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浜野巌治


博多湾の浜辺に住む頑固ジジイです。

ハウステンボス②歴史の断片

2015年09月06日 | 日記

九州の西海岸、長崎は古代から東南アジアとの交流が盛んだった。
黒潮が九州の西を通り日本海へ向かうところに長崎半島や五島列島、平戸などが浮かぶ。
人もモノも海流と風に運ばれ、長崎の海岸に流れついた。

南蛮船も海流に運ばれるようにやってきた。キリスト教や甘い砂糖、異国の世界の文物が・・・
ポルトガル船、イギリス船、オランダ船、中国船。長崎出島が世界に開かれたただ一つの窓となった。

長崎県の中央部に大きな入り江状の大村湾、大村藩の所領、大村湾の入り口から北は、平戸藩。
ハウステンボスは国界(くにざかい)にあった島、針生島(はりお島)に位置する。
戦時中、ここに海軍の海兵団の訓練場が置かれた。

敗戦を迎え、海外から引き上げがはじまった。引き上げ船は、博多港、仙崎港、佐世保港などへ。
針生島に上陸した引き上げの人たちはいまのハウステンボスのある海兵団が使っていた宿舎に
入った。ここには海兵団が使った寝床があり、風呂場があり、炊事場があった。
外地からの引揚者のみなさんは、ここで帰国の疲れを癒し、やがて、早岐の瀬戸の向こうにある
国鉄「南風崎駅(はえのさき)」から人々は故郷をめざした。

引揚者の姿が消え、練兵場跡地は無人の野になった。自衛隊が時おり演習場に使う寂しい野だった。
(芥川賞作家野呂邦暢著『草のつるぎ』にこの地の描写がある)

いつしか、日本列島改造の波がこの地にも押し寄せ、眠った野を工場団地にする話が持ち上がった。
音頭取りは県知事だった。
大村湾は袋のような内海、工場用水が容易に持ってこれないうえに、工場排水を流す場所がない。
大村湾に排水を流せばどうなるか、子どもにもわかる状況が見えていたのに県は無視をして工場団地を
造成した。
しかし、工場は来なかった。造成に要した153億円の借金。利子だけでも40億円が失われていた。

そのころ、昭和58年オープンした「長崎オランダ村」が急速に成長を続けていた。
オランダの村や町を模した異国情緒いっぱいの光景が観光客を魅了していた。

長崎県の佐世保市や北部地方は造船不況、水産業不況に悩んでいた。
長崎オランダ村の繁盛は観光産業への期待を大きくした。長崎県は針生工業団地を駐車場にすることを
提案。やがて、広大な敷地を巨大な観光地にできないかと提案する。
低迷する経済状況を打開する、そして借金まみれの売れない工業団地の呪縛から解放される?長崎県に
とっては救いの神に映ったであろう。

ハウステンボス株式会社がスタートした。私には出向命令が出て、第3セクターハウステンボス株式会社
の社員となった。オープンまで残る時間は2年を切っていた。

はじめての仕事だった。アミューズメント施設、ミュウジアム施設をお客様に楽しんでもらうための
あらゆる準備があった。楽しくもあり、たいへんな仕事もあった。

川のような流れだが、ここが早岐の瀬戸、佐世保港につながり外海へ。針生島の西側に西海橋が架かる
針生の瀬戸があり、佐世保港につながる。
満潮ー外海から大村湾に潮が入り、干潮ー大村湾から潮が流れ出る。

 

向こうに見えるのはホテル・オークラJRハウステンボス。

風車もミュウジアムの一つ、「風車博物館」くわしく見れば、低湿地で水を堤防の外に吐き出すための
オランダが編み出した風車排水の実際が理解できる仕組みになっている。

バブル崩壊と経済不況の中で、ハウステンボス株式会社は業績不振のため社長が退陣、さらに会社更生法の
適用を受けたが、2010年、HISの支援で営業を続けている。

運河にはチヌやボラなど魚が育ち、植樹された木々は20数年を経て、大きく育った。
あの広漠と広がる荒れ地を知る私には、みどりと運河が広がる光景はやはり驚きであり、より一層
成長してほしいと願う。

 

 

 

 

 


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