「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

第17章 私たちが幸福になろうが、不幸になろうが

2010年10月21日 | 先人の分析
おはようございます!

いやあ、すっかりお寝坊さんです。

まあ、昨日の夜、遅くまで、いろいろ話し合っていたおかげで、

僕にしては、かなり遅くなってしまいました。

というわけで、今日の朝進行は、ゆっくりめ。

まったく、困っちまうわけですけどねー。


さて、木曜日の1Q84論考ですが、だんだんおもしろくなってきましたね。

やはり、いろいろなことが、わかってくると、村上さんが、何をしたいのかも、

なんとなくわかってくるし、いろいろな情報が増えることで、ストーリーを理解するのも、

何もない状態に比べれば、少しは、容易になりますからね。


さて、第17章、青豆さんのストーリーのはじまり、はじまりです。


青豆さんは、前回、天吾くんの書いた「空気さなぎ」の世界に設定された二つの月を現実のモノとして、

見てしまいました。そして、次の日の夜も、また、二つの月を見てしまいます。


これは、天吾くんの書いた「空気さなぎ」と現実の世界が、つながっていることを、示唆しています。


それは、うがった見方をすれば、天吾くんに、現実を作り替える能力がある、ということになるんですが、

その当たり、妥当な意見として、こころの隅においておきましょう。まあ、あとで、必要となる情報として。


さて、青豆さんは、その現実・・・月が二つあることに、混乱をきたします。もちろん、現実に月は、ひとつきりのはずだし、

見たことのない月・・・緑につつまれているんだそうですが・・・その存在は、どうしてもしらないし、どうもその月について、

青豆さん以外の人間には、ごく当然という解釈をしているようだからです。


用事があって、タマルと話したときにも、ちょっと月の話を匂わせたものの、特に何の反応もなかったし・・・例の柳屋敷の女性も

特に関心があるわけではなかったし・・・とにかく、青豆さんは、その月と会話をしてみることすら、やってみた・・・でも、月は、クールにしているだけだったわけです。


さて、青豆さんは、柳屋敷に出向き、いつものように、婦人にトレーニングするのですが、その前にいくらかの会話があります。

婦人は、CDをかけて音楽を流しているのですが、それは、クラッシックなわけです。400年前の。

そして、それが、意味するところは、

「400年前のひとたちと同じ音楽を聞いている」

ということなんですね。それについて、婦人は、ある感慨を覚える。妙な気になる、というんですね。それに対して、

「400年前のひとたちと、同じ月をみている」

と、言ってみる青豆さんなんです。まあ、

「いつ、二つになったんですか?」

と、聞いているわけですけど、それに対する反応は、

「そうね、同じ月ね。それを考えれば、400年前の音楽を聞くことも不思議ではない」

というものだったわけです。まあ、青豆さんの意図は、はずされたんですけど、そこから、400年前のヨーロッパが、いかにひどい世界だったかが、具体的に語られ、

そこで、このようなクラッシックを聞ける人間など、ごく一握りだった、ということが、指摘されるわけです。

それに対して、婦人は、自分なりの人間感というのを話します。

人間というのは、遺伝子の乗り物に過ぎないという、竹内久美子さんあたりが、たくさん書き散らしたあたりの説が提出されます。

「人間というものは、結局のところ、遺伝子にとってのただの乗り物にであり、通り道に過ぎないのです。彼らは馬を乗りつぶしていくように世代から世代へと」

「私たちを乗り継いでいきます。そして、遺伝子は、何が善で何が悪かなんてことは考えません。私たちが幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではありません」

「彼らが考慮するのは、何が自分達にとって、一番効率的か、ということだけです」

まあ、ちょっと僕的には頂けない物言いですけどね、これ。

遺伝子というのは、単なる情報にしか、過ぎません。紙に羅列された、単なる記号です。そこに意志はありません。

人間という種が、一代一代、その改良をやっているに過ぎないんです。だから、ひとつの種として、遺伝子側を主だと考えると、

乗り物として、とらえることができる、という程度です。言葉のあや程度のものです。

人間は、無論、乗り物でなく、人間が、世代ごとに、渡していく地図に過ぎないのが、遺伝子です。効率化などという意志は無論、存在しません。

これに対して、青豆さんは、こう、答えます。

「それにもかかわらず、私たちは、何が善であり何が悪であるか、ということについて、考えなくてはいけない。そういうことですね」

と、言うんですが、ただ当たり前のことを主張しているに過ぎない。それに対して、婦人は、

「その通りです。人間は、それについて考えないわけにはいかない。しかし、私たちの生き方の根本を支配しているのは、遺伝子です」

「当然のことながら、そこに矛盾が生じることになります」

と、言うんですね。これね、確かに生き方の傾向や、性格、意志のつよさなどは、子供の頃は、遺伝子に支配されているのかもしれない。

でも、大人になるにつれ、逆に遺伝情報を支配していく、変えていくのが、人間だと思っているんですよね。

だから、矛盾というのも、ちょっとおかしく感じます。遺伝情報は常に書き換えられるものだと、思っているからですね。

つまり、村上さんは、遺伝情報というのは、書き換えられないものだと考えていることが、だだわかりです。

だから、ちょっと僕は、同意できない部分ですね。これ。

だって、そしたら、進化しないじゃん、種は。

種は進化するために、世代をつむいでいるんですよ。村上さん!


二人はその後、マーシャルアーツの実習を行い、それから、夕食を共にします。

婦人は、青豆さんを信頼している旨の話をするんですが、それは、青豆さんが、自分の中に溜まっていた秘密を吐露し、さらに婦人も秘密を話した、

そのために、醸造された信頼だ、ということが、語られるわけです。


青豆さんが、環が自殺したあと、その夫を、梅安的に殺したことは、語られましたが、やはり、ひと一人を殺したことは、重みとなって、青豆さんの

中にあったんですね。鬱懐とでも、呼べばよいでしょうか。それを、自分の中に置いておく限界に来ていた。だから、青豆さんは、婦人に、

話したというわけです。そして、婦人も

「不思議な偶然ですが、私も全くと言っていいほど、同じ理由で人を消えさせたことがあります」

として、具体的な事実を語るわけです。

婦人の娘も、環と同じように自殺していたわけです。そして、DVによる死だということが、婦人には、わかる。しかし、現実的には、法的に訴えることも

できないことが、示されるわけです。だから、婦人は・・・殺しはしていないが、社会的に破滅させたのだそうです。

まあ、そういう状況で生かし続けることが彼女なりの裁きということなのでしょうね。青豆さんより、一層倍、怒りが強いように感じます。


婦人は、自分の娘のような境遇にある女性達を助けるためにセーフハウスを運営しているのだそうです。


そして、地域のボランティアやら、弁護士などと協力しあって、そういう目・・・DVやら、親による性的虐待などに苦しむ人間達を収容しているのだそうです。

もちろん、収容するだけでなく、以後の人生についての対策も打つ・・・自立を支援したり、暴力を与えてきた元の夫や親から、守る手さえ打っているわけです。

その業務の中で、どうしても、処理し切れない案件を、密やかに処理できる人間を婦人は、探していた・・・そう、梅安的処理のできる人間を。

その白羽の矢を立てられたのが、青豆さんであり、それを受けたのも、青豆さんだったわけです。


DVに陥る人間は、弱い人間だ、ということが、この話の中で主張されています。

自殺もできない弱い人間が、そういうことに陥るのだ、と。弱い人間だから、さらに弱い人間に暴力を与えて、自分を慰めているんだ、と。

確かに、僕もそう思います。

ちょっとしたことを、理由にして、暴力を振るう。

これ、前回の章で、宗教者について論考したとき、宗教が、殺人の理由を与えている、という言い方をしましたが、構図が同じなんですね。

「理由があれば、暴力をふるっても、構わない」

と彼らは、考えているのです。自分が少しでも、気持ちよくなるために。

そういう意味では、DVは、弱者のオナニーなんですよ。

殺人は、宗教者のオナニーだ。


人間、弱くなったら、終わりです。若い頃は弱くても仕方ない。当たり前のことだ。だが、大人になって、強くなるのではなく、弱くなっていったら、

それこそ、遺伝子の進化なんて、できないでしょう。

DVや子供への性的虐待、殺人なんて、する奴は、種として、いらない人間なんですよ。

だから、そのDNAは、消えていくんです。そういう意味では、遺伝子にも、意志は、あると、言えますね。上で否定したけど、こういう意味において、

遺伝子に、意志があることになる。おもしろいですね。


さて、そんな中、新しい殺人の仕事が、青豆さんに、提示されようとしています。

本来なら、もっと、殺人の間隔をあけたいのだが・・・そうもいかない、というところらしいですね。

まあ、基本、女性を虐待する男性を、別の世界へ送る仕事ですから、女性虐待者ということなんですが、

その相手は、明かされません。

まあ、物語的に言うと、その男性は、すでに、僕らが知っている男性である可能性が、高いわけですけど・・・そんなDVやりそうな男性って・・・

小松くらい?

でも、今小松を無くすわけにはいかないだろうから・・・やはり、あの宗教団体「さきがけ」の人間ということになるのでしょうかねー。

ま、村上さんが、「オーム事件」取材のときに感じたなにか、を主張するには、そういう方向性になるでしょうからね。


で、そのターゲットについて詳しく話す前に、会ってもらいたいひとがいる、ということで、青豆さんは、そのセーフハウスに、案内されるわけです。

暴力を受けた女性・・・それは、十歳の少女だったりするわけです。6週間前に送られてきたその少女は、4週間、口をきけず、やっと話せるようになった

少女。なかなか、きついものがありますね。

そして、青豆さんは、そのつばさちゃんに、会うわけです。セーフハウスの2階。栄養が不足気味で、瞳は曇ったガラスのよう。

あまり言葉も吐けない・・・かわいそうな少女。それが、つばさちゃんなんですね。


そして、婦人は、話をする。男性と女性のメンタリティーの違いは、生殖システムの違いにある、と。

そして、つばさちゃんの子宮が破壊されている、ことを話します。

「いったいだれが、そんなことを」

と、青豆さんが、言い、

「はっきりしたことは、まだわかりません」

と、婦人が言います。すると、少女が、

「リトル・ピープル」

と発言して、この章が終わるのです。


そうです。ふかえりが、さきがけで、出会ったとされる、リトル・ピープルの名前が、この少女から、発せられたのです。

であれば、青豆さんの次のターゲットは、「さきがけ」内の誰か、ということになります。

また、青豆ストーリーと天吾ストーリーの邂逅が、設定されたのです。


いやあ、興味深いですね。早く次の青豆ストーリーが読みたくなりますが、ここは、ぐっと堪えることにしましょう。


この章の題名

「私たちが幸福になろうが、不幸になろうが」

は、婦人の話した

「人間は、遺伝子だ」

的セリフの中にありました。

「遺伝子は、私たちが幸福になろうが、不幸になろうが、知ったこっちゃない」

ということでしたけどね。


でも、それは、違うような気がします。まず、間違っているのは、他者である誰かが僕らに幸福を与えてくれるわけでは、ないということです。


それは、他者依存な人間・・・宗教やその他の誰かに依存しないと生きていけない人間が、持つ、弱者の思想なんです。

村上さんは、弱者否定なのか、と思ったら、そうでもない。宗教者という弱者を登場させている。

青豆さんも、弱者ではなく、どうみても、自己のみに依存の強者です。

柳屋敷の婦人も、強者ですよね。そして、強者こそ、満足した毎日の生活・・・しあわせ、というものを甘受する力を持つ人間達です。

そして、死んでいった人達、DVを受け、死んでいった女性達は、いつのまにか、DVだんなに依存しかできなくなった弱者なんですよね。


つまり、この青豆ストーリーは、強者が、愛した弱者のために、DVに依存した弱者をこらしめる話なんですよ。


僕は、依存したら、終わりだと思います。


人間は、どんなものより、自由である必要があると、考えています。

そのためには、自己にのみ、依存し、強く生きていくことが大事だ。

それこそが、しあわせを甘受する力になっていく。

そういうことを、思い出しましたね、本章を読んで。


弱者に逃げこむな、強者になれ!


これが、人生、しあわせになる原理だと、思います。


そんなところを、今日の結論にしましょうか。


ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。


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