世界に一つだけの姥花日記

貴方は貴方らしく私は私らしく、世界にただ一つだけのきれいな花を一生懸命咲かせましょう。
シニア主婦の平凡な日記です。

故郷で過ごした有意義な3日間 その2

2015年04月07日 | 国内旅行


<広島元安川辺の桜 この川には多くの被爆者が水を求め、また熱さにに耐えられず飛び込んだと言われています>>

桜満開の美しい雨の京都でしたが、気持ちは故郷「広島」に向いており、同日夕刻早々に広島入りしました。

懐かしい広島駅は大改修中で、右往左往。予約してあった駅前のホテルに入り、一服する間も惜しんで街に繰り出しました。

育った街ながら、地図を片手に歩く始末。完全に観光の人となってしまった私です。

この日の目的地は縮景園。午後6時までの開園と聞いていたのでちょっぴり焦りました。
(実際はこの桜の時期、ライトアップのため8時まで開園でした、ラッキー!)

まず中心地(八丁堀)まで電車に乗り、そこからそぞろ歩きながら、母校の高校を訪れ、縮景園に。


<我が母校>

縮景園は広島藩主浅野長晟(ながあきら)により、1620年(元和6年)、別邸として築成されたものです。

園の名称は幾多の景勝を縮めて表現したことによって付けられた名前とか。

高校が近くにあったため、よく訪れた園庭でしたが、名前の由来などその当時は知る由もありませんでした。

池の中央にかけられたお太鼓橋のような跨虹橋(ここうきょう)は、縮景園の代表的な、私にとっては懐かしい光景です。

1945年、この縮景園も投下された原子爆弾により壊滅的被害を受けました。爆心地に近いですから当然でしょう。

縮景園は空襲時、市民の避難先に指定されており、被爆直後は多くの被災者で溢れかえっていたと言われています。

今は美しい庭園ですが、それを思うと艶やかな桜の花々にも憂いを感じます。

午後6時からライトアップ!

ほの暗くなった園内に浮かび上がる夜桜はどこか怪しげな艶やかさを放ち、昼間とはまた違った美しさです。

7時前に縮景園を後にし、広島駅前のホテルまで15分、歩いて戻りました。

途中本場広島お好み焼きに舌鼓を打ち、満足満足!

 

翌日は晴れ!集合の11時半まで時間を有効に使うべく、久しぶりに訪れた平和記念公園は、川べりの桜が満開でした。

平和祈念資料館にも時間があったので入館してみました。恐らく何十年ぶりでしょう。

その資料館に納められた被爆者の遺品や被爆者の惨状を示す写真や資料の展示に、

核の恐ろしさを改めて痛感したことは言うまでもなく、悲しみに心が震えました。

原爆の惨禍から蘇った広島の核廃絶の願いがこの展示物に込められ、無言の叫びが聞えるようでした。。

是非全世界のひとりでも多くの人々にこの資料館を訪れて欲しいと、被爆2世の私は心からそう思いました。

フラッシュなしで、写真撮影は許され、何枚かカメラに納めましたが、その惨状はブログに載せるには偲びがたく、

アップするのは止めておき、建物のみアップいたします。

ハーモニカ型をしたこの資料館は丹下健三氏の設計です。ユニークな形ですね。


<原爆死没者慰霊碑 毎年8月6日の原爆の日、その年に亡くなった被爆者の名前が死没者名簿に書き足されます。
私の両親の名も、夫の父の名もここに書きこまれています>


<原爆の子の像 2歳のときに被爆し、10年後白血病で亡くなった佐々木貞子さんは、
闘病生活の中で回復を祈って千羽鶴を折り続けました。生きていらっしゃれば私の姉(かれん桜)と同い年です>

最後に原爆ドーム!

残念ながら原爆ドームは3年に一度の割合で実施されるドームの状態把握の健全度調査中でした。

戦後70年、ドームの傷みも相当なものですが、ノーモア広島のためにも、その保存には力を尽くさねばなりません。

原爆ドームの詳しいことはコチラをご覧下さい。

 

ホテルに戻ったところで丁度友達も集まり、ホテルで軽い昼食をとった後、

今回の真の広島行きの目的である亡き恩師のご仏前にお参りに、奥様の待つ先生のご自宅へ友の車で向かいました。

<続く>

 

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コメント (6)
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