ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

思いもよらぬところから

2024-06-30 07:19:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「思わぬところから」6月24日
 読者投稿欄に、福岡県I氏の『別姓で名字の多様性を』と題された投稿が掲載されました。その中でI氏は、『名字こそ日本人のアイデンティティーそのもの。多様な名字は日本の文化そのもの』と述べ、『結婚に当たって夫婦の一方、大半は女性がそれまでの名字を捨てざるを得ないのだ。二つの名字が一つになるのだから名字は当然減っていく』という道理を示し、選択制夫婦別姓導入によって名字減を防ぐべきと語られていたのです。
 正直、何じゃこれは、という思いを抱きました。私は、選択制夫婦別姓問題には関心をもっています。様々な立場からの意見に触れ、自分なりに考えを深めていたつもりでした。しかし、その「様々な立場からの意見」というのは、立場こそ様々ですが、結局は家族の一体性(?)重視派と女性の人権擁護・不便の解消派との対立に集約されていたように思います。派生的に海外では~とか、我が国の伝統とは~という視点からの情報提供があっても、そうした情報を双方が自分に都合よく使うという状況だったと思います。
 それなのにI氏は、家族の伝統にも女性の人権にも触れず、名字という伝統文化の継承という全く想像もできなかった視点からこの問題に切り込んでいるのです。だからびっくりさせられたのです。正直な感想を言えば、I氏の名字伝統文化論は、選択制夫婦別姓問題の本質からはずれていると思います。ただ、こうした今までの議論とは全く異なる視点からの意見表明というのは、難しい問題を含んでいるということは指摘しておきたいと思います。
 もし仮に、I氏の見解が、文化伝統維持派に影響力をもち、多様な名字の維持という伝統を継承するためには選択制夫婦別姓も仕方がないということになったとすると、その結論自体には賛成ですが、女性の人権問題という本質が議論されないままになり、その議論の欠如が、後日別の課題についての議論で問題になってしまうということが考えられるからです。
 対立のある問題について、とりあえず妥協点を見つけやすくする「別の視点」が、本質論を遠ざけてしまうという構造は、学校教育においても注意が必要です。例えば、小学校における教科担任制拡大問題です。子供の発達段階から考えて、子供と教員が細やかな人間関係を築くことができる学級担任制を評価し、教科の「親学問」に関する知識よりも教員の児童理解、教員と子供の信頼関係を重視するという小学校教育の基本的な考え方と、高度化(?)する学習内容に対応すべくその教科の指導について専門性を有する教員による指導を拡充すべきという考え方、この両者の立場間の議論と調整がこの問題の本質です。
 しかしここに、小学校も教科担任制を基本とすれば、将来的に小中間で教員の異動を行うことが可能になり、教員人事の裁量度が増し、採用・配置を柔軟に行うことで、無用な人員を抱え込む確率を低下させることができ、教員の人件費を削減することが可能になるというような「別の視点」からの論理を持ち込む者がいたとすれば、本質的な議論を深めないまま、大きな改革が進んでしまうという事態になりかねないのです。
 官僚には、そうした「悪知恵」が働く人がたくさんいます。大丈夫でしょうか。

 

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