「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

崇徳院は全然可哀想じゃなかった!(怨霊化、ほんとにしたの?)

2014年07月28日 | 夜の日本学


一人の髪の毛の長い背の高い細身の女性が机に座り、ノートパソコンを叩いています。

彼女の名はレイカ(31)・・・とある雑誌の取材記者です。

「えー、それでは、タケルさん、夜の日本学「先人考察編」・・・お願いします。今日は誰について語ってくれるんですか?」

と、レイカはノートパソコンを叩きながら、赤縁のメガネを手で直し、こちらを見つめます。

「うん。そうだな・・・ま、夏と言うこともあるし、日本最強の大魔縁「崇徳院」をとりあげてみようか」

と、タケルは話し始めます・・・。


さて、今日の「夜の日本学」はじまり、はじまりー・・・・。


「ま、この崇徳院さんの有名な言葉に「其の力を以って、日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」と言葉にしているんだよね」

と、タケルは言葉にする。

「崇徳院さんが日本一の大魔縁と呼ばれるのは・・・この言葉があるからなんですね」

と、レイカは言葉にする。

「そうだね。まあ、これは彼が保元の乱に負け、その責任を取って配流された讃岐の地で、五部の「大乗経典」をその自らの血で書写したモノを」

「京のどこかの寺にでも納めて欲しいと願ったのを信西や後白河天皇が「呪詛では?」と疑って、その望みを拒絶したことが直接の原因となって」

「崇徳院は、上記の言葉を吐いた・・・という事になっているんだ。ま、どこまで本当かどうかわからないけどね・・・」

と、タケル。

「通説では、そうなっていますね」

と、レイカ。

「まあ、この件については、彼の環境が悪かった、かわいそう・・・と言った話に落ち着くのが定例なんだけど・・・僕的にはこのエピを日本文化的な」

「見方で、読み解いていきたいと思う・・・ま、僕らはその日本文化を利用して、どう生きていけばいいか・・・そのあたりの答えが出ればいいんだ、僕的には・・・」

と、タケル。

「なるほど・・・現代のわたしたちの生きる糧になればいい・・・そういう意見ですね」

と、レイカ。

「そういうこと」

と、タケルは言葉にした。


「僕はこの崇徳院のエピを見ると・・・日本とはいかに後見人の存在が重要か・・・そういう日本文化を感じるんだね」

と、タケルは言葉にする。

「後見人?・・・崇徳院の場合、父、鳥羽天皇が、それに当たりますか?でも、鳥羽天皇は、崇徳院がその父、白河法皇と鳥羽天皇の妻、待賢門院藤原璋子」

「との子と信じて・・・崇徳院を「おじご」と呼んで忌避した・・・事が崇徳院のすべての災難の大元のエピソードになりませんか?」

と、レイカ。

「うん、確かにそうなんだけど・・・崇徳院が保元の乱に突っ走るきっかけになったのは、鳥羽法皇が亡くなった事なんだ」

「つまり、鳥羽法皇が生きている間は、その面子を潰すわけにいかないから、崇徳院を排除したい勢力は動けなかったと考えられるんだね」

と、タケル。

「なるほど・・・鳥羽法皇は、崇徳院自身について忌避はするけれど、同じ血筋を引く人間としては、保護していた・・・そういうことですか?」

と、レイカ。

「うん。だって・・・よく考えてごらんよ、崇徳院自身は何も悪くないんだ・・・確かに彼はその父、鳥羽天皇の譲位により、天皇になったものの」

「鳥羽上皇は自分の確実な血筋である近衛天皇を天皇にするために、崇徳天皇に譲位を迫り、譲位させている・・・でも、これは親として、ごく当然の処置だろう」

と、タケル。

「近衛天皇は若くして亡くなるけど・・・この時、崇徳院はその子、重仁親王の即位を熱望するも、崇徳院の弟・・・鳥羽上皇の差配によって、後白河天皇の即位」

「・・・と表向きはそうだけど、実際は、この近衛天皇の死こそ、崇徳院に近い、悪左府藤原頼長の呪詛によるものと公家達は見ていたんだ」

「だから、崇徳院の子、重仁親王の即位が成立するはずはなかったんだ・・・結局、崇徳院もその子の即位を熱望し、自分がその父として、権力を握る日を夢見ていた」

「・・・だから、やってることは、皆同じで・・・鳥羽上皇も、崇徳院も五十歩百歩なんだよね、よく背景を見てみると・・・」

と、タケル。

「一番悪いのは、息子の嫁に、自分の妾をくっつけて・・・くっつけるだけじゃなく、その関係を、息子夫婦が成立した後も続けた、白河法皇と言うことですか?」

と、レイカ。

「ま、そういうことになるけど、あの時代、特に白河法皇は、権力絶大だったし、社会的通念として、姦通罪的な意識も無い時代だったから」

「・・・ま、性におおらかな時代だったと考えた方がいいかもしれないね・・・」

と、タケル。

「だから、一方的に崇徳院が可哀想と言う見方は成り立たないと僕は思う。むしろ、彼は政治的敗者に過ぎないんだ」

「彼は後見人である鳥羽上皇と上手く行きかけてた時代はあったんだ。崇徳院の子の重仁親王は・・・当時、鳥羽上皇が寵愛していた美福門院の養子に迎えているんだ」

「つまり、鳥羽上皇が即位をこだわった近衛天皇に子が生まれないまま、死んだ場合・・・重仁親王が自動的に即位することになっていたんだからね」

「つまり、鳥羽上皇は、それは許したんだ・・・つまり、鳥羽上皇と崇徳院は、和解した状態にあった・・・と見るべきなんだね、この時代は」

と、タケル。

「でも、実際に近衛天皇が崩御すると・・・重仁親王は即位出来なかった・・・」

と、レイカ。

「そこさ・・・問題は。つまり、崇徳院自身が、公家を敵にまわしてしまったと言うことさ・・・その時、崇徳院が敵に回したのは、こともあろうに、美福門院だ」

「そこは絶対に重仁親王の後見人にしなければいけない人材だよ。多分、鳥羽上皇と崇徳院の和解がなったのは、美福門院の助言が大きかったと言えるんだ」

「やっぱり、オトコは寵愛している女に弱いからね・・・それなのに、その美福門院に後ろ足で砂をかけるような行為を崇徳院はしちゃったんだろう」

「だから、美福門院は、崇徳院の敵に回ったんだ・・・一番、日本人として、やっちゃいけない行為だねー」

と、タケル。

「さらに、藤原摂関家内で、悪左府藤原頼長と敵対していた・・・その兄の藤原忠通も敵にまわし、辣腕政治家、信西すら、敵に回してしまった・・・」、、

「それが、結局、重仁親王の即位を水疱に帰す結果になったんだ・・・つまり、その時点で政治的失敗をしていたのが、崇徳院自身だったと言うことなんだ」

と、タケル。

「なるほど・・・権力者を後見人にするから、日本では政治がうまくいく・・・望みの現実がやってくると言うのに」

「崇徳院は、まるで逆の事・・・自分の為に一肌脱いでくれた美福門院に後ろ足で砂をかける行為をした・・・結果、後見人から、正面の敵になってしまった」

「これが日本で一番やっちゃいけないことなんですね・・・」

と、レイカ。

「崇徳院の美福門院に対する態度を見ていた、藤原忠通、信西らなど、能力の高い政治家は・・・崇徳院は、絶対に上皇にしては、この日本の為にならないと踏んだのさ」

と、タケル。

「もうひとつ崇徳院の失敗がある・・・悪左府藤原頼長と組んだ事だ・・・この悪左府・・・要は「知識者」の「俺偉い病」だったんだよ」

「だから、「知識」を鼻にかけて、個人的に「天誅」なんてのも、やってる・・・こういう自分勝手な人間を日本人は嫌う。なぜなら、それは個人で決めたルール」

「に則っているに過ぎないからだ・・・「和を以て貴しとなす」が最高正義のこの国では、自分勝手はどこまでも許されないんだ」

と、タケル。

「なるほど・・・だから、藤原頼長は、悪左府と呼ばれているんですね。「日本一の大学生(だいがくしょう)」と呼ばれたことでもわかるように」

「その自身の知識におごり・・・他人まで、勝手に殺しちゃうとは・・・確かに日本人大失格ですね・・・」

と、レイカ。

「そう。つまり、崇徳院は、日本人のやっちゃいけない行為を犯しているし、悪左府は、悪左府だからね・・・日本文化としては、否定すべき二人が組んだのだから」

「そりゃあ、政治的に、絶対勝てるわけはないわけよ・・・」

と、タケル。

「「保元の乱」が起こった経緯はかなり象徴的なんだ・・・崇徳院の唯一の後見人の鳥羽上皇が生きている間は、その顔を潰すわけにいかないから」

「美福門院も、信西も、藤原忠通も動けなかった・・・しかし、鳥羽上皇が死ぬと「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が京に流れ」

「藤原頼長は、勝手に軍兵を集めてはならない旨の後白河天皇からの綸旨が諸国に配られ・・・藤原頼長のいた、摂関家の邸宅が武家によって押収されている」

「つまり、信西、藤原忠通、美福門院は、もう既に、鳥羽上皇が死んでからのシナリオを練り込んでいて・・・鳥羽上皇の死のタイミングで」

「一気にそのシナリオを現実化させたんだ・・・」

と、タケル。

「後見人のいない、崇徳院・藤原頼長組は、なすがままな感じですね・・・」

と、レイカ。

「そういうことだ・・・そういう意味で言うと、崇徳院も、藤原頼長も、「俺偉い病」なんだよ・・・だから、政治も間違えるし、後見人も立ち去るんだ」

と、タケル。

「鳥羽上皇が死んだのが、保元元年、1156年の7月2日で・・・崇徳院が白河北殿に入ったのが7月9日、翌10日に藤原頼長が白河北殿に入り」

「・・・噂通りに結局なっちゃうわけで・・・こうなることは信西一派からすれば、シナリオどおりなわけよ。でも、もう、崇徳院にも、藤原頼長にも」

「そうするしか道はなかったんだね・・・」

と、タケル。

「そう見てくると、信西一派の現実を見通す、キレ具合の鋭さは、すごいですね」

と、レイカ。

「そういう事になるね。そして、崇徳院側に馳せ参じた武家は甚だ弱小で、もちろん、平清盛や源義朝も信西側についている」

「まあ、モノの見える武家は、政治の下手な側には、つかないよ・・・この一事からしても、崇徳院の政治力の無さは・・・頭の悪さは」

「当時の人間も理解していたと言うことさ・・・」

と、タケル。

「この時、兵力の少なさに危機感を覚えた武家達が敵側への夜襲を提案したんだが、藤原頼長が、「王者の戦いは陽のもとにて、やるもの」などと」

「アホな事言っていて採用しなかったんだよね・・・これ、同じ「俺偉い病」だった石田三成と言ってる事がおんなじだから、笑っちゃうよねー」

と、タケル。

「結果、その藤原頼長軍は、7月11日未明(7月10日夜)、信西軍の平清盛・源義朝連合軍の夜討に遭い・・・あえなく敗れて」

「・・・藤原頼長は殺され、崇徳院は讃岐へ配流になったんですね」

と、レイカ。

「つまり、こうやって見てくると、崇徳院は、最初の環境こそ、かわいそうだったけれど、大人になってからは、その政治性の無さが身の破滅を招いた」

「・・・そういうことになるわけ・・・つまり、政治力がありすぎて、周囲から危険視されて太宰府に左遷された菅公とは、全くの大違いなんだよね、あり方が・・・」

と、タケル。

「崇徳院は政治力も人を見る目もなかったから、味方にすべき人間をすべて敵にまわし、味方にしちゃいけない人間と手を組み・・・政治的に大失敗して」

「配流された・・・生きているだけでも、ありがたいと思へ・・・信西側はそう思ったでしょうね」

と、レイカ。

「そ。実際、天皇経験者が配流されたのは、奈良時代に配流された淳仁天皇以来だから・・・この時の天皇も、実は崇徳院と全く同じセリフを言うんだけど」

「それはまた別途触れよう・・・日本の歴史は面白いよ。だって、本当に歴史は繰り返すんだからね・・・と、より道はそこまで」

「つまり、崇徳院の罪は、この400年の中で最も重い罪だったんだよ・・・それくらいやってはいけない事をやった政治力の無いダメな人間だったと言うことさ」

と、タケル。

「なるほど・・・となると、崇徳院が流されたのは、ごく全うな対応だったと言うことになりますね・・・」

と、レイカ。

「だから・・・実は、血で書いた五部大乗経も・・・実は乱で死んだ人間達の鎮魂の為にちゃんと墨で書いたとされる書すらある」

「崇徳院が配流先で実際に詠んだ歌・・・「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」を鑑賞しても」

「・・・都に対する怨念などは感じられず、むしろ、気の弱さや都への懐かしい思いなどを感じられる・・・」

「だから、怨霊と化した崇徳院伝説は・・・後世の人の創造なのでは・・・と疑いたくなるね・・・その実像は、やらかしちゃった貴人程度だったんじゃないかな」

と、タケルは結論づける。

「・・・ただし、怨霊は誰が作るかと言えば・・・菅原道真の記事でも指摘した通り、その人間を左遷したり、配流したりした張本人の」

「「ちょっとあいつには悪いことしちゃったかな?」という自責の念から出るもので・・・これも日本文化そのものだよね」

「なぜなら・・・それが結局、他人に問題を押し付ける行為につながっちゃったから、なんだよね・・・」

と、タケル。

「状況的に言うと、1177年、鹿ヶ谷事件、安元の大火、延暦寺による強訴などが立て続けに起こり、崇徳院の怨霊に関する記事が公家の日記に登場しています」

「以降、1176年には、建春門院・高松院・六条院・九条院など、後白河や忠通に近い人々が相次いで死去しています。この頃から公家の間では」

「崇徳院及び、藤原頼長の怨霊の事が騒がれていたようで、結果、1184年8月3日、後白河法皇によって、崇徳院は元々讃岐院の院号だったのが廃止され、崇徳院とされ」

「藤原頼長には、正一位太政大臣の位が追贈されました」

と、レイカ。

「やはりな・・・崇徳院と藤原頼長を敵として討った・・・後白河法皇によって、怨霊の鎮魂が成されている・・・これが日本のお約束だよ・・・」

と、タケル。

「ま、明治天皇が即位前に、崇徳院の御霊を京に戻す手続きをしたのは、有名な話だけど・・・でも、こうして見てくると、菅原道真と違って」

「崇徳院は、自分でまずい政治をしたから、罰をくらっているんだから、怨霊などになるはずがない・・・って感じの感想を持ったけどね、今回」

と、タケル。

「そうですね。わたしも、ちょっと崇徳院のイメージが変わりました。今まではただの可哀想な人かと思っていたけど」

「そうじゃなかった。やってはいけないことをしたから、当然、配流されただけですものね・・・」

と、レイカ。

「それでも、後白河法皇は、自分の死が怖かった・・・自分の死=京から政権が鎌倉に持ち逃げされるから・・・」

「つまり、崇徳院が言葉にした「其の力を以って、日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」通りの世に実際になりそうだったからだよ」、

と、タケル。

「だから、後白河法皇は、崇徳院に恐怖し、鎮魂を図った・・・でも、結局、その死によって、源頼朝は征夷大将軍になり」

「政権は鎌倉に移った・・・まさに「皇を取って民となし、民を皇となさん」の国になったんですね・・・」

と、レイカは感激的に言葉にした。


「うん。今日もなかなか、劇的な話になったねー。さて、んじゃ、レイカちゃん、今日も飲みに行こうか」

と、タケルは言葉にする。

「はい、どこまでもお供します」

と、レイカは言うと、赤縁のメガネを取り、髪を解いた。


(おしまい)


彼自身は、政治力も無かったし、人を見る目もなかったんですね、崇徳院さん。

でも、政治の状況如何で・・・彼は大魔縁になってしまった・・・。

それは時代と言うモノの怖さ・・・だと言えると思います。


ま、でも僕的な考察になったかなって感じです。

ありきたりの崇徳院考察にならなかったところが、僕的には満足ですね。


さ、仕事にも満足したし、さ、飲みに行きましょう!


ではでは。

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