どうも、ゆるちょです。
さて、午後向け今日二本目の記事、行きましょうかー(って、昼休み向け記事を上げたので、三本目となりましたが(笑))。
えー、月曜日の、ピチピチ通信でも書きましたが、司馬遼太郎氏というのは、
とにかく、人間というものを知りません。
例えば、あの「長州の間者」という作品ですが、
あきらかに、司馬氏は、沖田総司アゲの物語を作りたかった。
だから、剣も出来れば、何でも見えすぎる沖田総司を強調するためだけに、
剣は豪快なのに、人間が小さいという、リアル感の皆無な深町という人物を創り上げたのです。
つまり、ために、作られたキャラなんだよね、深町くんは。
だから、アンバランスで、リアル感皆無な、頭で考えただけのキャラだなーと簡単に見破られてしまうわけですよ。
これね。
まあ、司馬遼太郎論考のカテゴリーで、無数に指摘していますけど、このひと、
「俺は大学出なんだ!新聞記者なんだ!」
という俺偉い病にかかっちゃった患者なんですよね。
「俺は大学出なのに、戦車兵になんかしやがって!俺は偉いんだ!」
と、ずーっっと怨念を持っていたひとなわけですよ。
まあね、当時は、大学出も珍しかったのかもしれません。
でもね、今は、大学出なんて、掃いて捨てるほど、いる。
だいたい、大学なんか出たって、社会では、何の価値もない。
社会に出て、ガンガンいろいろ経験して、やっと仕事が出来るようになってくるんですよ。
そうして、やっと、価値が出来てくるんですよ。
大学出なんて、会社に入るためのパスポートくらいの価値しかありません。
それに、社会というところは、大学出だろうが、小学生出だろうが、仕事が出来るか、どうかの判断基準しかありませんからね。
学歴なんて、一切、関係ないんですよね。
仕事ができるか、どうか。
それだけなんです。
それが、社会というところなんです。
それを、この司馬というおっさんは、
「大学出は偉いんだ。庶民と違うんだ」
と勘違いしたまんまで、その庶民に本を売ることで生きていた。
最低ですよ、こいつ。
それに、歴史上の偉人である西郷隆盛を意図的に貶め、自分の金儲けに使った。
ほんと、最低ですよ。
歴史上の物語を書いて、生計を立てている人間が、偉人を貶めたんですからね。
天に向かってつばするのと、同じことです。
だから、許されるべき、人間ではないんです。
まあ、それに、俺偉い病にかかっちゃったもんだから、周りを見下し、あまり考えることもしない。
だから、その文章が、適当、ゴリ押し、こじつけ、当て推量な文章ばかりになるんです。
とにかく、経験が浅い。
だから、人間というモノを全然知らない。
目ヂカラひとつ、理解していない、お馬鹿さんですからねー、このおっさん。
だから、リアリティのない、深町なんていう、アホなキャラをつくっちゃうわけですよ。
だいたい、司馬遼太郎なんて、大学生くらいまででしょう?おもしろいとか、感動したりしているのは。
社会に出ていれば、司馬作品の問題点なんて、かるーく指摘できちゃうじゃないですか。
この深町みたいな、リアル感のないキャラは社会には絶対いないし。
なにより、司馬作品がおもしろく感じられるのは、歴史そのものがおもしろいってのが、まずあるわけですよ。
司馬遼太郎だから、これが書けたなんて、あります?
単に資料を読み込んで、物語に仕立てた、という程度でしょ。
だいたい、人間のキャラ作りが浅いものー。
僕は高校時代から、大学をマスターで出るまで、司馬作品を読み倒しました。まあ、歴史を知るには、ちょうどいい教科書的に使っていたんですね。
でも、社会に出てからは、池波正太郎の世界にドップリはまりました。
「こういう人間いるよなあ・・・」
当時は社会に出はじめの頃でしたから、社会勉強のひとつとして、池波正太郎作品を楽しんだ。
つまり、人間がリアルに描かれているのが、池波正太郎大先生の作品の特徴なんですね。
池波大先生は、小学生を出て社会に出ています。
だから、十代から、ビビッとに、社会にいる人間を見てきた。
戦争も体験している。
そのあたりの話も、非常にリアル感のある話として、エッセイなどにお書きになられている。
司馬遼太郎のエッセイというのは、なんか、
「学があるんだ、俺」
的に偉そうに書いているんだけど、だいたい、見当違いや、間違い、あてずっぽうが多い。
大人になってから、読んでみると、その浅さがガンガン指摘できちゃうんですよね。
適当に考えて、書いていることが、バレバレなんだよね。
読者をバカにしていることが、ありありとわかっちゃうんだよねー。ま、アホだからね、こいつは。
それに比べて、池波大先生のエッセイは、深いし、なにより、体験によって、もたらされる知によって描かれている。
「人間というものは、しあわせのために生きているのに、ついつい、間違った方向へ行ってしまい、それが、自分を破滅させてしまうこともある」
と、達観している。悪に落ちるのも、たまたま善良だった親父が強盗に殺されたのを見て・・・なんて、いろいろな理不尽を描いている。
人間は公平だ、なんてことは、ひとっことも言わない。
当たり前だ。日本社会は、今も昔も、超競争社会だ。
社会的役割を果すための、競争社会だ。
だから、公平なんてことが、あるわけがない。
皆、しあわせになるために、そりゃー、一生懸命がんばっている。
だけど、その道がついつい、それたりすることもあるわけで、そういう無情な日本社会を描いている。
それでいて、日本社会は、社会的に高度に役割を果す人間には、情細やかな心遣いがされるんだよね。
つまり、使える人間にはご褒美が、使えない人間にはいじめや理不尽が与えられるわけ。
それを、池波正太郎大先生は、体験から理解して、いろいろなストーリーをつくっているんだよね。
だから、リアル感があるし、説得されるんだよねー。
司馬遼太郎は、歴史に材をとって、ストーリーを作ったけど、要は歴史がおもしろいから、司馬作品が人気になっているんだよね。
それに比べて、池波正太郎大先生は、ほぼ創作ですよ。確かに、歴史に材をとる作品もありますけど、「梅安シリーズ」「剣客商売」「鬼平犯科帳」なんて、
設定だけ史実に借りて、物語はすべて創作でしょ?
すごいよねー。池波正太郎先生の力ひとつで人気になっているんですからね。
それは、やはり、池波正太郎大先生のひとを見てきた目があるから、リアル感のあるキャラをストーリーを生み出しているんだよね。
だいたい、梅安シリーズには、男を好きな男同士の殺し屋なんてのも出てくる。
まあ、そういう人たちって、テレビの向こう側はいざしらず、新宿二丁目というごく狭い場所以外では、なかなか見られないひとたちですよ。
それでいて、読んでいてしっくりくる説得力を持っている。
これは、並大抵の経験をしていないですよ、池波正太郎大先生は。
そういう人間観察力や経験の高さが、池波文学の世界を支えているんですね。
僕は池波正太郎大先生のエッセイが殊の外好きですね。
それは、まるで、世慣れたアニキが
「社会ってのは、こういうもんだぜー。ほら、こっち来て見てみろ」
と言ってくれて、いろいろな社会の不思議を体験させてくれるような、そんな暖かさがある。
「男ってのはな、こういう風に生きなきゃいけねーよ」
なーんて、言ってくれる頼りがいのあるところがある。
だから、僕は、池波作品が大好きなんですね。
それに比べて司馬作品は、取り澄ました雰囲気がある。
「俺は大学出のエリートだ。ま、歴史、教えてやるよ」
そういう上から目線の息遣いを感じるんだな。
俺偉い病の症状が見える。
だから、毛嫌いしちゃうわけですよ。
池波正太郎大先生とは、全然違うわけです。
人間の暖かさも、やさしさもね。
例えば、池波正太郎作品には、エッチの場面とかも出てくるわけです。
まあ、子供には、わからない場面でしょうけど、大人だからこそ、わかる、という状況がある。
そこに流れる愛情の形が、暖かく、細やかに表現されている。
池波先生は、遊郭は、おとこの学校だ、ということを言っていました。
僕もそう思いますね。
おとこってなー、弱い生き物ですよ。
例えば、エッチしていて、女性に、
「うまくないのね」
なーんて言われたら、とたんに、だめでしょ?
まあ、普通は、そんなことを言う女性を相手にしないでしょうけど、男性ってのは、それくらい弱い。ナイーブなところがある。
そこを、うまく男性をのせて、気持ちいい思いにさせてあげるんだから、遊郭の女性ってのは、そりゃ、人生の先生みたいなもんですよ。
男を一人前の男にしてくれる。
池波先生は、十代の頃、そういう遊郭に通って、いろいろ人生のよしなし事を遊郭の相方の女性に教わったんだそうです。
今なら中学生の頃とか、そんな頃みたいですよ。
そういう時に、ニ十代前半の女性に、そういうことを教わるってのは、そりゃあ、男にとっちゃあ、夢みたいな話ですねー(笑)。
でも、日本は長くそういう教育の仕方だったんでしょうねー。
そりゃあ、男だって、そういうお姉さんの言う事、聞くでしょうしね。
十代ってなー、まあ、性欲がすごすぎて、有り余っちゃうもんですよ。
だから、校内暴力なんかに向かったり、事件を起こしちゃったりするわけでさ。
日本の経験社会は、そういうのを回避させるために、あえて、そういう女性に相手させて、ガス抜きをしたんだな。
なんていうのかな、女性って、弟みたいな男性にやさしくしたいもんじゃないですか。
それに、十代くらいの男だったら、ニ十代前半のお姉さんに甘えたいもんです。
双方にとって、プラスの関係なんですよね。
それで、男性にとっては、教育も受けられるし、ガス抜きもできる、女性には、お金が入る。
いーやり方だねーこれは。
これが、日本の経験社会のすごいところですよ。ほんと。
池波正太郎大先生の母親ってのが、これがまた、できたひとで、池波先生の当時の相方の女性に、
「いつもありがとうございます」
って、礼に行ったんだそうですよ。ご進物をもってね。
つまり、当時は、そうやって、おとなになっていったんだね。
なんていうのかな。人生を知っているよね、池波先生も、そのお母様も。
そういうことも、ぺろぺろ書いちゃうから、池波先生に、ぞっこんになってしまうわけですよ。
「大先生!」
って、なるわけですよ。
それこそ、人生というものを教えてもらっているからねー。
それに比べて司馬エッセイの浅いこと。
街道を歩いて思いついたことを歴史エッセイにしているわけだけど、そのあたりなんて、大人になれば、誰でも考えつくような内容で、
正直浅いし、人生のなーんの足しにもならない。
そりゃ、まあ、知識の足しにはなるけど、このご時世、歴史に関する情報なんて、溢れかえっている。
だから、司馬エッセイである意味など、あまりないんですよ。
人生とは、何か。
男の生き方とは、何か。
しあわせとは、何か。
こんなあたりを、
「おう、おめえ。こんなの、知っているか?」
と、ニヤリとしながら教えてくれる、人生の先輩の顔がそこにはある。
それが、池波正太郎という男であり、僕が人生の師と慕う大先生なんですねー。
「いいかい。人間ってのが、一番おもしろいんだよ。だから、人間を描きな。おもしろく、深くな」
そんな池波大先生の声が聞こえてくるようです。
だから、僕は、そのあたりを、いつも、書こうとしているんです。
しあわせとは、何か。男の生き方とは、何か。人生とは何なのか。
それが、大人になった僕の書きたいことであり、書いていきたいことなんですね。
ま、池波正太郎大先生に、教えてもらったことに、さらに自分の経験も踏まえて書いているってことかなー。
それが、読者の方々の人生の足しになるなら、うれしいことですけどねー。
そんなことを、考えています。
わかってもらえた、でしょうかねー?
ま、そんなあたりを、考えながら、これからも、ぼちぼち、やっていこうと思いまーす。
ではでは。
さて、午後向け今日二本目の記事、行きましょうかー(って、昼休み向け記事を上げたので、三本目となりましたが(笑))。
えー、月曜日の、ピチピチ通信でも書きましたが、司馬遼太郎氏というのは、
とにかく、人間というものを知りません。
例えば、あの「長州の間者」という作品ですが、
あきらかに、司馬氏は、沖田総司アゲの物語を作りたかった。
だから、剣も出来れば、何でも見えすぎる沖田総司を強調するためだけに、
剣は豪快なのに、人間が小さいという、リアル感の皆無な深町という人物を創り上げたのです。
つまり、ために、作られたキャラなんだよね、深町くんは。
だから、アンバランスで、リアル感皆無な、頭で考えただけのキャラだなーと簡単に見破られてしまうわけですよ。
これね。
まあ、司馬遼太郎論考のカテゴリーで、無数に指摘していますけど、このひと、
「俺は大学出なんだ!新聞記者なんだ!」
という俺偉い病にかかっちゃった患者なんですよね。
「俺は大学出なのに、戦車兵になんかしやがって!俺は偉いんだ!」
と、ずーっっと怨念を持っていたひとなわけですよ。
まあね、当時は、大学出も珍しかったのかもしれません。
でもね、今は、大学出なんて、掃いて捨てるほど、いる。
だいたい、大学なんか出たって、社会では、何の価値もない。
社会に出て、ガンガンいろいろ経験して、やっと仕事が出来るようになってくるんですよ。
そうして、やっと、価値が出来てくるんですよ。
大学出なんて、会社に入るためのパスポートくらいの価値しかありません。
それに、社会というところは、大学出だろうが、小学生出だろうが、仕事が出来るか、どうかの判断基準しかありませんからね。
学歴なんて、一切、関係ないんですよね。
仕事ができるか、どうか。
それだけなんです。
それが、社会というところなんです。
それを、この司馬というおっさんは、
「大学出は偉いんだ。庶民と違うんだ」
と勘違いしたまんまで、その庶民に本を売ることで生きていた。
最低ですよ、こいつ。
それに、歴史上の偉人である西郷隆盛を意図的に貶め、自分の金儲けに使った。
ほんと、最低ですよ。
歴史上の物語を書いて、生計を立てている人間が、偉人を貶めたんですからね。
天に向かってつばするのと、同じことです。
だから、許されるべき、人間ではないんです。
まあ、それに、俺偉い病にかかっちゃったもんだから、周りを見下し、あまり考えることもしない。
だから、その文章が、適当、ゴリ押し、こじつけ、当て推量な文章ばかりになるんです。
とにかく、経験が浅い。
だから、人間というモノを全然知らない。
目ヂカラひとつ、理解していない、お馬鹿さんですからねー、このおっさん。
だから、リアリティのない、深町なんていう、アホなキャラをつくっちゃうわけですよ。
だいたい、司馬遼太郎なんて、大学生くらいまででしょう?おもしろいとか、感動したりしているのは。
社会に出ていれば、司馬作品の問題点なんて、かるーく指摘できちゃうじゃないですか。
この深町みたいな、リアル感のないキャラは社会には絶対いないし。
なにより、司馬作品がおもしろく感じられるのは、歴史そのものがおもしろいってのが、まずあるわけですよ。
司馬遼太郎だから、これが書けたなんて、あります?
単に資料を読み込んで、物語に仕立てた、という程度でしょ。
だいたい、人間のキャラ作りが浅いものー。
僕は高校時代から、大学をマスターで出るまで、司馬作品を読み倒しました。まあ、歴史を知るには、ちょうどいい教科書的に使っていたんですね。
でも、社会に出てからは、池波正太郎の世界にドップリはまりました。
「こういう人間いるよなあ・・・」
当時は社会に出はじめの頃でしたから、社会勉強のひとつとして、池波正太郎作品を楽しんだ。
つまり、人間がリアルに描かれているのが、池波正太郎大先生の作品の特徴なんですね。
池波大先生は、小学生を出て社会に出ています。
だから、十代から、ビビッとに、社会にいる人間を見てきた。
戦争も体験している。
そのあたりの話も、非常にリアル感のある話として、エッセイなどにお書きになられている。
司馬遼太郎のエッセイというのは、なんか、
「学があるんだ、俺」
的に偉そうに書いているんだけど、だいたい、見当違いや、間違い、あてずっぽうが多い。
大人になってから、読んでみると、その浅さがガンガン指摘できちゃうんですよね。
適当に考えて、書いていることが、バレバレなんだよね。
読者をバカにしていることが、ありありとわかっちゃうんだよねー。ま、アホだからね、こいつは。
それに比べて、池波大先生のエッセイは、深いし、なにより、体験によって、もたらされる知によって描かれている。
「人間というものは、しあわせのために生きているのに、ついつい、間違った方向へ行ってしまい、それが、自分を破滅させてしまうこともある」
と、達観している。悪に落ちるのも、たまたま善良だった親父が強盗に殺されたのを見て・・・なんて、いろいろな理不尽を描いている。
人間は公平だ、なんてことは、ひとっことも言わない。
当たり前だ。日本社会は、今も昔も、超競争社会だ。
社会的役割を果すための、競争社会だ。
だから、公平なんてことが、あるわけがない。
皆、しあわせになるために、そりゃー、一生懸命がんばっている。
だけど、その道がついつい、それたりすることもあるわけで、そういう無情な日本社会を描いている。
それでいて、日本社会は、社会的に高度に役割を果す人間には、情細やかな心遣いがされるんだよね。
つまり、使える人間にはご褒美が、使えない人間にはいじめや理不尽が与えられるわけ。
それを、池波正太郎大先生は、体験から理解して、いろいろなストーリーをつくっているんだよね。
だから、リアル感があるし、説得されるんだよねー。
司馬遼太郎は、歴史に材をとって、ストーリーを作ったけど、要は歴史がおもしろいから、司馬作品が人気になっているんだよね。
それに比べて、池波正太郎大先生は、ほぼ創作ですよ。確かに、歴史に材をとる作品もありますけど、「梅安シリーズ」「剣客商売」「鬼平犯科帳」なんて、
設定だけ史実に借りて、物語はすべて創作でしょ?
すごいよねー。池波正太郎先生の力ひとつで人気になっているんですからね。
それは、やはり、池波正太郎大先生のひとを見てきた目があるから、リアル感のあるキャラをストーリーを生み出しているんだよね。
だいたい、梅安シリーズには、男を好きな男同士の殺し屋なんてのも出てくる。
まあ、そういう人たちって、テレビの向こう側はいざしらず、新宿二丁目というごく狭い場所以外では、なかなか見られないひとたちですよ。
それでいて、読んでいてしっくりくる説得力を持っている。
これは、並大抵の経験をしていないですよ、池波正太郎大先生は。
そういう人間観察力や経験の高さが、池波文学の世界を支えているんですね。
僕は池波正太郎大先生のエッセイが殊の外好きですね。
それは、まるで、世慣れたアニキが
「社会ってのは、こういうもんだぜー。ほら、こっち来て見てみろ」
と言ってくれて、いろいろな社会の不思議を体験させてくれるような、そんな暖かさがある。
「男ってのはな、こういう風に生きなきゃいけねーよ」
なーんて、言ってくれる頼りがいのあるところがある。
だから、僕は、池波作品が大好きなんですね。
それに比べて司馬作品は、取り澄ました雰囲気がある。
「俺は大学出のエリートだ。ま、歴史、教えてやるよ」
そういう上から目線の息遣いを感じるんだな。
俺偉い病の症状が見える。
だから、毛嫌いしちゃうわけですよ。
池波正太郎大先生とは、全然違うわけです。
人間の暖かさも、やさしさもね。
例えば、池波正太郎作品には、エッチの場面とかも出てくるわけです。
まあ、子供には、わからない場面でしょうけど、大人だからこそ、わかる、という状況がある。
そこに流れる愛情の形が、暖かく、細やかに表現されている。
池波先生は、遊郭は、おとこの学校だ、ということを言っていました。
僕もそう思いますね。
おとこってなー、弱い生き物ですよ。
例えば、エッチしていて、女性に、
「うまくないのね」
なーんて言われたら、とたんに、だめでしょ?
まあ、普通は、そんなことを言う女性を相手にしないでしょうけど、男性ってのは、それくらい弱い。ナイーブなところがある。
そこを、うまく男性をのせて、気持ちいい思いにさせてあげるんだから、遊郭の女性ってのは、そりゃ、人生の先生みたいなもんですよ。
男を一人前の男にしてくれる。
池波先生は、十代の頃、そういう遊郭に通って、いろいろ人生のよしなし事を遊郭の相方の女性に教わったんだそうです。
今なら中学生の頃とか、そんな頃みたいですよ。
そういう時に、ニ十代前半の女性に、そういうことを教わるってのは、そりゃあ、男にとっちゃあ、夢みたいな話ですねー(笑)。
でも、日本は長くそういう教育の仕方だったんでしょうねー。
そりゃあ、男だって、そういうお姉さんの言う事、聞くでしょうしね。
十代ってなー、まあ、性欲がすごすぎて、有り余っちゃうもんですよ。
だから、校内暴力なんかに向かったり、事件を起こしちゃったりするわけでさ。
日本の経験社会は、そういうのを回避させるために、あえて、そういう女性に相手させて、ガス抜きをしたんだな。
なんていうのかな、女性って、弟みたいな男性にやさしくしたいもんじゃないですか。
それに、十代くらいの男だったら、ニ十代前半のお姉さんに甘えたいもんです。
双方にとって、プラスの関係なんですよね。
それで、男性にとっては、教育も受けられるし、ガス抜きもできる、女性には、お金が入る。
いーやり方だねーこれは。
これが、日本の経験社会のすごいところですよ。ほんと。
池波正太郎大先生の母親ってのが、これがまた、できたひとで、池波先生の当時の相方の女性に、
「いつもありがとうございます」
って、礼に行ったんだそうですよ。ご進物をもってね。
つまり、当時は、そうやって、おとなになっていったんだね。
なんていうのかな。人生を知っているよね、池波先生も、そのお母様も。
そういうことも、ぺろぺろ書いちゃうから、池波先生に、ぞっこんになってしまうわけですよ。
「大先生!」
って、なるわけですよ。
それこそ、人生というものを教えてもらっているからねー。
それに比べて司馬エッセイの浅いこと。
街道を歩いて思いついたことを歴史エッセイにしているわけだけど、そのあたりなんて、大人になれば、誰でも考えつくような内容で、
正直浅いし、人生のなーんの足しにもならない。
そりゃ、まあ、知識の足しにはなるけど、このご時世、歴史に関する情報なんて、溢れかえっている。
だから、司馬エッセイである意味など、あまりないんですよ。
人生とは、何か。
男の生き方とは、何か。
しあわせとは、何か。
こんなあたりを、
「おう、おめえ。こんなの、知っているか?」
と、ニヤリとしながら教えてくれる、人生の先輩の顔がそこにはある。
それが、池波正太郎という男であり、僕が人生の師と慕う大先生なんですねー。
「いいかい。人間ってのが、一番おもしろいんだよ。だから、人間を描きな。おもしろく、深くな」
そんな池波大先生の声が聞こえてくるようです。
だから、僕は、そのあたりを、いつも、書こうとしているんです。
しあわせとは、何か。男の生き方とは、何か。人生とは何なのか。
それが、大人になった僕の書きたいことであり、書いていきたいことなんですね。
ま、池波正太郎大先生に、教えてもらったことに、さらに自分の経験も踏まえて書いているってことかなー。
それが、読者の方々の人生の足しになるなら、うれしいことですけどねー。
そんなことを、考えています。
わかってもらえた、でしょうかねー?
ま、そんなあたりを、考えながら、これからも、ぼちぼち、やっていこうと思いまーす。
ではでは。