創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

続・創価学会を斬る-28

2017-10-05 06:02:32 | Weblog

続・創価学会を斬る  藤原弘達 (昭和46=1971 日新報道)
    ------(P186)---(以下、本文)-------

政教不分離への証言
 前著『創価学会を斬る』を出した折に、数々の投書が私のところへきたことはすでに述べたとおりである。その内容は悪罵、非難から“殺してやりたい”と脅迫する者がいる反面、“頑張ってくれ”“もっと徹底的に斬ってくれ”“よくやってくださった”という激励の手紙をふくめて、まさに山ときたことはいうまでもない。そうした投書の山は本を出して出版坊害が明らかになったときに最初に押し寄せ、次いで第二の山は四十五年五月三日の池田講演の後にきた。
 あの池田講演についてはすでに私の批判も展開したが、あまりのインチキぶり、あまりのゴマカシぶりに学会内部からも憤りが生じ、それが投書の山となったということである。

 例えば次のようなものがあつた。(この投書には住所、氏名がチヤンと書いてあり実在の人物かどうかも確かめてある。)
「……池田会長は十周年記念大会において、今回の言論問題について、いいわけがましいことを混えながら、猛省しているとか、政教分離するとか、いろいろ言明しましたが、そういうその口で過去については早速ウソの談話をやったのでは反省にもならず、これからの方針も欺瞞にみちたものであります。
『私は過去三力年間公明党になんの指示もしていない』とか--
『竹入君たちになにかを云うことは政教分雜の自己否定になる』--
『党のことは党の資任であり自主性をもたせていた』--
『とくに一昨年からまったくノータッチできております』--
 などと、近い過去をふりかえって、さも民主的なような談話をしておりますが、党にノータッチであった筈の昨年(四十四年)一月、両国の日大講堂で幹部大会を開催したとき、池田氏は神奈川と埼玉の二、三の公明党員が思い上がった言動をしたということで大変な立腹をしてその旨を万余の面前で罵倒したあげく、前列に座していた大幹部である国会議員数十名に対し退場しろと怒号すると、議員達全員は退場するわけにもいかず、返す言葉はむろんなく、ただオロオロと最後部に退き立っておりました……」

 まことに写実的な描き方で、ウソとは思えない。池田会長という男はとにかく大変な存在だったということがよくわかるといってよいだろう。その後も池田会長の「御勘気」は解けず、大石寺に池田がゆくと議員連中もゾロゾロついてゆき、その後を泣きながらすがりついたという。家屋のなかに池田が入ると、これにつづこうとして押し出され、会長が出てくるまで直立不動の姿勢で何時間でも大の男が泣きながら待つている。出てくるとまた手放しでボロボ口と涙をこぼしては泣き、ゾ口ゾ口と右往左往しながら金魚のフンのようにつながってゆく。それが毎日のことで、長期間にわたったというのだから、まさにたわけたというか、ケッサクな話なのである。
 こういう状況を目撃し、かえつて多くの学会員は改めて会長の偉大さを自覚したのかもしれないが、当然のこととして人によっては疑問も生じたという。この天下の議員さんたち、いったい何をしているのか。池田会長一人のためにこんなことで徒食し、国会の審議や政策の研究ができるだろうか。会長は現に「公明党は学会のものではない。国民のものです」といっているように、少数でも学会員以外の人々の票もとって当選した「国民の代表」ではないのか。池田個人のために、こんなにバカバカしい時間を空費しては一種の「不正議員」と変わらないではないか。会長も会長といわなくてはならない。若干の不心得者がでたことを理由として、全員に制裁的な暴言と侮辱を加える権限が池田会長のどこにあるのだろうか。まして国会の仕事を怠ってついてくる議員たちを、本来の仕事に戻すという措置をとらなかったのか……等々。

 まさに当然すぎる疑問というべきであろう。そのくせ、その五月過ぎには、その池田自身まことにシャアシャアとして、「いつも私の意見は少数意見でなかなか通らない。公明党の議員さんがたは偉くて私のいうことなどきいてくれませんよ」と平気でいっているのだ。投書した学会員が,「これだけ国民の代表をロボットにひとしい私物あつかいにしておきながら、一昨年からノータッチなどと、内情を知らない外のマスコミに向かって臆面もなく言明するこの宗教人、まことに世界一にずうずうしい人だと断定したくなります」と痛憤するのも無理からぬといわねばなるまい。
 この学会員の指摘をまつまでもなく、公明党の議員はその幹部の竹入や矢野をふくめて、池田の前では吹けば飛ぶような存在であり、外にはいかにも民主的な運営をしているように見せかけていながら、内ではまったく逆なことが行なわれており、そういう二枚舌の論理と二つの顔の使い分けという点は、五月三日の池田発言はまさにその頂点をなしたといえよう。
 四十四年の幹部大会では、池田会長から「現在では電燈があるのでローソクを廃し、造花のシキミを供えてはいかがか」という提案がなされた。信者たちはいつせいに講堂が破れんばかりの拍手で賛意を表したので、これを採択するということになった。ところが学会員の投書によると、ローソクにかえて電燈で勤行している信者はいないばかりか、シキミの葉も相変わらず使われているという。それが会長の提案だと、やりたくないことでも賛成となる。「こういう心理状態の信者が、国会や地方の議員であり、やがてそうなる幹部信者なのですから、とても民主的な政治など望めません。会長一人のためのオべッカ議員、オベッ力信者ということです」と評しているのも当然であろう。

 ともかく、四十五年五月の時点までの池田会長のワンマン的専横ぶりは相当のものだったようだ。彼の演説中に婦人の幹部が居眠りをしたといってはおこりだし、要職から引きずりおろしたこともあったという。これに対して、誰も抗議も抵抗もするものがないばかりか、敢然といさめる幹部もいなかったというのだ。
 事実、池田会長は「仏の生まれかわり」というように末端信者には話されており、創価学会信者全部を束にしても絶対服従の“羊め群れ”という意味しか、もっていなかったということである。
 だから、今ここで池田会長が、いかに外面をよくして自由の尊重を訴えても、内にいる学会員には少しもピンとはこない。ある学会員はハッキリこういってきている。「いま更、政教分維と称して、公明党議員を学会役職から抜いてみせたところで、彼等が日蓮正宗の信者であることには変りはありません。ということは、彼等が池田会長の忠実なロボットとして、今後も国民の眼を盗んでは相通じなくていかなければ双方とも立ち行かないからです」。まさに“母子相姦”関係の“偽装別居”工作を内側から証言してくれているというところである。

 ともかく学会内部で、ご本尊と池田会長は絶対である。これに対する批判はいっさい許されない。それを藤原行正都議は、部外者の私の著述にまで要求したくらいである。だから池田が「神格化などとんでもない、あったら化物です」などというと、学会員は精神的拠り所の原点を失って、まさにとまどってしまったということにもなるのだ。
 学会員の会合、個人指導などにおいても「会長先生の話をしょう」というのが、最重要指導要項の合言葉になっているのだ。「生き仏」のありがたい功徳だけでなく、彼の病気までが、学会の信心が足りないためという風に説かれる。池田講演のあった五月三日前後に、自分の病気のことや自殺寸前の人間的苦悩などを、ヌケヌケとしゃべった池田会長の言い方は、当然のこととして、信者向けにちゃんと計算されていたことになる。

 ともかく会長が橋の上で手を叩くと、池の中から一メートルもある鯉がとび上がったとか、冬の寒い日でも孔雀が会長の前では喜んで羽をいっばいにひろげたとか、天皇の「御稜威」を思わせる「神話」ならぬ「仏話」もたくさんできているという。こんなバカバ力しい話でもけっこう信じ、言論圧迫なんてなんのその、「今に藤原弘達も、会長のところへお詫びにやってくる」などと、会合では平気でしゃべられていたわけである。これをハイハイと信じて疑わない迷信の徒も、全会員の半数ぐらいはいたことであろう。
 もっとも生き仏会長のお見通しも、狂うことが少なくない。四十四年の二月に「衆議院の四月解散まちがいなし」と池田が述べたため選挙戦にそなえてのブロック体制が指令されたが、これがまんまとはずれてしまって、幹部たちはその言訳に四苦八苦したといわれている。
「一人の会長のお見通しや判断で命令し、縦線にしたり、ブロック体制にしたりして、誤った場合は、学会内部ならまだしも、これが一国の政治だったら、大変なことになります。幹部の誰からも異議の一つも生き仏会長だからいえないで、民主主義もへチマもありません。そういう連中が国会議員なのですから、国民が心配するのも当然のことです。しかしそういう傾向に対して、常識的な批判でもしたら、学会内では幹部にはなれないのです。どんな不合理なことでもハイハイと従わないと、幹部の役職を追われるか、自分から脱会するほかなく、飯の食い上げになってしまうのです」。まことに驚くベき内部事情なのである。
 だから会長が「側近の良し悪しは、中心となるリーダーの反映ですから、私の指導そのものに批判を加えるのが先決です」などと仰せられても、そんなことはとても本心とは思えない。
 会長への批判そのものが、学会内ではタブーとなっているのだ。
 言論出叛問題の生じた折り、内部からも「親である会長が知らないうちに子である公明党の幹部などがへマをやったのだから、会長は悪びれないで藤原先生に謝罪するのが大物のとるべき態度ではないか」といった声もけっこうでていたというが、こういう声を会長に取次ぐ幹部は一人もいなかったというのが事実のようである。
 そういう事情が、言論問題についての公明党の幹部のバカバカしいまでに屈折した態度を生む心理的背景になっていたとみてよいのである。
 事件が起きたころは、会合や個人指導での幹部の「藤原弘達攻撃」はエスカレートし、口をそろえて「藤原弘達は三障四魔」とか「第六天の魔王だから断乎粉砕せよ」とまで述べていたという。
 他から注意や批判を受けた折には、それをもって「三障四魔」のおこりというように解釈してしまうのが学会員の習い性なのである。そうした実質的な「批判拒否」体質が、何時のまにか、そのまま本性になってしまうのである。そうした傾向だけは末端信者からトップの会長までほぼ一貫しているといえる。
 投書してきた学会員自身も、これは「こまった体質だ」と認めているが、どうにもならないらしい。元来が溺れるものワラでもっかみたい心理で折伏入信した弱い精神の人々である。不合理に気づいて脱会したくとも、日蓮の御書からの引用で、“罰論”を一発かまされると、ふるえあがってそのままグスグスと萎縮してしまうということである。その“罰論”なるものヤクザがへマをやって小指を三分の一ぐらいつめるのならともかくとして、生命に響く事例や体験を“御書”にあてはめ、こってりとやられるのだから、まずは躊躇しないほうがおかしいくらいである。ある信者は、その心理が選挙戦に最大限に利用されていた内幕を次のように知らせてきた。
       ---------(193P)-------つづく--

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