ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

よくできました

2024-07-01 07:33:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「見える人」6月24日
 『挑戦する姿勢を具体的に褒める』という見出しの記事が掲載されました。モンテッソーリ教育を研究する島村華子氏へのインタビュー記事です。その中で島村氏は、『子どもを褒めようとする時、「すごい」「上手だね」など、子どもを実際にはよく見ていなくても言えるような言葉をおざなりに掛けていませんか。あるいは、「優しいね」「賢い子だね」と、性格や能力を対象として褒めることも多い』と、よくある「ダメな褒め方」について語っていらっしゃいました。
 私は、モンテッソーリ教育については全く不勉強ですが、この指摘については全面的に賛成です。褒め方が分からない、という教員がいます。あるいは、うちの(クラスの)子供には、叱ることばかりで褒めるところなんてない、という教員もいます。そうした教員に共通しているのが、子供を見ていない、ということです。
 私はこのブログで、教委で指導力不足教員研修を担当していたときのことを再三取り上げています。中でも私が一番よく取り上げてきたのが、授業も学級経営も全くできなかったI氏です。彼は、子供を褒めることができず、そのことを指摘すると、今度は全ての子供に「よくできました」と同じ言葉をかけ、それで「今日は私の課題だった子供を認める、褒めるがよくできたと思う」と自画自賛する指導力皆無教員でした。
 彼はこの「子供を見ていない」典型だったのです。もちろん、視覚障害や聴覚障害があるわけではないので、彼の目には子供のしたことや表情が映っていますし、耳には子供の発言やつぶやきが届いています。しかしそれは、カメラがレンズの先の映像を記録し、レコーダーが周囲の音を記録するのと同じ機能しかなく、その映像や音声の意味を考えることができないのです。どうしてなのでしょうか。
 私が、働きバチの集団の映像を見ているとします。最近は視力も低下してきた私ですが、それでも一匹一匹の区別はつきます。でも、何か気付きましたかと訊かれれば、何も分かりませんと答えるしかありません。しかし、ミツバチの生態についての知識があり、実際に多くの働きバチを見てきた研究者は、短い映像からたくさんの情報を引き出すことができます。
 I氏は、働きバチを見る私なのです。子供というもの、授業というもの、学びについて、人間について、知識や理解が浅いので、どんなに多くの映像が網膜に映っても、何も分かりません、ということになり、それにもかかわらず「子供を認めてあげなさい、褒めてあげなさい」と言われるので、褒め言葉とされる「よくできました」を発するしかできなかったのです。
 つまり、子供を正しく褒めるためには、こういう場合は子供の何を見るのか、子供の発言、行動、表情にはどういう意味が込められているのか、子供は何についての評価を望んでいるのか、ということについて、意図的に学ばなければならないのです。新卒のときから、こうした問題意識をもち、日々子供を見て自分なりの分析と評価に基づいて褒めたり叱ったりする、そして上手くできたときと失敗したとき、初めは後者が圧倒的に多いはずですが、それぞれのケースに基づいて反省して試行錯誤を繰り返す、そうした行為を積み重ねて初めて子供が見える教員になることができるのです。その際、信頼できる指導力のある先輩教員にアドバイスを求め、それを自己修正に生かしていくことも欠かせません。
 人は上達や成長を実感できたとき、さらなる高みを目指す意欲が高まります。教職も同じです。新卒の一日目から、子供を見る目を身につけるという目的意識をもち、日々を過ごす者と、何となく形だけ周囲の教員の真似をして日々を過ごしてしまった者、数年後には、前者は自己の教委としての成長に喜びを感じます増す子供を見つめる「目」を磨き上げていくのに対し、後者は全員に「よくできました」と声掛けをして子供から見放されてしまうのです。
 モンテッソーリ教育の理念を知ってもそれだけでは、子供を適切に褒めることはできません。まず子供を見ることができる目をもつこと、教員はそこに注力しなければなりません。

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