綾里岬も国立公園内にあり、国及び県の事業で30年ほど前に立石山に園地が造られました。
岬途中の林道から園地に登れるようになり、案内板も作られましたが、今では殆ど登る人は無いようです。
私たちは、岬突端の綾里灯台から立石山を目指して歩き始めました。
灯台と立石山の中間点に電波灯台が設置され、そこまでは、点検・整備のための道路が造られていました。
電波灯台からは、わずかに道らしきものが残っていて、千島笹に覆われた尾根道を20分程歩くと、突然視界が開け、はるかかなたに唐桑半島、金華山も望むことができました。この辺りは、昔から広い草原になっており、戦後の開拓で放牧が行われ、今でも夏になると放牧されています。
実は、灯台からの道は、この放牧地の囲いのバラ線で遮断されており、かつての立石山から灯台に通じる道は、ほとんど利用されなくなっていることに、一抹の寂しさを感じました。
放牧地の中を行くと、見晴らしの良い場所に「あずまや」がありました。人の利用は無くなったようですが、牛の絶好の休み処となっているようです。
さらに進むと、小高い丘があり、看板が目につきました。藤二大明神の案内板です。
昔、藤二という人がこの立石山に住んでいて、金華山までの見張りをしていたところ、荒波の海中に赤くなっている所を発見し、それを漁師達に伝えたところ、そこで漁をすると必ず大漁になったそうで、その場所を「藤二が根」と言い、今でも定置網漁場の目安になっています。
横には立派な石造りの鳥居が建っています。
丘の上には石碑があり、天保12年(1841年)建立と記してあります。旧の3月23日を縁日として、綾里各地区の老若男女がお参りをしていたと言われていますが、今は静かに佇んでいます。
かつては、綾里小学校と中学校では、春か秋の遠足には、必ず立石山に登り、この藤二大明神の近辺の雄大な草原で昼飯をほおばりながら、眼下に広がる太平洋を眺めたものでした。
藤二大明神から50m程の所に、丸い石がありました。「味噌玉石」と呼ばれています。なるほど、その形は、むかし囲炉裏端に吊るされていた味噌玉にそっくりです。
味噌玉石からさらに40m程の所に、延寿院跡の看板が立っていました。
宝暦年間(江戸時代中期)には、この地に建てらていたそうで、文政10年(1827年)の延寿院文書には、立石山高林寺と号し、檀家345軒を有し、立石山一体を所有していた旨が書かれていますが、今は建物跡の面影もありません。
ただ、この辺りを掘り返すと、手のひらサイズの薄い石に、摩伽陀経の経文が書かれたものが出てきます。伝えによると、文明3年(1471年、室町時代)に大和国立石村の宥善という人が、この地に摩伽陀経の庵を結んで住んだことから、この山を立石山と呼び、この辺りの原野を摩伽多ケ原と称したそうです。
延寿院跡からは、灌木の林になり雪が消えずに残っていました。
山頂の近くに碑があり、三角点かと思って近づいてみると、古い墓のようでした。文字は残念ながらはっきりと読み取れませんでした。
碑から2分程の所に山頂の三角点がありました。標高359mの高さです。むかし、灯台まで何度か通った道ですが、灯台道は山頂の脇を迂回しており、今回初めて目にしました。
麓の田浜地区に通じる道です。今は殆ど人が通らず、倒木や藪に覆われていましたが、40年前までは、灯台道として、郵便局員が配達に通い、燈台守の子どもたちが通学した道の名残が残っています。
ようやく灯台から麓の天照御祖神社にたどり着きました。いろいろ散策しながらの4時間でした。この神社が延寿院を移したもので、天保3年(1832年)に全村民の信仰処として「村社」の称を受け今日に至っています。
麓の田浜地区も震災の影響は大きく、なんと、20mの高さにある神社の拝殿まで、大津波が押し寄せ、鳥居や社務所は跡形もなくなっていました。。
昨年、震災前の2月に岬を徒歩で一周し、一年後の今回は灯台から立石山を縦走してみましたが、三陸の海や山は素晴らしく、何事もなかったかのような表情を見せていましたが、自然の怒りは非情なまでも構築物を呑み込み、なぎ倒し、すざましさを現しました。
でも、地域の人々は、また明日に向かって歩んでいます。立石山や綾里灯台の歴史を胸に刻みながら、明日への一歩をまた踏み出そうと思いました。
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