ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

プレーヤーとコーチ

2011-10-13 08:04:53 | Weblog
「指導者の資質」10月9日
 『柔道死亡事故』という見出しの社説が掲載されました。中学校で必修化される武道、その中の柔道で死亡事故が頻発しているということについて、安全の徹底を唱える内容です。その中に『(指導者に)競技実績があるからといって適切な指導ができるわけでもない』という記述がありました。
 よくぞ言ってくれました、という思いです。中学校の教員には、良きプレーヤーであることが良き指導者の条件である、という考え方をする者が多いのです。ある中学校教員出身の指導主事は、「サッカーをしたことがない人がサッカーを教えているのが理解できない」と言ったことがあります。行政マンとしては、大変優秀な人物でしたが、彼も「名プレーヤ=名指導者」論に固執していました。
 もちろん、名プレーヤーが指導者としても優れた才能を示すことはあります。でもそれは、たまたまなのです。偶然に過ぎません。二つの才能には、何の関連もありません。
 ただ、誤解のないように付け加えれば、超一流のプレーヤーが生まれるには、超一流のプレーヤーの存在が不可欠です。超一流のプレーヤーになる素質の中では、模倣しそれを自分にあった形に改良する能力こそが重要です。超一流のプレーヤーの卵は、超一流のプレーヤーに憧れ、それを努力の動機付けとし、実際に超一流のプレーヤーを目にしてそのプレーの秘密を感知し、ついに自らのものにしていくのです。ですから、超一流のプレーヤーには何らかの形で前世代の超一流のプレーヤーの存在が必要です。
 しかし、学校体育や部活は、超一流のプレーヤーを育てる場ではありません。難しいと思っていたけどできた、スポーツって楽しいな、他のスポーツもやってみようかな、という意欲や態度を育て、そのことで人生を豊かにしてくれればそれでよいのです。
 指導者に求められるのは、子供理解、子供に伝わる言語表現、子供の思いを汲み取る力、一人一人の努力との美を正確に評価する能力なのです。このことは、実はスポーツに限りません。国語でも社会でも理科でも、その分野について多くの知識をもっていることがよい指導者の条件であるという発想の人がいますが、それも間違いなのです。研究者、学者としての資質と小中学校の教員としての資質は違うのです。

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