昨年2月、震災前に綾里岬を一周したのですが、あれから一年が経ちました。その後、どのようになっているのかと思い、綾里岬にいってみました。旧三陸町時代に建てられた案内板は、風雨に晒されながらも立っていました。
綾里岬は林道があり、車で一周できますが、未舗装の狭い道です。岩盤がしっかりしており、地震による地割れや陥没はありませんが、ところどころ崩れた石がありましたが、車の通行は大丈夫でした。
林道からは太平洋が一望できます。途中、眺望のよい場所から碁石海岸や唐桑半島、遠くには金華山が見えますが、この日はあまり視界がよくなく、わずかに広田半島がかすかに見える状況でした。
でも、眼下の切り立ったリアス式の海岸は、まさに絶景です。
林道から灯台へ降りる道です。15分ほど降りると灯台に着きます。
昭和40年代までは、燈台守が暮らしていた生活道です。今は、立石山(次回に報告予定)の中腹に電波灯台が建てられ、この灯台道は全く使われなくなりましたが、ところどころ往時の名残がありました。
綾里崎灯台の全景です。白亜の四角柱の灯台で、三陸沖を航行する船舶の道しるべとしてだけではなく、綾里地域の人々のシンボルでした。
以前は、学校の春の遠足地として訪れ、太平洋を見下ろす白亜の姿に、荒波や風雪に耐える道しるべとして心に刻まれ、焼き付き、人生の中で困難に陥った時に目に浮かんだものです。
今回訪れたスタッフに、その思いを伝えている一場面です。写真では見えませんが、灯台の側面に太平洋戦争末期に米軍の飛行機から機銃掃射を受けた弾痕が残っております。
古い映画ですが、「喜びも悲しみも幾歳月」(木下恵介監督)の<おーいら岬の燈台守は・・・>の歌にある映画のロケにも登場した灯台です。映画では、ほんの一場面に登場しただけですが、この綾里崎灯台を守っていた「燈台守」の子どもが、毎日ここから綾里中学校まで6kmの山道を越えて通ってきたことが思い出され、いま思うとその強靭な精神力・体力に感嘆するばかりです。
灯台から眺める太平洋は、まさに絶景の限りです。安山岩で出来ている岬は、岩肌も白亜で、緑の松の木とのバランスも素晴らしく、心を和ませてくれます。
灯台から北方の風景です。対岸の脚崎(すねざき)、その後方に首崎(こうべざき)が望めます。その奥には死骨崎(しこつざき)が連なり、三陸のリアス海岸の醍醐味が味わえます。
でも、灯台の周囲を見渡すと、枯れた松や雑木の倒木が目につきます。厳冬の時期、葉を落とした木々の姿から、岬の先端の風の強さ、自然の厳しさが伝わってきます。
灯台守の宿舎跡です。40年前に無人化され、建物跡はコンクリートで覆われておりますが、生活の跡がしのばれます。
塀で囲まれた中は雑草で覆われていましたが、ところどころに鹿の「ぬたば」があり、こんな岬の先端まで鹿が降りてきていることに驚くとともに、ある意味では、完全に無人化した綾里崎灯台を、鹿が守ってくれているのかとの思いが交錯しました。
今では電波灯台が、立石山の中腹に建てられ、灯台としての機能もなくなり、取り壊される運命でしたが、地元の強い要望があり、歴史的建造物として、また私たち綾里で育った者の心のよりどころとして、たたずんでいる姿に力強さを感じています。
こちらは、ヤブツバキ、フキノトウが見られ、雨が降れば、一気に春が近づくでしょう。
今年は、例年より寒さ厳しく、梅の開花も遅れているようですが、ヤブツバキの花が咲きましたか、花をめで、ほろ苦いふきのとうを味わえると春近しの感ですね。
三陸は、雪は少ないのですが、毎日氷点下の気温です。昨日、路地の大根を掘ろうとして四苦八苦、ガチガチ凍った中での収穫は大根が途中で折れてしまいます。それでも寒さに耐えてきた野菜の味は格別です。
復興元年の春もまもなくやってくるでしょう。