「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

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「日清開戦」で語られた「日本人の美徳」

2009年12月27日 | ドラマについての小ネタ
というわけで、今回「日本人としての美徳」という観点で、各シーンを分析してきた
わけですから、それについて、まとめる記事を投稿したい、ということですね。

さて、どんなことを言ってきたかな、と、自分のブログを見直すわけ(笑)です。

まず、出てきたのが、これは海軍さんの白い制服についてのコメントで、これは武家の意識の
「事に望んで死をも厭わず」という死生感が元にあるという話。要はいつ死んでもいいように、
その死に花を白い死に装束で飾るため、海軍の軍服は白である、という話なわけです。
ちょっとあそこの説明だと舌足らずでしたね。

この、「いつ死を迎えてもよいように、生きる」

という考え方が、サムライ意識の根本にあるような気がしますね。いつ死を迎えてもよい、ということは
執着はできるだけもたないようにしなければなりません。自分の死について考えるとき、やはり、
最も考えるのは、周りの家族にもたらす悲しみでしょう。だから、日頃から、そういう言説はしないように、
武家はしつけられているんですね。幕末に戊辰戦争に出征した男子達は、「男を見せる祭りじゃ」といって
喜び合い、女たちはそれを祝福し、出征を見送ったと、物の本にあります。日頃からそういう思考になるように
しつけていたんですね。そうすることによって、強い男子の肝っ玉、強い母の肝っ玉がつくられて
いったんですね。そして、そういう男子を愛する女子が生まれていったんですね。

いつ死を迎えてもよいように、生きる、という言葉は、第一話で好古が、真之に言った
「人生、ひとつのことをなしとげればよい。そのためには、身辺をできるだけ単純にしておけ」
と言うセリフにもつながってきますね。単純にしておけば、いつ死を迎えても執着はないですから。
つまり好古も、武家の死生観をもっていた、という表現になりますね。

さて、余り深入りすると、長くなりますし、この話については、今後幾度も触れることになると
思うので、今回は、これくらいで(笑)。

さて、次に出てくるのは、明治の首脳達が、国際的なルールを正直に守っていた、優等生的に他国に配慮していた、
ということですね。これは、日本人の美質というより、明治という時代におかれていた、当時の日本人として、
置かれた状況(世界からまだまだ、野蛮な国、遅れた国という見られ方をしていた、ということ)から、
目的(紳士的な国となる)を達成するために、必要な態度と見るべきですね。ただ、そういう美質をみせていたことは、
確かだし、未だに同じような態度をとっていますね、この国は。そうみると、どうも日本は、文明開化以来、
ずっと他国アレルギーと呼ばざるを得ませんね。未だにペリーによる威嚇がDNAにでも刷り込まれているように思えますね(笑)。

次は小村寿太郎さんについて、言及していますね。

小国日本の外交官(しかも代理公使)でねずみ大使と言われながら、臆することなく、堂々と丁々発止。
どこか、日本のサムライの果たしあいを感じさせました。やはり、気分においては、この時代の彼らは
サムライだったと言うことができるでしょうね(笑)。

と書いていますが、ここで、興味深いことに、サムライ発言がすでに出ているんですが、後に東郷が薩摩のサムライ的美意識を
持っていることと合わせて、やはりサムライであること、が日本人の美意識のひとつの底流になっているんですね。

次は、東郷さんが山本権兵衛に査問を受けるシーンで、言及があります。

日本人的美徳の説明という観点からは、東郷さんの薩摩武士的美意識が語られておりますね。あと、「用意周到な上にしぶとか」という言葉も。
ということは、明治人にあれだけ見られる美徳というのは、サムライ的美意識から現れていると考えていいんですね。
日本人の美徳の源泉は、薩摩武士的美意識にあったのか・・・というよりサムライにあったんですね、やっぱり。
「ことに及んで、死をおそれず」とか、東郷さんの「決めたことには責任をもつ。必要ならば、腹を切る」といった、物事に対する
シンプルな考えが、そのひとを美しく見せていたんですね。

これも、サムライ的思考について、言及していましたね(笑)。

冒頭においた、「いつ死を迎えてもよいように、生きる」という死生観がすべての源泉になっているような気がしますね。

そういうところから、日本人がものごとに執着することをいやしんだりする態度や、悪いことをしても、禊をすれば、これまでのことは、
あっさりと流し、無かったことにするなどの、日本人的な特徴(世界的に不思議な(笑))も説明できるような気がしますね。
ものごとに執着すれば、いざ死を迎えるときにうろたえる元になる。だから、現世での執着は最低限家族くらいにしておく、
それすら、死に旅立ちやすいようにしつけがしてある、ということです。
さらに禊をすれば、あっさり流し、なかったことにする、という点については、日本の土俗的宗教である「神教」の影響が多いですが、
「過ちを犯した」とその人間が表明すれば、あとは当人が「それが死にあたるか、あたらないか」を検討するだけのことなので、
他者としては、見守るだけ、という考え方なのでしょう。実際、薩摩地方では、古来より、過ちを犯したものが、いた場合、
他人が「それは過ちだ」と指摘するだけで、良かったという話がよく語られますね。当人が、その罪がどれくらいにあたるか、
判断し、死んでいることが多かったといわれていますし。

さて、次は、軍神(笑)、好古さんのシーンで、言及があります。

日本人的な美徳表現という面については、「相手の立場にたって、モノを考え、理解することができる」、
という好古さんの「じいさんにしてみりゃ、迷惑千万じゃ」というセリフに表されていますね。
それと、うらみがましいことを清国じいさんに言われても、怒りもせず、
「酒あんがと」、の礼までおくる好古の態度にも表されています。

この態度というのは、子供の頃から何度も教育された記憶がありますが、日本人の基本的態度と言ってもいいでしょう。
では、なぜ、こんな態度ができあがったか、と言えば、他国の人間とは、全く異なる文化をつくりあげてきた、
非常にオリジナリティ性が高い文化の持ち主であったから、でしょうね。自然、他人と違うことが普通であり、
相手とコミュニケーションをとろうとしたら、「相手の立場にまず、立ってみて考える」ことが必要だったからでしょう。

そうやって、こういう日本人的態度がうまれたと考えています。自分的な考え、ですけどね(笑)。

この日本人的態度は、他国との交渉時にマイナス効果があることが、よく指摘されますね。
自分の態度を押しきれず、相手に譲る場合がしばしばあると。
だったら、こちらの言い分を押し付ければいいか、となるとそうではなく、妥協点を探るのが基本ですが、
それが下手らしいですね。小村寿太郎のように、サムライ的意識をもって、外交を図っていってもらいたいものですね。

もっとも、一端こういう考えを美徳としてもってしまうと、多くの外国の要人の「日本文化」への対応により、

その国の文化のレベルの高さ、低さが露呈しますね。シー・シェパードなんて、単なる動物愛護をたてまえとした、人種差別主義者集団ですからね。
彼らは、そのレベルの低さをすっかり露呈している。

他者には他者のとりまかれた立場があり、それは一端尊重すべきでしょう。そして、基本的人権があることも慮り、そして、
立場が違えばそれについて、議論しあうのが、正当なあり方だと考えます。それもせずに、一方的に暴力をふるうのは、バーバリアンです。
自分の考えを一方的に押し付けようとする、思考停止者です。思考停止者は、ひとですらない。
そういう立場に自分は立っています。

と、まあ、まあ、冷静に、冷静に(笑)。あんなもん、思い出しても単なる時間の浪費だから(笑)。

次は、ムリめに大山さんについて、記述がありますね(笑)。

日本人の美徳表現については、大山さんの「その意気やよし!」という、相手のいい部分を積極的にほめる態度でしょうか。
まあ、だんだん自分でも、無理にこじつけてるような気もしますがね(笑)。

まあ、でも、こういう褒め方をもっている日本人ってのは、いいと思いますがね、素直に。まあ、自分も「レオ様曹長」に、連発しました(笑)。

さて、次は好古の酒飲み軍神化について、こんなことを書いています。

日本人的美徳という観点からはいかがでしょうか。軍神化については、日本人の美徳とはまた違うものですからね。酒飲んでいくさやっちゃうあたり、
豪傑のイメージですが、古来いくさと酒というのは、日本においてはつきものでしたし、そういう日本的な一風景としてみたほうがよいかも
しれませんね(笑)。

まあ、その通りなんですが、美的な一シーンとして、楽しめたことは確かですね。

次は乃木と伊地知のシーンからです。

日本人の美徳的表現ということに関しては、実は、あの遺体に対する礼というものが、日本人の特徴的な部分でもあるようですね。
中国で大地震がおき、日本の救援隊が応援にいきましたが、同様のことをすると、向こうではめずらしがり、多くの現地のひとがその行為に対して、
非常に感謝した、という記事をみたことがあるので、まあ、欧米では普通だったりしますが、ちょっとだけ言及しておきましょう(笑)。

ということですね。日本人の死生観は、やはり特別なものがありますね。

さて、次は、のぼさんです。

日本人の美徳という観点からみると、それこそ、明治人の国家に対する素朴な恋心といったモノが表現されていると見るべきでしょうか。

これは日本人というより明治人の美徳と言うべきでしょうね。今の時代、国家への恋心をどれだけもっているひとがいるか・・・。
それを考えると明治と言う時代は、国家が愛される時代だったんですね。

続いて、のぼさんとりーさんの「紅葉打ち」のシーンです。

日本人的美徳という観点から見ると、やはり、りーさんとのぼさんのみせる
細やかな情愛でしょう。相手のことを思いやり、感情まで抑える。だけど、抑えられない感情もそこにはあるんだよ、それだけ深い関係性なんだよ、と
そういう感性をもっていた明治人達だった、ということを表現しているんでしょうね。

このシーンは自分的には、今回でベストなシーンになりました。まあ、ほんのちょっとしたシーンなんだけど、のぼさんの想いとそれを思いやる
リーさんの想いが交錯して、しかもそれぞれむちゃくちゃ演技派で・・・すっかり涙腺決壊。
視聴者の感情を動かすって、やっぱり難しいと思うしねえ。

こういう細やかな情愛というのは、日本人だけでなく、どの国にもあるとは思いますけどね。ただ、こういう相手のために、表情にさえださないようにする、
というところまで、っていうのが、日本人特有だし、昔はよく見た風景だったような気がします。相手のことを全力で愛するからこそ、
そういう情愛がうまれるんでしょうね。素直に全力でモノに当たれた時代でもあるんですね、明治って。
いや、時代のせいにしては、いけないのかもしれませんね。考えさせられます。

このあたりから、日本人的美徳の表現のないシーンが続きます。そこは割愛しましょう。

さて、つぎにそういうシーンがあるのは、ラストシーン、「東郷と真之の再会」のシーンです。

日本人的美徳の表現というのは、東郷さんのサムライ的考え方くらいかな。それでも十分ですけどね。

ということで、最後もサムライに触れられました。

ここまで、見てくるとわかるとおり、日本人の美意識というのは、サムライの死生観から発生したものが、多いんですね。

そして、サムライであることが、日本人の美的感覚にあうということが、この物語を追ったことによって、わかりましたねぇ。

いやあ、ちょっとまとめただけだけど、この文章だけで、日本人の美徳論になっているねぇ・・・(笑)。

ということは、日本人の美徳の表現という観点をもうけたのは、成功だったといえるでしょうか。

いやぁ、勉強になる。それだけ、中身のある、ドラマだ、ということが言えるでしょうね(笑)。


と、ここまで読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次の投稿でお会いしましょう。お疲れ様でした。








求めているもの

2009年12月27日 | ドラマについての小ネタ
このところ、「日清開戦」についての記事が続いたので、ちょっと気分転換でも(笑)。

まあ、とにかく、続けて読んで頂いている方には、わかると思いますが、

第一回のレベゅ-から、毎回毎回ドンドンレビュースタイルが変わってきています。

それは、最初は「まあ、とにかく書いてみよう」という感じだったのが、毎回毎回

求めているものが増えているからなんですよね、当然の如くなんだけどさ(笑)。

あーこれができたんなら、こうもしたいな、という考えが湧いてきて、

まあ、毎回いろいろ変わっていると。で、今回目指していたのは、各シーン毎の評価をつける、

ということでした。そして、脚本の意図とアゲたもの、サゲたもの、そして日本人的美徳という観点

から眺めてみるという、三つの観点からの評価でした。とりあえず、それはなんとかなったかなー、という気分です。


まず、何を描こうとしているのかを考える契機として脚本意図は?という観点を設定しました。これは普通だよね。

そして、「天地人」について、批判を続けたときに、この「アゲとサゲ」という観点から見ると

だいぶその構造が読めたので、その観点も取り入れた、ということです。

そして、このちょっと変わった観点、「日本人的な美徳」という観点は、

まあ、直感的に、このドラマは、「明治時代人が持っていた、日本人の美徳」を表現しているな、と思ったので、

じゃあ、そういう観点で見てみれば、それが浮き彫りになるかな?と思って設定した観点です。

まあ、それらの観点から、各シーンを眺めることによって、よりこの「坂の上の雲」ってのが、何なのかわかるかなあ、

とぼんやり(笑)考えて、このような形になったわけですね(笑)。


まあ、元来、ドラマウォッチャーでもなんでもない素人ですから、ドラマの評価の仕方も自得しなければできませんから、

自分なりに考えてよかれと思ってやる、というのが、自分に合ってるように思えるのですよね。

まあ、ドラマ視聴について書いてある文献等を調べればあまたの方法が得られるとは思いますが、

そこはそれ、自分なりに考えた方法には愛着もわきますからね。調べて得た方法を使ってなにかの結論を得ても、

なんとなく他人のふんどしで・・・的な感じになりそうで、それでこういう感じになっております。

できれば、観点は増やしたいんですよね。増えれば増えるほど多面的な見方ができるはずです。

そうやって、切り刻む価値がこのドラマにはある。まあ、今回臭みや、罠などが露呈しましたが、

あたりまえです(笑)。そういうのを露呈させるためにやっているんですから。

というより、このドラマを存分に咀嚼し、消化し、楽しむことが目的でやってるわけですからね。

多少の臭みも、趣向のひとつとして、楽しむ気ですから。もちろん評価はシビアにつけますが、

だからといって、短慮に全否定などは、しません。というか、そんな結論、まだ、全然だせませんよぉー(笑)。

まあ、作品としての評価は、例えば今クールが終わったときに(今日だけど(笑))、考えるくらいのものですかね。


「天地人」なんて、ちょっと切り刻んだだけで、簡単に中身が露呈して、それ以来怨嗟の日々が続いた

わけですから、それに比べて(比べるな!(笑))、刻みがいがありますねぇ(笑)。


あと何で、こんなに膨大にセリフの抜き書きをするのか、と言ったら、それは自分が単に能力のない、アホだからです。

例えば、多くのブロガーさんが、本作品一回について、さらりと読みやすく笑える記事を書いていますが、しかもタイムリーに日曜日の夜などに。

はっきり言って自分にはそれはできません。庵主殿のもつ能力など、天才的でうらやましい(笑)。

だから、自分にできる方法を選択すると、こうなっちゃったわけです。セリフを抜き書きし、そのセリフひとつひとつから、

何がしかをとらえ、考えてみる。文脈の前後や、シチュエーション、表現、それらを1つのセリフから考えることで、

見えてくるものがあるはず・・・というより、そこからしか考える能力が自分にないわけです。


というわけで、能力のなさが、こういう方法をとらせているだけなんですねぇ(笑)。


それともうひとつは、この作品を文章化して、それを読んで楽しんでみるのも、違った感慨があるのではないかなあ?

と思ったからです。自分で書いていてなんですが、自分の描いた「高陞号」撃沈シーンあたりを読んでいますと、

映像等も思い出す効果もあり、なかなか盛り上がるんですよね。

違う媒体で、この「坂の上の雲」を感じてみたかった、というのも理由のひとつだったりします。

自分がつけた突っ込み文章等を無視して、純粋に脚本を読む楽しみも味わえることになりますからね。

そういう意味で、こんな感じになってるわけです。


そして、ここで開発した、観点やら、見せ方をさらに発展させながら、大河ドラマ(スペシャルドラマ)と遊んでいきたい、

そんなことを考えてるわけです。つまりは、「遊びたい!」という非常にシンプルな思いなんですね。

だから、モチベーション高いんだな。すぐ、へろへろになるけれどね(笑)。


まあ、今日の自分より明日の自分!(は、進化している)というのは、リアルに感じられますね。まあ、観点が増えていったり、やり方が進化してますから。
あと記事まとめるのも随分速くなりました。もしかしたら、
普通に話しているスピードに近いんじゃないか、という感じだし(笑)。
なんか普通に毎日進化しとるような気がするねー(笑)。

そういうのを自分で楽しめるのもいいですよね。いやあ、ほんと、ブログ初めて良かった(笑)、というのが本音ですな。


しかし、今のところ、存分にこのスペシャルドラマを楽しんでいるなあ(笑)。あとは、もう少しコメントが増えるといいんだけど(笑)。

相変わらずの地味で静かな場所です。まあ、普通、タイムリーで、短く簡潔な記事で、たくさん投稿というのが、ブログ発展の要素らしいんですけど、

ほとんど逆ベクトルだからなー。ま、多くは求めず、これからも質素に地味に行きましょう(笑)。


では、ここまで読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次の投稿で。お疲れ様でした。

「日清開戦」の構造とまとめ

2009年12月27日 | ドラマについての小ネタ
本作品の構造的特徴について、述べたいと思います。

まず、冒頭におかれるのが、東郷提督を主人公とした、
「高陞号」撃破のシーンであります。

このシーンにて、まず、本作は、日清戦争開戦は、日本としては公正な態度であり、
国際法的にも、理にかなった開戦であったことを主張しております。
それに対して、清国側は、イギリス人を人質にとるような、悪辣なあり方があったと、
非難する立場をとっています。
さらに、いくさの勝利者としての、東郷及び日本を描くことにより、視聴者の気分を
まず、盛り上げています。

本シーンと対になるのが、真之が航海士として、乗り込み砲台に対して、艦砲射撃を実施した
シーンを描いた、「艦砲射撃のシーン」です。
真之らは敵砲台に対して、艦砲射撃を実施するが、艦側も相当な被害を受け、
真之も信頼していた原田水兵以下を亡くします。それは、敗者の風景であり、戦争の実際の悲劇が
描かれています。このシーンに対して、真之と部下との団欒及び信頼関係を描いたシーンが、
その直前にあり、この2つのシーンと、冒頭の「高陞号」撃破のシーンが、いくさの勝者、
敗者という描かれ方で、対となり、本作の強い背骨となっています。

冒頭の「高陞号」撃破のシーンに連なるのが、問題の処理のその後の有様を描く、
「日本首脳の困惑」、「ねずみ公使」、「権兵衛による査問」シーン
となります。この一連のシーンにより、列強に対して侮られない外交の実施、清国をリードする外交の実施、
東郷の正当性の確認、が語られていきます。この流れは、日本と東郷が主人公となって、語られています。

その後、今度は日本陸軍、秋山好古率いる歩兵隊と、騎兵隊の活躍が語られます。
まず、好古と部下たちの風景が描かれ、好古がその戦略的能力が高いことが語られます。それは、大将である
大山も認めるところであります。さらに、好古が部下より慕われている風景が描かれ、その人望の厚さが描かれています。

風景は、まず、好古の幕下の部隊が、前進するところから描かれています。突然巨大な敵部隊と遭遇、
最初からまず、不利で、さらに、ひどくなるが、好古は戦場酒に酔い、そして、潰走した部隊を
立て直すために、たった一騎にて、前線に出て、部下たちを叱咤激励し、酒まで飲み干すパフォーマンスにて、
その立て直しを図ります。部隊の士気は復活し、攻撃力も復活しますが、敵軍主力が押し出してきたため、撤退します。

未だ、整備途中の中途半端な陸軍と騎兵という印象を残します。

しかし、一方で、当初の敵であった、旅順要塞は、日本陸軍の手により、たった一日で陥落させられたことが語られます。

もう一方の主人公である、文学者のぼさんは、俳句革新の旗頭として、主に蕪村の再評価の仕事を実施しています。
しかし、国家への恋心やまず、従軍することを、その師、陸羯南に申しでます。陸は、子規の体調を心配し、
これを認めませんでしたが(「新聞日本での日々」シーン)、ついに従軍を許可します(「従軍許可」シーン)。
清国に渡ったのぼは、その眼で、清国の悲惨さを見ると同時に、日本兵の不遜さにも出会い(「従軍により見たもの」シーン)、
戦場で出会った森鴎外と親しく話します。鴎外は、日清戦争の結果について、解説し、
いくさより、病気にて失った兵が多いことを嘆きます(「鴎外との会話」シーン)。
のぼは、帰国しますが、その帰国途上の船で、再度、重度な喀血を起こしてしまいます(「帰国途上の喀血」シーン)。

「艦砲射撃のシーン」に続き、真之の心情を語る「軍人であることへの懐疑」シーンがあり、これにより、自信を喪失し、自身が軍人に向いていないのではないか、
とする懐疑をもつシーンが語られます。真之は部下を失ったことで、傷つき、深い懐疑の闇に落ち込みます。

その「軍人であることへの懐疑」シーンにに続き、連なるのが、最終シーンとなる、「東郷との再開」シーンであります。
自信を失った真之は、「高陞号」を打ち破り、「権兵衛による査問」でその将たる能力を絶賛された東郷により、癒され、
新たな道を見出し、自信を取り戻します。そして、この二人の再開シーンは、未来への予兆を提示し、
終了となります。物語の本筋は、「高陞号」撃破のシーン、「艦砲射撃のシーン」、「軍人であることへの懐疑」、「東郷との再開」シーンであり、
別の流れとして、「のぼさんの流れ」「好古の流れ」が並列に流れています。

今回は、「のぼさんの流れ」で、若干違和感のある、シーンが続いたものの、構造的には問題ないと考えています。

「のぼさんの流れ」は、「新聞日本での日々」「紅葉うち」「従軍許可」「従軍により見たもの」「鴎外との会話」のシーンで表現されています。
「従軍許可」のシーンでの、母親の指摘シーンに問題があった他、「従軍により見たもの」に登場する日本兵が、なぜか、昭和の兵であった、
問題がありますが、それ以外は、問題はなかったと考えています。

「好古の流れ」については、「好古と部下」のシーンと、「好古前進」のシーンのみの構成であり、今回はシンプルな構成となった感があります。

その構造について、まとめると、

まず、全ての前提として、日本の日清戦争開戦の正当性を主張した「「高陞号」撃破のシーン」が存在します。
そして、日本を主人公とする、「日本首脳の困惑」「ねずみ公使」があります。
次に、東郷を主人公にする「権兵衛による査問」が続きます。

真之については、「部下との団欒」「艦砲射撃」「軍人であることへの懐疑」「東郷との再会」(ラストシーン)という流れであり、

のぼさんについては、「新聞日本での日々」「紅葉うち」「従軍許可」「従軍により見たもの」「鴎外との会話」「帰国途上の喀血」という流れ、

好古については、「好古と部下」「好古前進」

となっており、のぼさんについて、比較的多く語られたことが、わかります。

一連の流れをみて、まとめると、

日本が、日清戦争を起こした理由は正当であり、国際的にも問題はなかった。清国側は事態を甘くみており、兵の士気も低く、結局敗残した。
東郷は、「高陞号」を国際法的に適性な手順を踏み、撃破した。その将としての資質についても激賞された。
真之は、今回、いくさに従軍し、部下を失い、自信を失うものの、東郷との会話により、自信を回復した。
のぼさんは、俳句革新運動を進めながら、日本国家に恋し、従軍し、いろいろな現実をその眼で見て、帰国途上で喀血した。
好古は、部下から信頼される、戦略眼もある将であるが、未だ、陸軍及び騎兵の発展は、中途半端だった。

となりますね。

のぼさんは、その死が近いから、真之や好古より、分量が多めなのでしょう。少し寂しい気もしますが(笑)。