人はそれぞれ自分の立ち位置から世界を見る。そしてその位置から見えるものしか見ることができない。若い頃の私は、のろのろ歩きの障害者が見ている、その世界を見ることができなかった。年をとり、障害者となった今の私は、逆に、せっかちドライバーが見ている世界を見ることができない。
ニーチェが言うパースペクティヴィスムス(遠近法主義)の正しさを私は実感している。各人の利害と利害がバッティングするのは、こうした遠近法的パースペクティヴのしからしめるところなのだ。
世界の遠近法的な見え方は、利害の衝突をもたらし、悲劇とも喜劇ともつかぬドタバタ劇を生み出す。世間に物議と失笑を醸した某大臣の例は、その典型だろう。
「桜田義孝五輪相は10日夜、東日本大震災で被災した岩手県出身の自民党衆院議員のパーティーであいさつし、議員の名前を挙げて「復興以上に大事」と発言した。
(中略)
発言は同日夜、東京都内であった高橋比奈子衆院議員(比例東北)のパーティーであった。桜田氏は来年の東京オリンピック・パラリンピック開催で多くの訪日客が訪れるとし『おもてなしの心を持って、復興に協力していただければ、ありがたい。そして、復興以上に大事なのは、高橋さんでございます』と語った。」
(朝日新聞DIGITAL4月10日配信)
東日本大震災の被災者が見る世界、それは「復興が最も大事」と思えるような世界である。(高橋議員を当選させることを至上命題とする)自民党関係者が見る世界は、「復興以上に大事なのは、高橋さん」と思えるような世界である。高橋議員の応援を頼まれた桜田大臣は、自分に見えた世界を、そのまま言葉に出したまでのことである。彼には、被災者に見える世界は見えなかったし、想像することもできなかった。何と素朴なおめでたい人なのだろう。
桜田大臣には前科がある。「競泳の池江璃花子選手が白血病を公表したことに『がっかりしている』などと発言して謝罪、撤回(した)」というしくじりである。彼には「東京五輪をもり立てる係」としての自分の姿しか見えず、池江選手の発病を嘆き悲しむ人々の、その立場に立って他人を思いやることができなかった。
人はそれぞれ自分の立ち位置から世界を見る。そしてその位置から見えるものしか見ることができない。けれども、たいていの人は想像力を持っている。その想像力によって、相手の立場に自分をおき入れ、その(他人の)観点から世界を見ることができるのだ。
「立場の転換」を可能にするその種の想像力は、とりわけ政治家には大事であり、欠かすことができない。ところが桜田大臣には、肝心のそれが決定的に欠けているのである。やはり彼は政治家になるべきではなかった。そう思うのは、私だけではないだろう。
ニーチェが言うパースペクティヴィスムス(遠近法主義)の正しさを私は実感している。各人の利害と利害がバッティングするのは、こうした遠近法的パースペクティヴのしからしめるところなのだ。
世界の遠近法的な見え方は、利害の衝突をもたらし、悲劇とも喜劇ともつかぬドタバタ劇を生み出す。世間に物議と失笑を醸した某大臣の例は、その典型だろう。
「桜田義孝五輪相は10日夜、東日本大震災で被災した岩手県出身の自民党衆院議員のパーティーであいさつし、議員の名前を挙げて「復興以上に大事」と発言した。
(中略)
発言は同日夜、東京都内であった高橋比奈子衆院議員(比例東北)のパーティーであった。桜田氏は来年の東京オリンピック・パラリンピック開催で多くの訪日客が訪れるとし『おもてなしの心を持って、復興に協力していただければ、ありがたい。そして、復興以上に大事なのは、高橋さんでございます』と語った。」
(朝日新聞DIGITAL4月10日配信)
東日本大震災の被災者が見る世界、それは「復興が最も大事」と思えるような世界である。(高橋議員を当選させることを至上命題とする)自民党関係者が見る世界は、「復興以上に大事なのは、高橋さん」と思えるような世界である。高橋議員の応援を頼まれた桜田大臣は、自分に見えた世界を、そのまま言葉に出したまでのことである。彼には、被災者に見える世界は見えなかったし、想像することもできなかった。何と素朴なおめでたい人なのだろう。
桜田大臣には前科がある。「競泳の池江璃花子選手が白血病を公表したことに『がっかりしている』などと発言して謝罪、撤回(した)」というしくじりである。彼には「東京五輪をもり立てる係」としての自分の姿しか見えず、池江選手の発病を嘆き悲しむ人々の、その立場に立って他人を思いやることができなかった。
人はそれぞれ自分の立ち位置から世界を見る。そしてその位置から見えるものしか見ることができない。けれども、たいていの人は想像力を持っている。その想像力によって、相手の立場に自分をおき入れ、その(他人の)観点から世界を見ることができるのだ。
「立場の転換」を可能にするその種の想像力は、とりわけ政治家には大事であり、欠かすことができない。ところが桜田大臣には、肝心のそれが決定的に欠けているのである。やはり彼は政治家になるべきではなかった。そう思うのは、私だけではないだろう。