新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)
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② 信心の強制をうらんで子を殺害
昭和四十六年十二月二十二日の午後、神奈川県大船にある「旭硝子」の社宅に住む橋本紀七さん(31)の長男一成ちやん(4)が行方不明になった。社宅の人たちは会社を休んだり勤務の合間を縫って捜索隊を組織、この日以降、数日間、木枯しの吹く中を一成ちやんを捜し求めて附近の山の中を歩いた。
大船警察署に母親から届け出があったのはその日の夜七時半ごろ、警察ではどうも営利誘拐の様が弱いとして同夜から直ちに公開捜査に踏みきった。町内会二十人、警察官三十人、消防団員十人、犬二匹で午前一時まで附近の山を捜したが、何も得られなかった。
翌二十三日は、朝六時から機動隊員百人を加え、自宅近くから捜査したが、自宅から二百メートルほど離れた笹ヤブの中から一成ちゃんのズックグツが発見されただけだった。
結局、明けて一月八日に橋本さんの隣りに住む工藤カツ子(30)が自首するまでは、皆目犯人の見当がつかなかったのである。
工藤カツ子は秋田県の山村のあまり裕福でない家に、七番目の娘として生まれた。中学を卒業すると、お手伝いさんをずっとつづけた。工藤さんとは彼女の姉と工藤さんの兄が結婚していた関係で、見合結婚をしたのだった。
結婚後も、彼女の姿勢は変わらなかった。掃除と洗濯をきちんとやり、幼稚園の遠足で子供に付き添つて出かけるときも、カーディガンにサンダルばきのスタイルであった。
外見的には何を考えているのかわからない彼女も、わが子のしつけにはびっくりするほど厳しかった。子どもが言うことを聞かないと、家中にカギをかけて何時間も家に入れないほどだったのである。東北人らしく感情を全く外に現わさない性格であった。
一成ちゃんはカツ子の手で殺され、物置の脇に埋められていた。動機は女性特有の発作的なものと断定された。しかしその下地は無理に入信させられた創価学会にあったという。「題目をあげろ」、「座談会に出ろ」、「登山しろ」などと無理強いされたウラミが、相手の子どもに集中されたワケである。
四十二年頃、橋本さんの奥さんから入信の折伏をうけたが、嫌でたまらないのに断りきれずに翌四十三年に入信、四十六年八月に退転した。
彼女はこの学会員であった四年間を悩みに悩んだ。内向型の性格であったため、悩みは奥へ奥へと進んだわけである。社宅の人たちはこの事件が起こって初めて、彼女が学会員であるのを知ったほどであった。
学会をやめる直前まで主人には内緒にし、学会員であることを夫に打ち明けるかどうかで非常に苦しんでいた。
退転する直前になって夫に打ち明け、御本尊を橋本さんに返すと、あの奥さんは感情的になり、何か嫌味を言われそうだと心配し、旭硝子の隣にある三菱電機の社宅に生む学会員のところへ返しに行った。それですベて終りと思っていたら、三か月ぐらいたつて学会から御本尊を返すのなら,信心親に返すのが筋だから、橋本さんに返しなさいと言われわれ、橋本さんの所へ行ってから二人で支部へ行ったのである。
橋本さんは町内の学会員のなかでもすごい活動家と評判をとっていた。簡単に退転を認めない学会の姿勢が隠然たる策動をしたということであろう。
いずれにしろ外見は円満なエリート企業のブルーカラー族のなかで学会員同士の起こした悲劇であったわけだ。
③ 横れんぼの幹部が犯人
昭和四十六年八月十八日の朝、福岡市香椎にある香椎宮境内の一角で、下半身の着衣をはぎとられた女性の遺体が発見された。
被害者は共栄火災海上保険㈱福岡営業所の外交員・黒田和恵さん。
黒田さんは昭和八年三月広島県三原市に生まれ、娘時代すでに実母との折合いがうまくなく何度か家を飛び出すという不運な星の下にあったが、昭和三十二年建築現場主任と結婚、三十九年一月創価学会に入信、三年前から保険会社に勤務した。
同僚の話によると、彼女は子供を産んだことがないので、体の線が崩れていないし、小柄で可愛い感じだったので、街に立っているとすぐに車が寄ってきて声をかけられたという。その上、外交員という業務、学会活動というように交際範囲が広く、捜査は相当に難航した。
が、半年の捜査の後、結局犯人は、学会の地区リーダーで学会員の間でもとかくの噂があり、学会の所属まで変えられた元警官で製めん業を経営する岩倉寅夫(45)であった。
岩倉は学会の会議が終わると必ず和恵さんを車で送って行った。彼女の自宅近所では、夫が出張でいないときによくやって来る四十がらみの男として有名になっていた。殺害理由は当然のことながら極度のシットからきた痴情であった。岩倉はこのほか横領、詐欺の余罪もあるしたたか者だった。
土屋の家族は事件後、さすがに居たたまれず、東京に移転した。また和恵さんの夫は事件後他の女性と同棲している。
④ 色と欲で夫妻が謀殺
昭和四十六年二月十二日、秋田県北秋田郡上小阿仁村の村会議員小林要蔵(48)、テチエ(46)夫婦が、鈴木良子さん(36)に多量の睡眠薬を飲ませ、昏睡状態にして雪道に置き去りにして殺害した。
目的は一千四百五十万円の保険金と、三角関係の清算であった。小林は学会員で、折伏したとき知り合った鈴木さんと愛人関係になり、学会活動で雑貨商が思わしくなくなり、借金で首が回らなくなっていた。
表面的には村議になってから要蔵夫婦の生活は派手になり、家を新築したり、折伏活動のために車を買った。さらに長女にバーをもたせるなどすベてが借金政策によっていた。
村の人が買物に店を訪れても、家の奥で御題目ばかり唱えて誰も店に出てこないという状態だから、学会活動のため店を閉めているほうが多かったのであった。
捕った夫婦は「選挙資金が欲しかった」と平気な顔で自供していたが、やったことは連合赤軍と全く同じリンチというほかあるまい。同村小林大ニ郎村長の話によると次のような詳しい状況がわかった。小林夫婦を戸籍面でみると、--
小林テチエ 大正十三年十二月二十二日生れ。
小林要蔵 大正十一年九月十八日生れ。
昭和三十二年六月十一日結婚により妻の姓となる。
住所 秋田県北秋田郡上小阿仁村大林字村廻七四の一
旧姓および本籍 同郡同村南沢字南沢十三 鈴木与三郎四男
--となっている。
彼等の背景をさらにみると、鈴木家は南沢地区の旧家で、親戚が他町村にわたって多い。鈴木家の当主貞治氏は地区の信望があり、現在は営林署南沢担当区の現場責任者として勤務、温厚篤実な人物。
要蔵は婿としては優秀な部類だった。当時は木材産地の上小阿仁村では馬車や馬橇が運搬に使われていたが、彼はトラックを使い、そのまま家業に励めば村一番の財産家にもなりかねなかったという。
テチエは愛国女学館の出身。同校は秋田市にあり、現在は秋田和洋高校と改名。小学校の教師に一時奉職。ある時期に、脳の病気となり入院、回復途上で創価学会へ入信、その後、狂信的な行動で要蔵をも折伏、夫婦入信後は夜となく昼となく学会の集会に自費を投じて参加。家業は農業をやるかたわら雑貨、煙草を販売。入信後は不在が多く、収入が急激に減少、活動費を捻出するため田を売りに出したほどだった。
その後、さらに困り三十キロぐらい離れた二ツ井町に夜の仕事としてバーを開き、自分の娘を働かせた。テチエも手伝っていたが、とかく評判は良くない。テチエが手伝って自分で運転して遅く帰った日、そのバーから出火し、娘は焼死。娘の保険金について不明朗な噂がとんだが真相は明白にならなかった。
また実兄貞治氏の山林を村で買収、代金を支払わないでいたところ、要蔵が実兄の印をもって来て代理として受領、後に実兄から役場に請求がなされたこともあった。
その後、八郎潟町方面にバーの開業の準備をしているうちに事件になったものであった。
殺された良子さんとは学会関係で知り合い、肉体関係もあった模様。良子さんも男関係がルーズで金のことでも評判がよくなく、合川町長畠山さんにも借金を申し込んでいた事実がある。畠山氏も貸していたら被害者になったと話している。その後、家を飛び出し転々と飲食店を渡り歩く。事件の主犯は実際は妻であるが、夫が全責任をとったことになった。
この村では殺人事件は何年に一回という程度のものだそうだ。それをやったのが社会福祉をうたう公明党村議であったので話題になった。
⑤ 奪った金に御題目あげる
昭和三十八年三月三十一日に起こったいわゆる“吉展ちゃん事件”はいまだに記億に新しい。死刊になった小原保も愛人から折伏されて入信した学会員であり、学会員が共謀しての無心な子供殺害事件だった。被害者の村越家から奪った五十万円のうち、借金払いをした残りの二十万円を愛人宅の仏壇に供え御題目をあげた。
多分、ご利益のありがたさに感謝感激であったのだろう。
---------(72P)-------つづく--