創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・公明党をブッた斬る-26

2018-01-25 09:18:20 | Weblog

創価学会・公明党をブッた斬る   藤原弘達
  --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
       …S60/10=1985年…〈日新報道〉 ¥1,000
    ------(P164)---(以下、本文)-------

 変転きわまりないジグザグ路線
◆ 公明党の中道主義はまやかしだ
 私が公明党の中道主義はまやかしだというのは、次の理由からである。
 公明党は、資本主義と社会主義、唯心思想と唯物思想、こうした対立を止揚した高次元の生命哲学に基ずく中道主義政治なるものを掲げる。この中道主義を唱えながら、常に第三勢力的位置を占めようとするため、革新的ポーズを装う。これが創価学会・公明党の政治姿勢をいっそう曖昧なものにしている。
 池田大作は、時に共産党ばりに「保守か革新かといえば、革新の中の革新」とまでいう。しかし、一般的にいって、現在の宗教は世界的にも保守的な位置にある。公明党の場合も、例外ではない。日蓮正宗とはいえ、宗教の教義を根底におく以上、体質的にはどうしても保守的と断定してさし支えなかろう。特に共産党とは、究極的には、まず絶対に相容れない。なるほど、創価学会・公明党が現状打破的スローガンを掲げ、保守政党の自民党を批判攻撃する時、一見、革新的にみえる。とはいえ、その政治行動はしばしば右顧左眄、実態は捉え難いものとなる。仔細に点検すれば、保守か革新か--ではなく、一つは日蓮の「遺命」であり、他は社会大衆の要望とを見合わせながら不断に浮動する社会層が創価学会の基盤となつている、当然の対応であるともいえる。
 したがって、公明党の説くところ(「公明党の歩み」)の「中道政治で平和と繁栄の新社会」を建設する、「大衆福祉で豊かな生活」を実現する、「戦争のない平和な世界」をつくりあげる等々のビジョンは、そのにぎにぎしさにもかかわらず、大した意味も現実味もない政策しか打ち出せないということでもある。
 当面は、第三勢力=中道主義ということで洞ケ峠をきめこんでいるだけのことなのである。
 仏法民主主義、人間性を尊重する真実の民主主義は、日蓮正宗創価学会の王仏冥合の暗喩としか思われない。これを創価学会流でいけば、「個人の幸福と社会の繁栄を一致させ、真の大衆福祉を実現する」ためには、全国民の創価学会員化が不可欠の条件になる。
 創価学会のいう謗法とは、邪教の徒が日蓮正宗をののしったり、日蓮正宗の信仰を妨げることである。謗法の徒というのは、日蓮正宗・創価学会以外の人間をさしていうのであるから、世間一般の人間が病気が治らず死ぬのはバチが当たったというわけだ。お題目をあげて信心したにもかかわらず死んだ時は、功徳があつたのだと強弁する。その点、この宗教ほどご都合主義の詭弁を使えるものはない。例えば、こんなふうだ。

「問 御本尊にお願いしたけれども、重病の子供が死んだ。なぜ死んだのか。
答 私にひとりの気違いの子供があったとする。狂人になったのは子供自身であるが、この子をわが子としなければならないのは、私の宿習である。そこでだれが信心しなければならないか。子供ではない。私が泣いて御本尊に願って願いきったとき……その子供は死ぬか、または、なおるか、どちらかである。その子(死んだ子供)はもう生まれてきているよ。そこで君が考えなければならないことは、このありがたいことを、功徳と思わずにナゼ死んだのかと思えば、大謗法で、罰は君がうけるんだよ」(小平芳平「創価学会」〈利益と罰について〉)

 このコジツケと脅迫をもってして、なお人間尊重といえるのか。恐れ入る他はなかろう。それが、政党として「大衆福祉で豊かな生活」「戦争のない平和な世界」を説くのだ。こんな人間性尊重の民主主義もあることを銘記するだけでケッコウ、という他ない。それとも、学会流功徳と公明党の仏法民主主義は別の次元だというのだろうか。そうではないらしい。
 そして、またまた新しい指標がつくられ、「資本家であろうが労働者であろうが、人間性という共通の広場に立って、保守と革新、東と西という現在の対立を克服し、信頼と調和による新しき社会を建設」(「公明新聞」四十二年元旦号。赤字著者)するという。人間性といっても、何といってもよろしい。原点はみえみえ、後は甘っちょろい言葉をつくれば、それで用は足りる。

◆ 中道主義、中道政治も具体性を欠き陳腐そのもの
 公明党の中道主義、中道政治は、池田の中道主義イデオロギーそのままである。公明新聞に発表した中道主義、中道政治より前に、池田講演(四十一年十一月、学会青年部総会)が主張していた。
 作家の松本清張との対談の中で、池田は中道主義について述べている。

「戦前は、極左か極右にかたよつており、真の中道はなかった。西洋には極左、極右の他に中道派があった。戦後は保守、革新の葛藤をみるにつけ、へーゲルの弁証法ではないけれど、時代は中道を欲していることは否定できない。とくにわれわれの中道主義は、民衆から盛り上ったものである。仏法の中道主義という哲学を裏付けにしたものだ。したがって抽象的な軽薄な中道とは全然ちがう」(「文藝春秋」四十三年二月号)

 ここまでみてきても、中道主義、中道政治は言葉として語られるだけで、これといった具体的イメージすら浮かんでこない。資本主義でもない、社会主義でもない第三の道として出てきた創価学会・公明党の中道主義だが、矛盾対立を止揚して高次元の別のものをつくる、という弁証法的発想にしても、今さらのように陳腐極まるとしか、いいようがない。
 公明党は、こういう中道主義、中道政治を唱えるが、遂にそのなんたるかを明らかにしない。仏法の中道主義哲学が裏づけになる、というにとどまる。つまり、公明党の中道は資本主義か社会主義かの中間などではない(彼らは民社党をそのあたりに位置づけている)が、さりとて、弁証法的に止揚されて髙次元に立つものでもない。政治的、政策的無定見性に基ずく、それなりのフリーハンド、無手勝流の立場を、自ら称して中道と呼ぶようである。
 まやかしというには、いささか子供だましのトリック論理なのだが、これが公明党結成以来、日本の政治に常に混迷と屈折と停滞をもたらしてきたといえなくもなかろう。
       ---------(168P)-------つづく--

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