ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

公私の使い分け

2012-03-28 07:50:46 | Weblog
「東大話法」3月23日
 今何かと話題の「東大話法」について、原発事故対応との関連で取り上げた特集記事が掲載されました。記事の中に『東大話法の規則』という表があり、その一番初めに『自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する』という項目がありました。記事全体のトーンからして、「東大話法」は批判されているのですから、この項目についても批判されていると読むのが自然でしょう。
 でも、納得いかないのです。一個人としてならば、信念で発言することが望ましい態度だと思いますが、ある組織の一員としての立場での言動は、自分の信念に基づいて行動してはいけないのではないでしょうか。
 公立学校の教員が、「君が代なんか国歌と認めない。日本人とアジアの人々を殺した呪わしい歌だ」と子供の前で話してよいものでしょうか。「小学校で英語なんて意味がない。大事なのは国語だ」と公言して、英語の授業を行うことを拒否するのが正しいのでしょうか。「いじめはいじめられる側の子供にも問題があるケースがほとんどだ」という信念に基づいていじめ問題に対応することは認められるのでしょうか。
 ある立場に就くということは、その立場がもたらす制約を受け入れて行動するという覚悟をもつということです。その覚悟が持てないのであれば、その立場に就くことを断るべきなのです。そして、その立場に伴う制約を受け入れた上で自分個人の信念とは異なる言動を取ることは、自己保身とか自己弁護ということとは違います。
 私人は自由ですし、楽なものです。一私人として家族や友人と話すときは、自分に正直に行動すべきですが、公人としての言動には違う法則が働くということを否定しては社会が成り立ちません。私が、公立学校の教員に卒業式での国歌斉唱を拒む権利などない、と考えるのも、公私の使い分けは公人の義務であるという立場だからです。

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