というわけで、今回「日本人としての美徳」という観点で、各シーンを分析してきた
わけですから、それについて、まとめる記事を投稿したい、ということですね。
さて、どんなことを言ってきたかな、と、自分のブログを見直すわけ(笑)です。
まず、出てきたのが、これは海軍さんの白い制服についてのコメントで、これは武家の意識の
「事に望んで死をも厭わず」という死生感が元にあるという話。要はいつ死んでもいいように、
その死に花を白い死に装束で飾るため、海軍の軍服は白である、という話なわけです。
ちょっとあそこの説明だと舌足らずでしたね。
この、「いつ死を迎えてもよいように、生きる」
という考え方が、サムライ意識の根本にあるような気がしますね。いつ死を迎えてもよい、ということは
執着はできるだけもたないようにしなければなりません。自分の死について考えるとき、やはり、
最も考えるのは、周りの家族にもたらす悲しみでしょう。だから、日頃から、そういう言説はしないように、
武家はしつけられているんですね。幕末に戊辰戦争に出征した男子達は、「男を見せる祭りじゃ」といって
喜び合い、女たちはそれを祝福し、出征を見送ったと、物の本にあります。日頃からそういう思考になるように
しつけていたんですね。そうすることによって、強い男子の肝っ玉、強い母の肝っ玉がつくられて
いったんですね。そして、そういう男子を愛する女子が生まれていったんですね。
いつ死を迎えてもよいように、生きる、という言葉は、第一話で好古が、真之に言った
「人生、ひとつのことをなしとげればよい。そのためには、身辺をできるだけ単純にしておけ」
と言うセリフにもつながってきますね。単純にしておけば、いつ死を迎えても執着はないですから。
つまり好古も、武家の死生観をもっていた、という表現になりますね。
さて、余り深入りすると、長くなりますし、この話については、今後幾度も触れることになると
思うので、今回は、これくらいで(笑)。
さて、次に出てくるのは、明治の首脳達が、国際的なルールを正直に守っていた、優等生的に他国に配慮していた、
ということですね。これは、日本人の美質というより、明治という時代におかれていた、当時の日本人として、
置かれた状況(世界からまだまだ、野蛮な国、遅れた国という見られ方をしていた、ということ)から、
目的(紳士的な国となる)を達成するために、必要な態度と見るべきですね。ただ、そういう美質をみせていたことは、
確かだし、未だに同じような態度をとっていますね、この国は。そうみると、どうも日本は、文明開化以来、
ずっと他国アレルギーと呼ばざるを得ませんね。未だにペリーによる威嚇がDNAにでも刷り込まれているように思えますね(笑)。
次は小村寿太郎さんについて、言及していますね。
小国日本の外交官(しかも代理公使)でねずみ大使と言われながら、臆することなく、堂々と丁々発止。
どこか、日本のサムライの果たしあいを感じさせました。やはり、気分においては、この時代の彼らは
サムライだったと言うことができるでしょうね(笑)。
と書いていますが、ここで、興味深いことに、サムライ発言がすでに出ているんですが、後に東郷が薩摩のサムライ的美意識を
持っていることと合わせて、やはりサムライであること、が日本人の美意識のひとつの底流になっているんですね。
次は、東郷さんが山本権兵衛に査問を受けるシーンで、言及があります。
日本人的美徳の説明という観点からは、東郷さんの薩摩武士的美意識が語られておりますね。あと、「用意周到な上にしぶとか」という言葉も。
ということは、明治人にあれだけ見られる美徳というのは、サムライ的美意識から現れていると考えていいんですね。
日本人の美徳の源泉は、薩摩武士的美意識にあったのか・・・というよりサムライにあったんですね、やっぱり。
「ことに及んで、死をおそれず」とか、東郷さんの「決めたことには責任をもつ。必要ならば、腹を切る」といった、物事に対する
シンプルな考えが、そのひとを美しく見せていたんですね。
これも、サムライ的思考について、言及していましたね(笑)。
冒頭においた、「いつ死を迎えてもよいように、生きる」という死生観がすべての源泉になっているような気がしますね。
そういうところから、日本人がものごとに執着することをいやしんだりする態度や、悪いことをしても、禊をすれば、これまでのことは、
あっさりと流し、無かったことにするなどの、日本人的な特徴(世界的に不思議な(笑))も説明できるような気がしますね。
ものごとに執着すれば、いざ死を迎えるときにうろたえる元になる。だから、現世での執着は最低限家族くらいにしておく、
それすら、死に旅立ちやすいようにしつけがしてある、ということです。
さらに禊をすれば、あっさり流し、なかったことにする、という点については、日本の土俗的宗教である「神教」の影響が多いですが、
「過ちを犯した」とその人間が表明すれば、あとは当人が「それが死にあたるか、あたらないか」を検討するだけのことなので、
他者としては、見守るだけ、という考え方なのでしょう。実際、薩摩地方では、古来より、過ちを犯したものが、いた場合、
他人が「それは過ちだ」と指摘するだけで、良かったという話がよく語られますね。当人が、その罪がどれくらいにあたるか、
判断し、死んでいることが多かったといわれていますし。
さて、次は、軍神(笑)、好古さんのシーンで、言及があります。
日本人的な美徳表現という面については、「相手の立場にたって、モノを考え、理解することができる」、
という好古さんの「じいさんにしてみりゃ、迷惑千万じゃ」というセリフに表されていますね。
それと、うらみがましいことを清国じいさんに言われても、怒りもせず、
「酒あんがと」、の礼までおくる好古の態度にも表されています。
この態度というのは、子供の頃から何度も教育された記憶がありますが、日本人の基本的態度と言ってもいいでしょう。
では、なぜ、こんな態度ができあがったか、と言えば、他国の人間とは、全く異なる文化をつくりあげてきた、
非常にオリジナリティ性が高い文化の持ち主であったから、でしょうね。自然、他人と違うことが普通であり、
相手とコミュニケーションをとろうとしたら、「相手の立場にまず、立ってみて考える」ことが必要だったからでしょう。
そうやって、こういう日本人的態度がうまれたと考えています。自分的な考え、ですけどね(笑)。
この日本人的態度は、他国との交渉時にマイナス効果があることが、よく指摘されますね。
自分の態度を押しきれず、相手に譲る場合がしばしばあると。
だったら、こちらの言い分を押し付ければいいか、となるとそうではなく、妥協点を探るのが基本ですが、
それが下手らしいですね。小村寿太郎のように、サムライ的意識をもって、外交を図っていってもらいたいものですね。
もっとも、一端こういう考えを美徳としてもってしまうと、多くの外国の要人の「日本文化」への対応により、
その国の文化のレベルの高さ、低さが露呈しますね。シー・シェパードなんて、単なる動物愛護をたてまえとした、人種差別主義者集団ですからね。
彼らは、そのレベルの低さをすっかり露呈している。
他者には他者のとりまかれた立場があり、それは一端尊重すべきでしょう。そして、基本的人権があることも慮り、そして、
立場が違えばそれについて、議論しあうのが、正当なあり方だと考えます。それもせずに、一方的に暴力をふるうのは、バーバリアンです。
自分の考えを一方的に押し付けようとする、思考停止者です。思考停止者は、ひとですらない。
そういう立場に自分は立っています。
と、まあ、まあ、冷静に、冷静に(笑)。あんなもん、思い出しても単なる時間の浪費だから(笑)。
次は、ムリめに大山さんについて、記述がありますね(笑)。
日本人の美徳表現については、大山さんの「その意気やよし!」という、相手のいい部分を積極的にほめる態度でしょうか。
まあ、だんだん自分でも、無理にこじつけてるような気もしますがね(笑)。
まあ、でも、こういう褒め方をもっている日本人ってのは、いいと思いますがね、素直に。まあ、自分も「レオ様曹長」に、連発しました(笑)。
さて、次は好古の酒飲み軍神化について、こんなことを書いています。
日本人的美徳という観点からはいかがでしょうか。軍神化については、日本人の美徳とはまた違うものですからね。酒飲んでいくさやっちゃうあたり、
豪傑のイメージですが、古来いくさと酒というのは、日本においてはつきものでしたし、そういう日本的な一風景としてみたほうがよいかも
しれませんね(笑)。
まあ、その通りなんですが、美的な一シーンとして、楽しめたことは確かですね。
次は乃木と伊地知のシーンからです。
日本人の美徳的表現ということに関しては、実は、あの遺体に対する礼というものが、日本人の特徴的な部分でもあるようですね。
中国で大地震がおき、日本の救援隊が応援にいきましたが、同様のことをすると、向こうではめずらしがり、多くの現地のひとがその行為に対して、
非常に感謝した、という記事をみたことがあるので、まあ、欧米では普通だったりしますが、ちょっとだけ言及しておきましょう(笑)。
ということですね。日本人の死生観は、やはり特別なものがありますね。
さて、次は、のぼさんです。
日本人の美徳という観点からみると、それこそ、明治人の国家に対する素朴な恋心といったモノが表現されていると見るべきでしょうか。
これは日本人というより明治人の美徳と言うべきでしょうね。今の時代、国家への恋心をどれだけもっているひとがいるか・・・。
それを考えると明治と言う時代は、国家が愛される時代だったんですね。
続いて、のぼさんとりーさんの「紅葉打ち」のシーンです。
日本人的美徳という観点から見ると、やはり、りーさんとのぼさんのみせる
細やかな情愛でしょう。相手のことを思いやり、感情まで抑える。だけど、抑えられない感情もそこにはあるんだよ、それだけ深い関係性なんだよ、と
そういう感性をもっていた明治人達だった、ということを表現しているんでしょうね。
このシーンは自分的には、今回でベストなシーンになりました。まあ、ほんのちょっとしたシーンなんだけど、のぼさんの想いとそれを思いやる
リーさんの想いが交錯して、しかもそれぞれむちゃくちゃ演技派で・・・すっかり涙腺決壊。
視聴者の感情を動かすって、やっぱり難しいと思うしねえ。
こういう細やかな情愛というのは、日本人だけでなく、どの国にもあるとは思いますけどね。ただ、こういう相手のために、表情にさえださないようにする、
というところまで、っていうのが、日本人特有だし、昔はよく見た風景だったような気がします。相手のことを全力で愛するからこそ、
そういう情愛がうまれるんでしょうね。素直に全力でモノに当たれた時代でもあるんですね、明治って。
いや、時代のせいにしては、いけないのかもしれませんね。考えさせられます。
このあたりから、日本人的美徳の表現のないシーンが続きます。そこは割愛しましょう。
さて、つぎにそういうシーンがあるのは、ラストシーン、「東郷と真之の再会」のシーンです。
日本人的美徳の表現というのは、東郷さんのサムライ的考え方くらいかな。それでも十分ですけどね。
ということで、最後もサムライに触れられました。
ここまで、見てくるとわかるとおり、日本人の美意識というのは、サムライの死生観から発生したものが、多いんですね。
そして、サムライであることが、日本人の美的感覚にあうということが、この物語を追ったことによって、わかりましたねぇ。
いやあ、ちょっとまとめただけだけど、この文章だけで、日本人の美徳論になっているねぇ・・・(笑)。
ということは、日本人の美徳の表現という観点をもうけたのは、成功だったといえるでしょうか。
いやぁ、勉強になる。それだけ、中身のある、ドラマだ、ということが言えるでしょうね(笑)。
と、ここまで読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。
また、次の投稿でお会いしましょう。お疲れ様でした。
わけですから、それについて、まとめる記事を投稿したい、ということですね。
さて、どんなことを言ってきたかな、と、自分のブログを見直すわけ(笑)です。
まず、出てきたのが、これは海軍さんの白い制服についてのコメントで、これは武家の意識の
「事に望んで死をも厭わず」という死生感が元にあるという話。要はいつ死んでもいいように、
その死に花を白い死に装束で飾るため、海軍の軍服は白である、という話なわけです。
ちょっとあそこの説明だと舌足らずでしたね。
この、「いつ死を迎えてもよいように、生きる」
という考え方が、サムライ意識の根本にあるような気がしますね。いつ死を迎えてもよい、ということは
執着はできるだけもたないようにしなければなりません。自分の死について考えるとき、やはり、
最も考えるのは、周りの家族にもたらす悲しみでしょう。だから、日頃から、そういう言説はしないように、
武家はしつけられているんですね。幕末に戊辰戦争に出征した男子達は、「男を見せる祭りじゃ」といって
喜び合い、女たちはそれを祝福し、出征を見送ったと、物の本にあります。日頃からそういう思考になるように
しつけていたんですね。そうすることによって、強い男子の肝っ玉、強い母の肝っ玉がつくられて
いったんですね。そして、そういう男子を愛する女子が生まれていったんですね。
いつ死を迎えてもよいように、生きる、という言葉は、第一話で好古が、真之に言った
「人生、ひとつのことをなしとげればよい。そのためには、身辺をできるだけ単純にしておけ」
と言うセリフにもつながってきますね。単純にしておけば、いつ死を迎えても執着はないですから。
つまり好古も、武家の死生観をもっていた、という表現になりますね。
さて、余り深入りすると、長くなりますし、この話については、今後幾度も触れることになると
思うので、今回は、これくらいで(笑)。
さて、次に出てくるのは、明治の首脳達が、国際的なルールを正直に守っていた、優等生的に他国に配慮していた、
ということですね。これは、日本人の美質というより、明治という時代におかれていた、当時の日本人として、
置かれた状況(世界からまだまだ、野蛮な国、遅れた国という見られ方をしていた、ということ)から、
目的(紳士的な国となる)を達成するために、必要な態度と見るべきですね。ただ、そういう美質をみせていたことは、
確かだし、未だに同じような態度をとっていますね、この国は。そうみると、どうも日本は、文明開化以来、
ずっと他国アレルギーと呼ばざるを得ませんね。未だにペリーによる威嚇がDNAにでも刷り込まれているように思えますね(笑)。
次は小村寿太郎さんについて、言及していますね。
小国日本の外交官(しかも代理公使)でねずみ大使と言われながら、臆することなく、堂々と丁々発止。
どこか、日本のサムライの果たしあいを感じさせました。やはり、気分においては、この時代の彼らは
サムライだったと言うことができるでしょうね(笑)。
と書いていますが、ここで、興味深いことに、サムライ発言がすでに出ているんですが、後に東郷が薩摩のサムライ的美意識を
持っていることと合わせて、やはりサムライであること、が日本人の美意識のひとつの底流になっているんですね。
次は、東郷さんが山本権兵衛に査問を受けるシーンで、言及があります。
日本人的美徳の説明という観点からは、東郷さんの薩摩武士的美意識が語られておりますね。あと、「用意周到な上にしぶとか」という言葉も。
ということは、明治人にあれだけ見られる美徳というのは、サムライ的美意識から現れていると考えていいんですね。
日本人の美徳の源泉は、薩摩武士的美意識にあったのか・・・というよりサムライにあったんですね、やっぱり。
「ことに及んで、死をおそれず」とか、東郷さんの「決めたことには責任をもつ。必要ならば、腹を切る」といった、物事に対する
シンプルな考えが、そのひとを美しく見せていたんですね。
これも、サムライ的思考について、言及していましたね(笑)。
冒頭においた、「いつ死を迎えてもよいように、生きる」という死生観がすべての源泉になっているような気がしますね。
そういうところから、日本人がものごとに執着することをいやしんだりする態度や、悪いことをしても、禊をすれば、これまでのことは、
あっさりと流し、無かったことにするなどの、日本人的な特徴(世界的に不思議な(笑))も説明できるような気がしますね。
ものごとに執着すれば、いざ死を迎えるときにうろたえる元になる。だから、現世での執着は最低限家族くらいにしておく、
それすら、死に旅立ちやすいようにしつけがしてある、ということです。
さらに禊をすれば、あっさり流し、なかったことにする、という点については、日本の土俗的宗教である「神教」の影響が多いですが、
「過ちを犯した」とその人間が表明すれば、あとは当人が「それが死にあたるか、あたらないか」を検討するだけのことなので、
他者としては、見守るだけ、という考え方なのでしょう。実際、薩摩地方では、古来より、過ちを犯したものが、いた場合、
他人が「それは過ちだ」と指摘するだけで、良かったという話がよく語られますね。当人が、その罪がどれくらいにあたるか、
判断し、死んでいることが多かったといわれていますし。
さて、次は、軍神(笑)、好古さんのシーンで、言及があります。
日本人的な美徳表現という面については、「相手の立場にたって、モノを考え、理解することができる」、
という好古さんの「じいさんにしてみりゃ、迷惑千万じゃ」というセリフに表されていますね。
それと、うらみがましいことを清国じいさんに言われても、怒りもせず、
「酒あんがと」、の礼までおくる好古の態度にも表されています。
この態度というのは、子供の頃から何度も教育された記憶がありますが、日本人の基本的態度と言ってもいいでしょう。
では、なぜ、こんな態度ができあがったか、と言えば、他国の人間とは、全く異なる文化をつくりあげてきた、
非常にオリジナリティ性が高い文化の持ち主であったから、でしょうね。自然、他人と違うことが普通であり、
相手とコミュニケーションをとろうとしたら、「相手の立場にまず、立ってみて考える」ことが必要だったからでしょう。
そうやって、こういう日本人的態度がうまれたと考えています。自分的な考え、ですけどね(笑)。
この日本人的態度は、他国との交渉時にマイナス効果があることが、よく指摘されますね。
自分の態度を押しきれず、相手に譲る場合がしばしばあると。
だったら、こちらの言い分を押し付ければいいか、となるとそうではなく、妥協点を探るのが基本ですが、
それが下手らしいですね。小村寿太郎のように、サムライ的意識をもって、外交を図っていってもらいたいものですね。
もっとも、一端こういう考えを美徳としてもってしまうと、多くの外国の要人の「日本文化」への対応により、
その国の文化のレベルの高さ、低さが露呈しますね。シー・シェパードなんて、単なる動物愛護をたてまえとした、人種差別主義者集団ですからね。
彼らは、そのレベルの低さをすっかり露呈している。
他者には他者のとりまかれた立場があり、それは一端尊重すべきでしょう。そして、基本的人権があることも慮り、そして、
立場が違えばそれについて、議論しあうのが、正当なあり方だと考えます。それもせずに、一方的に暴力をふるうのは、バーバリアンです。
自分の考えを一方的に押し付けようとする、思考停止者です。思考停止者は、ひとですらない。
そういう立場に自分は立っています。
と、まあ、まあ、冷静に、冷静に(笑)。あんなもん、思い出しても単なる時間の浪費だから(笑)。
次は、ムリめに大山さんについて、記述がありますね(笑)。
日本人の美徳表現については、大山さんの「その意気やよし!」という、相手のいい部分を積極的にほめる態度でしょうか。
まあ、だんだん自分でも、無理にこじつけてるような気もしますがね(笑)。
まあ、でも、こういう褒め方をもっている日本人ってのは、いいと思いますがね、素直に。まあ、自分も「レオ様曹長」に、連発しました(笑)。
さて、次は好古の酒飲み軍神化について、こんなことを書いています。
日本人的美徳という観点からはいかがでしょうか。軍神化については、日本人の美徳とはまた違うものですからね。酒飲んでいくさやっちゃうあたり、
豪傑のイメージですが、古来いくさと酒というのは、日本においてはつきものでしたし、そういう日本的な一風景としてみたほうがよいかも
しれませんね(笑)。
まあ、その通りなんですが、美的な一シーンとして、楽しめたことは確かですね。
次は乃木と伊地知のシーンからです。
日本人の美徳的表現ということに関しては、実は、あの遺体に対する礼というものが、日本人の特徴的な部分でもあるようですね。
中国で大地震がおき、日本の救援隊が応援にいきましたが、同様のことをすると、向こうではめずらしがり、多くの現地のひとがその行為に対して、
非常に感謝した、という記事をみたことがあるので、まあ、欧米では普通だったりしますが、ちょっとだけ言及しておきましょう(笑)。
ということですね。日本人の死生観は、やはり特別なものがありますね。
さて、次は、のぼさんです。
日本人の美徳という観点からみると、それこそ、明治人の国家に対する素朴な恋心といったモノが表現されていると見るべきでしょうか。
これは日本人というより明治人の美徳と言うべきでしょうね。今の時代、国家への恋心をどれだけもっているひとがいるか・・・。
それを考えると明治と言う時代は、国家が愛される時代だったんですね。
続いて、のぼさんとりーさんの「紅葉打ち」のシーンです。
日本人的美徳という観点から見ると、やはり、りーさんとのぼさんのみせる
細やかな情愛でしょう。相手のことを思いやり、感情まで抑える。だけど、抑えられない感情もそこにはあるんだよ、それだけ深い関係性なんだよ、と
そういう感性をもっていた明治人達だった、ということを表現しているんでしょうね。
このシーンは自分的には、今回でベストなシーンになりました。まあ、ほんのちょっとしたシーンなんだけど、のぼさんの想いとそれを思いやる
リーさんの想いが交錯して、しかもそれぞれむちゃくちゃ演技派で・・・すっかり涙腺決壊。
視聴者の感情を動かすって、やっぱり難しいと思うしねえ。
こういう細やかな情愛というのは、日本人だけでなく、どの国にもあるとは思いますけどね。ただ、こういう相手のために、表情にさえださないようにする、
というところまで、っていうのが、日本人特有だし、昔はよく見た風景だったような気がします。相手のことを全力で愛するからこそ、
そういう情愛がうまれるんでしょうね。素直に全力でモノに当たれた時代でもあるんですね、明治って。
いや、時代のせいにしては、いけないのかもしれませんね。考えさせられます。
このあたりから、日本人的美徳の表現のないシーンが続きます。そこは割愛しましょう。
さて、つぎにそういうシーンがあるのは、ラストシーン、「東郷と真之の再会」のシーンです。
日本人的美徳の表現というのは、東郷さんのサムライ的考え方くらいかな。それでも十分ですけどね。
ということで、最後もサムライに触れられました。
ここまで、見てくるとわかるとおり、日本人の美意識というのは、サムライの死生観から発生したものが、多いんですね。
そして、サムライであることが、日本人の美的感覚にあうということが、この物語を追ったことによって、わかりましたねぇ。
いやあ、ちょっとまとめただけだけど、この文章だけで、日本人の美徳論になっているねぇ・・・(笑)。
ということは、日本人の美徳の表現という観点をもうけたのは、成功だったといえるでしょうか。
いやぁ、勉強になる。それだけ、中身のある、ドラマだ、ということが言えるでしょうね(笑)。
と、ここまで読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。
また、次の投稿でお会いしましょう。お疲れ様でした。