やった!やっと見つけたぞ。これこそ金塊にまちがいない!
きのう出かけたデイサで、私はふふふ、とほくそ笑んだ。
このところデイサでは、個別リハビリまでの待ち時間に『ラ・ロシュフコー箴言集』(岩波文庫)を読んでいる。500もある箴言の中から、「金言」と呼べる名言を掘り当てるには、退屈を厭わないクソ真面目さと、少しばかりの運が必要だ。そしてきのう、わたしはやっと以下のような言説に出会ったのである。
「264 憐れみとは、多くの場合、他人の不幸の中にわれわれ自身の不幸を感じる気持である。それは、いつか自分が陥るかもしれない不幸に対する巧妙な備えである。我々は他人を援けるが、それは自分が同じような目にあった時に、彼らがわれわれを援けずにいられないようにするためである。だからわれわれが彼らに寄せる親切は、正確に言えば、われわれがあらかじめ自分自身にほどこす恩恵なのである。」
個人的なことを言えば、私はイエスが説く「隣人愛」思想が好きではない。「隣人を自分のように愛しなさい」なんて、嘘っぽ過ぎて虫唾が走る思いがする。
そのせいかどうか分からないが、私は(キリスト教を批判した)思想家のニーチェが大好きなのだ。
私が上のようなラ・ロシュフコーの言説に見出したのは、ニーチェの『ツアラトゥストラ』に見られるのと同じ独自の感性だった。
(アダム・スミスの『道徳感情論』にもーー「共感」に関してーーたしか同様の見解があったように思うが、昔愛読していた同書の岩波文庫版がどこを探しても見当たらず、正確な文言を確かめようがないので、これについては割愛する。)
ともあれ、ラ・ロシュフコーの言説は、一々尤もではないだろうか。
「憐れみとは、多くの場合、他人の不幸の中にわれわれ自身の不幸を感じる気持である。」
たとえば我々は、ガザ地区のパレスチナ人がイスラエル軍の砲撃を受け、途方に暮れている姿を見るとき、憐れみを感じる。彼らの「不幸」の中に(想像によって)自分自身を投げ入れ、自分が同じ目に遭ったときのことを考えて、「ああ嫌だ、くわばら、くわばら、ああはなりたくないものだ」と、身震いをする。そして、自分が同様の境遇に陥ったときには、せめて「親切な」他人が援けてくれますように、と、微かな期待を懐くのである。だから「それは、いつか自分が陥るかもしれない不幸に対する巧妙な備えである」。
我々はしばしば彼らに義援金を送ったりするが、それはーー隣人愛などからでは決してなくーー「自分が同じような目にあった時に、彼らがわれわれを援けずにいられないようにするため」の策略であり、だからそれは「正確に言えば、われわれがあらかじめ自分自身にほどこす恩恵なのである」。
ーーこう書いてくると、ラ・ロシュフコーはごく当たり前のことを言っているように私には思える。箴言や警句は普通、常識にとらわれた世の人々をあっと言わせるような奇抜な着想を含んでいるものだが、上記のラ・ロシュフコーの言説には、私はそういう奇抜さを感じなかった。
もしかすると、私は「非常識」な人間なのだろうか・・・。
きのう出かけたデイサで、私はふふふ、とほくそ笑んだ。
このところデイサでは、個別リハビリまでの待ち時間に『ラ・ロシュフコー箴言集』(岩波文庫)を読んでいる。500もある箴言の中から、「金言」と呼べる名言を掘り当てるには、退屈を厭わないクソ真面目さと、少しばかりの運が必要だ。そしてきのう、わたしはやっと以下のような言説に出会ったのである。
「264 憐れみとは、多くの場合、他人の不幸の中にわれわれ自身の不幸を感じる気持である。それは、いつか自分が陥るかもしれない不幸に対する巧妙な備えである。我々は他人を援けるが、それは自分が同じような目にあった時に、彼らがわれわれを援けずにいられないようにするためである。だからわれわれが彼らに寄せる親切は、正確に言えば、われわれがあらかじめ自分自身にほどこす恩恵なのである。」
個人的なことを言えば、私はイエスが説く「隣人愛」思想が好きではない。「隣人を自分のように愛しなさい」なんて、嘘っぽ過ぎて虫唾が走る思いがする。
そのせいかどうか分からないが、私は(キリスト教を批判した)思想家のニーチェが大好きなのだ。
私が上のようなラ・ロシュフコーの言説に見出したのは、ニーチェの『ツアラトゥストラ』に見られるのと同じ独自の感性だった。
(アダム・スミスの『道徳感情論』にもーー「共感」に関してーーたしか同様の見解があったように思うが、昔愛読していた同書の岩波文庫版がどこを探しても見当たらず、正確な文言を確かめようがないので、これについては割愛する。)
ともあれ、ラ・ロシュフコーの言説は、一々尤もではないだろうか。
「憐れみとは、多くの場合、他人の不幸の中にわれわれ自身の不幸を感じる気持である。」
たとえば我々は、ガザ地区のパレスチナ人がイスラエル軍の砲撃を受け、途方に暮れている姿を見るとき、憐れみを感じる。彼らの「不幸」の中に(想像によって)自分自身を投げ入れ、自分が同じ目に遭ったときのことを考えて、「ああ嫌だ、くわばら、くわばら、ああはなりたくないものだ」と、身震いをする。そして、自分が同様の境遇に陥ったときには、せめて「親切な」他人が援けてくれますように、と、微かな期待を懐くのである。だから「それは、いつか自分が陥るかもしれない不幸に対する巧妙な備えである」。
我々はしばしば彼らに義援金を送ったりするが、それはーー隣人愛などからでは決してなくーー「自分が同じような目にあった時に、彼らがわれわれを援けずにいられないようにするため」の策略であり、だからそれは「正確に言えば、われわれがあらかじめ自分自身にほどこす恩恵なのである」。
ーーこう書いてくると、ラ・ロシュフコーはごく当たり前のことを言っているように私には思える。箴言や警句は普通、常識にとらわれた世の人々をあっと言わせるような奇抜な着想を含んでいるものだが、上記のラ・ロシュフコーの言説には、私はそういう奇抜さを感じなかった。
もしかすると、私は「非常識」な人間なのだろうか・・・。
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