創価学会・公明党をブッた斬る 藤原弘達
--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
…S60/10=1985年…〈日新報道〉 ¥1,000
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2 「 創価学会を斬る」の今日的意味
十六年前 “言論・出版妨害事件” があった
◆ これが言論・出版妨害のいきさつだ
昭和四十四年十一月、私の『創価学会を斬る』という本に対する、創価学会・公明党の妨害工作をきっかけに、言論・出版妨害事件は文字通り満天下を揺り動かす騒ぎになった。この事件で、創価学会・公明党は世論の集中砲火を浴び、国会においても、各党の厳しい追及に会った。言論・出版の自由なきところ民主主義はあり得ないこと、あまりにも明白だった。事は民主主義の根幹に関わるものとして、国民自身も受け止めたからである。
この事件以来、既に十六年の歳月が流れた。若い人も含めて、私の『創価学会を斬る』未見の読者のため、簡単に事件に至る経過を記しておこう。(『文藝春秋』四十五年三月号による)
▽44・8・22 藤原弘達「この日本をどうする」シリーズ第一巻「日本教育改造案」刷了。車内づりポスターを持ち、大手取次店に新刊・委託あつかいを依頼。ポスターには第二巻の「創価学会を斬る」の予告が刷りこんであり、これについて大手取次店の注目をうける。
この書は問題である、出ないかもしれないし、出すには大変な圧力がかかる。そうした前例もあるし、出したとしても新刊あつかいができないだろう。とくに“斬る”という題名は問題だろう--という発言があった。
▽44・8・26 「日本教育改造案」大手取次店にて新刊・委託あつかいをうける。
▽44・8・31 「創価学会を斬る」の予告ポスター九州、四国をのぞく全国に配布。
▽44・9・? 藤原弘達宅を公明党の藤原行正都議が訪問。話の内容は左のようなもの。
(1) 出版を中止されたい。
(2) 題名を変えてほしい。
(3) 出版時期をのばしてほしい。
(4) 原稿をみせてほしい。
(5) 池田創価学会会長に触れないでほしい。
▽44・9・4 出版元の「日新報道」側(社長、編集長)が、藤原行正氏とヒルトン・ホテルにて会見。話の内容は前項とほぼ同じ。
▽44・10・6 藤原弘達宅に自民党・田中角栄幹事長より電話あり。
▽44・10・15 赤坂「千代新」にて、藤原弘達、田中幹事長と会見。
▽44・10・23 赤坂「乃婦中川」にて、田中幹事長と再度の会見。
▽44・11・4 大手取次店に新刊・委託あつかいを依頼。
▽44・11・6 取次店より拒否の回答。理由は、
(1) 新刊書が多い現状なので、あつかえぬ。
(2) 潮出版との関係で商売上うまくない。
(3) 注文品については、あつかう。
--というもの。全取次店とも、ほぼ同様。午後より、「日新報道」社員が東京都内の書店をまわり、注文取りをはじめる。
▽44・11・7 都内の書店を「聖教新聞」、「潮出版」の普及部員がまわりはじめ、「創価学会に批判的な本だから取りあつかいに注意されたい。それをあつかえば学会推薦の書をあつかわせねこともありうる」という。
▽44・11・10「日新報道」社員、名古屋、関西地区を注文取りに歩く。ここも「聖教新聞」「潮」が歩いている。
▽44・11・14 車内づり広告ができないと、広告代理店より連絡。その理由は、
(1) 「創価学会を斬る」の文字が大きすぎる。
(2) “学会・公明党に対する本格的批判のテキスト”というサブタイトルは、アジビラである。
--というもの。全面的に訂正の用意ありとして、再度の話し合いを進めたいと依頼。
▽44・11・15 車内づりポスターのらず。空白の場所があった。
▽44・11・26 民社研主催の「われわれは沈黙しない」のシンポジウム開かる。
このころより週刊誌各誌の取材はじまる。
▽44・12・13 二党討論。
▽44・12・15 「赤旗」記者の取材をうける。
▽44・12・17 「赤旗」に“藤原弘達談”として、田中幹事長の名前が出る。
▽44・12・22 「言論・出版の自由に関する懇談会」第一回会合にて、日新報道側(編集長)が体験報告。記者会見おこなわれる。
▽44・12・24 懇談会発表の記事が、日本経済新聞ならびに共同・時事電で地方紙にのる。
以後は、新聞.週刊誌などの報道活発になる。
*
右の経過の如く、創価学会・公明党が、いかに私の『創価学会を斬る』の出版妨害に狂奔したかは明らかだ。しかも、事件糾明の火の手があがってからも、創価学会・公明党は一貫して事実の全面否認にでた。
◆ 創価学会・公明党はどんなウソをついたか
当時の自民党幹事長・田中角栄が、私に会いたいというので、赤坂の料亭「千代新」へでかけたのは十月十五日のことである。この時、私が「この問題について総理(注・佐藤栄作)は知っているのか」とただしたところ、田中幹事長は「総理には、いっていない。自分は竹入らとの平素のつきあいから頼まれたものだ」と言明した。
田中角栄の、私の本の出版を初版だけにし、その殆どを買いとる“斡旋”案は、要するに、本をヤミからヤミへ葬ろうというもので、もちろん、私は一蹴した。再度、十月二十三日夜、同じ赤坂の「乃婦中川」で会った時、私は田中角栄にいった。「角さん、こんなことをやっていたら、あんたは絶対に総理大臣になれませんぞ」--今でも覚えている。あの田中角栄が顔面蒼白になったものだ。
これで談判決裂になったのだが、私としては、田中角栄がこの問題に介入したことは最後まで伏せておくつもりだった。政治家としての彼の将来も考えたし、当時、人間的にもキライではなかったからだ。この件に関しては、池田、竹入、矢野、そして田中と藤原の五人以外は誰も知らないということだったから、出版元の幹部にすら伏せておいたくらいである。田中角栄にも、「あなたの名前は出さないようにする」と一応はいっておいた。
しかし、その後も妨害やイヤガラセは続出した。あまつさえ、十二月十三日、NHK 二党間討論(共産党-公明党)において、公明党・正木良明議員が「そんなこと(出版に対する圧力、妨害)はしていない。全くのウソである」と全面否定した。ここに至っては、もはや、何をかいわんやである。黙っていては、私が言論人として自殺行為に等しいウソをついたことになる。十二月十五日、『赤旗』記者の取材を受けた時、私はいった。
「よし、こうなれば名前を公表しょう。それは自民党の田中幹事長だよ……NHK テレビ討論会という公の場で、公明党代表が出版妨害などしていない、全部ウソだといつたのだから、私も黙ってはいられない」
言論・出版妨害に田中角栄が介入した事実は、こうして私の口から明らかにしたのである。
それでもなお、公明党・竹入委員長はシラをきった。四十五年一月五日、竹入公明党委員長の発表した談話「私及び矢野書記長を含めて出版会社に中止を求めたというのは事実無根の中傷だ……共産党が一方的にやった、やったといつているだけだ」がそれである。
滑稽なのは、これは後になり俵孝太郎らも雑誌に書いているのでわかったことだが、私が、「千代新」で田中角栄と会っている時、池田大作と公明党委員長・竹入義勝両人は隣室で聴き耳を立てていたそうだ。盗聴器こそ使わないが、そのものズバリの“盗聴”(盗み聴き)なのだ。
こうなると、まことにマンガ的としかいいようがない。会員数七百万世帯の新興宗教に君臨する男と、いやしくも国会に議席をもつ公党の委員長たる男の二人が、襖越しに盗み聞きをする図を想像されよ。いや、マンガ的と嘲笑してすまされないのである。民主主義社会において、公人の立場にある人間として、これほどの陰険さは類をみない。陰険というより、まこと卑劣極まる、あさましいの一語に尽きよう。
創価学会・公明党は、私の事件以前、既に言論・出版妨害の累犯者だった。前例として挙げれぱ、
・ 植村左内『これが創価学会だ』(しなの出版)、
・ 隅田洋『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅』(東北出版社)、
・ 遠藤欣之助他・民社研機関誌『改革者』、
・ 内藤国夫『公明党の素顔』(エール出版社)
等々、枚挙にいとまなし、である。事前のイヤガラセや脅し、買収工作、政界実力者や黒幕登場での出版中止仲介(つまりは圧力行使)などの手口の数々、驚くほど類似のパターンであり、私のケースと全く同じなのだ。
例えば、内藤国夫『公明党の素顔』の場合、戦前派右翼の大物として知られる、日本船舶振興会会長、勝共連合名誉会長・笹川良一が登場する。そのくだりは、次のようなものだ。
「……笹川氏は、『私はこれまで人のためになることしかしてこなかった。あなたの本が出て公明党が大変困っているらしい。私は前に公明党に借りがあるので、この際その借りを返したい。そのためにあなたの本を全部買いとりたい。あなたも本が売れなくて困っておるだろう。本は出版したのだからもう目的は果たしたはず』と主張した。
私は、『人に読んでほしいと願い出版した。人に読ませるためならいくらでも買って下さい。ただし、絶版には絶対しない。売れれば売れただけまた出版します』と返事したところ、笹川氏は、『人に読ませたくないから買うんだ』とのこと。『それでは私の本を売るのをお断わりします。あなたが、本を買い上げるのは公明党のためにはなっても、私のためにはならないから、あなたの主義にも反するでしよう』と言って別れた」(内藤国夫「新聞記者として」筑摩書房)
「人のためになる」ことを主義とする笹川良一は、公明党に借りを返すためと称し、内藤国夫の本をヤミに葬ろうと図る。田中角栄も、初めは「……自分と竹入らとの平素のつきあいから頼まれた」と、私に買収工作をもちかけた。自民党幹事長が妨害工作に介入したことを私が公表に踏み切った後、四十五年一月六日、田中角栄は苦しい弁明ながら事実を認めている。「公明党が弱ったナとつぶやくのを聞き、すこし、おせっかいをやいた」--笹川、田中、二つの場合とも、自分たちのお節介からやったということで、公明党からの働きかけはなかった、とかばっているわけだが、これも全くの大ウソである。
田中や笹川がいうように、公明党に借りを返すのが、お節介を焼く理由の一つであったにしても、それだけじやない。公明党は、野党だの、革新だのと呼号するのだが、政権党・自民党幹事長や右翼の大ボスが公明党のため一肌ぬごうというには、それなりの理由があるはずだ。
いかに野党ぶってみせようと、革新ぶろうと、裏では政権党にスリ寄るし、右翼大ボスと気脈を通じる、全くもってのインチキ、まやかしなのだ。
---------(46P)-------つづく--