創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

新・創価学会を斬る-12

2017-10-26 08:18:52 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

        ----(P76)---(以下、本文)---
交通違反
⑬ 交通車故も運命とトボケ
 四十一年二月五日、石川県羽咋郡志雄町の学会員で工員の豊島次郎(25)が、学会集会のあと学会員の西山静子さん(33)をモーターバイクに乗せての帰途後輪がパンク、彼女はふり落とされてミゾのなかに落ち死亡した。ところが豊島はこれを「運命だ」として警察に届けなかったのである。
 さらに彼女が志雄病院に運ばれ、生死の境をさまよつているとき、学会員が病院に押しかけ、他の入院者にかまわず声高に御題目を唱えていた。
 豊島一家は学会一家として知られており、両親、兄、妹が全部学会員、とくに兄は地区の幹部をしていた。そして事ある毎にこの兄は「俺を誰だと思っている。創価学会幹部の豊島だぞ」とおどし文句を並べていた。
 この事件から一か月もたたない二月二十八日、新聞配達をしている父義勝さん(59)が同じ国道で交通事故を起こし、頭に一か月の重傷を負ったのである。

⑭ 公明党議員ひき逃げ罵声事件
 昭和四十年十二月十六日
 上林弘作議員に対する問責決議
 上林弘作議員は、去る十一月六日午後七時三十分頃、乗用車を運転し、千葉県長生郡本納町本納二七九九番地先、国道交叉点において、本納町南吉田ニ九七番地農業・高山忠(47)の乗用するモーターバイクと衝突し、失神した高山氏を抱きかかえて置去りにしたため、翌七日ひき逃げとして茂原署において取調べを受け、十二月十四日検察庁に書類送検された。
 新聞各紙は右の事実を大きく報道し、ために市民から厳しい非難をうけるに至っているが、このような行為は、人間道徳の基本である人格の尊重を無視した、もっとも恥ずべき行為であって、本市議会の名誉をはなはだしく傷つけ、市民の議会に対する期待を裏切った行為としてまことに遺憾にたえない。
 先に交通安全都市の実現を決議した本市議会として、この議会の名誉を失墜させ、市民の期待に背反した同議員は、すみやかにその責任を明らかにされるよう強く要望する。
 これは船橋市(千葉県)議会で、全員一致で可決された。主人公の上林弘作は公明党市議で上林繁次郎参議院議員の実弟である。そしてこの間責決議の審議のとき、公明党市議は全員欠席した。
 さらに事件目撃者の話によると、逃げるとき上林は「この馬鹿野郎!!」と被害者に捨てぜりふを残したのである。次回の市議選で上林が落選したのはいうまでもない。

詐欺
⑮トラック部隊で七千万円詐取される
 被害金額七千数百万円。いくら物価高の世の中とはいえ、なみ大抵の金額ではない。会社再建に文字通り血の出るような苦心を重ね寝食を忘れた経済活動のなかにあって、わずかな時間を見つけては、大学ノートに記した平本社長(束京・八王子 ㈱桑都染美会)の怒りの手記を紹介し、事実を本人の手で知らせるとともに、全国の企業家に対し、大いなる警告を発したい。
「妻はこのショックからすっかり人間が変わってしまい自律神経失調症になった。顔に湿疹ができるようになった。精神的打撃が肉体にまで及び安静加療を要すと医師より宣告され、以後しばらくの間、半病人の生活がつづけられたのである。子供たちもこの世の中で一番恐しいのは鬼でもなく、怪獣でもない、創価学会なのだと固く信じこむようになった。すっかりふさぎ込む父のことを見て、お金を人に騙し取られて困っている、そのお金があれば大きな家が幾つも建つのだということを他人に話しているのを伝え聞き、哀れというか、もういたたまれない気持に襲われた。
 私はこの世のなかでの暴力とは何かを考えたとき、殴る、蹴る、などということよりも最も凶悪なものかあることを知った。それは市民生活を根底からくつがえす経済事犯だと……。

◆ 被害①
 昭和四十三年の秋、株式会社・藤村ニットの藤村秀夫社長が連れてきた三十六、七歳の白鳥敏夫なる人物がいた。白鳥の妻は偶然にも私の知人の妹であった。そんなこともあって彼を信用した。住所(東京都葛飾区お花茶屋)も私の知人に近かった。工場は長野県松本市北上横田にある中村メリヤス(有)だった。
 結局はひっかけられた。被害額は約百万。再三再四督促をしたので染工賃の一部として力ーディガンとスカート五十組、十五万円相当を持って来て、必ず十日ぐらいのうちに解決するから待ってほしいということなので待つ。しかし一向に履行しない。止むなく公明党八王子市議会大塚重又議員に事情を話し善処をお願いする。大塚議員は快く引き受け、創価学会葛飾支部を通じて話してくれた。
 返事は『本人が必ず決済するからもうしばらく時間を借してほしい』ということなので、再度待つ。
 一向に何んの連絡もない。
 十一月も中頃になりはっと気づいた。『これは学会員同士の手口ではないのか』と。そこで再び直接本人に電話で詰問したところ、その返事があまりにも意外なので思わず自分の耳を疑ったほどだった。
 いわく、『あなたは共産党だろう。創価学会に敵意をもつからこのようなことになるのだ。支払って貰いたかったら御本尊様を拝みなさい。』
 三十分ほど話をしたが返事はこのことの繰返しであった。

被害②
 昭和四十三年のこれも秋である。私が第三工場長にしていた須長睦夫(37)の親子は、創価学会であった。大石寺登山とか折伏、座談会等学会活動のため工場にいなかったり、早く帰ることが多かったので、工場責任者としてふさわしくないと判断していたが、適当な人物もいないので止むなく工場を閉鎖する決心をしたのである。
 当社の機構は各工場がそれぞれ独立採算制になっているので、工場長が経営権をもっていた。したがって工場長の良否にすべてがかかっていたわけである。
 十一月の末にこの第三工場の土地および建物の売却を第三者に依頼したところ、あるひょんなことから登記所にはこの須長が八王子市中野町井上某氏より土地を買っていることが記されているのを見つけたのである。この金の出所に疑惑が生じた。
 ところがである。四十五年一月十七日夜九時半頃であったろうか『社長さん工場が火事です』と第三工場の女子従業員から電話があり、まさかと思い『どんな状況だ』と聞きなおしたところ『もう手がつけられない状態で類焼を防ぐのが精いっぱいだ』という返事。観念して防寒仕度で現場に行く。夜目に余りにも鮮やかに白煙を上げ焼け落ちてくすぶっている。
 翌日より処理の対策に入った。須長の父(七十歳)は焼死したので須長の責任究明は待つことにした。
 その時学会員の一人が『このようなことがあるから信仰しなさいよ』と折伏にやって来た。創価学会員が焼死したことを問えば『運命だ』と言う。
 こんな時、八王子市元本郷町の加藤某という学会員が『学会員が起こした事故だから、学会でこのような時にこそ力を貸して、弁償して下さるよう手紙を池田会長先生に出そうと思って支部の幹部に相談したら、一言のもとにはねつけられた』と言ってきてくれた。
 須長の父親の葬式は学会葬だった。香典は学会が全部持ち帰り香典返しということもなかった。学会員は生存中、功徳のための寄付だ、寄付だですごし、死んでも香典で学会の経済の支えとなる。あの天皇制絶対の時を思う。死して御国の礎となったものだ。学会員は死して学会の経済の柱となるということか。
 時がたつにつれて須長の行動に不審な点がでてきたので行動調査をする。まず土地を買ったらしいという情報が入った。八王子市中野町の忠実屋付近らしいという。早速、その付近一帯の土地所有者の調査を依頼する。
 五月中頃、その土地を突き止める。時を移さず立川市の三多摩法律事務所を通じ、仮差押えの申請を東京地方裁判所八王子支部にする。 その時、八王子税務署より須長の所得に関し調査あり。税務署の目的は、土地買入資金の出所究明であった。
 その時点で初めて須長を呼び事情を聞く。須長と親しい桑都染美会第五工場責任者藤谷を立会わせる。
 私は須長に本社の被害事情を説明し、取引先の委託品を焼失したので弁憤する義務があることを確認させる。桑都染美会と須長の契約によりどのように弁憤するかを問うたが、須長は黙秘してうつむくばかりだった。
 止むをえず案を出す。『あなたが土地を買ったことは税務署もすでに知っているほどである。だからその土地を火事の弁償として出すか、それとも所得税として税務署に物納するか、その二者択一である。
 火事の弁償として出せば土地代金の半額を本社よりあなたに返す。土地は不動産業者が見積って坪六万円なので百五十坪あるから九百万円で売却できる。そうなれぱ四百五十万円をあなたに返す。あなたの所得は税務署で一千万円以上であろうから、いかにその土地をもっていたくとも、六、七百万円の税金を納めなければならない。競売にかけられれば六百万円ぐらいしかならないだろう。いずれにせよ、なくなる土地なのだから、火災の弁償として出したほうが道義的にも筋が通るのではないか』と言ったところ、須長は涙を流しながら『自分の土地に自分の家を建てるのがおれたち親子の長年の夢だった』と言い、遂にこの申入れを承知しない。そこで最終案を提案する。『調査費用と弁護士の費用を含めて百万円出すならば土地差押えを止める。これが最大の譲歩だ』と言ったところ、しばらく考えていたが承知した。
 火災直後に、金も何もないが、何年かかっても誠意を示すと言っていた須長の言葉はやはり嘘であった。買った土地がありながら、百万円だけ出してケリをつけようということなのだ。
 しばらくして税務署から須長の所得について調査に来た。従業員数、材料の買入先、染色工場の一般経費につき克明にきかれた。須長は火災で帳簿は焼失して何もわからないということで税務署は千二百万円の所得と査定したとのことであった。
 ここにも嘘がある。自宅に帳簿類は持って行っているはずであり、帳簿があれば正確に査定され、千二百万円以上の所得になることは確実だからである。
 須長は四十三年七月に第三工場の責任者として独立採算制で開業したのだが、その年も翌四十四年も無申告だった。親しい者からの知らせによれぱ創価学会に多額の寄付をしていると聞かされたが、香典まで学会に寄付するのだから当然かもしれない。
 選挙の時は、公明党への投票依頼に菓子折りや酒を持って戸別訪問をしていたという。もぐり営業で脱税し、選挙には買収に等しい行為をする。創価学会・公明党は不正行為を指導しているのではないかと疑いたくなる。
 火災による被害金額は、委託商品三千万円、建物、型紙等一千万円に達するが、火災保険はわずか二百万円程度のものであった。火事は原因不明の失火と結論づけられたが、私は税務署で査定された千二百万円の所得の脱税と工場を売却されることにより、自分の工場長としての職が奪われることへの反感ではなかったかと考えている。この二つの事実からして、不純な動機による放火説をとるが、私自身では調べる方法がなかったのである。
       ---------(84P)-------つづく--

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新・創価学会を斬る-11

2017-10-25 07:54:13 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

              ----(P65)---(以下、本文)---
⑥ 入信反対の父が殴殺される
 昭和四十一年一月三十日には三重県の農業中西金作さん(55)が、娘婿の学会員川合幸介(29)により木づちで殴り殺された。原因は日頃、学会活動を非難していた金作さんに仏罰を加えたのだという。学会員なら他人に仏罰を行なってもよいというのだろうか。
 娘のタツ、すなわち川合の妻も学会員で、川合は妻に折伏されたのだから、金作さんは実の娘夫婦の手によって殺されたわけだ。学会は、たとえ親子親族でも非学会員は他人とみるよう指導していることからおこった悲劇でもある。

⑦ 折伏狂の息子を殺害
 昭和四十年三月六日には栃木県茂木町で農業・五味淵知子(61)が長男の政男さん(27)を野球のバットで殴り殺した。政男が学会員で父の知子や母トラにしっこく入信をすすめていたが、犯行当日、政男がこんなものがあるから入信しないんだと言って、家にあった仏壇や神棚を土間でたたきこわしたから、父知子が手近かにあったバットで中止させようとしたのが原因であった。

⑧ 夫婦で病母をなぶリ殺す
 昭和四十年六月三日には高知県高岡郡の農業・門脇行義(50)と妻・菊美が実母の夏さん(88) を殴り殺した。夫婦は学会員であり、夏さんは五年来、老齢で寝たきりであったが、学会には反対をつづけていたのである。御本尊様に夏さんが十字架をきったり、息を吹きかけたりしたので、“つきもの”をとると称して、夏さんを縁側に突き飛ばし、殴るけるの暴行のすえ、裸にして冷水を浴びせ、数珠でなぐって死にいたらせたのである。
 入信は菊美のほうが早く、長男が病気をしたときに行義も折伏されて入信したのである。

⑨ 身内よリ御供養優先
 昭和四十年十二月一日、東京都杉並区のアパート経営者で学会地区担の岩崎政枝さんへ(43)が義兄・青木利助(54)の手により絞殺された。原因は十五万円の借金を断わられたことにあった。
 彼女はアパート収入が月収十六万円もあったが、現金は二万五千円しかなく、預金通帳の残高は千余円であった。というのはその月も三十万円を“御供養”として学会へ出してしまったからである。
 彼女が経営していたアパート“小松荘”は、全員学会員ばかりで、死体発見者もバーのホステス鈴木君子(30)であった。三十万円の寄付に対し、アパートの学会員たちは、彼女が幹部でありながらたった三十万円しかしない。一般会員ですら百万円していると批判していたのである。
 殺されたのは“うしとら勤行”と呼ばれる深夜であり、即身成仏できるはずの勤行であった。
 また寄付した三十万円のうち半分を義兄に回してやる心の余裕あればこんな事件も起こらなかったことは論をまたない。

⑩ 狂信の母に児童、死の抗議
 昭和四十年十一月五日、北九州市門司区の学会員高橋チヨ力(42)の二男敏昭君(13)が、「お母さんがいまの宗教をやめぬのなら死ぬ」という書置きを残し、学会のマンダラを破いて投身自殺をした。
 チヨ力が常日頃、学会活動ばかりしていて留守がちだったことと、学会への“御供養”の足しにするため敏昭君の学習用テープ・レコーダーまで売りとばして寄付してしまったことである。
 この後、チヨ力も敏昭君の自殺に大きなショックを受け、十二月二十五日自殺したのである。

⑪ 離婚不成立で無理心中
 昭和四十年九月十日早朝、東京都江戸川区の古物商・後藤みつ(49)宅から出火、木造二階建百五十平方メートルを全焼した。焼跡から四人の焼死体が発見された。後藤、内縁の夫山田元次郞(50)、次女樋ロ弘子(16)、田上キク(64)の四人である。
 後藤は学会員で班担、山田と田上は学会員。原因は後藤が学会活動に熱中するあまり、家庭も仕事も放り出していたことから、家庭内の争いが絶えず、遂に別れ話にまで発展し、絶望した山田が深夜、ガンリンをまきマッチで点火、一家無理心中をはかったもの。田上は同夜、他の学会員三人と夫婦を説得に来て巻き添えをくったのである。
 長女樋口美子さん(21)は、放火に気づきひさし伝いに隣家にのがれ難をまぬがれた。

⑫ 折伏脅迫され若夫婦心中
 昭和四十年十一月四日静岡県熱海市錦ケ浦の冲合に神奈川県川崎市小杉町に住む并ノロさん夫婦(夫・雅己)の妻・のぶ子さん(25)の死体があがった。残されたボートの遺品の中に「創価学会に入ることを強要され妻の様子がおかしくなった。創価学会をうらんで死ぬ」という意味の遺書らしいものがあった。
 また井ノ口さんの部屋にも川崎市警中原署四谷刑事宛の親展書があり、なかから各新聞社、藤原弘達、創価学会などへ宛てた八通の遺書が出てきた。さらにのぶ子さんの日記帳には「創価学会から全裸にされてリンチを受けた」と書かれた箇所もでてきた。
 夫・雅己さん(25)の水死体は遂にあがらず、前途洋々たる若夫婦は永遠に地上から姿を消したのである。
       ---------(76P)-------つづく--

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新・創価学会を斬る-10

2017-10-24 08:28:35 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

                       ----(P65)---(以下、本文)---
② 信心の強制をうらんで子を殺害
 昭和四十六年十二月二十二日の午後、神奈川県大船にある「旭硝子」の社宅に住む橋本紀七さん(31)の長男一成ちやん(4)が行方不明になった。社宅の人たちは会社を休んだり勤務の合間を縫って捜索隊を組織、この日以降、数日間、木枯しの吹く中を一成ちやんを捜し求めて附近の山の中を歩いた。
 大船警察署に母親から届け出があったのはその日の夜七時半ごろ、警察ではどうも営利誘拐の様が弱いとして同夜から直ちに公開捜査に踏みきった。町内会二十人、警察官三十人、消防団員十人、犬二匹で午前一時まで附近の山を捜したが、何も得られなかった。
 翌二十三日は、朝六時から機動隊員百人を加え、自宅近くから捜査したが、自宅から二百メートルほど離れた笹ヤブの中から一成ちゃんのズックグツが発見されただけだった。
 結局、明けて一月八日に橋本さんの隣りに住む工藤カツ子(30)が自首するまでは、皆目犯人の見当がつかなかったのである。
 工藤カツ子は秋田県の山村のあまり裕福でない家に、七番目の娘として生まれた。中学を卒業すると、お手伝いさんをずっとつづけた。工藤さんとは彼女の姉と工藤さんの兄が結婚していた関係で、見合結婚をしたのだった。
 結婚後も、彼女の姿勢は変わらなかった。掃除と洗濯をきちんとやり、幼稚園の遠足で子供に付き添つて出かけるときも、カーディガンにサンダルばきのスタイルであった。
 外見的には何を考えているのかわからない彼女も、わが子のしつけにはびっくりするほど厳しかった。子どもが言うことを聞かないと、家中にカギをかけて何時間も家に入れないほどだったのである。東北人らしく感情を全く外に現わさない性格であった。
 一成ちゃんはカツ子の手で殺され、物置の脇に埋められていた。動機は女性特有の発作的なものと断定された。しかしその下地は無理に入信させられた創価学会にあったという。「題目をあげろ」、「座談会に出ろ」、「登山しろ」などと無理強いされたウラミが、相手の子どもに集中されたワケである。
 四十二年頃、橋本さんの奥さんから入信の折伏をうけたが、嫌でたまらないのに断りきれずに翌四十三年に入信、四十六年八月に退転した。
 彼女はこの学会員であった四年間を悩みに悩んだ。内向型の性格であったため、悩みは奥へ奥へと進んだわけである。社宅の人たちはこの事件が起こって初めて、彼女が学会員であるのを知ったほどであった。
 学会をやめる直前まで主人には内緒にし、学会員であることを夫に打ち明けるかどうかで非常に苦しんでいた。
 退転する直前になって夫に打ち明け、御本尊を橋本さんに返すと、あの奥さんは感情的になり、何か嫌味を言われそうだと心配し、旭硝子の隣にある三菱電機の社宅に生む学会員のところへ返しに行った。それですベて終りと思っていたら、三か月ぐらいたつて学会から御本尊を返すのなら,信心親に返すのが筋だから、橋本さんに返しなさいと言われわれ、橋本さんの所へ行ってから二人で支部へ行ったのである。
 橋本さんは町内の学会員のなかでもすごい活動家と評判をとっていた。簡単に退転を認めない学会の姿勢が隠然たる策動をしたということであろう。
 いずれにしろ外見は円満なエリート企業のブルーカラー族のなかで学会員同士の起こした悲劇であったわけだ。

③ 横れんぼの幹部が犯人
 昭和四十六年八月十八日の朝、福岡市香椎にある香椎宮境内の一角で、下半身の着衣をはぎとられた女性の遺体が発見された。
 被害者は共栄火災海上保険㈱福岡営業所の外交員・黒田和恵さん。
 黒田さんは昭和八年三月広島県三原市に生まれ、娘時代すでに実母との折合いがうまくなく何度か家を飛び出すという不運な星の下にあったが、昭和三十二年建築現場主任と結婚、三十九年一月創価学会に入信、三年前から保険会社に勤務した。
 同僚の話によると、彼女は子供を産んだことがないので、体の線が崩れていないし、小柄で可愛い感じだったので、街に立っているとすぐに車が寄ってきて声をかけられたという。その上、外交員という業務、学会活動というように交際範囲が広く、捜査は相当に難航した。
 が、半年の捜査の後、結局犯人は、学会の地区リーダーで学会員の間でもとかくの噂があり、学会の所属まで変えられた元警官で製めん業を経営する岩倉寅夫(45)であった。
 岩倉は学会の会議が終わると必ず和恵さんを車で送って行った。彼女の自宅近所では、夫が出張でいないときによくやって来る四十がらみの男として有名になっていた。殺害理由は当然のことながら極度のシットからきた痴情であった。岩倉はこのほか横領、詐欺の余罪もあるしたたか者だった。
 土屋の家族は事件後、さすがに居たたまれず、東京に移転した。また和恵さんの夫は事件後他の女性と同棲している。

④ 色と欲で夫妻が謀殺
 昭和四十六年二月十二日、秋田県北秋田郡上小阿仁村の村会議員小林要蔵(48)、テチエ(46)夫婦が、鈴木良子さん(36)に多量の睡眠薬を飲ませ、昏睡状態にして雪道に置き去りにして殺害した。
 目的は一千四百五十万円の保険金と、三角関係の清算であった。小林は学会員で、折伏したとき知り合った鈴木さんと愛人関係になり、学会活動で雑貨商が思わしくなくなり、借金で首が回らなくなっていた。
 表面的には村議になってから要蔵夫婦の生活は派手になり、家を新築したり、折伏活動のために車を買った。さらに長女にバーをもたせるなどすベてが借金政策によっていた。
 村の人が買物に店を訪れても、家の奥で御題目ばかり唱えて誰も店に出てこないという状態だから、学会活動のため店を閉めているほうが多かったのであった。
 捕った夫婦は「選挙資金が欲しかった」と平気な顔で自供していたが、やったことは連合赤軍と全く同じリンチというほかあるまい。同村小林大ニ郎村長の話によると次のような詳しい状況がわかった。小林夫婦を戸籍面でみると、--
 小林テチエ 大正十三年十二月二十二日生れ。
 小林要蔵  大正十一年九月十八日生れ。
 昭和三十二年六月十一日結婚により妻の姓となる。
 住所 秋田県北秋田郡上小阿仁村大林字村廻七四の一
 旧姓および本籍 同郡同村南沢字南沢十三 鈴木与三郎四男
--となっている。
 彼等の背景をさらにみると、鈴木家は南沢地区の旧家で、親戚が他町村にわたって多い。鈴木家の当主貞治氏は地区の信望があり、現在は営林署南沢担当区の現場責任者として勤務、温厚篤実な人物。

 要蔵は婿としては優秀な部類だった。当時は木材産地の上小阿仁村では馬車や馬橇が運搬に使われていたが、彼はトラックを使い、そのまま家業に励めば村一番の財産家にもなりかねなかったという。
 テチエは愛国女学館の出身。同校は秋田市にあり、現在は秋田和洋高校と改名。小学校の教師に一時奉職。ある時期に、脳の病気となり入院、回復途上で創価学会へ入信、その後、狂信的な行動で要蔵をも折伏、夫婦入信後は夜となく昼となく学会の集会に自費を投じて参加。家業は農業をやるかたわら雑貨、煙草を販売。入信後は不在が多く、収入が急激に減少、活動費を捻出するため田を売りに出したほどだった。
 その後、さらに困り三十キロぐらい離れた二ツ井町に夜の仕事としてバーを開き、自分の娘を働かせた。テチエも手伝っていたが、とかく評判は良くない。テチエが手伝って自分で運転して遅く帰った日、そのバーから出火し、娘は焼死。娘の保険金について不明朗な噂がとんだが真相は明白にならなかった。
 また実兄貞治氏の山林を村で買収、代金を支払わないでいたところ、要蔵が実兄の印をもって来て代理として受領、後に実兄から役場に請求がなされたこともあった。
 その後、八郎潟町方面にバーの開業の準備をしているうちに事件になったものであった。
 殺された良子さんとは学会関係で知り合い、肉体関係もあった模様。良子さんも男関係がルーズで金のことでも評判がよくなく、合川町長畠山さんにも借金を申し込んでいた事実がある。畠山氏も貸していたら被害者になったと話している。その後、家を飛び出し転々と飲食店を渡り歩く。事件の主犯は実際は妻であるが、夫が全責任をとったことになった。
 この村では殺人事件は何年に一回という程度のものだそうだ。それをやったのが社会福祉をうたう公明党村議であったので話題になった。

⑤ 奪った金に御題目あげる
 昭和三十八年三月三十一日に起こったいわゆる“吉展ちゃん事件”はいまだに記億に新しい。死刊になった小原保も愛人から折伏されて入信した学会員であり、学会員が共謀しての無心な子供殺害事件だった。被害者の村越家から奪った五十万円のうち、借金払いをした残りの二十万円を愛人宅の仏壇に供え御題目をあげた。
 多分、ご利益のありがたさに感謝感激であったのだろう。
       ---------(72P)-------つづく--

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新・創価学会を斬る-9

2017-10-23 08:30:32 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

                ----(P59)---(以下、本文)---
第二章 犯罪事件-その性格と特徴
 犯罪を起こすのは何も創価学会員だけではない。むしろ学会員による犯罪は、日本中の犯罪全体からみたら微々たるものかもしれない。しかし、学会の会員数からみればその犯罪率はかなり高い。といって、私はたんに数だけを問題にしているのでもない。
 なによりも私が怒りをおぼえるのは創価学会が宗教団体であるといっていながら、家庭破壊、詐欺、殺人などの犯罪を起こすような人々を結果として救いあげてはいないという事実である。それどころかむしろ逆に結果としてはそういう人々を製造しているということもできるのである。
 そして、そういう人々がでたとき、学会がどんなにこれをカムフラージュし学会との無関係を装うとも、それはまさに否定できない事実なのである。さらにまた「数多い学会員の中にはそういうひとが若干いるかもしれない……」云々という逃げ口上を吐けば吐くはど、学会自体の非宗教性、インチキ性というものを暴露するだけなのである。
 では、実際にどんな犯罪が学会員によっておこされているか、ここで整理しておこう。

①学会員の三角関係--痴情のはて
 昭和四十七年三月二十四日夜半、埼玉県鳩ケ谷市で学会員同士の殺人事件が発生した。この事件の詳報については、「創価学会革新同盟」の関東代表である梅沢十四夫さんのレボートをみてみょう。
「私の住んでいる家から百メートルほど先で起きた郵便局員殺人事件を新聞は連日大見出しで事の成行を報じた。地元の学会関係者にはすでに被害者吉原とくさん(26)が熱心な創価学会員であることがわかっていたが、大ていの新聞は何故か、連日『某宗教団体』で終始押し通したのである。
 地元の鳩ケ谷市はもちろん、隣の川口市の学会員の不安と動揺は大きく、学会本部でもその善後策に一両日テンテコ舞いであったと聞いた。女子部長の娘を持つある父親は、夜は学会活動をさせたくないと私に語ったほどである。
 吉原さんは三月二十四日午前一時半ごろ、うめきと悲鳴を交錯させながら、隣に住む志村憲人さんの表戸を叩いた。志村さんが表に出てみると、彼女は全身血だるまになって倒れていた。志村さんは直ちに『一一〇番』と『一一九番』へ通報したが、救急車が到着する前に彼女の息は絶えた。
 彼女の傷は見るも無惨なものだった。顔、右耳後部、背中、右腹部の四か所が、刃渡り一五七センチらいの鋭利な刃物で刺されており、なかでも右耳後部の傷は、内頸静脈にまで達する致命傷であった。
 黄色のセーターに紫色のスカートという普段着の彼女は、別段、乱暴された形跡はなかった。また室内も荒された形跡はない。電気ゴタツのスイッチは入れたままになっており犯人とはコタツをはさんで話し合っていたと推定されたほどで室内は正常な状態にあった。
 彼女は小学校から中学校を通して、成績は上の部であったが、家が貧しいため高校に進学できず、中学卒業後、すぐに川口の町工場へ女工として働きに出た。学会では少年部の副部長で、『聖教新聞』のプロック配付責任者でもあった。また家庭事情も複雑で、戸籍上「異母兄」になっている兄がいた。この兄も含め、五人家族が六畳一間のアバラ家で生活していた。そして三年前、彼女はこの「異母兄」との結婚を父親から勧められ、それが嫌で家を出て、一人で下宿生活を始めたのであった。
 こういう過去のためか、ひどく人嫌いであり、年頃の娘らしくなく、服装も地味暗い感じの女性だった。学会に入信したのは親にも内緒で五年前ぐらいであった。将来の問題については、言うことがかなりまちまちであった。いずれも学会員にもらしていたことなのだが、ある人には『結婚の相手は絶対に学会員』と言っていたかと思うと、別の人には『相手はやはりサラリーマンでなくちや』とも言っていた。
 また『私はSさんが好き』と言っていたかと思うと、また別の人には『私のほんとに好きなのはFさんだけど片思いなんだ』と言っていた。だから捜査員も、彼女はかなり浮気っぼい性格だと判定していたふしもかなりあった。
 犯行から約一時間半後の午前三時頃、中華料理店に勤め、住み込みであるS (27)を参考人として本部に呼んだ。彼も学会員で同じブロックに属し、一年ほど前から、特にに彼女と親しい間柄にあったことがわかったからである。また犯行直後の午前二頃、彼が外出先から帰ってくるのを見たという目擎者もでた。
 しかし、彼は取調べに対して、頑強に犯行を否定した。が、次のような耳寄りな証言をした。
 同じ中華料理店に勤め、同じ学会員である小林サキ子(43)と五年ぐらい前から肉体交渉があり、この小林が彼と吉原さんとが親しくなるのを快く思っていなかったというのである。
 現場検証から出た女物のサンダルの足跡が小林のものと一致した。さらにこのサンダルには吉原さんと同型の血痕もついている。直ちに捜査本部は小林を呼び出した。しかし小林は笑いをまじえながら犯行を否認した。
 だが確信をもった溲査本部が四月二日、あらためて追及すると、大声で泣きながら、『彼を吉原にとられたくなかった』と犯行を自供したのである。
 小林はすでに嫁いだ二人の娘と、二十歳になる息子を持つ母親だった。この三角閉係は鳩ケ谷ではすでに項点に達しており、いつか何かが起こることを周囲の学会員は皆知っていたが、それに対して何んの手だてもせず、ただ『熱心な信者ではない』という理由をつけて見守っていただけなのであった。
 御本尊様も御題目も、恋に盲目になり、殺人まで犯す歯止めにはならなかったことだけは事実である。
 小林サキ子は新潟県岩船郡朝日村の出身、昭和二十二年十七歳で同じ村の農家に嫁ぎ、翌年長女を出産した。そして三人目の子どもが生まれてまもない頃、夫は出稼ぎ先で脳出血のため死亡した。そこで小林は三人の子供を抱えて上京、工事現場の飯場や、スーパー、飲食店などを転々とした後、四十二年の七月から鳩ケ谷に住みつくようになった。創価学会へ入信したのもこの頃で、小林は今回の犯行について『やっとつかんだ自分の幸せを離したくなかった』と言っている。

 小林のアバートと、Sが住み込んでいた中華料理店の部屋とは四メートルぐらいしか離れておらず、窓越しに彼の動静がわかるので、彼が部屋にいないと、吉原さんのところに行ったに違いないと邪推し、すぐに吉原さんの下宿へ飛んで行った。
 Sは、小林に誘われたのがそもそもの始まりであるが、いったん関係ができると、小林は絶えず『もしあんたが若い女を好きになってあたしを捨てたら、あたしはその女を不幸にしてやる、殺してやる』と脅していた。
 事件が起こる前は、小休のシットが異常なほどに激しくなっており、仕事が終わると、小林はSにつきまとつて、常に口論が絶えなかったという。
 事件当夜、吉原さんは学会の会合が終ってから、ある幹部の家に立ち寄り、一度、下宿に戻ってから二人の女性会員と銭湯に出かけた。この間、Sは何回もムダ足を運んだ。午後十一時になってようやく吉原さんと会いと午前一時まで話をし、キスをして別れた。小林は、Sが部屋を出て行った直後から後をつけ、ここまでの一部始終を見張っていた。兇行はこの三十分後に起こった。
 吉原さんの両親は言う。『この辺の田舍町では、男と女が夜中に歩き回っていたら世間からいろいろ言われるが、これが学会活動だと大っぴらにできる。皆、これを利用してたんだ。』

 この事件後、学会は例によって例の如く、同じ鳩ヶ谷市の他ブ口ックの会合でも「吉原は曼荼羅を焼き、御題目も熱心ではなく、名ばかりの学会員だった」とデマ放送を開始している。
 さらにこの事件の翌々日、公明党を離脱させられていた市川和夫鳩ケ谷市議が復党を許されたのである。彼は四十六年九月、市議会の教育文教委員長であり、市の教育を指導する立場にありながら、運転免許証をボールペンで改ざんしたのが発党、刑事事件となり、党を離脱させられていたのである。
 地元の人ならば誰でも、吉原さんは純粋で熱心な信者であったことを知っている。それだけにこの市議と吉原さんに対する態度が現在の学会の指導性をよくあらわしているものとして多くの批判をよんでいる。」

 ところでこのSの入信勳機が実に傑作としかいいようがない。
「小林と関係し始めた当時から、ぼくはあの人に脅迫されてきました。いつの間にか周囲に噂もたつし、ぽくはとても悩んだんです。そこである人に誘われて、学会に入ったんです。救いを求める気持でした。」
 それなら入信と同時に、キッパリ手を切るなり、何かやれそうなものだと考えざるをえないのだが、入信後も彼は小林との関係をズルズルつづけたばかりか、食事や洗濯の世話までしてもらっていたとある。
 こういう人間関係のルーズさや一種の打算による“助け合い”がかなりの学会員の入信の動機にあるといえるかもしれない。
 創価学会は、広宣流布のため、大聖人様の御使いとして活動するものには、御本尊様の加護がある、絶対に不幸にならないと指導する。「いかなるところにあそびたはむるとも遊行しておそれなきこと獅子王のごとくなるべし」という大聖人の御書の文句まで引用する。
 いまや巨大なるマンモス教団にのし上がつたけれども、そのような学会教学のこじつけロジックは現在もそのまま生きているはずである。
 たしかにこの殺人事件を含め、数多くの学会員の関係した刑事事件は発生の状況も多種多様で同一には論じられないが、現象的には、それぞれ異なるとはいえ、学会お得意の仏法上の論理からみれば根っ子で連なるものが伏在しているといえなくもないのだ。すなわち、--
「腹、悪しき者を天は守らせ給わず」
「......但し御信心によるべし......」
 等々の文証にしても、信心至上主義が行動の合法性ののワクをいとも力ンタンにつき破る可能性を含んでいることも否定できないと、このレボートは解説している。
       ---------(65P)-------つづく--

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新・創価学会を斬る-8

2017-10-22 08:22:58 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

            ----(P51)---(以下、本文)-------
廃人同様にされた人々
 学会員のいる家庭はほとんどといってよいほど家庭不和になっているが、次の事例は個人から完全に人間性を奪った結果、一時は廃人同様にされてしまった人人の実態である。

 高校教師をしていた大町義夫さん(仮名・大阪府)はあまりにも真面目に信心したが、やはり高校教師としてのインテリ的疑問が常に頭をもちあげていた。そこからはげしいノイローゼ症状を引き起こし遂に現職から身を退くという悲慘な結果になった。彼は心機一転をはかろうと渡米したが、強度のノイローゼはすっかり彼の体内に入りこんでしまつていた。彼の回想は脈絡がないが、ちょうど酔っばらいか全体としては話の筋が通らなくても、ある部分、部分を明確に記憶、指摘しているのによく似ている。彼は言う--

「アメリカに行きサンフランシスコの南端のほうにいたんですが今度はむこうの学会員にやられました。あるアパートを月八十五ドルで借りて住んでいました。下の階に熊本出身の七十一歳のおじいさんが住んでいて、私にいうことには、私が住み始めてからこのアパートの様子がおかしくなったとね。
 どんなかというと、売春婦のような女が四、五人いて、夜のニ畤、三時、四時頃までテレビやラジオをかけっぱなしにして、全く私を寝かせない。その上、客引きしてきては男とセックスをする。それが全部筒抜けに一部始終が聞こえるのです。そんなときは必ずあの池田の声がする。それいま行ってやってこいとかなんとか、全くえげつないことを言って私をせきたてるんです。
 だいたいアメリカの学会員はヒッピー族のなかに多いんです。何処かちよっとした旅行なんかに出掛けると、そんな連中がまつわりついてきて、金を使うな、仕事をする必要はないなんて言う。人問誰しも雲や霞を食べて生きていられるわけないから……。結局、私にたかるのが目的だったんです。」

 大町さんより、もっとひどい症状の学生がいる。明治大学政治学科の学生で山口信夫さん(仮名)である。彼は義母が生家に来るようになってからおかしくなったらしい。その義母の関係者がいずれも学会員なのである。彼は、現在四六時中あまり目立たぬ学会・公明党員の小さな妨害に悩まされていると告白している。そのレポートは原稿用紙八枚にぎっしりと書かれているが、その要点だけを拾ってみる。

〇 下宿の大家がいずれも学会員なので、連日いやがらせに会い三回も下宿を変えざるをえなかった。
  彼の実家は北海道にあるので目下、上京中。
〇 書店、路上、喫茶店、映画館、電車のなかですぐ隣の人が学会・公明党の話をする。
〇 品川で催された民社党主催の藤原弘達の講演を聞きにに行き、その著書を読み始めた頃から妨害が烈しくなった。
〇 通常行なわれる妨害は、チェッ、チェッという舌打ちや、たん、つばの連射である。
〇「公明党に行け」「君はどういう理由で入信しないのか」とあらゆる人から言われる。
〇 義母は大きな仏壇もって来たし、『潮』や、学会の出版物、池田大作の著作物がたくさんある。実家の陶器店には学会員がやってきて長話をしてゆく。
〇 共産党やギリシャ正教会に相談に行く途中、後髪をひかれるような美人に誘惑めいたことをされる。
〇 警視庁防犯係や生活相談所に行っても「部屋に閉じこもってないで、外に出なさい」といわれるだけ。
〇 いまの下宿の大家が『公明新聞』をとっているし、千住東一帯に学会関係者が多い。
〇 都営アパートでバイトの配達中、エレべーター内で中年の婦人に『聖教新聞』をチラつかされ「こんなの読まない」と言われる。
〇 住んでいる地区の学会の責任者が足立署の前のパン屋だということがわかったので会おうとすると、いろいろな人が交通事故、ガス、火事に会うと演出したような脅泊をする。
〇『続・斬る』を電車のなかで読んでいると、いつの間にか周りをかこみ、新聞をとり出して本が他の人に見えないようにする。

 たわいのないことのようだが、ウソではない。当人は結構、この種のいやがらせに悩んでいるのである。

四六時中監視される
 山田久子さん(仮名・埼玉)は連日の折伏攻勢により強度なノイローゼというよりも、精神分裂症状を起こされてしまっている。告訴状を持参したが、字も文章もきわめてしっかりしているだけに、何んともあわれさを増すばかりであった。彼女に戦国時代からつづいた名門の一族であり、父が以前、学会に入信したが、三年ほど前に退転した。
 彼女によると、彼女自身、創価学会の折伏のいいカモになっているという。住居内にテレビカメラや盗聴器が据え付けられているのだと主張する。これは学会の折伏が、悪口を言ったり、ねばり一筋で折伏する段階ではなく、相手をすベて知ることから折伏するという戦法に変わったからだそうだ。
 彼女は四十六年十一月、現在の団地に引越してきたが、その付近は学会員が増加しているのだと盛んに言う。彼女は四六時中監視されており、彼女の立ち寄りそうなところはすべて協力を求められており、監視に一役かつていると断ずる。
 彼女が在京中に受けた被害届を一応見てみょう。

     告 訴 状
昭和四十七年四月
警察署長殿
      住所・氏名
 私は東京都港区在住の関枝ツヤ(創価学会員)他一名を告訴致します。
〈理由〉
(1)昭和三十八年八月母が血清肝炎の為、白金台の東大付属病院に入院中、私は当時三歳になる子どもを連れて手伝いに通っておりました。通い始めて半月位たった朝、掃除をする為、四畳半の窓を開けますと水島さんの塀の所(水島さんの庭の塀が地境になっており、そこから二メートルほど離れて実家の家が建っております。
 その塀はちょうど家の四畳半と三畳の大きな格子窓と向い合っておりました。奥の家はその二メートル幅の通路を使って出入りしております)青田さん寄りに2/3~3/4ぐらい燃えた四、五本の薪が組み合わされて置いてありました。当時、変だなとは思っておりましたが、そのまま放っておきました。後に関根が私に嫌疑をかけ、近所へ触れまわったことは事実です。
(2)昭和三十八年六月、当時、千葉県東葛飾郡江戸川台に居住しておりましたが、近所の明治牛乳販売店で小さな包が扮失しました。その場に居合わせた私に嫌疑をかけ、販売店主によって、これも近所に触れまわられたことは事実です。
 以上(1)(2)は何れも創価学会の会員により名誉が毀損されたもので、これらの理由により告訴致します

 学会、公明党のために警察はずいぶんとよけいな仕事が増えてきたようである。こういう会員もロクロク指導もできないでトラブルをかえって大きくする団体というものはいったい何かという気がしてくる。こちらの頭がへンになりかねないほどにバカバカしいことがおこっているのだ。

精神病院へ日参
 福岡県の岡田三男さん(仮名)の手紙は判読が困難だったが、大略次のようであった。

「藤原さん聞いてもらって下さい。私は昨年三月十六曰から今でも創価学会員からの呪いの言葉をあびせられてから、毎日毎晩、不眠不休でなやんでおります。昨年の地方選挙の時にある人から入信をすすめられ、ことわりますと、今にお前にたたりがあると言われまして‥‥(中略)
 三月十九日より病気にかかり、仕事にも行けず生活にも困り…。創価学会および公明党はそのようにこわいものですか。人を呪い、人を殺すような団体ですか。私は毎日精神病院に行っております。朝から一日中、夜も耳の中に『バカタレホーレン』の声が聞えて困っております。」

 率直に言わせてもらうなら、こういう被害者はゴマンといるし、著者のところにもずいぶん電話や手紙がきているが、私は残念ながら精神科医でもないし、また一人一人を治療するカウンセリングもできない。しかし、こういう一種の人間破壊をされた日本人を、どしどしつくりあげていきながら、何んら恥としない池田大作をはじめとする学会幹部の欺瞞性とインチキ性をば徹底的に叩かねばならない義務をいよいよ痛感している。
 他人に相談をもちかける段階なら、まだしも多少の心のゆとりがあるといえようが、完全に自分の周囲の状况がわからなくなり、自分だけの意志で行動するようになると、明らかに反社会性をそのまま露呈した汚染源となる可能性大なのである。そしてこれらの反社会的感覚が唯我独尊的信条によつて正当化され、自分は何をしても大聖人様が護ってくれるなどと信じ込むとアウトローの行動を平気で行なうことにもなり、やがて忌わしい刑事事件まで発生させることにもなるのだ。
       ---------(58P)-------つづく--

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