新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)
池田大作・創価学会幹部よ、この傷つけられた犬衆の怒声を聞け!!
創価学会に入れば--
「福運がきますよ」
「商売も繁盛しますよ」
「病気も治りますよ」
と言葉たくみに大衆の弱みにつけ入り、これを最大限に利用し、徹底的搾取をしてきた池田大作及び学会幹部は、約束を反古にするばかりか欠陥人間をつくり家庭を破壊する公害源である。本書に収められた数々の学会員の声は、そうした池田大作や学会幹部の卑劣な行為に対する糾弾の声であり、これまで欺され傷つけられてきた学会員の怒りの声であり、怨念の声でもある。
新・創価学会を斬る 藤原弘達著
傷つけられた大衆の怒声
◆ はじめに
『新・創価学会を斬る』というタイトルのもとに、この本を出す気になったのは、『正・続斬る』につづく私なりの問題意識にもとづくものであることはいうまでもない。ただ私自身は、前二著を通じてかなり徹底的に創価学会批判をおこなってきたものの、なおかつ何ともいえないもの足りなさを感じていることを率直にいっておかねばならない。
それは何か。本で批判し、また放送で批判するなど単なる言論の手段だけでは、どうすることもできないような、いわぱ手のとどかないドロドロした底辺の問題が結構この「創価学会問題」の背後にあるということなのである。
そうした日本社会の底辺層をなす多くの大衆学会員から私のところには、あの“事件”を契機として、実におびただしい投書が舞い込んだ。またときには直接面会を求める多くの信者ないし、信者のような人々が殺到してきたといっても過言ではないのである。
私は、平素忙しい生活をしている。身体がいくつあっても足りないくらいである。その私に「時間をさいてくれ。そして一度でいいから私たちの慘状をきいてくれ」というご要望がいっぱいであった。創価学会に対する不満、さらには批判を私の耳に入れ、訴えたいという人々がいかに多いかということを、今度の事件を通じて改めて知ったワケである。
本来ならば、私は万難を排して、こういう人々に直接会い、彼等の苦悩を解き明かすために少しでも手助けになりたいという気持は十二分にもっているつもりだ。
ただ、美濃部都知事の“対話”ではないが、そういう人々と、もし一対一の対話をつづけたとするならば、私はおそらく仕事らしい仕事などなにひとつできないことにもなるであろう。
そこで、私のところにきた手紙やそういう訴えを日新報道・編集部と協力して整理してみた。そしてそういう人々のところへ、編集部員に直接行ってもらい、いわぱ生の創価学会批判の声を集めてみたのである。会員内部から、ないしはかって信者であった人々から、あるいは学会による折伏等の被害を受けた人々からの“真実の叫び”“怒りの声”をまとめてみたワケだ。
そしてこれを学会批判のいわばひとつの決定版にしようとしたのが、この本の第一部である。
率直にいって、論理的には創価学会・公明党は、私の批判したことに対して、一見まことに素直に対応しているといえるかもしれない。政教分離にせよ、折伏の中止にせよ、言論自由の尊重にせよ、一応、会長の名において天下に宣言されたものである。問題はこれが実行されているかどうかである。その実行が、はたして底辺の民衆の次元において現われているかどうか、これが問題なのである。
口先だけで民主主義を謳うことはやさしい。口先だけで言論の自由を唱えることもやさしい。しかし、ほんとうの被害者、ほんとうの「創価学会問題」の犠牲者ともいえる人々は中間層で右往左往しているようなインテリとか学者とか、新聞記者とかいうものではないのである。そういう中間層の人々は、ある意味においては小利口であり、うまく立も回り、都合がわるくなるとチャンとのがれることもできるのである。
のがれることができないのは、むしろ底辺の、ドロドロとした泥沼のなかにある大衆の人々である。そしてそういう人たちが立ち上がらないかぎり、日本の民主主義は所詮は絵にかいた餅である、という考え方を私は常にもっている。それは私がここ二〇年、たえず民衆の政治意識や世論というものを政治批判の原点におきながらやってきた仕事の、いわば基本姿勢なのである。そういう私の学問や評論の基本姿勢からみれば、この底辺の声を生にぶっけ、そしてそういう人々が立ち上がって、創価学会・公明党を批判するようにならないかぎり、私の仕事もまた終わったことにならないという気持をいまや強くもったのである。
三島事件といい、横井庄一事件といい、まだ日本の底辺には、いろいろとかっての時代の精神構造の残渣がうごめいているといえるかもしれない。「創価学会問題」も、そういう事件とまったく異質のものとはいえないであろう。
そういう意味において、創価学会問題が投じた波紋は、まさに、彼等が“声ある声”を発揮し、言いたいことを言い、憶せず戦わなければならないし、そういう戦う意欲を、創価学会・公明党問題において--とくに選挙の行動において--発揮されなければ、私の一連の「斬る」仕事も政治的な意味としては本当の力にならないのである。
内外情勢まさに混とんとし、政局の推移もきわめて瞹昧模糊としている。世界は大きく動いておりながら、なおこの日本をどういう方向にもっていくかという指導力となると、政界はいうに及ばず、言論界においても、財界においても、まこと心もとない限りというほかないだろう。ほとんど見い出せないそういう時点においてあえてこの問題をギリギリの極点まで押し進めて、そういう押し進めた結着点のなかから、新しいエネルギーの泉をば、底辺大衆のなかに見い出そうとしたことが、この『新・創価学会を斬る』を出すにいたった理由なのである。
本の構成としては、第一部にもっぱら、そういう生の民衆の声を収録し、その生々しい実感をお伝えすることをねらいとしている。こんどは私が「斬る」のではなくして、底辺の大衆が斬る番である。そういう人々はいまや戦後の妖怪・創価学会を恐れず批判する力を身につけるまでに成長したのだ。この二年ないし三年というわずかな時間に、底辺大衆がこれだけ変わったということを多くの国民のみなさんに理解してもらいたいためにも組まれた内容である。
第二部は、そういう第一部の分析を踏んまえて、すでにこれまでに出版している『正・続斬る』などを総括し、やや広い立場からいまの日本における「創価学会問題」とは何か、日本の底辺民主化の方向はなんであるかということについての、私なりの見解を述べたものにほかならない。この経済的繁栄のなかに精神の進路を見い出しえないいまの日本における宗教の役割などについても、私なりに若干の提言を試みたものである。
私は、無神論者でもなければ、無宗教論者でもない。ただ、これからの日本にホンモノの宗教のでてくることの必要性をもっとも強く感じている一人である。歴史的にも日本にはルネッサンスはあったけれども宗教改革はなかったといわれている。そしてそれが実は日本の精神構造のなかにひそむ決定的で根源的な問題なのである。アラブ・ゲリラのお先棒をかついで世界を唖然とさせた「赤軍」殺し屋の若者たちの心にしても、そのことと無関係ではないように思えてならない。
私は、かならずしも、日本における宗教改革を叫ぼうなど、大それた気持はもっていない。
いまさら、ルッター出でよ、カルビンが出でよと言ったつて、始まらない気もする。しかしいまの日本で小さなルッターになり、小さなカルビンになるものは、例えば創価学会と闘うような、そういう大衆の人々のなかから、だんだんとでてくるのではないかという気がしている。
大衆社会の主人はあくまでも底辺大衆だからである。
中国の文化革命が七億の民を毛沢東にしたい、という発想に出たとすれば、私はまさに一億の民がそういう何らかの宗教改革を己れ自らの心との闘いを通じて展開するとき、それがまさに,神々の“ラッシュアワー”に対する真の交通整理にもなるものではないか、そういう大それた希望、ないし夢を、この『新・斬る』に万感をこめて託すものである。
一九七二年六月
藤原弘達
---------(6P)-------つづく--