創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

続・創価学会を斬る-30

2017-10-06 08:31:13 | Weblog

続・創価学会を斬る  藤原弘達 (昭和46=1971 日新報道)
    ------(P200)---(以下、本文)-------

二重人格
 こういう逆転心理に落ち込んだ学会員にとって五月三日の池田発言は、何とも白々しく、がまんのならないものに映ったとしても当然のことだったといわねばなるまい。「聖教新聞」などをフルに動員して、連日のように共産党に対する悪口を紙面いっぱいにのせ、信者全体を“ウラミの徒党”にしておきながら、悪口のタネがつきたとなると、「大作さんがのこのこと現われて、共産党との泥試合は一日も早くやめたい、学会は反共主義ではない」とか何とか……。
 私の『創価学会を斬る』に対しても、さんざん「“斬る”を斬る」などと称してワケのわからないメクラ斬りのような記事を連載しておきながら、外部に向かっては、「藤原弘達さんに会って謝りたい」などといいだす…、これではとてもついてゆけないわけだ。会長は大変な二重人格で、ハラの黒い大悪党に見えてきたということのようだ。むしろそう見えるのが、まともの神経というべきであろう。
 ともかく言論問題にしても、政教分離問題にしても、池田会長の論理は、一時しのぎの支離滅裂のものだったといってよいのだ。それはいかに低級で無知な信者でも、今やどうにもならなくなっているかもしれないほどのものである。池田発言の論理のままに動くとすれば、創価学会そのものが四分五裂しかねないところまできているといってよいかもしれない。
 ことに、池田会長がわざわざ、「学会員の政党支持は自由であり、干渉されない」旨のダメをおしての発言は、「日蓮の信者でないものの発言であり、“大謗法”にほかならない」ということにもなる。つまり日蓮正宗、創価学会の基本的原点の否定を意味することになるととられざるをえないこととなりそうだ。信者の狂信的エネルギーをかりたて、㊤、A、B、Cのランクまでつくって、選挙運動にはさんざん利用しておきながら、やっとの思いで獲得した議席も、政党支持は自由ということにしたら、これから減少するばかりであろうことは火を見るより明らかである。これでは公明党も創価学会ももはや先が見えたと受取るものが信者のなかにでてきても少しも不思議ではないということである。
 ここまで信者大衆をバ力にし、外に向かっていうことと、内に向かっていうこととを使いわけられては、学会員のなかから日蓮の教義そのものの矛盾に突き当たる者がでてくるのも当たり前のことである。いろいろと“御書”のなかから引用しながら、根本的な不信や疑問をぶちまける投書もずい分ときている。
 「日月飲となる」とか「日輪が二つ三つ現われる」「白癩になる」「五逆罪」「出仏身血」「無限地獄」「我は日本の柱なり、眼目なり、棟領なり」「しるし親」等々、さまざまな七百年前の幼稚とも思える予言的言辞を、適当に混入しながら功徳と罰の使い分けで、二十世紀後半の大衆を操作しようとしても、どだい無理になってきているということが、そういう投書にもありありとうかがえたものだ。まさに私のいう「時代錯誤の罪」はいかんなく信者の心に「現証」されているということである。
 池田会長は政教分離について、「公明党首脳がいかなる信仰を持とうと自由である」とまで放言しているけれども、これまで学会員として公明党を支持してきたものにとっては、まさに青天の霹靂なのである。「日蓮の教えからは、そんなことはひとかけらもでてきません。それではもう日蓮の信者ではなく、池田教ということになります」という痛烈な反撃がでるのも、しごく当たり前というべきであろう。
 池田会長がどんなに切捨てようと思っても、創価学会と公明党は、まさに「一体不二」なのである。いまさらそんなことをいわれたとしても、男が女になれといわれる以上に困難、いや全く不可能なことをいっているとしか受取れないということにもなる。そう思いこんでいるから、池田発言はとうてい信じられない一時しのぎの屁理屈と映じる。こういうごまかしに国民がだまされないように、「藤原先生、どうか追及の手をゆるめないようにしてください」と、いまでは逆に学会員からハッパをかけられる始末である。
 いずれにしても「新生」創価学会を社会に印象づけるために行なわれた池田発言も、学会内部では、とかくウラ目にでているということらしい。内実はどんどん去りつつある信者を食い止めるのに躍起になっているということのようである。「自分のところには返された本尊を五体預かっている」といった手紙もずいぶんきている。全国的には折伏の功を競って、他人の名前で本尊を受けたケースも、大変な数にのぼると推定されており、まさに「幻の学会員数」を形成しているわけであろう。荒川の土手で、何体もの本尊が捨てられているのを拾ったという訴えもあった。こっそり焼き捨てたり、犬猫のように川に捨てられているケースも、ずいぶんとでていることであろう。

 池田会長は「社会に迷惑をかけたものは除名する」といっているがまさに笑止のかぎりといわなくてはなるまい。社会に迷惑をかけた張本人として会長自身が除名されるべきであり、幹部をはじめ、ほとんどすべてということになりかねない。そもそもこの宗教自体、何らかの意味で社会の常識に挑戦しているものでありそのかぎりでは社会に迷惑をかける必然性とでもいえるものを内包していたといわなければならないのだ。だから、これまでやってきた折伏とか言論妨害といったことも、日蓮正宗としてはしごく当たり前のことをやってきたまでで、それをいまさら「除名」とかなんとかいってみたところで、それこそまさにナンセンスということなのだ。
 「除名」されてしかるべきなのは、学会でメシを食ってきたプロ化した幹部だけであり、むしろ一般信者としては除名されることを喜ぶのではないか、という気さえしてくるということである。

 一人の学会員はこうまでいってきている。
「折伏などは致さないことになるのだと外部の人には会長は申していますが、これは考えられないことです。
 そもそもこの宗教の信者たらんものは、日蓮が『弟子擅那、流罪、死罪、一定ならん(必ずあるという意)、少しもこれを驚くこと莫れ、少しも妻子眷族を思う莫れ、権力を恐るる莫れ、今度生死の縛を切って仏果を遂げ給え』という、おだやかではない主旨の教えを必ず実践しなくてはならないことになっているのです。
 もしこれに反するなら、もはや全くちがった宗教を作るか、他宗に転じるかするほかはないのです。
 もしこれを実行しないのなら、池田会長といえども邪教の徒といわなくてはなりますまい。少くとも会長が、日蓮正宗の人であるならば、まさに一時しのぎのウソをついているだけのことで、来るべき事態にそなえているのです。
 再び時をえて、流罪、死罪もおそれないし、妻子や一族のことも意に介しないで、あえて社会に迷惑をかけても、教えを実践することになること、まず間違いのないところであります。」

 どうも読んでいて、この学会員の方が、池田大作などという男よりは、はるかに立派に思えてきたということだ。教義に忠実であり、信仰も純粋であり、善意がほとばしっているといってよいだろう。こういう善意を踏み台にして巨大なる虚業集団をでっちあげた池田大作という“匹夫”は、日蓮のいう流罪、死罪どころか、ちょっとした世間の風当りや、言論自由の叫びにおびえきつてしまい、「自殺寸前の心境になった」とまでほざいているのである。
 使命感に燃えるものには、殺されることはあっても自殺などはとうてい考えられないことでなくてはなるまい。そしてムスコから叱られたとか、デマを週刊誌に書かれて女房がかわいそうだとか、マイホーム主義のよきパパぶりさえ外に向かってPRしょうとしているのだ。
 その品性の低劣、内面の狭小、反省力の痴呆的欠如、まさに目をおおいたいばかりというほかあるまい。しょせんは、インチキ高利貸の手代から成り上がった小人の姿、あわれなるかなといわなくてはなるまい。
  これだけ内部の学会員から、痛烈な批判が起こってきており、それも池田会長という神格化されたトップリーダーにまで及んできているのであるから、これを受けて立つ幹部連中は、おそらく大変なことであろうと容易に想象できるというものである。今までの羊のようにおとなしかった信者のなかからいっせいに不信と不満の声が上がってきているのも、むしろ当然のことというべきである。それを「言論の自由」の「現証」といわずして何ぞやという気さえしてくるというものである
       ---------(205P)-------つづく--

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続・創価学会を斬る-29

2017-10-06 08:21:56 | Weblog

続・創価学会を斬る  藤原弘達 (昭和46=1971 日新報道)
    ------(P194)---(以下、本文)-------

学会内階扱昇進につながる選挙活動
 信者達は㊤、A、B、C、というように信心の程度を知る寒暖計みたいな階級に分類される。
 ㊤は、信心の三大項目である勤行、会合、登山(大石寺参り)をおこなうもの、学会のなかの選抜チームのようなもので、公明党には文句なしに投票する信者。
 Aは、三大項目のうち一つか二つを実践しており、公明党支持も文句なしとはいかないクラスのもの。
 Bは、三大項目の実践が殆どないもの。王仏冥合の実践者が公明党であるという理解もできないクラス。
 Cは、本尊などひきだしにしまって忘れており、学会を殆ど無視しているクラス。
 その他脱会者や行方不明者が多数あり、B、Cとあわせて組織のうえの悩みのタネになっている。
 運挙戦になると、CをB、 BをA、Aを㊤にあげるための信心指導をば幹部が連日のように会合、家庭訪問の個人指導の形で展開する。クラスをあげれば、それだけ「王仏冥合」を実現したことにつらなり、同時に公明党がそれだけ増大するシカケになっている。仏の遺命を実践する公明党に投票すれば、「顔ってかなわざるなし」の御言葉通りの功徳が必ずあると説かれる。反面、公明党に投票しない信者は仏の教えにさからったことになるから、当然のこととして個人罰をうける。公明党の候補者が落選した地区の信者は、総罰があたる。それも具体的事例を引いて説明されると、大ていの人間はおそれをなして、不本意ながらも投票するかということになる。そのうえ、信者たちの親類や知人等にも投票依頼のための後援会づくりを割り当てる。功徳をもらえると本当に信じこんだ少数者は夢中になって駆け廻る。
 更に幹部は、道ゆく人々にかたっぱしから夢遊病者か狂人のように恥も外聞も忘れて呼びかけるよう、さかんに強化しておどらせる。事実、選挙も中盤戦ともなると、幹部はわざわざこの戦いに勝ち拔くためには「全員が気違いになろう」と指示して追い込む。そのため本当に投票を終えると発狂した信者もでているし、責任を果たせないことを苦にして自殺するケースもでているのだ。

 とにかく政教混淆というか、政教一体の選挙運動が展開されていたわけである。それも気違いじみたものになる心理的背景は、この組織の体質そのものに根ざすものであること、しごく明々白々としている。もし創価学会のこの狂熱的なエネルギーを組織として動員できなかったとしたら、おそらく公明党からは一人も当選者が出なかったであろう。それでいて、池田会長は白々しく学会員の政党支持の自由を謳つているのだから破廉恥としかいいようがない。
 ともあれ狂人や自殺者まででる選挙運動を展開してきたことはまぎれもない事実なのである。
 そこまで狂信に追込める“手品”のタネはまことにチャチなものである。大石寺にある楠に彫刻されに「板曼陀羅」なるものが「本尊」とされていること周知のとおりである。要するに「南無妙法蓮華経」と板の上に書いてあり、その下に日蓮の花押があるだけのもの。これが日蓮のホンモノかどうかも疑問だし、まことそれ自体はたわいのないものなのだ。これを「幸福製造機」などと称して、ウンとおがめば幸福がくるし、おろそかにすれば罰があたると説くだけのもの。基本的には完全な迷信なのだが、これを強引な折伏行でまかり通し、選挙に結びつけたところに最大の特色があったということである。つまり選挙結果が幸福の実証とされたわけである。

 こうしたやり方のさらにヒナ型になっているのは戦前に二代目会長の戸田城聖がさんざん試みた「保全経済会」式システムの金融業だったとみてよい。 月五分という高利につられて、なけなしの金を差出し、まんまといっばいくわされたかっての小学校の先生たちの被害届の手紙も、ずいぶんと私のところへきている。池田大作は若いときからカバンもちをしながら、この手口を学んでいたこというまでもない。戸田の“偉大なぺテン師性”はそのやり方を折伏によって「本尊」御利益に直結させ、さらには戦後日本における最高の権カシムボルである「選挙結果」によって裏付けようとした点にある。こうしておけば、もはや高利を払いもどす必要はないし、選挙結果として得られた社会権力によつて逆におどしつけておけばそれですむからである。まことよく考えたものだ。無知で欲張りな人間ほどこういう暗示や働きかけに弱い。そして入信させればしめたもので、徹底的に考えるヒマを与えないように狂信的実践へとかりたててゆくということ、戦後は選挙戦もほとんど毎年のようにあるから、これもまことに営業上も好都合だったわけである。

 学会員の説明するところではそういう“手品”を正当づけるものとして、さかんに「曰蓮の御書」が引合いに出され、例えば「願兼於業」とかいう難解な文句などがよく使われるわけである。その意味は「苦悩の民衆を救うため、仏の慈悲によって自らの使命をうけ願って、その苦悩をわが身におび、わざわざ狂人や病気、貧乏の姿でこの世に生まれ、その逆境を学会の信心によって克服し、功徳を得た姿を他宗に示し、正法の偉大さを教化するために、人間はこの世に生まれてきたのだ」ということらしい。
 それにしても、バラバラ事件の犯人斎藤某とか、吉展ちゃん事件の小原保どか、秋田県の保険殺人事件など、世間の耳目を集めた事件の兇悪犯罪者に学会員が少なくないということになると、とんだ功徳の姿といわなくてはなるまい。こういう事件が明るみにでて、広く世間に知られないためにも、言論妨害にまで発展するマスコミ対策が組織的に行なわれるようになったこと、いうまでもないところである。ともかく学会員によるこの種の犯罪事件の発生はいちばん困るのである。それでは仏の使命をおびてこの世に生まれてきたとされる学会員の「顔兼於業」と、いったいどういうぐあいに結びつくのかもさっぱりわからなくなってくるからである。
 池田会長が「学会員の例外的な犯罪の問題点にまで発展したのはちよつと行過ぎだ」というように説明しても、幹部が「これだけ多くなると、バカもキチガイもでてきますよ、それでも他宗にくらべると少ないはずだ」などととぼけても、まじめな会員ほど疑問に思うし、「願兼於業」を反古にしているとしかうつらないのも当然なことである。

 ある学会員はこういってきている。
「……王仏冥合のためと称して党員でもない未成年の女の子をかりたてたり、共産党のビラやカンバンなどを夜中にひっぱずさせたり、そして警察に捕まったときは、幹部は、とくに議員は、自分の名前を出せば大丈夫というように教えたりで、およそ金のかからない違反行為ならなんでもやらせるのです。
 この非常識きわまる手口が発展すれば、法を無視しても平気な気持に通じるのではないでしょうか。兇悪犯罪がでるのも、こういうやり方からは当り前のように思え、自分で自分がおそろしくなってきました。珍しい信心もあるものだと思うようになりました。」

 非常識なこととして批判を受けると、「“三障四魔”の妨害を受けた」などといってごまかせるけれども、これだけ「幸福の現証」とされた選挙結果が思ったようにならないと、さんざんエネルギーをふりしぼっただけに学会員ばガックリとくる。その点、京都府知事選の結果、四十四年十二月の総選挙の結果、四十六年六月の参院選の結果は、まさに会員をしてガックリさせたものがあるといえよう。総選挙では、あれだけ悲願としていた最低五十一がとれず四十七にとどまり、参院選では全員当選とはいうものの議席は減り、得票数も得票率もガックリ滅ったのである。日蓮さんの教えを正しく実践していなかったから、その罰で足を引っ張られたのだ、現在のやり方がインチキであるという「現証」だというように心理逆転しても止むをえないことにもなる。--「人間の生命や性質を変える人間革命とかが、思い通りにできるのだったら、衆院選の人為的な五十一議席など簡単な筈ですが、それが駄目になったということは宇宙や生命などももちろん変えることができないインチキな宗教であることを立証したことになります。学会では“現証”こそ何にもまさるものだとしているのですから、自ら願ってかなわないことをしたわけです。」(学会員の手紙から引用)
       ---------(200P)-------つづく--

 

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