「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

司馬遼太郎作品の、出来損ないブリを、具体的に、指摘する!(常に新しい自分でいないと!)

2011年04月28日 | 先人の分析
おはようございます。

えー、雨ですねー。

まあ、8時くらいまでには、止む、ということですが、

まあ、たまには、お湿りがあったほうがいいんですかね?

まあ、その後、晴れるそうですから、通勤には、折り畳みの傘を持っていけば充分な感じですねー。


さて、こう、昨日あたり、電車に乗りながら、ボケーッと考えていたんですけど、

こう、BS時代劇「新選組血風録」の今回のストーリーだった、

「長州の間者」

ですが、どーも、納得がいかないんですねー。


まあ、以前、このストーリーについて、佳品、ということを書きましたが、

考えれば考えるほど、

「佳品とは、程遠い作品じゃん!」

という結論になっています。

まあ、司馬作品のファンだった、大学生頃の自分の結論だったんですね、佳品という評価は。

まあ、でも、司馬作品というのは、大人になってから触れると、まあ、アラが目立つ。

つまり、今の僕的に再度、評価してみなければ、ならない・・・という結論に至って、

んじゃ、ま、

「長州の間者」

の原作について、改めて考えてみたいと思います。



まず、第一に、この作品の出来は、あまたあるネット小説の域にも達していないことが指摘できます。

本来、日本人は、各人が各人なりの正義を持っていて、それを遂行しようとしています。

他人が間違っていると思えば、間違いを指摘するし、おかしな行いをしている首相がいれば、それを指摘する。

それは、各人に、自分なりの正義のものさしが、あるからで、日本人は正義のためなら、死すら厭わない、強い実行力を持った人間達です。

そういうあり方を「サムライ!」と言うわけです。

これは、武士道の考え方が、日本人のDNAにしっかりと残っているからで、武士道こそ、日本人の価値観です。


さて、新選組とは、土方の考える理想の武士をつくりあげるために、法度が運用され、

理想の武士たらんとした、集団だと言えると思います。

つまり、理想の武士であることが、新選組の正義だったわけです。

で、「長州の間者」という作品は、間者!という武士としては、あり得ない、卑怯者の存在として、

深町くんが、新選組の隊士に断罪される話です。

まあ、もちろん、長州の間者であることが、一番、重い罪だったりするのですが、

やはり、理想の武士たらんとした、集団の価値観からすれば、

「間者をやっているだと!卑怯者め!武士の風上にもおけぬ!許せん!」

という思考をまず、第一に、引っ張るだろうと思います。


では、なぜ、武士の風上にもおけぬ所業を、深町くんは、あえて、したのか?


という素直な疑問がわいてくるはずです。

つまり、深町くんの正義は、なんなのか?

ということに対する解答が、このストーリーにまず求められるわけです。


しかし、そんなの、どこにも表現されていないんだよねー!(笑)。


この「長州の間者」というストーリーの目的は、第一に、沖田総司は、仕事が出来てかっこいい、ということを表現することにあります。

誰も気づかなかった、長州の間者を、勘で、見分けて、見付け出してしまう、その能力の高さを表現することによって、

「沖田総司アゲ」

を実現している。

それについては、出来ていると言えます。

しかし、それだけじゃ、だめだ。

この相手役、あるいは、敵役になる、深町の行動に説得力がなければいけない。


そして、その説得力の根本になるのが、この深町がなぜ、長州の間者をやっていたのか。彼の正義は、何か、を、

しっかりと描くことにある、ということなんです。

敵役に説得力をつけることで、ヒーローというのは、輝く。

これは、ストーリーを作る上では、もう、普通に、お約束です。


ちょっと古いですけど、「北斗の拳」が、なぜ、あれだけ、盛り上がったか?を考えてみましょう。

その原因は、ケンシロウの強さだけでなく、

ラオウに、説得力があったからです。敵となった人物に多くのエピソードがあり、

なぜ、ケンシロウの敵役に回ったかが、十全に描かれていたからだ。

敵役の正義が、しっかりと描かれていたから、皆、説得され、納得したんです。

サウザーは、なぜ、あんな悪魔になったのか。

そのエピソードがしっかりと描かれているからこそ、ストーリーとして、盛り上がったんです。


しかし、「長州の間者」は、短編だ、という指摘もあるでしょう。

だから、敵役を丹念に描けないのだ、と。

しかし、それは、優先順位の問題だと思います。

深町の正義をちょこちょこっと、書くことくらい、わけはないはずです。


例えば、ちょっとしたエピソードをつけてやれば、深町くんの正義なんて、いくらでも表現できる。

「子供の頃に、長州の侍に助けられた」

でもいいし、

「高杉さんに恩がある」

でもいいし、それこそ、

「桂さんに自分が大変なときに、声をかけられ、助けられた」

でも、いい。


なんとでも、創作できるはずだ。

なぜなら、それがこのストーリーの肝だからだ。


そこが一番大切なんです。

なぜ、深町くんは、武士として、最も嫌われる行為を、したのか。


これが、表現されて、はじめて、画竜点睛になるんです。


つまり、この「長州の間者」は、画竜点睛を欠く、だめ作品なんです。


この作品では、オチとして、深町くんが、竹生島のお守りを肌身離さず持っていた、ということが語られます。

おそのさんも、竹生島参詣の帰りに、深町くんと船の中で出会ったことが、竹生島の神のお導きとして、

深町くんとの仲を大切に考えていました。

その竹生島のお守りを肌身離さず持っていた深町くんは、、おせつさんと同じくらい、おせつさんとの仲を

それはそれは、大事に考えていた、ということになるわけです。


おせつさんは、

「私の仕事を手伝ってくれるものと、思っていたのに・・・」

というようなことを言っていましたね。

つまり、働き者で、店を切り回しているおせつさんの経済感覚で言えば、おせつさんと深町くんの二人くらいは、充分食わせていける仕事だ!と

認識していたことになるんです。

おせつさんとの仲をそれだけ、大事に考えている深町くんなら、

普通、おせつさんと二人で店を切り盛りする方向にいくのが、自然でしょう。


だって、食えるわけだし。


愛し合っている二人が、普段から、一緒にいれたら、どんなにしあわせなことか。


それをしないで、長州の間者になった、というのであれば、

そこには、深町くんの余程の想いがなければ、いけない、ということになるんですよ。


だから、長州の間者になった、深町くんの正義が、このストーリーの肝になるんです。

一番大事な、モノになるんです。このストーリーにおいては。


さっきもいいましたが、そこに、

「実は若い頃桂さんには世話になっていて・・・今の自分の剣の腕を見込まれて、長州の間者になっているんだ・・・」

と、自分で自分にいい聞かせてもいいじゃないですか。おせつさんに言えないのであればね。

それが、あって、はじめて、ストーリーは納得出来る物になる。深町くんに説得力ができあがる。


だいたい、深町くんの人間の器量の小ささについても、昨日指摘しましたけど、剣技があれだけできて、人間性が劣るなんてありえない。

そんな人間は、リアルにいません。ここも、説得力を作る上で、大失敗しています。


だから、このストーリーは僕に言わせるなら、不完全どころか、ブログ小説のレベルにも、達していない、超最低の、出来そこない!と言えるんです。


僕はこの作品、司馬遼太郎という俺偉い病にかかったバカが、時代にあわせた作劇をしたんだ、と踏んでいます。

この作品のオチを見てみると、見えてくる物があります。

この作品のオチは、

「実は、深町くんも、おせつと同じくらい、おせつを愛していたのだ」

です。

つまり、この作品が発表されていた当時、男が女に、

「愛している」

などということは、恥ずかしいことだったんでしょう。

「男がそんなこと、言えるか」

という時代だった。

だから、

「そうか。深町も実は、おせつを愛していたんだな」

というオチで、納得するひとが、多かったんですよ。当時は。


しかし、今や、時代は、違う。

好きでつきあっている女性に、男性が、

「君は素晴らしい。愛している。大好きだ」

と言うのは、これは、もう、男側の一種のサービスとして、とても、必要なことだ。

義務とさえ、言っていい。

そういう時代に、変わっている。


つまり、こういう古い感覚の作品を、そのまま、ドラマ化する問題点が、ここに露呈するんです。


今回、BS時代劇では、ピチピチ通信でも、指摘しましたが、草食男子時代に合わせて、ラブ表現自体、あっさりとした表現にしていました。

作劇が、古い感覚のままなのに、演出を、時代にあわせた・・・というこの作品。

どうです?

おかしい?と感じませんか?

僕は、おかしいと感じましたし、それを、ピチピチ通信にも、書いています。


例えば、あのオチ、

「竹生島のお守りを肌身離さず持っていた深町」

というシーンから考えられるのは、

「そうか。深町はそれくらいおそのとの仲を大事に考えていたのか。だから、おそののためにも」

「立派な長州の侍に取り立てられようと思ったのか」

と、視聴者が考えることを期待している、と考えられます。


でも、そうなるわけないじゃん!


だって、おそのさんと二人で、あの小間物屋を、やっていける、わけだし、それをおそのさんも望んでいたわけだからね。

だいたい、深町くんが、侍になることを、おそのさんは、望んでいないわけよ。

となれば、さらに、深町に絶対的な思いがないと、おかしなことになっちゃうでしょ?

そーれが表現されていないんだから、まー、ろくでなしのストーリーだよねー。


ま、あえて、あのBS時代劇を評価するなら、

「お、原作通り!」

ということくらいでしょう。

でも、その原作がこの体たらくだからねー。

なにをか、いわんやです。


ここに、司馬作品を、今の時代に、そのまま、表現する意味のなさが、露呈してしまったんですね。


つまり、司馬氏は、ストーリーの創作者として、

「ま、今の時代なら、これくらいのストーリーで、いいだろう。どうせ、ろくなヤツいなんだから」

と、俺偉い病のまま、判断して、このストーリーを脱稿したことがありありとわかる。

そう考えているのが、手にとるようにわかっちゃうでしょ?


だから、出来損ないのストーリーになってしまったんです。

俺偉い病が、司馬氏を、出来損ないのストーリーを作る人間にしてしまったんです。


まあ、製作者の言い分とすれば、

「「新選組血風録」を題名に掲げているからには、ストーリーは、原作のままにしなければ、いけない」

という言い分があるでしょう。

もちろん、この「新選組血風録」が、司馬作品ファンに向けたモノであることも、明白ですし、手をいれるなんて、とてもとても・・・というところでしょう。

もしかすると、この原作を使うからには、

「内容を変えないこと」

という契約があるのかもしれません。まあ、そのあたりでしょうね。


でも、はっきり言って、司馬遼太郎の作品は、ここで、具体的に説明してきたように、素晴らしくない。

この「長州の間者」なんて、これまで指摘してきたように、出来損ないのストーリーだ。


「司馬遼太郎の作品だから、すごい!」


とか、言っているひとは、自分の目で、モノをしっかりと判断できないひとです。


僕が間違いを犯したように、自分の若い時代や、その昔、自分が司馬作品に触れた時の感動のまま、司馬作品を見ている。


大切なことは、常に考えて、モノを見ることです。


今の自分の感覚で、モノを見て、内容を判断して、結論を出すことです。

遠い昔に出した結論なんぞ、意味はない。いや、害悪でさえ、ある。


大切なことは、今の自分で、考えてみることです。


こういうことって、いろいろあるんじゃないかなーって、思いますね。

そういう昔の自分の判断にとらわれていては、身を滅ぼす元ですからね。劣化してしまいますよ(笑)。



常に新しい自分で、いましょう。



それが、結論かな(笑)。



でも、ほーんと、出来そこないのストーリーだねー。改めて考えてみても。

ね?司馬遼太郎、だめでしょ?

具体的に指摘できちゃうんだから、笑っちゃうよねー。

ま、とにかく、新しい自分で、考えないとね。

自分を劣化させてはいけません。昔の判断で、止まっていてもいけません。


常に、新しい自分で、いないとね!



お、雨やんで、日が出てきた。

朝は、気分がいーですねー。

今日も、存分に、楽しみながら、仕事とプライベート、がんばりましょ!



ではではー。

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