不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

新・創価学会を斬る-7

2017-10-21 08:53:29 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

            ----(P43)---(以下、本文)-------
売春を強要された母子家庭
 乱れた男女関係が麻薬のようなものだといったが、学会では、女子部をそんな方向に導いている事例がある。
 柴田浩子さん(東京都)の場合がそれである。

 中学二年であった長男ともどもに学会員となり、学会活動をするよう強要される。長男は学会発行の書物を読んでも意昧が理解できず、悩みに悩んだあげく、四十一年、定時制高校も職場も捨て、北海道に逃避したりした。職場にいると必ず学会連絡の電話がしばしばくるため、三回もその後職場を変えた長男が会社から帰宅すると、待ちかねたようにタ食も終わらぬうちに、折伏だの座談会にと、区役所勤務の上司が迎えに来る。 帰りは夜の十一時過ぎ。食事も入浴をする時間もなく、疲れ果てて、翌日は会社を休まないと健康が保てない状態がつづくのであった。
 日曜日は早朝から家に、青年部、女子部、婦人部が替るがわる押しかけてくる。女世帯の気安さのためか、学会員の出入りがはげしい。
 貧しくて病んだ母親が愚かな心から入信した結果がこの有様であった。それでも皆、幸せになれるならと、朝夕の五座、三座、学会発行の経本と題目をあげつづけた。
 幹部から長男は青年部、娘は女子部、母は婦人部の班長になるよう命令が下ったが、かたくなに断わりつづけた。班長になると毎月定った人数の折伏をやり、班長としての責務を果たさねばならず、その上選挙ともなれば、職場を投げ打つ覚悟が必要だといわれたからである,
 案の定、選挙になると“色仕掛け”で異性に働きかけ票を集めよという電話連絡が再三くる。そのことで母が幹部を詰問したところ、内密に娘を別居させてしまった。地区の婦人部に娘の住所を再三教えてくれるよう懇願しても、「住所は知っているが、学会を辞めようとする人に知らせることはできない。
 辞めるなら一人で辞めよ。子供たちまで辞めさせることは断じて許さぬ」という返事。
 その後、娘は学会員と自由結婚し、何事よりも御本尊、会長、組織が大事という狂言者になり、男児まで出産(三十八年)しながら、同じ学会員の女子に良人と子供を奪われいまや離婚されてしまった。
 学会の地区支部では、どうにも話にならないので、地元の警察署にすがった。警察の連絡に対しても婦人部長、女子部は知らぬ存ぜぬの一点張り。そこで顏見知りの大ブ口ック長でもある市会議員に--(一部・欠落)--。

 その方たちは、御本尊をいただいたときは“歓喜”に燃えていたのです。
 そのひとりの人は、境邁はひじょうに悪かったが、その年の夏季講習会に七日間出たときは、まるで年も忘れたように、娘どうように歓喜にもえていたことを思い起こすのです。その後、三人のうちひとりだけが、常住御本尊様をお持ちして、どこかへ行ってしまい、行く先がわからなくなっていた。わたくしは、その常住様のことが常に気になり、心を悩ませていた。ところが、そのうち、鶴見のある人に折伏され、とつぜん本部に尋ねてきた。(中略)問題が常住御本尊様のことであるとの報告を受けたので、その人に会ってきいてみると、『常住御本尊様を拝んでいることが、主人からやかましいといわれ、御本尊様をお返ししようと思っていた』
 というのである。
『あなたはいま、打ち出の小槌を捨てようとしている。常住御本尊様みなさい。あなたはみすぼらしい生活をしているでしょう。(中略)いままた宝の御本尊様をどうしょうというのか、あなたもみぞに首をつつこんで死にたいのか』
 と、しかってやった。
 このとき、いっしょに信心した他のひとりは、現在一億という財産があるといわれている。また、もうひとりの人も、それぐらいの金は自由に使える状態にある。
 わたくしは、二十何年生きているかどうかわからぬが、二十年信心をつづけていった暁に、良かったと思う人と、みすぼらしいしい姿をつづける人が出よう。(中略)
 初代会長は、学会はモルもっとでなく、人間で実際に試験をしているのだから、たいしたものだといわれたが、信心をやめれば貧乏になるし、また反対に、信心したものは、功徳で一家は丈夫で、月一回ぐらいは温泉へ遊びに行ったり、映画を見たりできるようになり、楽楽とした信心になれる。
 それは、二十年後に起こる、ひとりひとりの生涯の問題なのであります。がっちりとした信心をしてください。」 (『戸田城聖先生講演集上』二六八頁~二七一頁)

 講演でいっていることが実例といかに違いすぎるかの典型的ケースでもあろう。
 次にそういう実例を示してみょう。文字通りの人間破壊--「人間革命」ではない、それこそ人間そのものを破壞されたケースがこうもあるのだ。

狂信母娘のなれの果て
 葉山生男さん(東京都)の妻は、入信以来、夫と別居生活をし、狂信的に信心をつづけている。学会員すらも妻への説得をあきらめ「葉山夫婦はとうてい救い難い」とサジを投げてしまった。知能指数が低いところへ、偏見をもったため、もう世の中の常識とはすっかり縁遠い人問になり、ただ毎日毎日御題目だけをあげている生活なのである。
 さらに不幸なのは、母とともに別居した娘で、これが教学部の指導員となり、学会活動以外には目もくれず、一家の不幸に輪をかけている始末である。それが選挙になると、別居中の父親のところへ来て、「お父さん、公明党に入れてくれ」と平気でいう。「いくら宗教の教学に強くても、政治家になれるものではない。竹入や矢野だって自民党の陣笠クラスにもかなわない。それ以下の者に投票するような幼稚さはもってない」と突っばねている。もう妻と娘は精神病院へ入院したも同じだとあきらめている氏の心中は察するに余りある。

両親を見殺す学会息子
 名古屋市に住む長瀬峯子さん老夫婦も、息子が学会員となって以来、学会活動に奔走、事業を省みなかったことから例産、そのため老夫婦は面倒を見てくれる人が誰もなく、非痛な老残の人生を送っている。息子は家に寄りつかないし、いまや自殺しかないと老夫婦で話し合うという悲惨さである。
 こういう悲惨な実例は数限りなくあるが、学会のほうはどういういい方をしているのだろう。まず次の文章をよんでもらいたい。

「これから話すことは、少しむずかしいかもしれないが、哲学的な問題にふれることとする。
 体験発表で、病気がなおった例は多いが、貧乏から金持ちになった話しは少ない。この、病苦と貧乏の苦悩は、重大問題である。人間の病気には六つあるが、このうち、医者でなおるものが三つ、なおらぬものが三つ。宗教は医者の力でなおすことのできぬ病いを、根本からなおす力のあるものである。
 自分の知識でわりきれぬものを、わりきることのできるものを信心という。人間とは、なんでもわりきりたいものである。いまは宗教と科学との世界の闘争である。宗教は心を中心とした学問であり、科学は物を中心とした学問である。
 生命の問題、生活の問題は、科学ではどうすることもできない。東洋哲学は、三千年前からでき上がっている。病苦に悩まされているものが、なおりたいためには、御本尊様という機械をつかまなければならぬ。どのような精密な機械でも、使用しなければ役立たぬ。これは、生命哲学上のことであり、科学の分野とは少しく違う。動力は信心、折伏である。
 いかなる病気も、この信心によってなおすことができるのである。日本の国から不幸をなくしたいがために、折伏するのである。
 心に悩みのあるものも、ここに多く集まっているであろう。きちっと信じ、念じなさい。一年間の約束をします。断じて月一名の折伏をし、朝夕の五座三座の勤行を欠かさず、必ずすばらしい功德をうけるように。」 (『戸田城聖先生講演集上』一四七頁~一四八頁)
 といった具合なのである。イイ気なもので、まことにふざけたやり方といわざるをえない。
       ---------(51P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新・創価学会を斬る-6

2017-10-20 07:48:15 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

                                  ------(P34)---(以下、本文)-------
生死の境から夫への憎悪
 「山田太郎さんの公演会の切符ですが、買って下さい。」
 「商売が忙しくて、とても行かれませんからいりません。」
 「でも学会の命令なんですから、買って下さい」
 「私には関係ありません。」
 「あんたの旦那さんはかわいそうだね。あんたみたいな奥さんをもって。」
 数日後、この学会員とその仲間が、彼女の店の悪口を町中にいいふらしていると聞かされた。
 「あんな店で物を買うと罰が当たる」というのであった。彼女は黙殺した。身を粉にして働く姿と店の繁昌ぶりをねたんで、町のある人たちは彼女を“金の亡者”と呼んでいたから、いまさら何を言われても痛くもかゆくもなかったからである。
 夜中にふと目を醒した彼女は自分の身体の異状さに気づいた。全身が火のように熱いのである。意識がはっきりするにつれ、頭が割れるように痛いのと、自分の足が何処にあるのかすらはっきりわからなかった。そのうちに呼吸がだんだん乱れ、息苦しくなってきた。起き上がれないし、声もうわずって出ない。朝までそんな状態がくり返えされた。
 目覚めた夫は、そんな彼女を見て、
「とうとう、バチが当たったな。」
 といったきり店のほうへでて行ってしまった。あいにくその日は待別な注文が入っていたのだった。こういう夫の態度はいつものことなのである。決して介抱などということはしない。彼女が入信していた頃は、一緒に拝めといって仏壇へ連れて行くのが関の山だったが、いまでは全く知らぬ顔の半兵衛である。
 しばらくして夫が戻ってきた。
「忙しくて間に合わぬ。早く手伝え。」
「苦しくて、とても。」
 と、あえぎあえぎ彼女はいう。
 やにわに夫の手が彼女の髪の毛をむんずと?んだ。間髪を入れず寝床から引きずり出し、のけぞるように顔だけ仰向けにされた。突然の激しい動作で呼吸が一瞬止まる。同時に全身の力が一度にぬけ、くたっと崩れた。生気の消せた口元から糸を引くように赤い血が一筋あごから喉元を抜ける。もう完全に彼女の意識はない。
 頭髮をしっかり握りなおすと、夫はそのまま大股に歩き始めた。ずるずる、ずるずると上半身だけ無理に引き起こされた彼女の体を引きずって…。裾は乱れ、胸元は開かれ放題の失神状態にあった。しかし夫は一度も彼女を見ようともしなかった。死人を運んでいるのと同じだった。
 店の床の間までくると、どすんと投げ捨てるように手を放した。そして自分は後も見ずに店の仕事場ヘサンダルを突っかけて行った。
 しばらくの間、彼女は身動き一つしなかった。ドブ犬のように乱れた姿でうずくまつているだけだった。やがて冷ややかな床の感触を頬に感じ、わずかに意識を取り戻した。彼女にとっていま、自分が何をされたのか、はっきりはわからなかった。ただもうろうとした頭の中で、この人をこんなにさせるのは、あの憎い池田大作だ。人の弱みにつけこみ、馬鹿な人間を自分だけ都合のよいようにあやつる。人間の敵、一家の敵…。
 このときときのことを彼女は一生忘れられないといっている。もしあのとき、そばにビストルでもあったら、そして池田がいたら、夫を殺し池田を射ち殺したに違いないと殺意のあったことをはっきり明言している。
 この事件があって後、竹入が刺傷されたことをテレビで知り、赤飯でも炊こうかと考え、同時にビストルのことを再びはっきり想い出したとも話していた。

不幸は仕事で乗り切ろう
 この頃になってくると、町中でも学会員の家というのが誰にもはっきりわかるようになっていた。というのは、必ずといってよいほど、それらの家では喧嘩が絶えなかったからである。朝でも晩でも喧嘩をしていれば“ああまたやっている”と町の人たちから冷笑を浴びせられていた。
 彼女は少なくとも自分の家だけは、そんな目で見られたくない、特に商売をしているのだからなおさらのこと妙な評判がたっては困る。自分さえ耐え忍んでそれでことが済むならいっさいの犠牲になろう、と深く心に誓った。
 ではこのようなうっ憤を彼女はどうやって解消したのだろうか。すぺてを仕事に打ち込み、忘れよう忘れようと仕事に身を投じたのである。人は往々にして裏切るが、仕事は絶対に人を裏切らないという一種の真理なようなものを自然に体得したのもこの時期であったという。
 仕事だけでは、どうしても心の憂さが晴れないとき、夜遅くになって、いま思っていること、考えていることを文がまずかろうがなんでもかまわず書き綴る。誰に見せるためのものでもない。
 宛先のない手紙であるかもしれない。そして最後にはそれを破いて捨て去るのであった。

色仕掛に負ける学会パン屋
「奥さん、今日はパンをどれくらい置くかね。」
 学会員のパン屋が注文を聞きにきた。
 この男は先妻と別れ、再婚している。現在の妻は学会関係で知り合った女子部員である。夫がこの男に、彼女を再び入信させるよう話をしてほしいと内密に頼んでいることもチャンとわかっていた。そこで彼女の頭に夫への対抗心と、“少しばかりいたずらをしてやろう”という考えが浮かんだ。
「あらご苦労さん。」
 と言いながら男の近くに歩み寄り、男の目をじっと見つめた。男の目は初め何事かというような疑いの光を浮かばせていたが、やがていつもとは少し違うなという動きに変わった。
 彼女は静かに足を運び、ビタッと男の身体に身を寄せると、そっと手持ちぶさたにしている男の手を握ると、ささやくように声を落とした。
「パン少し多く置いていったら。」
 男の顔がゆるみ、にやっとした表情になった。
「わかってるよ。」
 男は黙って手を握りかえした。
 こんなことが何回もつづいた後で、彼女は夫にハッキリこういった。
「今日もパン屋のあの人が来たから、私が手を握ってやったら、二十個も多く置いていったんですよ。それだけ儲かったネ。やっばり同じ信心者でもこういうことを平気でするんだね。」
 夫は不機嫌な顔つきで黙ってたち上がった。
 それからしばらくして、パン屋はあちこちでたてられる町の噂に、耐えかねたかのように町から立ち去ってしまつた。

毎月書替える遺書
 夫が大石寺登山へ行った日、いちばん親しくしている叔父に来てもらった。
 「叔父さんこれを預っておいて下さい。」
 「なんだ遺言じゃあないか。どうしたんだ。ガンにでもなったのか。」
 いぶかしがる叔父に一部始終を話した。うすうす知っていた叔父は快よく承知してくれた。
 遺言の内容は、彼女が死んだら店は誰も後をつぐな。つげば必ず赤字になる。すぐに売り払うこと。土地は二人の子供と妹弟に、どこをどう割り当てるかを書き残す。その土地を処分して子供の教育費にあててもらいたいということである。
「お前も、苦労してここまでなったのだし、もう土台もできたことだから、少し自分の身体を考えてゆっくり暮らしたら…。」
 と叔父は忠告してくれた。
 しかし彼女は毅然として答えた。
「私は夫、いいえ学会と闘わねばならないのです。夫を正すことは、学会をなくすことだと気づいたのです。私の一生の間にできるかどうかわかりませんが、むこうが使命なら、こちらは宿命です。」
 遺書書をそのつど書き直すということが、彼女を精神面で非常に落着かせた。死に直面した、そして死をすでにのんでしまった者の一種の悟りのようなものができ上った。こうなると自分にほれてこそこそ学会活動をし、金をくすねて寄付をつづけている夫の行動が何かアワレに感じられ始めてきた。そしていままで学会のために悩んできた時間が、それが毎日の大半であったことが、とても惜しかったように思えてならなかった。何故あのとき、別のことを勉強しなかったのか。それ以上に学会のために自分の唯一つしかない人生まで変えようとしたことがまるでバカげたことのように思えた。あの頃の自分が、いま考えると、まるでどこか他人であったことのように思えるのであった。
 薄暗い馬小屋から、日本晴れの戸外へ出て、青空をのびのびと仰いだ心境とは、こんなものではないかとも感じたのである。

嘘つき学会サヨウナラ
 そうだ学会へ名前を書いてあったままになっている。あれを返してもらおう。学会員が何百万人いるかしらないが、その中の一人として籍だけでも残っているのは面白くない。
 早速、横手の寺へ彼女は出掛けた。用件をいうと、寺の人は怒ったように、「あんたは一生の幸せを断わるんですか、棒にふるんですか。」
 と言った。そこで彼女は風呂敷を取り出してこう答えた。
「じゃあその一生の幸福とやらをいただいていきます。この風呂敷いっばいに。どこにあるのですか。」
 いとも真面目な顔をして……。困ったように考え込んでいた寺の人は、
「一生の幸せを約束しておきながら、自分のほうから捨てることはないでしょうに-。」
 と答えた。
 寺からの帰り道、初めて、ここへ夫に連れられてやって来たときのことを想い浮かべて一人で笑いだしてしまった。
 あのとき、寺に近づいたところで、夫は彼女に釘をさすように言ったものだった。
「ほんとうの信心者でないと、お寺に入った途に、腹が痛くなって転げ回るんだからな。」
 彼女は寺で拝むときにためしにと思ってぺロリと舌を出してみたが、なんでもなかった。
 彼女はいままた新たな計画を思いついている。それは自分のできるかぎりの金を出してもよいから、池田大作の私生活のすべてを調べてもらい、日本中の週刊誌に発表しょうということだという。凄まじいばかりの反学会執念というほかあるまい。

 ともかく夫の庫之助は、妻からも診断されているように典型的な狂信者である。池田大作がこの悲痛な読物を読めば、むしろしてやったりとホクソ笑むのかもしれない。狂言一家に育て当然こういう人間が生まれてきても何んの不思議もないわけである。私はともかくこの女主人公の一連の告白のなかに強固な意志をもって、学会と心の闘いを始めた人間の原型をみる思いがした。表現は稚拙かもしれないが、真実がこもっている。多くの学会員が一日も早く彼女のように目覚めて退転し、晴天の青空の下に出て来てもらいたいと心から願う気持になったものだ。

 このほかこも、全国から毎日のように不幸に泣く人々の声が寄せられているが、この不幸を脱するか否かの鍵は、まず自らの意志で脱会し、どんなイヤガラセにも負けず、頑張り抜く決意を固めることである。それには、いわゆる“御本尊”をふくめて非学会員と積極的に交際することも一つの方法である。インチキ教義、インチキ講話の類はいっさい、ドブ川へでもどこへでもさっさと捨て去ってしまうことである。
       ---------(43P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新・創価学会を斬る-5

2017-10-19 09:08:52 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

     ------(P28)---(以下、本文)-------

不運は拝んでもなおらぬ
 秋雨が冷たく舗道を濡らす真夜中、店の裸電球の下で故郷の沢内村にいた頃を彼女はしばしば思い出すことがあった。
 電気もなければ、茶碗さえもない赤貧、貧しいが故に、村八分同様にあつかわれ、毎日毎日が空腹の連続であった。食べられる物は何んでも食べ、飢をしのいだ。そのうち栄養失調にかかり頭の毛がだんだんと抜け、遂に女の生命である頭髮は一本もなくなってしまったという。
 中学へ通うときも、教室の中でも、頭を風呂敷でかくした。あまりの恥しさに、いったい女の恥らいというのはどんなことなのか、それすら忘れてしまったような感覚だった。
 この生活から一刻も早く脱れ出よう。彼女の支えはこの一点にしかなかった。待ちに待った中学校の卒業式の夜、早目にセンべイ布団にくるまったが、目は暗闇の中で、冴えに冴えて眠れなかった。両親の寝息が聞え始めた。祖父は中風で寝たっきりなのでほとんど物音をたてない。胸を冒されてもう治る見込みがないといわれている姉は、本当に死んだように眠っていた。静かに起き上った彼女は、隣りの妹と弟の寝顔に向って、「いまに姉ちゃんがお前たちに腹いっばい喰べさせてやるからな、もう少し辛抱していてくれよ」と涙ながらに語りかけた。かねて用意していたわずかばかりの身の回り品を小脇に、裏木戸を静かに開けた。三月とはいえかなりの残雪が月光に輝き、生物はすべて雪の中に眠っているかのようだった。
 盛岡までの道のりは約二七キロ、七里である。しかし希望に燃え立つ彼女には,寒さも遠さもそれほどに感じなかったという。
 女中、店員、事務員、喫茶ガールと職を転々、家出娘の中卒を暖かく迎え入れるほど世間は甘くないことを、身をもって体験させられた三年間であった。成長期を栄養失調で過ごした体力もまた何をするにもブレーキになり、心だけは焦った。
 ある夜、混濁した脳裡に白装束をまとった自分の姿がぼんやりと浮んできた。ああ、これで楽になる、もう私にはいっさいこの世の責任はない。なんの心配もなくゆっくり休める--さようなら。どこか遠くで誰かが私の名前を呼んでいるような気がする、誰だろう、もう誰でもいい……つまりは自殺、それも未遂に終わったのである。

 しかし彼女は死神には勝った。自分は死んではならない人間なのだ。もう一度倒れるまでやろうという気になり、再出発は毎日三十円を必ず貯金することから始められた。
 貯金が十万円になったところで、三十万円を借り入れ、現在地から一〇〇メートルばかり離れたところに、生まれて初めてささやかな店を持った。自分でやる商売は苦しみはあつても楽しみのほうが多かった。そして一年後に結婚、今までの苦労が一度に開花したようなものだった。
 だが楽しみはにわか雨のように過ぎ去って行った。セールスマンであった夫には少しも誠実さがなかった。百万円の手切金を持ってさっさと家を出て行ってしまった。初めから金目当てだったわけである。
 そして忘れもしない四十三年三月十日、庫之助と再婚の式を挙げたのだった。
 創価学会に入り、一心に信仰したのも、夫の命令というより、むしろあまりにも不運の連続である自分自身を、宗教が救つてくれるかもしれないと心の底のどこかで願っていたのではないのか。こう気がついた彼女は、襟首に冷たい空気の流れを感じてそっと手をやったという。

狂信母子が婚家を破壊
 女がいなくなってからは、夫も悪いと思ったのか、また商売に精をだすようになった。再び幸運らしいものが芽生え出したのである。いくらか借金をすれば建築ができる見通しになり、長年夢に見た建築にとりかかった。店舗、食堂、住宅である。
 建築士と図面で打合わせをしている彼女の姿には、どうみても過去の暗い人生のかげりなどはみじんも見えなかった。やがて建築は土台回しから始まり予定通りどんどん進んでいった。
 しかし、元来が無学に等しい彼女には、建築過程でここがなんの間になるかは見当もっかなかった。ようやく竣工寸前になって気づいたのは、図面と実際の間取りがあまりに違うことだった。彼女はあわてて建築士のところへ駆けつけた。
「おや、奥さんご存知なかったのですか。」
「何がです。」
「ご主人とその実家のお母さんが見えられて、初めの図面通りでは家相が悪いから手直ししてくれというので、図面から直したんですよ。いまやっているのは、この図面の通りなんです。」
 あまりのことに彼女は返事につまってしまった。どんなことを言つて建築士の許を帰ってきたのかはっきり憶えていない状態で帰宅し、夫の帰りを待ち構えた。
「こんな所を子供部屋にして、どうするんですか。ちっとも日が入らないでしょう。」
「商売がこんなに繁昌したのも実家の母と私が、毎日御本尊様を拝んでお願いしていたからだ。
 だから間取りも御本尊様のいわれる通りにしたのだ。拝めば子供部屋にも、日が当たるようになる。」真暗な子供部屋は、いつまでたっても明るくはならない。どこにもはけ口がない怒りと気のゆるみから、新築祝いの夜、合所にたった彼女はめまいをおぼえ意識を失なった。
 気づいたとき、初めに耳にした言葉は「とうとうバチが当たった」という夫と実家の者たちの会話だった。こらえにこらえていた堪忍袋の緒が遂に切れた。
「出て行け!!」
 彼女は家中に響く大声をだした。子供が驚いて座敷の隅へ飛んで行った。
「私は使命を与えられて、この世に生まれて来たのだからこの家からは出られない。この家が御本尊様のお蔭でできた以上、この家で私は信心をつづけなければならないんだ。」
 と冷たくにうつろな表情で言ってのける夫だった。
 負けるものか、ダルマさんだって七転八起ではないか、こう感じた彼女は奥歯をギリギリとかみしめた。蒼白な顔は、さながら白面夜叉のようであった。

妻にないしょの学会活動
 聖教新聞を配りにくる。目の前で引き裂く。公明新聞を持ってくる。まるめて燃してしまう。こんな繰り返しが一か月ぐらいつづいてからはもう誰も新聞を持ってこなくなった。しばらくしたある日、店先に四、五人の男と女が立っている。お客さんかなと思って近づいてゆくと、さっと横を向く。おや違ったんだと店の奥に引き返した技女が、再び店先をみると、相変わらず彼らは動かないでいる。さてはと直感した。すると居間のほうから夫が飛ぶように出て来て、彼らと何にやらヒソヒソ話を始めた。やはり学会員だったのである。
 一度は「出て行け」と怒鳴ったが、考えてみれば店の仕事や子供もある。先々を思うと、やはり自分だけの了見でそう簡単に別れることもできないし、学会のことを除けぱそう悪いことをしているわけでもないと、彼女は思い直した。顔で笑って心で闘うのだと決心した。数日前にもふと夫の車の中から一万五千円の領収書を見つけた。もちろん学会のものだった。そんなものを見ても見ぬ振りができるように、いまや習慣づけられていたのである。

病気の子供も犠牲者
 朝食が済んで後片付けする頃になっても下の子が起きてこない。不審に思つて彼女は子供部屋のフスマを開けて見ると、顔をしかめて苦しんでいる。聞いてみると、腹が痛いという。
 冷えかなと思いそのままにして居間に引き返した彼女に、夫が声をかけた。
「どうしたんだ。」
「お腹が痛いんだって。」
「よし、拝んでやる。すぐに洽るから。」
 と夫は例によつて仏壇に向かい、お題目を唱え始めた。
 しばらくするとウメキ声が聞こえてきたので、急いで子供部屋へ駆けつけた彼女は、子供の病状がただごとでないことに気づいた。パジャマの上にセーターを着せズボンをはかせ、ネンネコでおぶって病浣へ急いだ。
「馬鹿、もうすぐ治るんだ。」
 という夫の声を背中で聞き流した。
 急患ということで、院長がすぐに診察をしてくれた。
「急性盲腸だ。もう少しすっぽっておいたら悪性の腹膜炎を起こし、生命に関わるところたった。」
 手術を終えた子どもは安らかな顔でこんこんと眠っている。夫は絶対に病院へはこない。電話で妹を呼んで交替する。帰宅した彼女は、まだ仏埴の前に坐ってお題目を繰り返している夫を見て心の底から呆れ果てた。くるりとこちらに向き直った夫は、ケロリとして、「どうだ治ったろう。もうご利益がでたのだ。」
 と言う。この人は精神病院へでも入院させなければならないのかと考えながら、彼女は久し振りに夫の顔をしげしげと見つめた。
       ---------(34P)-------つづく--

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新・創価学会を斬る-4

2017-10-18 08:45:12 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

       ------(P23)---(以下、本文)-------
女に狂う学会員の夫
 実質的に退転した彼女の目標は、商売一筋であった。学会活動を千仞の谷に葬り去ったいま、馬車馬の如く、寝食を忘れて働き出したのである。妹もようやく晴やかな顔を取り戻し、一緒になって精を出した。台風一過の心境である。あまり姉が働き過ぎるので、ときたま妹は心配
し、「姉さん、身体をこわすといけんよ!。」
 というのだが、彼女は、
「なあに、あのとき、私は死んでいるんだから心配せんでもいいのよ。」
 と笑顔で答える日常だった。
 夫は学会活動のついでに店を手伝った。学会のことを除けば、おとなしく、おっとりしているし、酒も飲まないので、彼女には文句がないというより、むしろそんな性格が好きだったのだ。ただ夫婦の対話はなかった。学会でいう“広宣流布”の使命にあたるのが自分だという信念が夫にあるので、どんな話題をとり上げてみても夫婦の話の辻つまが合わないのである。だから何かの調子に、話がもつれると、夫は突然人が変わったようになり、何んとしても妻を従わせようとして手をふり上げた。妻はこんなとき、すぐにあやまる戦法をとった。事の理非はもう別にして、無駄ないさかいを避けるための方便であった。
 やがて、「家の中は敵だらけだ。」 と夫が言い始めるようになり、暇をみては他所に行き昼寝をするようになった。女のカンと
して何かが起きているかもしれないと思っても、仕事に追われて詮索する余裕がない。ただそういう関係のところから金の請求が来るので、ははあ、またかと思うぐらいが関の山だったという。
 ただ昨年(四十六年)十月にこんなことが起こつた。当時、店で雇っていた従業員の一人に彼女の従姉妹すじに当たる既婚の女性がいた。自分とは親戚関係にあるのだからと安心していたところ、どうも夫との間柄が、単なる主人と従業員のものではなくなってきていた。夫に対するシグサが仕事以上のものなのである。妻としてのカンでは、夫の身の回りの世話をしているなということだった。事実、その頃、夫は家でほとんど食事をせず、全部よそで食事をするようになっていた。この女にはそれなりの計算があり、夫を誘い込めば、金にもなる、いわゆる色と欲との両天秤だったのであろう。
 ある日、彼女はその女の家の近くを商用で通った。ちょっと寄り道してその女の主人に会ってきいてみた。
「おかしな関係になって、別れるの何んのといっても知らないよ。私は別れてもいいんだからお金なんか一銭も払わないよ。」
 と釘をさしても、その主人はただニヤニヤ笑ってすべてを知っているようだった。そのときこの二人が、普通の関係ではなくなっていることを確実に知った妻は、即座にその女を店から辞めさせた。
 だが女の執念は恐しい。十万円くれなければ完全に別れないといって、配達に出る夫を待ち伏せてはつきまとった。いつ、どこそこで二人が歩いているのを見たとか何んとかいう噂が相も変わらず耳に入ってくる日がつづいた。
 その一件以来、夫婦としての感情は全くなくなり、夜の営みも途絶えた。彼女は退転以来わが身を責めるように仕事に打ち込んでいたので、二十台という若さでありながら、寝床に臥すとき、肉体はもう綿のごとく疲れ果てていた。
 その後、女があまりにしっこく夫を追い回すので、遂に夫が逃げだすようになり、妙な追っかけゴッコの状態がつづけられていたが、いつしか女の姿は町から見えなくなってしまった。

金を盗む好色女子部員
 数日後、夫が十九歳の女の子を連れてきて使ってみょうと言い出した。どうせ学会員に決まっているが、身元がはっきりわかっているし、いくらなんでも信心をしているのだから金銭面は大丈夫だと思い、彼女を雇うことにした。なにしろ日銭商売なので、金銭にルーズなのは絶対に困るのである。
 ところがこの子が毎日、毎日の売上げから少しずつごまかしていたときは、そうも気づかなかったが、だんだん慣れるにつれ、まとまった金額をくすねるようになったのである。
 早速、この子を呼んで聞いてみると、
「だんなさんが知つてます。」
 と言う。またかと、その子の顔を見ながら同性として恥しさを顔から隠すことはできなかった。夫とこの子はもう何回も寝ていたのである。いつ、何処でそういう行為をしていたのか、まるで彼女には思い当たるふしがなかった。しかしこうはっきり言うのだから間違いはない。
 黙りこくった彼女の前からその子は勝者のような態度で、部屋から出て行った。その後姿には女として何んとまあだらしない奥さんだろう、女は魅力がなければダメなんだと暗示しているようだった。
 遅い夕食のあと、夫におだやかな調子で、彼女は昼間あったことを話した。
「本能だからな。」
 と夫は少し照れながら、新聞から目を離さずに答えた。
「でも人間が本能のまま動くんなら犬猫とちっとも変わらないでしょう。人間には理性があるんではありませんか。」
 彼女は騒ぐ心を抑えて静かに反ばくしたのである。夫はようやくこちらに向き返り、「信者は夫婦より一心同体なんだ。一心同体なものが関係を結んで何がおかしい。変なヤキモチをやくな。」
 と開きなおった。
 そうか、そうだったのか、と彼女もようやく気づいた。この論法があるからこそ学会員同士は夫でも妻でも男女関係を平気でむすぶんだ。世間の人が何んといおうとまるで気にしない原因はここにあったのだ。創価学会の麻薬はこれだったのだ。お産のときにひどい目に会ったときは、お産という異常な状態だから仕方がないと張り裂ける胸を押さえて我慢した。だがその後もいろいろとあった。
 いったん麻薬の虜になるともう一生治らないといわれるが夫は麻薬患者なのだ、これで夫と学会の関係がはっきりした。
 こう悟った彼女はある决心をした。どんなことがあっても、自分は決して先に死なない。どうしても自分が先に死ぬようだったら夫を連れてゆかねばならない。残った人たちにどんな迷惑を掛けるかわからない。自分は雑草のような性質だし、並大抵以上の苦労をしてきたのだからそう簡単に負けない。
 しかし他の人たちではダメだ。必ず泣き寝入りになってしまう。世間では心中などとはやしたてるかもしれない。そんなことはかまわない、と悲壮な決意までした。
       ---------(27P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新・創価学会を斬る-3

2017-10-17 09:32:32 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

                       ------(P17)---(以下、本文)-------
第一部この末期的症状のさまざま
第一章 人間破壊、家庭破壊に泣く底辺のうめき
 まず初めに『続・斬る』で手紙の一部を採録した岩手県に住む藤原玉千代さんの、毎日毎日が暗闘ともいうベき悲惨な家庭伏況を記したルボ風物語を読んでいただこう。
 この藤原さん一家の記録は、学会がいかに家庭平和への汚染源であるかという、あらゆるケースが含まれており、まずは末端学会員の悲劇の典型といわねばならないし、前著で紹介した場合もこの手紙についてかなりの問い合わせがあったことをついでに付記しておく。
 この女性は「池田会長と夫を殺したい」とまで言っているのだ。まことおそろしいことだがそこまで彼女を追いつめたものは何か。この記録を読むと、なるほどという気がするというものである。

狂信者と知らずに結婚
 東北地方の太平洋岸をはしる東北本線と日本海側の奥羽本線を結ぶ横断線の一つに北上線というのがある。かの“北上夜曲”で有名になった北上と横手を結ぶローカル線である。かっては北上を黒沢尻と呼んでいたので、古い東北人はいまでも“横黒線”の名称を懐しんで使っている。
 この線は東北地方の屋根といわれる奥羽山脈を縦断しているから、沿線はそれこそ山また山のトンネル線でもある。それだけに山の温泉も多く、ほとんどの駅に立っている案内板に“XX温泉下車駅”としるされてある。
 北上から約一時間のところに陸中川尻駅がある。この辺は春がやってきて、幹線の沿線には雪が全く見当たらなくなっても、まだ一面に雪化粧をしているようなところだ。かろうじて舗装されていると感じられるひなびた道をバスで二十分ほど入ったところに湯本温泉がある。温泉の入口に近い表通りに面しているのが「マルタマ精肉店」、その隣りに「スーパー・マルタマ」の看板が見える。この店が藤原さんの店なのだ。
 表から見れば一見なんでもないごく平凡な店である。東京でいえば中級ぐらいの店構えだが、大都会のように買物客がむらがっているという感じは全くない。この町の表通りそのものがきわめて閑散なのである。

 この湯本温泉に住んでおれば、誰一人知らぬ者はない家庭の悲劇が、ここ七、八年の間、この店の内部で繰りひろげられてきた。
 悲劇の“元凶”はこの家の主人藤原庫之助。彼は同じ北上線の黒沢駅から少し奥に入った山村から婿のような形でやってきた。体格はがっちりしているが、一見おとなしく、東北人かよく好む酒もいっさい口にしない働き者、いうなれぱ一種のマジメ人間である。
 妻の玉千代は幼いどきから貧困のどん底を経験し、大きくなったら,腹いつばい好きなものを妹や弟たちと食べようといつも夢見ていたという。この夫を迎えたとき彼女は、これでようやく幸せが自分のところへもやって来たんだと心の中で喜びにむせんだ。
 だが実は大きな黒い怪物が“幸福の使者”と思った夫の後には控えていたのである。この夫は新たに自分の居住地となった湯本温泉の人々すべてを、創価学会に入信させるためにこの地に来たと固く信じ、結婚するや直ちにその活動を始めたのである。彼の出身地山内村が、別名、“学会”と呼ばれている文字通りの寒村であることを知ったのはずっと後になってからで、俗にいう“仲人口”をそのまま信じ込んだ彼女もウカツだったのである。

 湯本温泉では当時(昭和四十三年)、創価学会の名を知る者はほとんどいなかったくらいなので、彼女も創価学会が何をする団体かはよくわからなかった。折伏され入信した第一号はもちろん彼女自身であった。そのときの心境は「なんでも食べてみなくては味がわからない。いいか悪いか食べてみょう」ということだったが、やはり女としては夫の好きな赤烏帽子をという気持は十二分にあった。
 ここで一つ絵解きをしなければならない。この夫婦はともに再婚なのである。夫は四歳の男の子を連れてきた。妻はその子をわが子のように可愛いがった。楽しかるべきはずの初婚をいずれも破局で迎えた二人には、今度こそ--という気持がお互いにあったはずである。
 入信した翌日から彼女はこれまでの生活とはうって変わり、朝早くから夜遅くまで座談会、横手にある法華寺参り、暇があれば学会の本に向って勉強という毎日がはじまった。そうなるともう商売などをやっているどころではなくなり、思い切って店も閉ざしてしまった。
 彼女の実家の父は“米作り日本一”ということで天皇陛下の御前にも召された人物だった。
 それだけに、彼女のこういう変身ぶりには、実家の母親を初め親戚中が心配し、入れ替り立ち替り、彼女に忠告を与えに来た。しかし彼女は性来の負けん気もあり「とにかく私に任せておいてください」というのがこれらの人々に対するきまった答になっていた。朝起きると夫婦と一緒に子供までが“勤行”ということでお題目をあげた。夜は夜で十一時、十二時までも半ば眠りながら夫婦のうしろで子供は手を合わせていたという。
 彼女の頭はもはや、店や商売のことなどは少しも考える余裕がなくなり、ただひたすら夫とともに信心し、この再出発を失敗のないものに築き上げようということだけだった‥‥まこと純粋に信仰に徹したということである。
                                                                
母体を危くしたお題目の功徳
 やがて夫婦の愛の結晶が宿り、出産が近づいたとき、彼女はこの二十四年間に経験したことがないほどのひどい風邪にかかり、高熱にうなされる日がつづいた。そんなとき夫は「いまこそ御本尊様がお助けくださるときだ。拝め、拝め」と叫びながら、激しいセキと高熱で起きられない妻を無理矢理、仏壇の前まで引っぱっていって拝ませた。意識もうろうとなりながらも、功徳が本当にあるのならばと信じつつ、五日四晩ほとんど一睡もせずに拝みつづけた。そして遂に、崩れるように仏壇の前で倒れた。意識は完全に無かった。このとき夫は倒れた妻に向って冷笑を浴びせ「心から信心してないからだ」と罵倒した。
 数日前から姉の病状を心配していた妹が、飛込んできて病院へ運び込んだ。このような状態になっても夫である彼は何一つ手助けなどはしなかったという。
 診祭を終えた医師は静かに言つた……。「もう限度でした。これ以上遅かったら母子とも危なかったでしょう」と。
 無事男子を出産した彼女は、やつれた頼に手をやりながら、殺風景な病院のベッドに身を横たえ、過ぎ去った一年間のことを漠然と想い浮かべていた。男の子を産んでも誰一人見舞いに来ない自分のいまの境遇はいったい何なのだろうか。自分としてはできるかぎり全身をぶっけて信心し、学会活動をしたのに、肉体的には死線をさまよい、経済的には店はドン底に落ちこんでしまった。夫がいうような“ご利益”はないのか。そして“功徳”とはいったい何んのことなのだろうか。妹は何もいわずに私たちの行動を見守っている。はたして心の中では何を考えているのだろうか。このままの状態でいったらこの幼児を無事成長させられるだろうか。想いはまさに走馬燈のようにウツロになった頭の中を通り過ぎては消え去っていった。

 退院して数日過ぎたある日、夫は妻の枕元でこう訴えた。
「こんな状態では駄目だ。未棟を残すから“ご利益”もないのだ。欲も得も全部捨てて裸になつて再出発しょう。それでこそ初めて御本尊様の“ご利益”があるのだ。」
 この言葉を聞いたとき、いままで何か感じてはいたが、それか何んであるかはっきり掴めなかった彼女の意識にも一つのものだけが凝集してくるのを感じた。そうだ学会の教えはウソだ。この人は一家を犠牲にさせるんだ。ここで負けたらもう終りだ。ドロ沼に落ち込むのはもうたくさんだ、と悟った妻の目は、キッと夫の目を見据えた。
「店はつぶせません。妹と血の涙で築き上げたものです。店がなくなったらどうして私たちは生活するのですか。学会で生活の面倒をみてくれるのですか。」
 一年間のうつ憤が一時に吐き出たかのような口調で妻は言い切った。
「何を馬鹿なことを…信心が足らんということをタナにあげて、馬鹿げたことを言うな。御本尊様のありがたさを知らん奴は勝手にしろ。」
 こんな手痛い反撃に会うことを予想もしなかった夫はこういう捨てゼリフを残し、苦々しい面持で荒々しく立ち去つていった。かくして夫婦の暗闘の幕はこのときから切って落されたのである。
       ---------(23P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする