(キシダくんの変貌を思わせる)該当部分だけを抜き書きすることにしよう。
「21日に始まった衆院予算委員会は、支持率低迷にあえぐ岸田文雄首相に対し、野党側が攻勢を仕掛ける展開となった。首相は、自民党の5派閥の政治資金パーティーを巡る問題でも追及を受けたが、取り合わない姿勢が際立った。(中略)
だが、首相らは具体論についてことごとく説明を避けた。(中略)
だが、首相は(中略)詳細は語らず、聴取の有無については「総理の立場から申し上げることは控える」などと、首相の肩書を理由に言及を避けた。(中略)首相は具体的な答えを避け、「現状の法律を駆使して実態把握を行う」と従来の答弁を重ねた。」
(朝日新聞11月22日)
以上のように要所を抜き書きをしてみるとよく分かるが、キシダくんはここでも何ひとつ答えようとしていない。これではまるで「少ない口数で、何ひとつ語らない」のと同じことである。これでは「小才」でも「中才」でもなく、ましてや「大才」でもなく、「愚才」としか言いようがないと思うのだが・・・。
「142 少ない口数で多くを理解させるのが大才の特質なら、小才は逆に多弁を弄して何ひとつ語らない天分をそなえている。」
この文章を読んだとき、私の脳裏に浮かんだのは、記者会見に臨むキシダくんの姿である。キシダ首相は菅前首相とは違い、流暢に、まるで立て板に水を流すように多弁を弄する。けれどもその弁舌は空疎で、記者の質問に何ひとつ答えていない。キシダくんが小才たる所以(ゆえん)である。
だが、そのキシダくんも最近、戦略を変えたのではないか。「多弁を弄する」戦略から、「少ない口数」の戦略へと方針を変えたのではないか。
そう思ったのは、「追求の矢、取り合わぬ首相 衆院予算委」とタイトルが振られた、朝日新聞の次の記事を読んだからである。以下、全文を引用すると長くなるので、(キシダくんの変貌を思わせる)該当部分だけを抜き書きすることにしよう。
「21日に始まった衆院予算委員会は、支持率低迷にあえぐ岸田文雄首相に対し、野党側が攻勢を仕掛ける展開となった。首相は、自民党の5派閥の政治資金パーティーを巡る問題でも追及を受けたが、取り合わない姿勢が際立った。(中略)
だが、首相らは具体論についてことごとく説明を避けた。(中略)
だが、首相は(中略)詳細は語らず、聴取の有無については「総理の立場から申し上げることは控える」などと、首相の肩書を理由に言及を避けた。(中略)首相は具体的な答えを避け、「現状の法律を駆使して実態把握を行う」と従来の答弁を重ねた。」
(朝日新聞11月22日)
以上のように要所を抜き書きをしてみるとよく分かるが、キシダくんはここでも何ひとつ答えようとしていない。これではまるで「少ない口数で、何ひとつ語らない」のと同じことである。これでは「小才」でも「中才」でもなく、ましてや「大才」でもなく、「愚才」としか言いようがないと思うのだが・・・。