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YUKI

言語、言語で表現できることすべて

太陽と鉄

2005-03-14 15:43:41 | 閑話休題
三島由紀夫初期作品『仮面の告白』に対応する晩年の作は『太陽と鉄』である。
『太陽と鉄』で三島は、
「胸囲1メートルを超える男の見る世界は・・・」
「胸囲1メートルを超える男は私だったのだ・・・」
などと書いている。
昭和の年数と年齢が一致する彼は昭和30年の第一次ボディビルブームにのり、
ベンチプレスでは80キロでセットをこなすまでになった。
なぜボディビルなのか?
いろいろ理屈はつくかもしれないが、やるかやらないか、それだけのことだ。
努力で世界を変える、という発想があるかないかだ・・・

しかし、ボディビルは劇的に身体を変えるものでもない。
徐々に徐々に変えていく・・・
胸囲110センチ(平常時)。
大腿部60センチ。
上腕屈曲囲42センチ(コールド)。
これは、かつての私の目標値だった。
すべてクリアした今、これらは単なる「日常」になってしまった。
あれ~?ってな感じ。

まあ、あとちょっとガンバレバ、身体が「非日常」の領域に達するのかな?
ぜひ、プレートをあと40キロほど揃えてもらおう・・・

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sutta-nipata

2005-03-14 15:33:22 | 閑話休題
パーリ語sutta-nipata:suttaは「お経」、nipataは「集まり」だから、「経集」くらいの意味。
パーリ語聖典の中で、最も古いものの一つがスッタニパータ。
*********************
見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>に執着している。
「これこそ真理である」と考えている。
或るものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれとは異なったものとなる。
なんとなれば、その(愚者の)考えは虚妄なのである[から]。
過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
有るものと言われる限りの、
<色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるもの>であって、
好ましく愛すべく意(こころ)に適うもの、―それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般には認められている。
またそれらが滅びる場合には、彼らはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。
他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。
解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。
生存の貪欲にとらわれ、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。

人々は「わがものである」と執着したもののために苦しむ。
(自己の)所有しているものは常住ではないからである。
この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。

(『スッタニパータ』中村元訳)
***********************

『スッタニパータ』は仏陀その人の言葉に最も近いそうだが、
龍樹以降の理論武装した仏教に比べ、辻説法に近い感じを受ける。
また、出家が前提となっていたこともうかがい知れる。

釈尊は「空」の思想を理解できたかもしれないが、
実際のところ、「空」の思想は知らなかったのだし、
在家で経を唱えるだけでよい?とは想像すらしなかっただろう、
ちょうど、キリストが「三位一体」など知らなかったように。

とまれ、仏陀の言葉は世俗にまみれた心にも、よく響いてくるものばかりである・・・


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Dazein 世界内存在

2005-03-11 09:52:21 | 閑話休題
人間存在の在り方は「苦」であるというのは、ハイデガー的に言えば「人間が世界内存在であるということ」、
また、ウィトゲンシュタイン的に言えば「集合の要素でありながら集合全体を想う存在であるということ」を端的に言い表した言葉に他ならないであろう。
「苦」とは、人間という存在の有り様そのものなのだ。
この認識から仏教は始まる。
ウィトゲンシュタインと仏教思想の類似性を指摘する研究者もいるが、ウィトゲンシュタインの人間存在に関する態度は極めて仏教的である。

「苦」とは「思い通りにならないこと」が原義であり、
生物の根本の一つは「自己」と「他者」の区別である。
生物は、世界と自分を隔てた上で、世界を自己として取り入れていかなければ生存できない。
まさに「苦」である。
分別知を止揚した無分別知が、この「苦」を克服するというのは極めて論理的な思考であろう・・・

必ずしも幸福と思えるような人生をおくらなかったウィトゲンシュタインが、
自分の人生が素晴らしかったと伝えてほしいという言葉を残して死んで言ったとき、
彼は果たして無分別知を得ていたのだろうか?

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gate-gate

2005-03-10 18:51:55 | 閑話休題
玄奘三蔵は唯識仏教を求めて天竺(インド)に旅をした。

龍樹(中観派)の「一切は空である」という主張に対して、
「一切は空である」と認識する心のみは存在しなくてはならないと唯識は考える。
唯識では、六つの認識作用(眼・耳・鼻・舌・身・意)に、末那識・阿頼耶識を独自に加える。
末那識とは深層に働く自我執着心のこと。
阿頼耶識のアラヤ(alaya)とは住居・場所の意味で、個人存在の根本にある認識作用をいう・・・

さて、漢民族である玄奘が、国禁を犯してまで西方のインドで仏教を学んだうえで
経を翻訳したことは中国仏教において非常に大きな意味があり、
日本の仏教にも多大な影響を与えている。
日本で唱えられる般若心経は玄奘訳であることが多いようだ。

しかし、玄奘の時代にもすでに立派な訳は存在しており
西方への旅の途中、玄奘は経を唱えることで病気など含めた幾多のの困難も乗り越えたのである。
とりわけ般若心経、特に「羯諦 羯諦。波羅羯諦。・・・」が効いたという。

この部分は「真言=仏の言葉」で、本来、その意味を詮索しないのが原則だ。
また、この部分は、咒(呪)=陀羅尼でもある。

中国では秘密(言葉では説明できない特殊な霊的能力のある語)のことを咒といったが、
陀羅尼(種々の善法を集め散失させず、悪法をさえぎる力)と
用例が似るところから陀羅尼を咒と訳した。

「羯諦 羯諦」以下は通常の言葉に置き換えて訳すことは不可能とされており、また訳しても意味がないと言われる。
一説にはこの真言を唱えることに意義があり、音そのものに不思議な力があるのだそうだ。
gate gate paragate para-samgate bodhi svaha

私もこの真言は好きで、玄奘が実際にこれで病気を克服したということを知ってからは一層好きになった。
この言葉の裏にある、歴史の重みが好きなのである。

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四苦八苦

2005-03-09 11:01:54 | 閑話休題
四苦は「生老病死」の苦しみ。

生まれた限りは、老いたくなくともいつかは老い、
病気になりたくなくともいつかは病気になり、
死にたく無くともいつかは死なねばならない。
そんな「思いどおりにならない(duhkha)」苦を四苦といいます。

八苦は四苦(生老病死)に、

怨憎会苦(憎い者と会う苦しみ)、
愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)、
求不得苦(求めても得られない苦しみ)
五取蘊苦(五盛陰苦・五陰盛苦=迷いの世界として存在する一切は苦しみ)を指します。

およそ、心の平安は人間関係により乱される。
怨憎会苦(憎い者と会う苦しみ)は、辛いものだ。
自分のことを誠実にやっていればよいものを、
悪意を持って、他を陥れることに血道をあげる輩が存在するのは、信じがたいが、事実である。
Get out of my life!

悪も善も相対的なものであろうが、憎いものは憎いと思うのも当然のことである。
憎しみを持つ自分を嫌悪する必要は全くない。



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