ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

負けて知る

2011-10-12 07:50:04 | Weblog
「我を知る」10月8日
 愛知学泉大学教授の出原泰明氏が、学校体育についてインタビューに答えていました。その中で出原氏は、『体育は能力差が生の姿で表れる』と述べていました。逆上がりができず、跳び箱が跳べず、徒競走はビリかブービーが定位置だった私にはとてもよく分かります。
 当然のことですが、体育に限らず、あらゆる事柄について、能力差があります。そんな当たり前のことが、なぜか学校現場、特に小学校では、無視されてしまう傾向があります。「すべての子供が無限の可能性をもつ」という迷信が蔓延っているのです。この迷信がもたらす悪影響はとても大きいものがあります。
 まず、教員側の問題です。教員が、今できなくてもそのうちにできるようになるはずだと考えていると、注意深く子供の状況を見、丁寧な評価をしようという意識が薄れてしまいます。そのうちにできるようになるのだから現時点で否定的な評価をして萎縮させたり、自信喪失させてはいけないという考え方になり、できないという事実(できるようにさせられない自らの指導力不足)を直視せず、曖昧な評価をし、子供や保護者の認識を狂わせてしまうのです。その結果、子供はいつまでも的はずれな全能感をもってしまうのです。
 次に、子供に無限の努力を強いることです。誰でもできるはずなのですから、できないのは子供本人の努力が足りないということになってしまいます。その結果、かなり頑張っている子供に「もっと頑張れ」と更なる努力を強いることになり、子供も「できないのは私の努力が足りないからだ」「努力しない私はダメな子だ」という自罰意識をもたせてしまうのです。
 さらに、自分よりも優れている人がたくさんいる、という当たり前の感覚が身に付かなくなってしまいます。そのことが教えを素直に受け入れるという、本来子供期特有の美質が失われ、そのことが学ぶ姿勢の欠如につながってしまうのです。
 また、「負け」を受容できず、自分に都合の悪い状況に陥ると、その原因はすべて自分以外の第三者のあるという責任転嫁の体質になってしまいます。いずれも、現代の子供に多く見られる性質です。
 他人に優る嬉しい経験も、他人に劣る悔しい経験もすべて体験することで健全な成長ができるのです。教員は、能力差を自覚させることを避けてはなりません。○○はダメだけど△△は素晴らしい、とその子供の強味を見つけ評価してやること、Aさんには敵わないけど1カ月前よりもこれだけ伸びたと努力を評価してやれること、だめなことばかりだけど君が好きだよと伝えられること、それが教員の役目なのです。「いつかはできる」は、無能無気力な教員の逃げ口上に過ぎません。
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