ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

オイルショックの轍は

2019-04-25 12:06:25 | 日記
前々回の本ブログで、私はアメリカによるイラン産原油の禁輸措置について書いた。これによってイランの原油が輸入できなくなったとしても、心配はご無用、ドンマイ、ドンマイ、と書いた。こんなことを書いたのは、この禁輸措置によって、日本中が慌てふためき、メディアも大騒ぎをはじめるだろうと思ったからである。「なに、大したことはありません。大丈夫ですよ」と言いたかったのである。

そういう予測とともに、私は主要新聞の社説に目を通したが、予想に反して、どの新聞もこの問題を取りあげなかった。肩透かしを食らったとは、このことである。日本の血液とも言える石油の供給が途絶えてしまうのだぜ。こんな大事なことを、どうしてスルーしてしまうのだ!そう言いたい気分だった。

私の脳裏にあったのは、第4次中東戦争(1973年)に端を発した、石油価格高騰に伴う経済的混乱、いわゆるオイルショック騒動である。あれは私が23歳の頃だった。物資不足への危機感から、全国各地でトイレットペーパーの買い占め騒ぎが起こり、テレビのニュースなどでも大きく報じられた。

今回のイラン原油禁輸措置によって、これと同じようなドタバタが繰り広げられるのではないか、と私は考えたのである。ーーだが、私のこの予想はみごとに裏切られた。一体なぜなのか。日本政府があたふたした動きを見せないのは解る。アメリカが仕掛けた今回の禁輸措置を、日本政府は(原発推進策をとる)自分の政権への絶好のアシストと捉えているからだろう。さらに、イラン産に替えて、アメリカ産のシェール原油を輸入することになれば、対米貿易黒字は縮小され、多少とも貿易摩擦は解消されることになる。日本政府にとっては、今回の禁輸措置はダメージをもたらすどころか、逆に、良いことずくめなのである。

不思議なのは、今回の禁輸措置について、ほとんどのメディアが黙(だんま)りをきめこんでいることである。テレビも新聞も、こうした日本政府の思わくを見通した上で平静に構えているのだろうか。私にはそうは思えない。

むやみに騒ぎすぎるのは良くない。かといって全く危機感を持たず、無批判にのほほんと構えるのも良くない。う〜む、中庸(ほどほど)が望まれる、ということだろうか。
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電動カートをお散歩カートに

2019-04-24 14:44:53 | 日記
私は今、一つの問題に頭を悩ませている。「頭を悩ませている」というより、むしろ「頭を楽しませている」と言ったほうが良いのかも知れない。それは、電動車イスのセッティングを、全部自前で済ませるにはどうしたら良いのか、という問題である。

電動車イスのセッティングを全部自分で行う、ーーこれは何でもないことのようだが、手足に障害をかかえる私には、その一つひとつがなかなかの難題なのである。今はどうしているかといえば、まず玄関先にある電動車イスの、その(雨やほこりをガードするための)カバーを取り外し、満充電にしたバッテリーを取り付けて、その車イスを、私が乗降しやすい位置まで移動する、ーーこれらの作業を全部、付き添いのOTさんにやってもらっている。

今は他人任せにしているこれらの作業を、全部自分で行えるようにならないと、私は気が向いたときに「ちょっと散歩に」といって出かけることができない。気が向いたとき、気軽に、自由に外出できるようになれば、私のQOLははるかに向上することだろう。

きょうはOTのMさんと一緒に玄関先に出て、ああでもない、こうでもないと知恵を出し合った。その結果、だいぶ先が見えてきたように思う。もうちょっとの工夫で、一件落着と行きそうな気がする。

こんな些細な、くだらないことで頭を悩ませるのは、私にとっては実に楽しい時間である。生きにくさをかかえる障害者だからこそ味わえる、特権的な時間だと言えるかも知れない。
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イラン産原油、禁輸措置についてのつぶやき

2019-04-23 16:08:22 | 日記
アメリカがイラン産原油の全面禁輸を通告した。これまで日本などに認められていた特例措置は廃止され、日本は今後、イランから原油を輸入することができなくなる。日本政府は一体どうするつもりなのか。

石油は日本にとって、生命の源泉のようなものである。背に腹はかえられない。だから日本は、アメリカの通告を無視して、イランから原油を輸入し続けるしかない。ーーたしかに、これも一つの選択肢ではある。

しかし、どうなのだろう。対米従属の姿勢を強め、今後もアメリカのポチに甘んじようとする日本の自民党政権にとっては、この選択肢は論外だろう。
ーーとすれば、ジ・エンド、万事休すなのか。

でも、案ずるには及ばない。商魂たくましい、あのトランプ米大統領のことである。彼は「シンゾーよ、我が国の石油を融通してやってもいいぜ」と言ってくるに違いない。こんな記事を読んだことがある。

《アメリカの石油輸出、来年に急増 輸送問題が解消、世界市場の勢力図一変》
「2019年以降、米国産シェール原油の輸出が急拡大する見通しになった。ネックになっていた米最大油田地帯での大量輸送問題が解消されたためだ。原油市場の勢力図は様変わりすることになり、支配的地位にあった石油輸出国機構(OPEC)加盟国にとっては悪夢のような時代となりそうだ。」
                ( SankeiBiz 2018.11.23 )

今回のイラン産原油に対する全面禁輸措置は、イランの封じ込めと同時に、アメリカ産シェール原油の、その輸出拡大の狙いも持っている。私はそう見た。

原油の全面禁輸となれば、日本のような資源小国にとってはダメージが大きく、いい迷惑だが、そうとばかりも言えないのが、「日米同盟」の絆の妙である。というのも、今回のアメリカの禁輸措置は、日本政府の原発推進政策を後押しする意味を持つことになるからである。
「ほらね。石油の輸入量は、国際政治の成り行きに左右されるのです。だからエネルギー源を石油に頼るのは、いろいろリスクがあるのです。安定供給を考えれば、やはり原発に越したことはありません。そうでしょう?」というわけである。

アメリカ政府にとっても、日本政府にとっても、イラン産原油の全面禁輸措置はむしろメリットが大きい。それが「アメリカの正義」の貫徹にも資するとあっては、一石二鳥、いや三鳥。よくできた話である。
あすになるのか、あさってになるのかは判らないが、この問題に関する全国各紙の社説を読むのが楽しみである。
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皇嗣・秋篠宮家の教育問題

2019-04-22 16:47:18 | 日記
近々皇嗣となる秋篠宮に対して、バッシングの嵐が強まっている。非難の矛先は、秋篠宮家の教育方針に向けられている。

「秋篠宮の長女・眞子姫は、結婚に絡んで問題を起こした。この問題を作り出したのは、姫の自由奔放な性格である。姫のこの(自由奔放な)性格を作り出したのは、秋篠宮家のリベラルな教育方針である。よって、秋篠宮が皇嗣となるのは問題である。リベラルな教育は、皇室にはふさわしくない」等々。

だが、親の意向や自分の家柄よりも、自分の恋愛感情のほうを大事にする価値観は、ーー若い女性にありがちなこうした価値観は、どこがどう問題なのだろうか。この価値観を便宜上「リベラルな価値観」と名づけるとすれば、一般家庭の婦女子が「リベラルな価値観」を持つことは、よくあることであって、何の問題にもならない。問題視されるとすれば、それは「時代の風潮がもたらした価値観」としてであり、その場合、非難の対象になるのは、「時代の風潮」そのものである。親の意向や自分の家柄よりも、自分の恋愛感情を大事にするリベラルな価値観は、個人主義的な時代の風潮がもたらしたものであるとして、この「個人主義的な風潮」に批判の矛先を向けることは、充分に可能だろう。

眞子姫の場合、彼女が「リベラルな価値観」を身に着けたことは、端的に言えば、非難の対象にはなり得ない。この価値観は時代の風潮がもたらしたものである。時代の風潮は、皇族の構成員であれ、一般家庭の構成員であれ、人間であれば等しく逃れることはできない。リベラルな価値観に染まらずに、親の意向や伝統を重んじる「古風で従順な」性格へと娘を仕立て上げたかったら、父親は娘を世間から隔離し、「籠の鳥」として純粋培養しなければならない。むろんそんなことは事実上不可能だし、もしそんなことをすれば、父親は人権侵害の咎でアムネスティから糾弾されるだろう。

皇嗣家を非難するときの世間の態度は、秋篠宮に対して、封建的な家父長のようにふるまうことを要求する。その要求ははなはだしく保守的なものであり、あるいはアナクロでさえあって、私はとても着いて行けない。

まあ、その大半は無責任なネトウヨによるものであり、あるいはこれに便乗した興味本位の非難、ーータブロイド的な「為にする」非難だから、まじめに取り上げるには値しないのだけれどね。
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終活ブームに思う

2019-04-21 11:43:44 | 日記
妻のことではない。知り合いの女性のことである。仮にAさんと呼ぶことにしよう。このAさん、最近しきりに物を片付けるようになった。衣類を整理し、タンスなどの家具類をせっせとクルマに積んで、ゴミ処分場まで持っていく。そんな毎日が続いている。

聞けば、これは「終活」の一環なのだそうな。彼女の友人たち、高齢の女性たちの間では、この「終活」とやらが最近流行っているのだという。遺言書を作ったり、エンディングノートを記したりする、あれのことである。
「男の人はあまりやらないみたいだけど、あなたはどうなの?どうやって死を迎えたいの?」
「そんなこと、考えたこともないなあ」
「でも、胃ろうをしても生き続けたいとか、延命治療は望まないとか、いろいろあるでしょう?本人の意思がわからないと、周りの家族が困るのじゃないかしら」
「胃ろうとか、延命治療とか、そんなことは、その時になってみないとわからないな」

実際、チューブに繋がれたままでも、それでもなお自分が生きたいと望むかどうかなんて、そういうぎりぎりの、生死の境に立たされてみないと自分でもわからない。そう私は思っている。

「でも、そのとき意識がなかったり、認知症になっていたりして、その時の自分の意思を口に出せなくなっていることだってあるのじゃないかしら」
「そのときはそのときのことさ。意識がなければ、意思も望みもないということだから、周りの人が自分の都合の良いように、ご勝手にどうぞ、ということだな」
「そう言われてもねえ・・・」
「生きたい、死にたくない。そう思わない人はいないと俺は思うよ。もっとも、生き続けるのに苦痛や苦しみが伴うのなら、その苦痛や苦しみから逃れたい、楽になりたいと思うのも人情だけどね。意識がなくなっても、それは変わらないと俺は思うな」

私は、あと10年ぐらいは死のことを考える必要はないと思っている。必要がないことは、なるべくなら考えずに済ませたい。
それに比べて、Aさんときたらどうだろう。私から見てあと20年は何の心配もなく生きられそうに見える、元気一杯のAさんが、なぜそれほど「終活」に精を出すのか、私には解らない。たしかに最近は、2人に1人がガンに罹って死ぬ時代だというし、彼女にも最近は認知症気味の言動が見られなくはないが、それにしてもねえ・・・。

近年の終活ブームが、私にはまさしく一過性の「ブーム」のように思えて仕方がないのである。人生なんて所詮、一過性のものだし。
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