創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

新・創価学会を斬る-17

2017-10-31 08:58:59 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

          ----(P105)---(以下、本文)---
オ卜ギ話の座談会
 四十六年五月に入信した中田三重子さん(福井県)は座談会について次のように感想を述べている。
「もし入信して以後も、発表すべき体験のない場合は、御題目のあげ方が足りないと指導されます。その次には真剣に御題目があがっているかと問いただされます。それでもなおかつ功徳のないときは人それぞれの過去現世の因縁があって、一年かかる人も、七年、十年、何十年かかる人もある。過去におけるさまざまの因果であると教えられます。
 それを馬鹿くさいと批判してしまえば、信心は成り立たないもののようです。もし勇気をふるって、何も功徳がないと発表すれぱ、一、二回は懇切に指導されますが、いつのまにか皆はその人を無視していくようです。相手にされなくなるのです。」

 「私の幹部は創価髙校ができたとき副校長をしていた諸富さんのお母さんで“地区担”でした。そこで『小島さん、とにかく私たち勉強したいですから、あなたの感じたこと、何んでも話していただきたい』と言われたんです。
『私ここへ入らせてもらって、ざっと観察したところが、ここに一人だけ人間らしい人がいました。あとは全部ガメツイ人ばかりいました』と言つたんです。ハッキリと露骨に遠慮している性格でないもんですから......。
 そしたら、『こんな人はここにおいてはおけないから、千駄ケ谷の全国大会に行きなさい』と言われました。行く前に、とにかく大会へ行けば会長先生の話で、涙が出て出てと聞いていましたが、実際はさほど感じませんでした。」(千葉県小島たつさん)。

「座談会は、パカバ力しくなって、とってもまともに黙って聞いていられなくなったのです。
 例えば、紙芝居に食堂の絵が三つ書いてある。右の家は信心を熱心にやっている。真中の家はどうでもいいような状態である。左の家は全く何もしていないというように説明するんですね。それからコックさんの漫画を描きましてね、一生懸命やっている家はどんどんお客が来る。真中の家はボツボツ来る。全く信心していない家には客が来ない。それでコックさんがアクビをしながら、“ああ--、どうしてお客が来ないのか、どういう原因なのか?”となげくといったような馬鹿々々しいことを説明する。
 またある人は三年間に五百万円の借金を全部返した。いまは自分の家も建てて安楽に暮しています。
 これも御本尊様のお蔭だと言う。
 泥棒でもしない限り、三年ぐらいでそう簡単に返せるわけがないと思いますが......」

 と神奈川県の帆文子さんはこう語ってきている。いずれにせよ、他の宗教団体に較べ、座談会の帰途にすぐグチがでるのが学会の特色のようである。

◆ 減る一方の座談会参加
 要するに、座談会方式では、そろそろ限界がでてきているようで、非常に低いところにボーダーラインがあって、それ以上の人はだんだんと座談会には出なくなるが、それ以下の人は座談会へ出て来て、自ら進んでどんどん洗脳されて狂信の道へ突進してゆくことになる。
 この脱座談会組をどう防ぐかが、いまの幹部たちの頭痛の種のようであり、見方によれば崩壞しつつある組織の当然のなりゆきともいえる。

 事のついでに言わせてもらうと、一校の会社で課長だ、係長だといえば、水準はある一定のものをもっているものだ。ところが学会のB長になると千差万別、玉石混淆もいいところでブロックにより雲泥の差がある。幹部の質がどんどんと悪化しているというのが現在の学会の偽わらざる姿なのである。
 長野県の松木和夫B長は、学会には底辺というのは何を指しているのかその意味がわからない人がいるという。また『続・斬る』で偽善的小人池田大作という言葉を用いたが、小人を「コビト」と読み池田会長はそんなに背の小さいほうではないと学会員の間で話題になったというからこれには全く呆れざるをえなかった。
 地域座談会、職場座談会といろいろ名目を変えても、踊るビエロと、踊らぬビエロはもう笛の吹き方の違いだけでは、完全には動かなくなってきたといえよう。東京では、外部からの情報がひんばんに入つてくることもあり、座談会出席率は会員数に対して二〇%前後であると大B長が洩らしている。学会・公明党の斜陽化は言をまたないが、その勢力は未だにかなり残っている。それだけにいわば戦時中の突撃隊か切込み隊のような役目を負わされている末端会員になると、いよいよ大変な負債を負わされる。いまや同情の念すら禁じえない次第である。

言動異常の学会員タイプ
 周知のようにグルリとはりめぐらされた人垣のような円形組織のなかにいる学会員個々人はわざと一つの方向だけしか見せられていない、目をふさがれたバ車馬のようにされている。多くの学会の同志的連繋がないというよりは、バラバラの小グループに分離され、交流できないようにされているといったほうがよい。私的に学会員同士がグループで旅行や会合することは厳禁されている。
 したがって他の地域の学会員がどんなことをし、そして自分が全体のなかでどのような立場に置かれているのかについて、客観的に知るチャンスをもたないシステムになっているということだ。長野県の例でいえば、隣町でありながら、B長同士がお互いにその立場や役割を知らないし、教学指導員が隣地区の人であってもこれがわからぬような仕組みになっているのである。“民はよらしむべし、知らしむべからず”の封建政治の原則がそのまま活用されているともいえるし、イギリスお得意の植民地政策・「分割統治」(ディバイド・アンド・ルール)を地でいっているともいえる。学会員それぞれはバラバラに分離され、無力化され、それだけ組織への依頼心をつよめるネライなのだ。
 二十世紀後半のこの時代、世界でももっとも自由な国といわれる日本に、まだこんな非人間的な組織が存在し、しかもいまだにそういう組織の中におらねば生きてゆけぬように細工されている人々がこんなにいるということは、まことに驚くべきことといわねばならない。組織の命令だけでそのまま動くロボット玩具のような人間がつくられているのだ。

 私のところにはいろいろな人からさまざまな電話が入ってくる。どうもこいつは少しオカシイ、余りにいうことが非常識だなと感じたら「君は学会員か?」ときくことにしている。すると必ずといってよいほど、黙って電話を切るか、威たけ高になってトタンにわめきだすのである。
 また講演会場などで、実に野暮ったいマトをはずれた質問をする者がいる。「創価学会員だろう」というと、やはり黙ってしまうか、わめきだすのである。タイプがおどろくほどに似ているのである。
 このタイプの人と会ったときは、いつも相手の目をジッと見ることにしている。ほとんど目の焦点が定まっていないのだ。普通の人間ならこちらがじっと見れば、当然のこととして見返すワケだが、どういうわけかわざと目が合わないようにするのだ。いわゆる目の光というものがない、目に精彩がないのだ。
“目は心の窓”といわれているが、心に落ち着きがないと、こんな目になるのかという気さえする。
 仕事の関係で多くの学会員と会っているような人も、やはり同じようなことをいっていた。
 初めて会っても目を見ると学会員かどうかがわかるのだという。偶然にしては話が一致しすぎる。やはり精神が不安定なのであろう。見方によると一種の精神異常者の目つきなのである。
 学会・公明党は口を開けぱ“国民の福祉厚生”をもっともらしく唱える。自分たちが社会福祉の精神的汚染源となっていることには少しも気づかないようだ。あるいは気づいていても、わざと無視するようにさせているぬかもしれない。
 見方によると、好きなようにさせておかないと、逃げられる可能性があるし、本部の指令通りにいかない場合がでてくると困るからでもあろう。
 ともかく熱心な信者というのは、学会によって一種の盲目にさせられた人々である。盲人が世間並みの行動がとれないのは当り前であるが、これならば盲人が白い杖を持っているように学会員にもすぐわかるような、警戒色の何か特別なワッぺンでも張っておくとよい。一目でわかれば盲人だから仕方かないと多少は許すかもしれないということだ。
 では実際に動いている学会員像とはどんなものなのか。何人かの学会員の目に映つた実像を学会員自身によって語ってもらうことにする。
       ---------(113P)-------つづく--

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