創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

新・創価学会を斬る-7

2017-10-21 08:53:29 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

            ----(P43)---(以下、本文)-------
売春を強要された母子家庭
 乱れた男女関係が麻薬のようなものだといったが、学会では、女子部をそんな方向に導いている事例がある。
 柴田浩子さん(東京都)の場合がそれである。

 中学二年であった長男ともどもに学会員となり、学会活動をするよう強要される。長男は学会発行の書物を読んでも意昧が理解できず、悩みに悩んだあげく、四十一年、定時制高校も職場も捨て、北海道に逃避したりした。職場にいると必ず学会連絡の電話がしばしばくるため、三回もその後職場を変えた長男が会社から帰宅すると、待ちかねたようにタ食も終わらぬうちに、折伏だの座談会にと、区役所勤務の上司が迎えに来る。 帰りは夜の十一時過ぎ。食事も入浴をする時間もなく、疲れ果てて、翌日は会社を休まないと健康が保てない状態がつづくのであった。
 日曜日は早朝から家に、青年部、女子部、婦人部が替るがわる押しかけてくる。女世帯の気安さのためか、学会員の出入りがはげしい。
 貧しくて病んだ母親が愚かな心から入信した結果がこの有様であった。それでも皆、幸せになれるならと、朝夕の五座、三座、学会発行の経本と題目をあげつづけた。
 幹部から長男は青年部、娘は女子部、母は婦人部の班長になるよう命令が下ったが、かたくなに断わりつづけた。班長になると毎月定った人数の折伏をやり、班長としての責務を果たさねばならず、その上選挙ともなれば、職場を投げ打つ覚悟が必要だといわれたからである,
 案の定、選挙になると“色仕掛け”で異性に働きかけ票を集めよという電話連絡が再三くる。そのことで母が幹部を詰問したところ、内密に娘を別居させてしまった。地区の婦人部に娘の住所を再三教えてくれるよう懇願しても、「住所は知っているが、学会を辞めようとする人に知らせることはできない。
 辞めるなら一人で辞めよ。子供たちまで辞めさせることは断じて許さぬ」という返事。
 その後、娘は学会員と自由結婚し、何事よりも御本尊、会長、組織が大事という狂言者になり、男児まで出産(三十八年)しながら、同じ学会員の女子に良人と子供を奪われいまや離婚されてしまった。
 学会の地区支部では、どうにも話にならないので、地元の警察署にすがった。警察の連絡に対しても婦人部長、女子部は知らぬ存ぜぬの一点張り。そこで顏見知りの大ブ口ック長でもある市会議員に--(一部・欠落)--。

 その方たちは、御本尊をいただいたときは“歓喜”に燃えていたのです。
 そのひとりの人は、境邁はひじょうに悪かったが、その年の夏季講習会に七日間出たときは、まるで年も忘れたように、娘どうように歓喜にもえていたことを思い起こすのです。その後、三人のうちひとりだけが、常住御本尊様をお持ちして、どこかへ行ってしまい、行く先がわからなくなっていた。わたくしは、その常住様のことが常に気になり、心を悩ませていた。ところが、そのうち、鶴見のある人に折伏され、とつぜん本部に尋ねてきた。(中略)問題が常住御本尊様のことであるとの報告を受けたので、その人に会ってきいてみると、『常住御本尊様を拝んでいることが、主人からやかましいといわれ、御本尊様をお返ししようと思っていた』
 というのである。
『あなたはいま、打ち出の小槌を捨てようとしている。常住御本尊様みなさい。あなたはみすぼらしい生活をしているでしょう。(中略)いままた宝の御本尊様をどうしょうというのか、あなたもみぞに首をつつこんで死にたいのか』
 と、しかってやった。
 このとき、いっしょに信心した他のひとりは、現在一億という財産があるといわれている。また、もうひとりの人も、それぐらいの金は自由に使える状態にある。
 わたくしは、二十何年生きているかどうかわからぬが、二十年信心をつづけていった暁に、良かったと思う人と、みすぼらしいしい姿をつづける人が出よう。(中略)
 初代会長は、学会はモルもっとでなく、人間で実際に試験をしているのだから、たいしたものだといわれたが、信心をやめれば貧乏になるし、また反対に、信心したものは、功徳で一家は丈夫で、月一回ぐらいは温泉へ遊びに行ったり、映画を見たりできるようになり、楽楽とした信心になれる。
 それは、二十年後に起こる、ひとりひとりの生涯の問題なのであります。がっちりとした信心をしてください。」 (『戸田城聖先生講演集上』二六八頁~二七一頁)

 講演でいっていることが実例といかに違いすぎるかの典型的ケースでもあろう。
 次にそういう実例を示してみょう。文字通りの人間破壊--「人間革命」ではない、それこそ人間そのものを破壞されたケースがこうもあるのだ。

狂信母娘のなれの果て
 葉山生男さん(東京都)の妻は、入信以来、夫と別居生活をし、狂信的に信心をつづけている。学会員すらも妻への説得をあきらめ「葉山夫婦はとうてい救い難い」とサジを投げてしまった。知能指数が低いところへ、偏見をもったため、もう世の中の常識とはすっかり縁遠い人問になり、ただ毎日毎日御題目だけをあげている生活なのである。
 さらに不幸なのは、母とともに別居した娘で、これが教学部の指導員となり、学会活動以外には目もくれず、一家の不幸に輪をかけている始末である。それが選挙になると、別居中の父親のところへ来て、「お父さん、公明党に入れてくれ」と平気でいう。「いくら宗教の教学に強くても、政治家になれるものではない。竹入や矢野だって自民党の陣笠クラスにもかなわない。それ以下の者に投票するような幼稚さはもってない」と突っばねている。もう妻と娘は精神病院へ入院したも同じだとあきらめている氏の心中は察するに余りある。

両親を見殺す学会息子
 名古屋市に住む長瀬峯子さん老夫婦も、息子が学会員となって以来、学会活動に奔走、事業を省みなかったことから例産、そのため老夫婦は面倒を見てくれる人が誰もなく、非痛な老残の人生を送っている。息子は家に寄りつかないし、いまや自殺しかないと老夫婦で話し合うという悲惨さである。
 こういう悲惨な実例は数限りなくあるが、学会のほうはどういういい方をしているのだろう。まず次の文章をよんでもらいたい。

「これから話すことは、少しむずかしいかもしれないが、哲学的な問題にふれることとする。
 体験発表で、病気がなおった例は多いが、貧乏から金持ちになった話しは少ない。この、病苦と貧乏の苦悩は、重大問題である。人間の病気には六つあるが、このうち、医者でなおるものが三つ、なおらぬものが三つ。宗教は医者の力でなおすことのできぬ病いを、根本からなおす力のあるものである。
 自分の知識でわりきれぬものを、わりきることのできるものを信心という。人間とは、なんでもわりきりたいものである。いまは宗教と科学との世界の闘争である。宗教は心を中心とした学問であり、科学は物を中心とした学問である。
 生命の問題、生活の問題は、科学ではどうすることもできない。東洋哲学は、三千年前からでき上がっている。病苦に悩まされているものが、なおりたいためには、御本尊様という機械をつかまなければならぬ。どのような精密な機械でも、使用しなければ役立たぬ。これは、生命哲学上のことであり、科学の分野とは少しく違う。動力は信心、折伏である。
 いかなる病気も、この信心によってなおすことができるのである。日本の国から不幸をなくしたいがために、折伏するのである。
 心に悩みのあるものも、ここに多く集まっているであろう。きちっと信じ、念じなさい。一年間の約束をします。断じて月一名の折伏をし、朝夕の五座三座の勤行を欠かさず、必ずすばらしい功德をうけるように。」 (『戸田城聖先生講演集上』一四七頁~一四八頁)
 といった具合なのである。イイ気なもので、まことにふざけたやり方といわざるをえない。
       ---------(51P)-------つづく--

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