創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

続・創価学会を斬る-34

2017-10-11 08:53:53 | Weblog

続・創価学会を斬る  藤原弘達 (昭和46=1971 日新報道)
    ------(P226)---(以下、本文)-------

卑怯きわまる池田“退転”ポーズ
 池田会長は今度の事件で、「輪姦されて放りだされた処女」のような気持だったとか、女房や子どもにまで批判されて心理的に参ったことを告白している。一個の市民としてなら、そういう率直さに好感がもてるが、そこには「神から人間へ」の天皇による人間宣言の、それなりの率直さや品格すら微塵もないのだ。むしろ彼の内面には、一種の「人間崩壊」が起こっているといわねばならない。「大作」の本名は「太作」だったそうであるが、これでは小心翼々としてただ組織の形態のみ守ろうとする「小作」の態度しか残されていないということにもなろう。
 池田会長は、王位から家庭の幸福まですべてを捨てて、あえて出家の道を選んだ釈迦の精神をなんと考えているのだろう。迫害にたえて初心を貫き通した日蓮の精神からも、あまりにもほど遠いといわねばなるまい。

 その意味では、創価学会長としては、なまじっか謝罪などしてはいけないのだ。少なくとも彼は、信者にとっては絶対の存在なのである。もっといえば、折伏行を捨てては、日蓮正宗創学会の存在理由がないということであり、王仏冥合の理想は政教一致を建て前として、敢然と権力による権力の挑戦にふみ切ったところに、その独特の意味があったということだ。創価学会と公明党とは「一体不二」でなければ、まさにナンセンスであり、これを分離しては、もはや共倒れの運命にあるということでもあろう。
 それが形式的に民主主義の原則に違反しようが、アナクロニズムであろうが、そんなことは基本的には無視して進むべきではなかったのか。折伏の必然的現象として、いっさい他宗を邪教として却け、批判を敢然と拒否し、言論妨害を起こそうと、出版を阻止しょうとすべてこれ正法を実現し、広宣流布するために発生するための必要悪のようなもの、断乎として無視して進むべきではなかったのか。憲法違反といわれようと、刑法にふれようと、大衆の基本的な人権をおかすことになろうと、それはすべて、大の虫を生かすための小の虫を殺すようなもの、「法難来たらば来れ」と開き直り、敢然とやるのでなければ、精神の原点が崩れてしまうのだ。

 そういう意味では、五月三日の池田会長発言の論理は、日蓮正宗?創価学会の宗教指導者としては、やはり支離滅裂というほかない。なまじっかな社会との協調や形だけの民主化を峻烈に拒否し、邪宗邪教の言論の自由なんてものは断乎として弾圧するくらいの覚悟がなくては、日蓮正宗の宗教者としての姿勢ではないということだ。その結果として、迫害を受けようと、弾圧をうけようと、それこそ信仰に生きるものの無上の栄光としてうけとめるぺきではないのか。会長発言は、そういう創価学会の基本的立脚点を自ら否定することによって、その組織の形だけをなんとか維持しようとする卑怯きわまるものであり、「新生」はとりもなおさず「改宗」を意味しているといわねばならない。つまり日蓮正宗創価学会そのものを自ら否定したものであり、いうなれば「池田大作新興宗教」の宣言とみるべきであろう。

 ともかく会員の実数はいまや激減し、「板曼陀羅」の「本尊」は荒川の堤にすら捨て去られているというが、ともかく公称七五〇万世帯という大台にはのった。ともあれ熱烈な信者から生命保険まで解約して寄進された何百億円の金で、壮大な正本堂もできることになった。ともあれ待望の創価大学も発足した。ともかく公明党も衆議院ですでに第三党の議席をもっている。ああ、よくぞここまでやってきたものである。ここまでに馬鹿当たりした宗教的虚業を、どんなに四方八方頭を下げても、なんとか守っていきたいものである。あんまりいじめないでくださいよというのが、偽わらざる池田会長の心理ではないのかという気がする。
 池田会長には、これだけにマンモス化してそれぞれ勝手に自己運動をはじめている全組織のなかで、どこに病理があり、どこを切りとれば蘇生するかについての自己診断力とでもいえるものがほとんど失われているといってもよいだろう。どこを切っても、それにほとんど動脈となって脳髄に直結し、がんじがらめになっている。切りそこなえばそれこそ命取りである。思い切った手術などはできない。ただ安心立命を得るための麻薬でも打ちつづけ、せめてもその肉体的苦痛をやわらげるより処置なしというところに追いこまれてしまっているという表現すらできよう。
 しかし、胸に手を当てて、大作よ、考えてみよ。どんなにりつばな殿堂ができようが、どんなに豪華な文化施設が完備されようが、どんなにはなばなしいマス・デモンストレイションが展開されようと、それらは魂を失った宗教にとっては、単なる虚飾であり、夜空に一瞬輝く花火のように、まこと空しいものである。巨大な財力も、何でもやれそうにみえる権力も、大衆信者の尊敬も、すべてこれ、白昼夢に等しいかもしれない。外面を誇示し、権勢を誇るものの空しさを、何よりも知り、その無常に徹することこそ、仏教者の基本的姿勢ではないのか。
 いちじは高熱にあえぎ、心身ともに疲れ切つていたといわれる池田会長の人間的苦悩なるものも、その眼りではしよせん、あわれな権力餓鬼道の喘ぎのようにしか受取れなかった。私は大作に対しては公明党は公明党で放任し、大石寺にはすべての施設をくれてやり、創価学会のもつ財産すベてを、貧しい国民に分け与え、会長は剃髪して仏門に入り直したらどうだとさえ言いたくなったものである

進行する池田の“人間崩壊”
 『創価学会を斬る』ことによって、何か血刀をさげてあばれ廻っているかにみえた私自身、このあまりにももろい創価学会の精神崩壊を前にして、感慨無量というところであった。池田大作会長にしても、公明党の竹入委員長、矢野書記長などにしても、べつに私怨などはさらさらない。むしろ学会批判を売りものにして寄生虫のような生態すら示している“新宗連”にくらベると、ややおろかなところがあるが、学会や公明党の幹部諸君には、それなりに使命感に燃えた純粋な人間的よさを認めるにやぶさかではない。
 その点はしばしば接触のあった秋谷栄之助副会長にしても、藤原行正都議にしても同じであり、憎悪やウラミなどは、人間的にはまったく感じてない。池田会長を初めとして、全組織をあげて、彼等は私の言論攻撃に対する防衛に廻ったし、その闘いはまさに壮烈をきわめたといってよいだろう。まともに私の切っ先を受け止め、血まみれになりながらむしゃぶりついてきた。やり方はどうも卑怯であったが、やはり信仰に生きるもののまともさがあったこともあえて否定しない。おどろくべき熱情であり、それは狂気に近いものさえ秘めていたといってもよい。
 私はむしろそうであるが故に、斬らざるをえなかったといってよいのだ。善意と善意の集積が、より集まってできる政治悪の宿命にこそ、自由をかざして捨身の斬り込みを敢行した私の問題意識があったのだ。
 無惨ともいえる池田会長の“人間崩壊”を頂点として、おそらく世界でも特異なこの政治的宗教集団は、好むと好まざるとにかかわらず、崩れおちてゆくのではないかという気がしている。私が斬ったからでは必ずしもあるまい。国民の自由を愛し、民主主義を守ろうとする底辺からの燃えあがる炎が、“大日本帝国”の大衆的残渣とでもいうべきこの巨大な組織を、その底辺からゆさぶったということである。
 しかし、闘いはまだまだ終わってはいない。その最後の最後までみとどけないかぎり、どうも“火付け役”としての私の国民に対する貴任は終わらないように思うからである。
       ---------(231P)-------つづく--

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