「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

時代が見えている者と、見えていない者の戦い!(「翔ぶが如くシリーズ」論考!)

2011年01月25日 | 先人の分析
どうも!ゆるちょです!

さて、今日は火曜日、ということもあって、

んじゃ、久しぶりに論考シリーズを復活させてみましょうか。

もちろん、火曜日は、「翔ぶが如く」シリーズ!ということで、

西南戦争の人間像を見ていたはずが、いつの間にか、

「司馬遼太郎の人間としての浅さを見る!」

という論考になってしまいました(笑)。


まあ、この「翔ぶが如く」シリーズ、読み返してみると、案外おもしろいんですね。

言いたいことは言っているし、司馬氏の浅さが具体的に指摘できている。

まあ、このあたり、元々、このブログの初期からやっている、歴史を論考するシリーズですから、

なんか、ものすごく、やりやすい感がありますねー。


まあ、書いていても楽しいし(笑)。


大河ドラマがあの状態ですから、あっちは、適当にやっておいて、こっちに力をいれていきますかねー。


っていうか、最近、行ってなかったんで、他のブロガーさんのところをへろへろって観に行ったら、

僕に近い見方をされている方(男性大河を好きな方々)の言い分みたら、みーーーんな、

「なんだこの大河!くだらねえー。見る意味すら感じねー!レビュー書くのやめたい!」

って、言ってるじゃないすか!(笑)。結局、先週の僕の反応と変わらないじゃないですか(笑)。

だから、先週のプリプリ通信、けっこう俺まともだったんじゃん・・・って思い至りました。


ま、大河ドラマとしては、もう、見てませんからね。あんなの、ただの映像集として、ツールとして扱いましょう。


と、脱線しました、元に戻しましょう!


というわけで、大河ブログというより、論考シリーズを真面目にやっていこうと思いますね。


さて、前回、昨年の11月23日「政府軍のトップだからこその山県有朋の資質!」では、

「戦争は、賭博性があるから、かっちょいい!」

という浅い戦争観を露呈させた司馬遼太郎を否定し、

「戦いの場に立ったときには、勝ちを決している状況に持って行っておかなければならない。戦争とは、賭博性なく、戦略的に勝ちを希求するもの」

という高い戦争感を持つ山県有朋こそ、当時の政府軍のトップでありえた、ということを言いました。

実際、司馬遼太郎の言う戦争感は、じゃんけんレベルの賭博性であって、そこで、勝ってなんぼ、みたいな浅い思想です。

そんな浅い思想では、率いられる兵が迷惑します。


スペシャルドラマ「坂の上の雲」で、兵棋演習のシーンがありましたね。

モッくん演じる秋山真之は、あの兵棋演習を通じて、将領達が高い戦略性を持って、賭博性を排して、戦いを実行しなければ、兵達を無駄死にさせるとして、

常に自分を練磨しておくように、話していたではありませんか。あれ、司馬遼太郎原作でしょ?

司馬遼太郎の頭の中って、どうなっているんだ?


さて、この文章は、司馬遼太郎原作「翔ぶが如く」をテキストに西南戦争当時の人々の心の中の有り様がどうなっていたかを論考していくモノです。

ですから、そちらを第一義として、書いていきます。ただねー、司馬氏の臭みも指摘することになっちゃうんで、

まあ、どちらも楽しみながら、進めていこうと思います。


さて、政府軍と、薩軍の戦いは、高瀬の第三戦以降、大きく変わりました。当初、進出主義だった薩軍は、高瀬の第三戦で、決定的に敗北して以降、

熊本鎮台を包囲しながら、進出してくる政府軍を防ぐ、という退嬰主義となり、守りの戦いになっていました。

薩軍の掲げた大いなる理想は、潰え、今は、目の前にある現実をなんとか、踏みこらえるしか、なくなっていました。

あたかも青年が理想を胸に上京したものの、現実には仕事にもつけず、アルバイトや日雇いの仕事で、その日暮らしを続けているような状況です。

突破口は見つけられず、このままでは、ジリ貧と言った状況。

もちろん、これ、全て、論考者西郷隆盛が、

「薩摩士族削除」

を念頭に指示を出してきたからで、大久保利通とあうんの呼吸で、実施しつつある政策なんですね。

それでも、西郷は、

「薩摩士族には、最後に、祭りで精一杯踊らせてあげもんそ。そしたら、あとは、死ぬだけ、ごあんどな」

的に考えていたんだと思います。薩摩士族に、最後に活躍の場を与え、華やかに舞台を去らせようという、西郷一流のやさしさ、と見るべきでしょうね。


そういう西郷の一流の芝居にのせられた、薩摩士族達は、とにかく、進出してくる政府軍と精一杯戦い、狂喜していたと言ってもいいでしょう。


政府軍は、三月三日、総指揮官の野津鎮雄により、二手に別れ、行動を開始しています。

薩軍が鹿児島を出発したのが、二月十七日ですから、まだ、それから、二週間です。

政府軍本軍は、薩軍が堡塁を築いている田原坂へ、支軍は、吉次越えに向い、どちらかが、薩軍を圧倒して、熊本鎮台へ向かう道を打通させようという思惑です。

まあ、でも、本来は、兵を二分するのは、下策ですけどね。田原坂に兵を集中させ、打通させる方が上策だと思います。

吉次越えには、抑えの人数を置くだけで、足りるわけですから、田原坂に対する攻撃力は、はるかに大きくなるわけですからね。

まあ、このあたり、どうなんでしょうか。

さて、田原坂へ向かう本軍には、乃木が率いていた十四連隊のうちの七個中隊、そして、士族最強部隊と名高い近衛の五個中隊、ということで、実際乃木は、負傷して後送されていますから、

実際に薩軍と戦った経験があることから、その経験を買って、十四連隊を使い、最強部隊である近衛をつけた、という思惑でしょう。

つまり、政府軍として、最高のオプションということになります。まあ、当然と言えば、当然なんですが、兵道の常道です。

本軍の人数は、4300名程でした。


これに対して、薩軍側は、田原坂より、前方の木場に、別府晋介の郷士隊を布陣させ、薩軍としては、貴重な砲二門を配備した。

この郷士隊は、加治木兵児(かじきへこ)の呼称で知られた、生粋の薩摩兵児(さつまへこ)であり、ひとりが五人の政府軍兵士に

当たりうるであろうと言われていたそうです。

つまり、薩軍側も、でき得る限り、最大の戦力を置いた、ということになるわけです。


どちらもやる気です。

もちろん、追い込まれている側の薩軍も、追い込まれているだけに、気力十分なはずです。

なにしろ、彼らにとっては、人生の中でも、最大の祭りですからね。


午前五時、政府軍本軍、出発。

まだ、夜が明ける前で、暗がりの中を進んでいきます。

政府軍の先鋒にあたる乃木軍は、青山朗(ほがら)大尉が指揮をとっています。

彼は、すでに戦闘を経験していたし、木場にて、乃木と戦ったので、地理に明るく、それが戦闘指揮に好影響を与えるだろうと思われていました。

彼の部隊が木場の前方にあたる、安楽寺村にさしかかるころ、木場の方角から、二発の砲声が轟き、戦が開始された。


乃木軍を率いる青山大尉は、砲声を聞くと、

「大砲は、あの山とこの山じゃ」

と説明したそうです。まあ、こういう説明を聞くと、部下としても安堵しますね。

そして、青山の見る所、薩軍は、街道に対して、攻撃力を集中させており、その他に薄弱であったようで、

「んじゃ、街道を避けて、部隊を動かし、敵を高所から撃ちすくませるか」

ということで、権現山と言われる高地をたちまち占領し、そこから、薩軍に射撃を浴びせたそうです。


こういう臨機応変の処置が、力を発揮するわけですね。


結局、薩軍は、日が傾く頃には、田原坂に引き返しました。

最強部隊を投入したにも、かからわず、木場で、政府軍を止めることができなかったんですね。

薩軍の目論見は、こうでした。

田原坂の工事が、まだ、終っていないために、木場で政府軍を足止めし、少しでも長い時間、田原坂の工事をしたかったわけです。

そのための、最強部隊投入だったわけですが、青山大尉の臨機応変の処置にやられてしまった、ということなんですね。

本来、薩軍もこういう臨機応変の攻撃を得意としているんですけど、やはり政府軍の足止めが目的だったために、守りに重点がおかれ、

結果、臨機応変に立ち回れなかったんでしょうね。

これが、攻撃側の有利な意識と、守り側に入った不利、ということを生んだわけです。

つまり、攻撃側に回ると、どんどん自分らに有利な状況を作り出せることができる、ということなんですね。

それに対して、守り側に回ると、どんどん不利な状況に追い込まれていくわけです。

だから、最強部隊投入も、あっさり不発に終わったという結果を生んだんですね。


つまり、この教訓は、

「つねに攻撃側にいろ。守りに回るな」

という人生訓を生むわけです。

「攻撃している間は、臨機応変に有利に動ける。だが、一度守りに回ったら、もう、不利な状況に追い込まれるだけなんだぞ」

と、このストーリーは、我々に告げているんですねー。


さて、田原坂方面の戦いはこのように推移しましたが、政府軍が支軍を送った、吉次越えは、どうだったでしょう。


政府軍の前衛隊は、東京鎮台と、大阪鎮台の兵より成るニ個中隊ということで、後衛もまた、東京鎮台、大阪鎮台より成る三個中隊です。

東京鎮台と大阪鎮台は、土地柄、弱兵とも言われる兵達だったそうです。本隊とは、えらく違うわけです(笑)。

三月三日、午前7時、この部隊は、伊倉村を過ぎ、吉次越えに近い、立岩村付近まで進出しました。

このとき、立岩村には、薩軍の堡塁がびっしり並んでおり、先鋒の指揮官、迫田大尉は、

「主力が来るまで、戦闘を待つか・・・」

と考えたそうですが、やはり考え直し、戦闘を開始したそうです。

部下を散開させ、射撃戦に入ったそうで、その時間、午前10時。

薩軍は、屈しなかったそうですが、やがて、政府軍本隊も加わり、五個中隊で、撃って撃って撃ちまくったそうです。

午後三時になっても、戦況に変化がないため、支軍司令官の野津道貫大佐(野津鎮雄の弟)は、自隊を三軍に分け、

火砲の援護の元に、射撃と躍進を繰り返し、薩軍を撃退したそうです。

薩軍は、午後四時頃、立岩村を引き払い、吉次越えの方に、引き下がった、というわけで、ここも、政府軍が勝ちをとったことになります。


政府軍がこのように、勝ちをとるようになったのは、政府軍VS薩軍の初戦で、政府軍が薩軍に圧倒的に負けた経験がモノを言うようになったからです。

薩軍は、射撃戦もそこそこに、白兵攻撃をしかけ、サムライを本能的に怖がる百将兵を、思いのままに、蹂躙していたのです。


それを経験した政府軍は、自軍の有利な部分を活かすことを思いついた。射撃戦です。

なにしろ、政府軍は、最新式のスナイドル銃を装備しており、薬莢に弾頭がついている、現代の銃と同じ構造をすでに持っており、装填後、すぐ発射できます。

これに対して、薩軍側の銃は、弾を込めたら、薬包をおしこめて、しかるのちに発射するという物で、明らかに時代遅れの銃でした。

ですから、政府軍は、薩軍の兵士に対しては、白兵できないように、とにかく、撃ちまくって、倒してしまおうという意識が、高かったのです。

さらに、薩軍は、守勢に回っている。

守勢に回っているという意識がさらに薩軍から、行動の自由を奪い、結果、撃退される、ということが、続くようになったのです。


この立岩村を引き払い、後方の吉次越えに向かった薩摩兵は、ありようは、逃げたと言っていい、と司馬氏は、書いています。

「薩兵は、白兵において、勇猛だったが、敵の鎮台兵が、まさかこれほど・・驟雨のように・・・弾を注ぎこんでくるとは、思わなかったのである」

だそうです。兵というのは、一度、逃げ始めると、恐怖が体を支配し、あっけなく弱兵になる、というのは、長篠の戦いで、敗れた武田軍が、

敗走時に、あっけなく、たくさんの首をあげられた例がありますが、同じような情景がここでも、繰り返されたということなんでしょうねー。


その

「立岩村の堡塁が保てそうにない」

という情報が、薩軍の指揮所に伝わったのは、午後三時頃だったそうです。篠原国幹が、予備隊八百人を率いて、救援すべく立岩村に向かったそうです。

吉次越えを越えて、立岩の近くまで、来ると、砲弾が間断なく落下して、篠原の兵達は、物陰に張り付いて動かなくなったそうです。

それだけ、政府軍の射撃がすさまじかったんでしょう。

政府軍は、士気大いにあがり、銃剣による突撃も繰り返されたために、薩軍側は、ついに支えきれなくなり、兵達は、一気に逃げ去ったそうです。

篠原も叱咤していたのも、つかの間、その流れに押され、ついに自身も逃げ始めちゃったそうで、このあたり、薩人のひょうかんさとうらはらの、

一種のあっさり感が感じられておもしろいですね。

この時、逃げて帰ってきた篠原に、吉次越えを守っていた熊本隊の佐々友房が、

「篠原サン、あなたまで、逃げなさるのですか」

と、声をかけたために、我に帰った篠原は、

「止まれええ」

と大声をあげ、薩軍を沈静化させた、そうで、なんとなく、人間のおもしろ味を伝えるエピソードになっています。


このあたり、非常に、薩摩隼人の人間的おもしろ味が出ていますね。

戦を祭礼のひとつと考えているところ。戦で死ぬことが名誉であると、考えているところ。白兵には勇猛果敢であるところ。

ところが、一度、恐怖にかられると、さっさと、逃げ帰ってしまうところ。

戦国時代から、250年。薩摩は、そういう薩摩隼人を創り上げたんですねー。


しかし、武器の優劣には、かなわなかった。


兵の質では、政府軍に圧倒するものの、銃の質が、結局、政府軍に勝利を与えている。

このあたり、最初に、鹿児島の武器庫を抑えた大久保利通の時代を見通す目が効いていることを実感させます。


ほんと、時代がみえている者(大久保)と、時代が見えていない者(薩摩士族)の戦いになりつつありますね。


このあたり、非常に、現代にも教訓になりますね。


今、時代をみえている者は、誰なのか。

時代が見えていないで、歯医者、いや、敗者になりつつあるのは、誰なのか。


西南戦争に従事した彼らは、我々に何を教えようとしているのでしょう。


そのあたり、さらに興味を持って、読んでいくことにしましょう。


今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。


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