創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

続・創価学会を斬る-25

2017-10-01 07:38:04 | Weblog

続・創価学会を斬る  藤原弘達 (昭和46=1971 日新報道)
    ------(P158)---(以下、本文)-------

創価大学・学会幹部の養成所!?
 最後にあげるベきは、四十六年四月に開校された創価大学である。この大学こそ創価学会イズムによつて武装された次代の学会リーダーを養成するところだからである。
 すでに立正大学、大谷大学をはじめ、仏教系大学もいくつかあるが、創価学会もまた教育とのかかわりは元来深いものがあるといわれる。初代会長、故牧ロ常三郎は小学校の校長をし、この校長在職時代に意をそそいだのが、彼自身の教育学体系の完成であり、そこで編みだされたのが昭和五年から九年にかけて出版された『創価教育学体系』〔全四卷〕である。それよりさき昭和三年に彼は日蓮正宗に入信しており、彼の哲学と宗教とを融合することが試みられ、今日の教義の出発点が形成されたといえよう。そして十二年に六十数名の会員とともに創価教育学会なるものを結成している。これが創価学会の起点となり、また創価大学の原点にもなったワケである。“創価”という意味は、人間は価値の創造者であり、価値の創造につとめることによつて人間としての発展が期せられるといいうことにあろう。
 ところが、この価値なるものが間題である。牧口のいう価値は、当時の新カント派哲学の影響を受けると共に旧来いわれてきた真、善、美に対して美、利、善を価値としたことであろう。真、善、美とは、学問、道徳、芸術の追及すべき価値をあらわしたものであるが、彼のいう美、利、善とは、表現は真善美を模したものであろうが、内容はかなり異質なものなのだ。
 それでは牧口のいう価値とは何か。やや陳腐な所論であるが、一応彼のとっている立場を、池田諭の『第三の大学--創価大学』に紹介されているところに従がって述べると、次のようになる。
 牧口のいう価値とは上述のように、美、利、善であり、それについて彼は「美の価値とは、目・耳・口、皮膚のいわゆる五官によつて獲得するところの感覚的、一時的価値。利の価値は、各個人がその生命を維持発展するに足る対象との関係状態であり、善は、各個人が要素となって統一されている社会の、生成発展に寄与する人間の有為的行意を評価したものですなわち公益を善という」(三五ページ)と述べている。

 美は審美的価値で、部分的生命に関する感覚的価値、利は経済的価値で、人間の生命に関する個体的価値、善は道徳的価値で、団体的生命に関する社会的価値という三段階の価値体系であり、これらの価値は、体系として統一されなければならない、というように主張し、その統一された価値が幸福ということであつた。これが牧口の教育学体系のかなめとなるものである。(三六ページ)

 これを受けて二代目会長戸田城聖は、牧口の思想の究明発展よりも、その思想を日蓮正宗の中でどう位置づけるのかということに苦心した。牧口のいう美、利、善の統一的価値とは日蓮の教えそのものであり、法華経そのものである、というように関連づけることにもっばらその力がそそがれている。そして日蓮正宗を政治、経済、教育、芸術などと併存する一宗教の位置から、それ等いっさいを包含し、統一するものとしての宗教、本来的意味での普遍性をもつ宗教に再生をさせようという懸命のコジツケ努力を払ったワケである。(三九ぺージ)

 かくして日蓮正宗こそは人間科学、自然科学、社会科学を包含する諸科学統一の法則でありその生命論は、人間、社会、宇宙を統一的に把握するものであるとされる誇大妄想的ともいえる宗教論へと癸展していったのだ。
 学会の教義は一方では幸福論に立脚している。それもベンサム流の最大多数の最大幸福ではなく、全民衆の最大幸福を具現すべきである、という主張を骨格にしている。しかも他方でもう一つの側面があることを無視できない。それを私が“無限抱擁型”と名付けたように、古今東西のあらゆる思想、あらゆる教義を止揚し、統一したものだという発想も同時に含んでいる点が特徴的である。

 前段の幸福論が折伏などの際に、大いに俗っぽく語られて、いわゆる「御利益」となる。信じさえすれば病も治る、生活も楽になる、争いもおさまる、さまざまのストレスも解消する、人間関係もよくなる、というふうに表現されてくるのだ。信ずれば御利益がもたされ、信じなければ罰があたる。
 “功徳と罰”、この二つのタームからなっている教えが、実は日蓮正宗というより俗なる創価学会の仏法であり、教えなのである。精神的にせよ、肉体的にせよ、それなりに苦しみ、ワラをもつかみたくなっている人々を吸引するにふさわしい単純素朴な表現として展開されるのである。
 だいたいこうした御利益をふりかざすことじたい宗教の堕落ではないかと思う。世俗的御利益ではなく、人間に内存する本質的なものをみつめ、内面的救済をすることにこそ、宗教本来の使命があるように思うのだが、創価学会はその点日本の新興宗教一般の傾向と全くちがわない“御利益教”といえるだろう。

 また、創価学会・公明党は第三の道とか、第三文明とか、“第三”ということと“中道”ということをひんばんに用いる。この“第三”というのは、へーゲルの弁証法の正・反・合からヒントをえていることは明らかであり、対立する二つのものをアウフへーベンし、止揚したものが“第三”と表現されるものである。これに西田哲学、田辺哲学の通俗的転用が加味されて創価学会は、唯心論と唯物論、資本主義と社会主義といった具合に、なんでもかんでもあらゆるものを正・反・合と止揚してゆく。そして過去のあらゆるイデオロギー、思想、その他一切合さいを止揚した最高のものというようにデツチあげられるのだ。最高にするための「無限抱擁」という日本的イデオロギーのパターンがそのままあらわれている。
 これは戦前における右翼理論家が言ったことを想起させるものがある。戦前の右翼理論家蓑田胸喜は次のように述べている。「神ながらのみちは、古今東西の教という教、学という学の一切、仏教・儒教・基督教また希臘哲学より近代西欧科学、更にデモクラシー・マルキシズム・ファシズム、国家社会主義等をも凡て原理的にそのうちに融化解消している」(『国家社会主義に対する精神科学的批判』)
 戦前の「神ながらのみち」も、日蓮正宗も、その信奉者によれば、あらゆるものを包括し、それを止揚したもの、ということである。こういう無限抱擁の論理的結末はいわずして明らかである。逆に内容は空疎になり、たんに言葉の遊戯、ハッタリと化し、妄想的雄大さのみが残ることになる。池田会長の著書に、いかに多くの外国人の言葉があらわれることか。しかも、それらは前後と無関係に、その思想的立場の異なるものが平然と、池田のいうところを正当化し、飾りたてるためだけに引用されているのである。

 ところで故牧口常三郎が、おそらく夢みたであろう創価学園の創立は、昭和三十九年六月創価学会学生部総会の席で、池田会長によって明らかにされ、それ以来具体的日程にのぼることになった。そして四十年七月三十日の学会教育部会第四回幹部総会において池田会長は次のように述べている。
「最初にご報告申しあげたいことは、創価大学ならびに、付属の創価高等学校の設立についてであります。十一月ごろ、設立審議会を発足させる予定になっておりますが、ここにおいて、二十年先、五十年先の日本の指導者、世界平和を築いていく指導者を育ててまいります。と同時に、特に初代会長の創価教育学説を、この社会で実践しきっていく教育をしたい。したがって、そのための完璧なる教育陣営、教育設備をつくりあげたいと思っております」(池田諭、既掲書九一ページによる)。

 この発言に従つて十一月に審議会が発足し、創価学園の設立にむかって全力が投入され始めたワケである。ここではっきりと述べられているように創価学園、つまり創価中学、創価高校、創価大学の目的は、初代会長の牧ロ常三郎の創価教育学説によって、いわば創価学会的人間をつくりあげるということを目的としているワケだ。学会はそれをまず教育を通じて意識革命からやろうというのである。それがいうところの“人間革命”ということにもなるのであろう。
 そういう意味からも創価大学の目的は学会イズムによつて武装された学会リーダーの養成所ということもできるのである。
 事実、池田大作は四十五年五月に創価学会のビジョンとして「具体的には、まず第一歩として、今後は新しい文明の基礎をつくる教育文化に力を注いでいきたい」(『週刊サンケイ』四五・五・一一号)と、新しい文明の基礎をつくると述べ、創価大学の充実発展を発議しているのである。さらに伊藤満(法学部長)によれば、それは単に発議せられたにとどまるのではなく、広大な敷地をはじめ、すべての建築、いっさいの施設、要するに一木一草ことごとくが創立者の心血をそそがれた苦闘のなかから生みだされたのである。金額にみつもって、すでに六十億円以上の巨費が投ぜられていることは周知の事実である。しかも、その内容は、世間によくある宗団が信者から寄附を強制的に集めてといったたぐいのものでは決してなく、創立者の筆になる多数の著書や創立者の指導による出版物などの果実が主である、ということである(「創価大学」『書斉の窓』二〇一号)。
 しかし、浅野秀満によると、「敷地や校舎で、すでに六十億円をかけていたが、池田は金に糸目をつけないといっている。設立基金は十五万五千人からよせられた十二億円と、学会の四十八億円」と述べている(『あすの創価学会』)。いずれが本当か、どうやら後者のようである。かりに池田の印税等によるにしても、それはあまりたいした価値のない本を買わされた会員のポケットからでているものであることは間違いない。個人所得に対する税金もどうなっているのか、甚だしく気になる。

 ところで、創価大学は建物や設備面からいうなら、まことにデラックスな大学である。
 前出の伊藤満のいうところによると敷地は四五〇余万平方メートル(十四万坪)という広さであり、八階建て文科系校舎、ラーニングセンター、福祉厚生棟、大教室棟(以上四棟は冷暖房完備)、体育館、学生寮、教職員宿舍(以上三棟、暖房設備)がすでに立ち並び、やがて二〇〇人以上収容の中、小教室五五(大教室は別棟)、教員個人研究室一三四、共同研究室五、ゼミ室二〇を備えることになるという。視徳覚教育設備や野外音楽堂、立派な図書館、医務施設など、いたれりつくせりの設備が整えられているということである。
 せまい研究室、スシ詰め教室、まともな厚生施設もない、多くの大学からみるならば、まさにそうした面では夢の宮殿であり、創価大学は垂涎のマトでもあろう。
       ---------(166P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・創価学会を斬る-24

2017-10-01 07:27:51 | Weblog

続・創価学会を斬る  藤原弘達 (昭和46=1971 日新報道)
    ------(P154)---(以下、本文)-------

民労--華やかなデビュー、尻つぼみの結末
 次に、総評、同盟に対抗して組織しょうとした「日本民主労働協議会」について触れよう。
 創価学会が急速に伸びた昭和三十年代、学会員と労組との間にさまざまのトラブルがおきた。
 それは学会員が労組の機関決定に従わなかつたからである。ことに支持政党をめぐってトラブルが次々と起こった。例えば十二年前の炭労事件では、参院選のとき、組合の推せんした侯補者を学会員が支持せず、学会推せんの侯補者に投票したわけであるが、これに対し、組合側は「信仰をやめろ」とか、「分裂を招くようなことはやめろ」といった具合に学会員にねじこんだ。創価学会にしてみれば、その勢力を拡大する上では、労働組合であろうが、資本家側であろうが、中産階級であろうが、その対象はどれでもいいのであり、これを折伏し、既成の組織をくいちらしていくことが必要であったわけで、当然のこととして、衝突が発生したワケである。
 そうしたことを、くりかえすうちに、学会はむしろ学会系の労働組合をつくった方がよいという考えにかたむいていった。そうすれば労働者の中に、支持層を拡大する新しい契機ともなると考えたようである。この構想が表面化したのは、四十二年十一月に行われた学会青年部総会における池田会長の発言からであると言われている。
 彼は、この総会で労組結成の意図を次のように述べている。
 「社会党における総評、民社党における同盟ごとく、公明党においても、その支持団体として、組合組織をつくってほしいとの要望、機運が全面的に高まっております。大衆福祉をめざして進む公明党が、真実の労働者の味方として、この要望を国政に、地方政治に具現していくのは、当然の理であります。真実の労働者の声を反映するためには、理想的な組合をつくらなければならない。それが時代の趨勢であることも、私はよく知っております。今日まで労働者は、むしろ既成政党の党利党略に利用されてきたという、多くの声も聞かれる。また、これまでの組合組織が、いたずらに大衆と遊離し、圧力団体のごとき存在と成り下っているということもいわれている。私はここで、公明党にも、その支持団体である労働組合の組織をつくることを、検討し始めたならばどうかと、諸君に提案申し上げるものであります。」(西島久『公明党』二七六~二七七ページによる)

 以上のような池田会長の提案は、いつものように満場一致の拍手のうちに了承された。
 池田会長は、松本清張との対談〔『文芸春秋』四三年二月号)でも「未組織労働者の組合をつくり、なおそういう小さい企業の経営者とも、共存共栄できるような方式を実行していくつもりです」と、学会の労組結成が主として未組織労働者の結集にポイントをおいていることを明らかにしている。そして、従来の組合と対決するためのものではなく、いわんや労働者全体の団結をくずすものではなく、あくまでも第三勢力としての組合として行動するのだということを強調している。
 また松本清張の「公明党労組の結成そのものに対しても、労働者への裏切り行為だ、という声があがってくる」という発言に対して、池田会長は「そんなこということ自体が、労働貴族のセクショナリズムであり、エリート化ではないですか。もっと幅広く真に労働者が何を欲しているかを知るべきです。いまのままの労働組合でよいと思つている人が幾人いるでしょうか。私どもはいじめられどおしだったから、やむにやまれず立ちあがった、というのが真相なんですよ。
 日本の労働組合でも政党でも、あくまで大衆、庶民のためになれぱいいではないですか。ほんとうに民衆がよくなれば、公明党がどうなってもかまわない。共産党でも民社党でもいい。民衆の方が大事だ。労働者が主義主張のため、一部の者の利益のために利用されたりするのは、わたしたちのいちばん忌み嫌うことです。」と民衆福祉優先を唱えて、一応の反論を展開している。
 さらに政党支持については「労働組合を作っても、あくまでもそれを公明党支持の機関にしてはいけない、と思っている。どこの労働者ともケンカをしてはいけない。自分たちの利益のために手を結ぶべきだ、政党支持は別問題だ」と言明している。

 しかし創価学会・公明党がつくろうともくろんだ多くの組織が、それぞれ結成され、それなりの活動をしているなかで、この民労だけはさまざまの努力にかかわらず結成されずに終わりそうである。
 四十六年九月の公明党の党大会において、梁田弘一議員は「企業で働いている人たちのなかには、既存労働組合のなかで困っている人も多い。いったい、党は民労についてどういう考えをもっているのか、また、組合内の活動は具体的にどうあるべきか、総評、同盟に対してどう評価すればよいか」と疑問を投げかけている。
 これに対して矢野書記長は「基本的には組合員が幸せになり、組合員のためになる新しい組合をつくっていきたいと考えているが、現実には、既存の労組の中に新労組をつくるというのであれば対立と分裂が起こってくる。結局、そのシワ寄せを受けるのは、企業のなかで働いている公明党員であり支持者である。私は、そうした人たちが分裂主義者であるとか第二組合をつくるのかという非難を受け苦しむのは、まことに心苦しい。そういう思いが一方にあり、もう一方にも、現在、労働界の統一への動きが高まっているときに、新労組をつくると労働界にとってマイナスになるのではないかという判断がある」と新労組結成にブレーキをかける趣旨の発言をしている。

 新労組結成の思惑は、明らかに池田会長の誤算であり、既成労組の反撃の強さをみくびったことの結果であったといえよう。まして野党再編といったことをもくろむ以上、しかも現実に社公民共闘をしている以上、社会、民社両党を刺激することはできない。新労組結成は公明党にとってまさに痛し痒しなのである。そして民労結成をなしえなかったことは、学会の組織を発展させるうえで、大きなマイナスの条件となるものであろうことはいまや疑うベくもない。
       ---------(158P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする