おはようございます。
えー、雨ですねー。
まあ、8時くらいまでには、止む、ということですが、
まあ、たまには、お湿りがあったほうがいいんですかね?
まあ、その後、晴れるそうですから、通勤には、折り畳みの傘を持っていけば充分な感じですねー。
さて、こう、昨日あたり、電車に乗りながら、ボケーッと考えていたんですけど、
こう、BS時代劇「新選組血風録」の今回のストーリーだった、
「長州の間者」
ですが、どーも、納得がいかないんですねー。
まあ、以前、このストーリーについて、佳品、ということを書きましたが、
考えれば考えるほど、
「佳品とは、程遠い作品じゃん!」
という結論になっています。
まあ、司馬作品のファンだった、大学生頃の自分の結論だったんですね、佳品という評価は。
まあ、でも、司馬作品というのは、大人になってから触れると、まあ、アラが目立つ。
つまり、今の僕的に再度、評価してみなければ、ならない・・・という結論に至って、
んじゃ、ま、
「長州の間者」
の原作について、改めて考えてみたいと思います。
まず、第一に、この作品の出来は、あまたあるネット小説の域にも達していないことが指摘できます。
本来、日本人は、各人が各人なりの正義を持っていて、それを遂行しようとしています。
他人が間違っていると思えば、間違いを指摘するし、おかしな行いをしている首相がいれば、それを指摘する。
それは、各人に、自分なりの正義のものさしが、あるからで、日本人は正義のためなら、死すら厭わない、強い実行力を持った人間達です。
そういうあり方を「サムライ!」と言うわけです。
これは、武士道の考え方が、日本人のDNAにしっかりと残っているからで、武士道こそ、日本人の価値観です。
さて、新選組とは、土方の考える理想の武士をつくりあげるために、法度が運用され、
理想の武士たらんとした、集団だと言えると思います。
つまり、理想の武士であることが、新選組の正義だったわけです。
で、「長州の間者」という作品は、間者!という武士としては、あり得ない、卑怯者の存在として、
深町くんが、新選組の隊士に断罪される話です。
まあ、もちろん、長州の間者であることが、一番、重い罪だったりするのですが、
やはり、理想の武士たらんとした、集団の価値観からすれば、
「間者をやっているだと!卑怯者め!武士の風上にもおけぬ!許せん!」
という思考をまず、第一に、引っ張るだろうと思います。
では、なぜ、武士の風上にもおけぬ所業を、深町くんは、あえて、したのか?
という素直な疑問がわいてくるはずです。
つまり、深町くんの正義は、なんなのか?
ということに対する解答が、このストーリーにまず求められるわけです。
しかし、そんなの、どこにも表現されていないんだよねー!(笑)。
この「長州の間者」というストーリーの目的は、第一に、沖田総司は、仕事が出来てかっこいい、ということを表現することにあります。
誰も気づかなかった、長州の間者を、勘で、見分けて、見付け出してしまう、その能力の高さを表現することによって、
「沖田総司アゲ」
を実現している。
それについては、出来ていると言えます。
しかし、それだけじゃ、だめだ。
この相手役、あるいは、敵役になる、深町の行動に説得力がなければいけない。
そして、その説得力の根本になるのが、この深町がなぜ、長州の間者をやっていたのか。彼の正義は、何か、を、
しっかりと描くことにある、ということなんです。
敵役に説得力をつけることで、ヒーローというのは、輝く。
これは、ストーリーを作る上では、もう、普通に、お約束です。
ちょっと古いですけど、「北斗の拳」が、なぜ、あれだけ、盛り上がったか?を考えてみましょう。
その原因は、ケンシロウの強さだけでなく、
ラオウに、説得力があったからです。敵となった人物に多くのエピソードがあり、
なぜ、ケンシロウの敵役に回ったかが、十全に描かれていたからだ。
敵役の正義が、しっかりと描かれていたから、皆、説得され、納得したんです。
サウザーは、なぜ、あんな悪魔になったのか。
そのエピソードがしっかりと描かれているからこそ、ストーリーとして、盛り上がったんです。
しかし、「長州の間者」は、短編だ、という指摘もあるでしょう。
だから、敵役を丹念に描けないのだ、と。
しかし、それは、優先順位の問題だと思います。
深町の正義をちょこちょこっと、書くことくらい、わけはないはずです。
例えば、ちょっとしたエピソードをつけてやれば、深町くんの正義なんて、いくらでも表現できる。
「子供の頃に、長州の侍に助けられた」
でもいいし、
「高杉さんに恩がある」
でもいいし、それこそ、
「桂さんに自分が大変なときに、声をかけられ、助けられた」
でも、いい。
なんとでも、創作できるはずだ。
なぜなら、それがこのストーリーの肝だからだ。
そこが一番大切なんです。
なぜ、深町くんは、武士として、最も嫌われる行為を、したのか。
これが、表現されて、はじめて、画竜点睛になるんです。
つまり、この「長州の間者」は、画竜点睛を欠く、だめ作品なんです。
この作品では、オチとして、深町くんが、竹生島のお守りを肌身離さず持っていた、ということが語られます。
おそのさんも、竹生島参詣の帰りに、深町くんと船の中で出会ったことが、竹生島の神のお導きとして、
深町くんとの仲を大切に考えていました。
その竹生島のお守りを肌身離さず持っていた深町くんは、、おせつさんと同じくらい、おせつさんとの仲を
それはそれは、大事に考えていた、ということになるわけです。
おせつさんは、
「私の仕事を手伝ってくれるものと、思っていたのに・・・」
というようなことを言っていましたね。
つまり、働き者で、店を切り回しているおせつさんの経済感覚で言えば、おせつさんと深町くんの二人くらいは、充分食わせていける仕事だ!と
認識していたことになるんです。
おせつさんとの仲をそれだけ、大事に考えている深町くんなら、
普通、おせつさんと二人で店を切り盛りする方向にいくのが、自然でしょう。
だって、食えるわけだし。
愛し合っている二人が、普段から、一緒にいれたら、どんなにしあわせなことか。
それをしないで、長州の間者になった、というのであれば、
そこには、深町くんの余程の想いがなければ、いけない、ということになるんですよ。
だから、長州の間者になった、深町くんの正義が、このストーリーの肝になるんです。
一番大事な、モノになるんです。このストーリーにおいては。
さっきもいいましたが、そこに、
「実は若い頃桂さんには世話になっていて・・・今の自分の剣の腕を見込まれて、長州の間者になっているんだ・・・」
と、自分で自分にいい聞かせてもいいじゃないですか。おせつさんに言えないのであればね。
それが、あって、はじめて、ストーリーは納得出来る物になる。深町くんに説得力ができあがる。
だいたい、深町くんの人間の器量の小ささについても、昨日指摘しましたけど、剣技があれだけできて、人間性が劣るなんてありえない。
そんな人間は、リアルにいません。ここも、説得力を作る上で、大失敗しています。
だから、このストーリーは僕に言わせるなら、不完全どころか、ブログ小説のレベルにも、達していない、超最低の、出来そこない!と言えるんです。
僕はこの作品、司馬遼太郎という俺偉い病にかかったバカが、時代にあわせた作劇をしたんだ、と踏んでいます。
この作品のオチを見てみると、見えてくる物があります。
この作品のオチは、
「実は、深町くんも、おせつと同じくらい、おせつを愛していたのだ」
です。
つまり、この作品が発表されていた当時、男が女に、
「愛している」
などということは、恥ずかしいことだったんでしょう。
「男がそんなこと、言えるか」
という時代だった。
だから、
「そうか。深町も実は、おせつを愛していたんだな」
というオチで、納得するひとが、多かったんですよ。当時は。
しかし、今や、時代は、違う。
好きでつきあっている女性に、男性が、
「君は素晴らしい。愛している。大好きだ」
と言うのは、これは、もう、男側の一種のサービスとして、とても、必要なことだ。
義務とさえ、言っていい。
そういう時代に、変わっている。
つまり、こういう古い感覚の作品を、そのまま、ドラマ化する問題点が、ここに露呈するんです。
今回、BS時代劇では、ピチピチ通信でも、指摘しましたが、草食男子時代に合わせて、ラブ表現自体、あっさりとした表現にしていました。
作劇が、古い感覚のままなのに、演出を、時代にあわせた・・・というこの作品。
どうです?
おかしい?と感じませんか?
僕は、おかしいと感じましたし、それを、ピチピチ通信にも、書いています。
例えば、あのオチ、
「竹生島のお守りを肌身離さず持っていた深町」
というシーンから考えられるのは、
「そうか。深町はそれくらいおそのとの仲を大事に考えていたのか。だから、おそののためにも」
「立派な長州の侍に取り立てられようと思ったのか」
と、視聴者が考えることを期待している、と考えられます。
でも、そうなるわけないじゃん!
だって、おそのさんと二人で、あの小間物屋を、やっていける、わけだし、それをおそのさんも望んでいたわけだからね。
だいたい、深町くんが、侍になることを、おそのさんは、望んでいないわけよ。
となれば、さらに、深町に絶対的な思いがないと、おかしなことになっちゃうでしょ?
そーれが表現されていないんだから、まー、ろくでなしのストーリーだよねー。
ま、あえて、あのBS時代劇を評価するなら、
「お、原作通り!」
ということくらいでしょう。
でも、その原作がこの体たらくだからねー。
なにをか、いわんやです。
ここに、司馬作品を、今の時代に、そのまま、表現する意味のなさが、露呈してしまったんですね。
つまり、司馬氏は、ストーリーの創作者として、
「ま、今の時代なら、これくらいのストーリーで、いいだろう。どうせ、ろくなヤツいなんだから」
と、俺偉い病のまま、判断して、このストーリーを脱稿したことがありありとわかる。
そう考えているのが、手にとるようにわかっちゃうでしょ?
だから、出来損ないのストーリーになってしまったんです。
俺偉い病が、司馬氏を、出来損ないのストーリーを作る人間にしてしまったんです。
まあ、製作者の言い分とすれば、
「「新選組血風録」を題名に掲げているからには、ストーリーは、原作のままにしなければ、いけない」
という言い分があるでしょう。
もちろん、この「新選組血風録」が、司馬作品ファンに向けたモノであることも、明白ですし、手をいれるなんて、とてもとても・・・というところでしょう。
もしかすると、この原作を使うからには、
「内容を変えないこと」
という契約があるのかもしれません。まあ、そのあたりでしょうね。
でも、はっきり言って、司馬遼太郎の作品は、ここで、具体的に説明してきたように、素晴らしくない。
この「長州の間者」なんて、これまで指摘してきたように、出来損ないのストーリーだ。
「司馬遼太郎の作品だから、すごい!」
とか、言っているひとは、自分の目で、モノをしっかりと判断できないひとです。
僕が間違いを犯したように、自分の若い時代や、その昔、自分が司馬作品に触れた時の感動のまま、司馬作品を見ている。
大切なことは、常に考えて、モノを見ることです。
今の自分の感覚で、モノを見て、内容を判断して、結論を出すことです。
遠い昔に出した結論なんぞ、意味はない。いや、害悪でさえ、ある。
大切なことは、今の自分で、考えてみることです。
こういうことって、いろいろあるんじゃないかなーって、思いますね。
そういう昔の自分の判断にとらわれていては、身を滅ぼす元ですからね。劣化してしまいますよ(笑)。
常に新しい自分で、いましょう。
それが、結論かな(笑)。
でも、ほーんと、出来そこないのストーリーだねー。改めて考えてみても。
ね?司馬遼太郎、だめでしょ?
具体的に指摘できちゃうんだから、笑っちゃうよねー。
ま、とにかく、新しい自分で、考えないとね。
自分を劣化させてはいけません。昔の判断で、止まっていてもいけません。
常に、新しい自分で、いないとね!
お、雨やんで、日が出てきた。
朝は、気分がいーですねー。
今日も、存分に、楽しみながら、仕事とプライベート、がんばりましょ!
ではではー。
えー、雨ですねー。
まあ、8時くらいまでには、止む、ということですが、
まあ、たまには、お湿りがあったほうがいいんですかね?
まあ、その後、晴れるそうですから、通勤には、折り畳みの傘を持っていけば充分な感じですねー。
さて、こう、昨日あたり、電車に乗りながら、ボケーッと考えていたんですけど、
こう、BS時代劇「新選組血風録」の今回のストーリーだった、
「長州の間者」
ですが、どーも、納得がいかないんですねー。
まあ、以前、このストーリーについて、佳品、ということを書きましたが、
考えれば考えるほど、
「佳品とは、程遠い作品じゃん!」
という結論になっています。
まあ、司馬作品のファンだった、大学生頃の自分の結論だったんですね、佳品という評価は。
まあ、でも、司馬作品というのは、大人になってから触れると、まあ、アラが目立つ。
つまり、今の僕的に再度、評価してみなければ、ならない・・・という結論に至って、
んじゃ、ま、
「長州の間者」
の原作について、改めて考えてみたいと思います。
まず、第一に、この作品の出来は、あまたあるネット小説の域にも達していないことが指摘できます。
本来、日本人は、各人が各人なりの正義を持っていて、それを遂行しようとしています。
他人が間違っていると思えば、間違いを指摘するし、おかしな行いをしている首相がいれば、それを指摘する。
それは、各人に、自分なりの正義のものさしが、あるからで、日本人は正義のためなら、死すら厭わない、強い実行力を持った人間達です。
そういうあり方を「サムライ!」と言うわけです。
これは、武士道の考え方が、日本人のDNAにしっかりと残っているからで、武士道こそ、日本人の価値観です。
さて、新選組とは、土方の考える理想の武士をつくりあげるために、法度が運用され、
理想の武士たらんとした、集団だと言えると思います。
つまり、理想の武士であることが、新選組の正義だったわけです。
で、「長州の間者」という作品は、間者!という武士としては、あり得ない、卑怯者の存在として、
深町くんが、新選組の隊士に断罪される話です。
まあ、もちろん、長州の間者であることが、一番、重い罪だったりするのですが、
やはり、理想の武士たらんとした、集団の価値観からすれば、
「間者をやっているだと!卑怯者め!武士の風上にもおけぬ!許せん!」
という思考をまず、第一に、引っ張るだろうと思います。
では、なぜ、武士の風上にもおけぬ所業を、深町くんは、あえて、したのか?
という素直な疑問がわいてくるはずです。
つまり、深町くんの正義は、なんなのか?
ということに対する解答が、このストーリーにまず求められるわけです。
しかし、そんなの、どこにも表現されていないんだよねー!(笑)。
この「長州の間者」というストーリーの目的は、第一に、沖田総司は、仕事が出来てかっこいい、ということを表現することにあります。
誰も気づかなかった、長州の間者を、勘で、見分けて、見付け出してしまう、その能力の高さを表現することによって、
「沖田総司アゲ」
を実現している。
それについては、出来ていると言えます。
しかし、それだけじゃ、だめだ。
この相手役、あるいは、敵役になる、深町の行動に説得力がなければいけない。
そして、その説得力の根本になるのが、この深町がなぜ、長州の間者をやっていたのか。彼の正義は、何か、を、
しっかりと描くことにある、ということなんです。
敵役に説得力をつけることで、ヒーローというのは、輝く。
これは、ストーリーを作る上では、もう、普通に、お約束です。
ちょっと古いですけど、「北斗の拳」が、なぜ、あれだけ、盛り上がったか?を考えてみましょう。
その原因は、ケンシロウの強さだけでなく、
ラオウに、説得力があったからです。敵となった人物に多くのエピソードがあり、
なぜ、ケンシロウの敵役に回ったかが、十全に描かれていたからだ。
敵役の正義が、しっかりと描かれていたから、皆、説得され、納得したんです。
サウザーは、なぜ、あんな悪魔になったのか。
そのエピソードがしっかりと描かれているからこそ、ストーリーとして、盛り上がったんです。
しかし、「長州の間者」は、短編だ、という指摘もあるでしょう。
だから、敵役を丹念に描けないのだ、と。
しかし、それは、優先順位の問題だと思います。
深町の正義をちょこちょこっと、書くことくらい、わけはないはずです。
例えば、ちょっとしたエピソードをつけてやれば、深町くんの正義なんて、いくらでも表現できる。
「子供の頃に、長州の侍に助けられた」
でもいいし、
「高杉さんに恩がある」
でもいいし、それこそ、
「桂さんに自分が大変なときに、声をかけられ、助けられた」
でも、いい。
なんとでも、創作できるはずだ。
なぜなら、それがこのストーリーの肝だからだ。
そこが一番大切なんです。
なぜ、深町くんは、武士として、最も嫌われる行為を、したのか。
これが、表現されて、はじめて、画竜点睛になるんです。
つまり、この「長州の間者」は、画竜点睛を欠く、だめ作品なんです。
この作品では、オチとして、深町くんが、竹生島のお守りを肌身離さず持っていた、ということが語られます。
おそのさんも、竹生島参詣の帰りに、深町くんと船の中で出会ったことが、竹生島の神のお導きとして、
深町くんとの仲を大切に考えていました。
その竹生島のお守りを肌身離さず持っていた深町くんは、、おせつさんと同じくらい、おせつさんとの仲を
それはそれは、大事に考えていた、ということになるわけです。
おせつさんは、
「私の仕事を手伝ってくれるものと、思っていたのに・・・」
というようなことを言っていましたね。
つまり、働き者で、店を切り回しているおせつさんの経済感覚で言えば、おせつさんと深町くんの二人くらいは、充分食わせていける仕事だ!と
認識していたことになるんです。
おせつさんとの仲をそれだけ、大事に考えている深町くんなら、
普通、おせつさんと二人で店を切り盛りする方向にいくのが、自然でしょう。
だって、食えるわけだし。
愛し合っている二人が、普段から、一緒にいれたら、どんなにしあわせなことか。
それをしないで、長州の間者になった、というのであれば、
そこには、深町くんの余程の想いがなければ、いけない、ということになるんですよ。
だから、長州の間者になった、深町くんの正義が、このストーリーの肝になるんです。
一番大事な、モノになるんです。このストーリーにおいては。
さっきもいいましたが、そこに、
「実は若い頃桂さんには世話になっていて・・・今の自分の剣の腕を見込まれて、長州の間者になっているんだ・・・」
と、自分で自分にいい聞かせてもいいじゃないですか。おせつさんに言えないのであればね。
それが、あって、はじめて、ストーリーは納得出来る物になる。深町くんに説得力ができあがる。
だいたい、深町くんの人間の器量の小ささについても、昨日指摘しましたけど、剣技があれだけできて、人間性が劣るなんてありえない。
そんな人間は、リアルにいません。ここも、説得力を作る上で、大失敗しています。
だから、このストーリーは僕に言わせるなら、不完全どころか、ブログ小説のレベルにも、達していない、超最低の、出来そこない!と言えるんです。
僕はこの作品、司馬遼太郎という俺偉い病にかかったバカが、時代にあわせた作劇をしたんだ、と踏んでいます。
この作品のオチを見てみると、見えてくる物があります。
この作品のオチは、
「実は、深町くんも、おせつと同じくらい、おせつを愛していたのだ」
です。
つまり、この作品が発表されていた当時、男が女に、
「愛している」
などということは、恥ずかしいことだったんでしょう。
「男がそんなこと、言えるか」
という時代だった。
だから、
「そうか。深町も実は、おせつを愛していたんだな」
というオチで、納得するひとが、多かったんですよ。当時は。
しかし、今や、時代は、違う。
好きでつきあっている女性に、男性が、
「君は素晴らしい。愛している。大好きだ」
と言うのは、これは、もう、男側の一種のサービスとして、とても、必要なことだ。
義務とさえ、言っていい。
そういう時代に、変わっている。
つまり、こういう古い感覚の作品を、そのまま、ドラマ化する問題点が、ここに露呈するんです。
今回、BS時代劇では、ピチピチ通信でも、指摘しましたが、草食男子時代に合わせて、ラブ表現自体、あっさりとした表現にしていました。
作劇が、古い感覚のままなのに、演出を、時代にあわせた・・・というこの作品。
どうです?
おかしい?と感じませんか?
僕は、おかしいと感じましたし、それを、ピチピチ通信にも、書いています。
例えば、あのオチ、
「竹生島のお守りを肌身離さず持っていた深町」
というシーンから考えられるのは、
「そうか。深町はそれくらいおそのとの仲を大事に考えていたのか。だから、おそののためにも」
「立派な長州の侍に取り立てられようと思ったのか」
と、視聴者が考えることを期待している、と考えられます。
でも、そうなるわけないじゃん!
だって、おそのさんと二人で、あの小間物屋を、やっていける、わけだし、それをおそのさんも望んでいたわけだからね。
だいたい、深町くんが、侍になることを、おそのさんは、望んでいないわけよ。
となれば、さらに、深町に絶対的な思いがないと、おかしなことになっちゃうでしょ?
そーれが表現されていないんだから、まー、ろくでなしのストーリーだよねー。
ま、あえて、あのBS時代劇を評価するなら、
「お、原作通り!」
ということくらいでしょう。
でも、その原作がこの体たらくだからねー。
なにをか、いわんやです。
ここに、司馬作品を、今の時代に、そのまま、表現する意味のなさが、露呈してしまったんですね。
つまり、司馬氏は、ストーリーの創作者として、
「ま、今の時代なら、これくらいのストーリーで、いいだろう。どうせ、ろくなヤツいなんだから」
と、俺偉い病のまま、判断して、このストーリーを脱稿したことがありありとわかる。
そう考えているのが、手にとるようにわかっちゃうでしょ?
だから、出来損ないのストーリーになってしまったんです。
俺偉い病が、司馬氏を、出来損ないのストーリーを作る人間にしてしまったんです。
まあ、製作者の言い分とすれば、
「「新選組血風録」を題名に掲げているからには、ストーリーは、原作のままにしなければ、いけない」
という言い分があるでしょう。
もちろん、この「新選組血風録」が、司馬作品ファンに向けたモノであることも、明白ですし、手をいれるなんて、とてもとても・・・というところでしょう。
もしかすると、この原作を使うからには、
「内容を変えないこと」
という契約があるのかもしれません。まあ、そのあたりでしょうね。
でも、はっきり言って、司馬遼太郎の作品は、ここで、具体的に説明してきたように、素晴らしくない。
この「長州の間者」なんて、これまで指摘してきたように、出来損ないのストーリーだ。
「司馬遼太郎の作品だから、すごい!」
とか、言っているひとは、自分の目で、モノをしっかりと判断できないひとです。
僕が間違いを犯したように、自分の若い時代や、その昔、自分が司馬作品に触れた時の感動のまま、司馬作品を見ている。
大切なことは、常に考えて、モノを見ることです。
今の自分の感覚で、モノを見て、内容を判断して、結論を出すことです。
遠い昔に出した結論なんぞ、意味はない。いや、害悪でさえ、ある。
大切なことは、今の自分で、考えてみることです。
こういうことって、いろいろあるんじゃないかなーって、思いますね。
そういう昔の自分の判断にとらわれていては、身を滅ぼす元ですからね。劣化してしまいますよ(笑)。
常に新しい自分で、いましょう。
それが、結論かな(笑)。
でも、ほーんと、出来そこないのストーリーだねー。改めて考えてみても。
ね?司馬遼太郎、だめでしょ?
具体的に指摘できちゃうんだから、笑っちゃうよねー。
ま、とにかく、新しい自分で、考えないとね。
自分を劣化させてはいけません。昔の判断で、止まっていてもいけません。
常に、新しい自分で、いないとね!
お、雨やんで、日が出てきた。
朝は、気分がいーですねー。
今日も、存分に、楽しみながら、仕事とプライベート、がんばりましょ!
ではではー。