私の住む棟の入り口に自転車が転がっていた。
もう1週間ほど、入り口に転がったまま、入り口を塞いでいるが、誰も手を触れない。きのう、とうとう、私は自転車を石段の前から、植え込みの前まで移した。買えば数万円はするいい自転車、しかもピカピカだ。
こどもが置き忘れた自転車だろう。「ああ、ここに置き忘れていたんだ」とすぐに持ち主の少年がやってくるだろう、へたに駐輪場へ入れたりすれば、こどもは無くなったものと思ってしまうかもしれない。だから、手をふれないようにしていた。
自転車置き場は毎年、新車が増え続け、持ち主不明のものは業者に引き取られていく。かつて、「自転車泥棒」というイタリア映画があった。戦後、イタリアも貧しかった。ようやく仕事にありついた貧しい父親が大事な自転車を盗まれてしまう。自転車がなければ仕事ができない。父親と小学校に行く前くらいの小さな息子が自転車を捜し歩く。映画を観る私にも、あの切ない気持ち…伝わってきたなあ。
錆びた自転車を見るたびに、なぜか胸がほろ苦くなる私の世代。ほろ苦さを知り、切なさに共感できるということは、終戦後、食べ物が少なくて腹を空かし、空腹感と満腹感、腹いっぱい食べることのできる幸福感を知ったと同じように存外、幸せな体験だったかもしれない。
ピカピカの自転車は風に吹き倒され、植え込みの前にいまも転がっている。