創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・公明党をブッた斬る-22

2018-01-21 07:18:29 | Weblog

創価学会・公明党をブッた斬る   藤原弘達
  --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
       …S60/10=1985年…〈日新報道〉 ¥1,000
    ------(P142)---(以下、本文)-------

第二部 公明党は有害無益だ
 公明党は悪質なヤミ行為の温床だ
 公明党は有害無益。百害あつて一利なき組織だ
 公明党は一種のゴキブリかカビである。大掃除が必要
 公明党は政党ではない。一宗教団体の「僧兵」であり「政治出張所」に過ぎない
 公明党は民主政治衰亡のシグナルである

1 公明党は創価学会の「奴隸」勢力
  公明党の“革新”なんて、ちゃんちゃらおかしい
◆ 昨日革新、明日は保守、その日その日の出来ごころ
 公明党なる政党は、まやかし政党であり、未来への展望は総て学会任せ、池田大作任せである。彼らの政治行動は、池田大作追随、革新とか保守とかの次元で論じることすら無意味である。要するに、政党としての「志」は学会任せであるから、学会のリードがなければ、無定見に、生物的カンで動いているに過ぎないゲリラ的徒党集団ということでもあろう。
 昭和初期に、郡司次郎正という大衆作家が「侍ニッポン」を書き、映画化されると大ヒットした。その主題歌がまた大流行したものだ。その歌詞に、「昨日勤王、明日は佐幕、その日その日の出来ごころ、どうせおいらは裏切りものよ……」とあった。公明党をみていると、まるで「昨日革新、明日は保守、その日その日の出来ごころ」で、しかも行動だけはバ力に能動的で、内面的には一種のニヒリズムなのだ。小説や映画の主人公なら、「その日その日の出来ごころ」などと、ちょっと陰鬱な顔をしてニヒリスティックに自嘲するとそれなりにうけるかもしれぬが、ここまで堕落した「奴隸」に、果たして自嘲するだけの“自分の精神”があるのかどうか、という気さえする。
 そもそも、創価学会が政治に進出したのは、昭和三十年の統一地方選挙からである。この地方選挙に先立ち、二十九年元旦の「聖教新聞」社説が、広宣流布の完成はあと二十五年以内と確信すべし、と書いた。第二代会長二戸田城聖の筆である。
 「……この期間に日蓮大聖人様出世の本懐であらせられる弘安二年十二月十二曰の大御本尊に対し奉り日本一同に帰依して国立戒壇建立の御教書が発せられるであろう。否発せさせなければならないのである。御教書とは衆議院に於て過半数の構成を以て発せられるものである故これが獲得の為にも正法弘通の活動は今後新生面が展開されなければなるまい……」(赤字著者)
 いかにも高利貸し的感覚のホラ吹き、戸田ドン・キホーテらしい夢を描いていたものだ。それでも、ビジョンとはいっておこう。この当時の創価学会は、会員十数万世帯である。後に、七八〇万世帯を誇号することを思えば、二十九年のこの夢は、すこぶるネズミ算的な読みだけはできており、誇大宣伝にしても何となく愛嬌があるのだ。この種の夢は、日本国民を教化し国立戒壇建立、即ち日蓮正宗を国教化すべしという日蓮の遺命を、そのまま創価学会の政治使命におっかぶせただけのもの。アナクロニズム(時代錯誤)には違いないが、日蓮自身にも似た誇大妄想的愛嬌だけはあるのだ。
 ところが、これが「聖教新聞」社説にとりあげられると、広宣流布の日は「ある理由により、あと二十五年以内」と、もっと正確な予言めかして書かれる。予言は、日蓮自身もはずれっ放しだったが、戸田のそれも、見事にはずれる。二十五年どころか、十六年目の四十五年に創価学会・公明党は、国立戒壇否定、政教分離を宣言せざるを得なくなったのである。日蓮のはずれた予言がはずれっ放しのままで、今日においても創価学会・公明党を心理的に拘束する呪縛となつたままなのである。

◆ クルクルと変わる客寄せ口上
 七百年前の日蓮の時代に果たし得なかった一種の宗教改革を現代社会の条件に強引にあてはめ、宗教改革から政治改革まで夢想し、これをそのまま実行するということなら、イランのホメイニ的次元、現実に世界中で政治的テロが宗教的狂信に民族的対立をからめて続出しているのであるから、そうそう、驚いてばかりはおれまい。この種のアナクロニズムや宗教的予言の呪縛から解放され、信仰としての日蓮正宗、組織としての学会を巣離れしない限りは、一人前の政治集団とはいえない。それでいて、議会政治や政党政洽を前提とするビジョンやプログラムがいかに麗々しく掲げられても、所詮お題目だけの呪文であり、仏壇へ供える献花のようなものなのだ。中世の呪文を唱え続ける公明党が今日でも異質の政党として行動せざるを得ないのは当然の因果応報であり、その日和見主義、現実べッタリの追随路線は、その体質の必然的結果に過きない。「その日その日の出来ごころ」は、総てこの、自らの政治判断をもたないで、なんらかの絶対者ないし擬似絶対者に安易に総てを供託した者の気楽さかもしれないが、「奴隸」としての当然至極な心理状態ということにもなる。
 それでも形式的に政党である以上は、やはり民意の洗礼を受けなければならない。創価学会会員票のみで一定の議席が支えられた段階では、至極簡単であった。初期の創価学会の政治進出が、素人臭さ、アマチュアのもつある種の清新さと謙虚さとして世間の目に映ったのも、当然ではあった。ところが、政党をつくって公明党となり、政権を狙うとなると、唯一の選挙基盤たる創価学会票ではとても足りない。まさに、頭打ちなのだ。議会内政党勢力としての伸びは、もう先が見えてくる。選挙でF票(学会員が掘り起こしてくる同情票)、浮動票(かっては外米と呼んだ)をつかむためには、宗教政党の“素顔”に、柄にもない、色とりどりのお化粧を施す必要がでてくる。
 国立戒壇建立の「御教書が衆議院の過半数の構成を以て発せられるもの」(つまりは公明党単独政権)が、単なる戸田の思いつきで、いかに非現実的なハッタリ的幻想であつたかは、数の上で早くも“現証”された。このことは、言論・出版妨害事件で政教分離を公約する以前、既に幹部たちにはハッキリと自覚されていた。だから、公明党が初めて衆議院進出を果たした四十三年、三十二人が立候補、二十五人が当選した後、公明党は、今度は「中道政治」を強調し始めるのだ。
 中道政治、中道主義なんていうアピールはまこと中身は暖昧で、単なるスローガンどまりのシロモノである。公明党の中道主義の論拠となっているのは、「日蓮信者の中には右翼の大物もいるが、あれらは化けものだ。共産党も話にならん。われわれは、右でも左でもない」といった戸田城聖の言葉くらいのもの。衆議院に政党として進出したとなると、王仏冥合、仏法民主主義では、とてもじやないが“通用”しないことも思い知らされる。ナチスばりの折伏大行進時代のイメージも、自ら払拭する必要に迫られる。
 折伏大行進のさなか、戸田城聖は週刊誌記者に勇ましくブチあげている。
「問 天皇一家の神道を改宗させる、と意気ごんでいるそうだが。
 答 いますぐというわけではないが、あれも邪教だ。天皇ご一家に何の罪もないが、神道である限り、いつかはわれわれの折伏の対象になる」 (「週刊読売」三十年十月三十日号)

 二十五年以内に広宣流布が成る(衆議院過半数を制し、国立戒埴建立)と号令を発した戸田当人としては、当然の答ではあった。
 ところで、創価学会・公明党は、四十二年に「中道主義」を掲げる段階で、国立戒壇建立を否定も肯定もしなくなる。それどころか、この問題にはマトモに触れようともしないのである。中道主義、中道政治のスローガンが出てくる過程において、戸田時代の「二十五年以内に広宣流布達成」の大目標がどのようにして修正されたのかは、全く黙して語らずだ。この中道政治への転換が、その後綿々と続いて今日に及ぶ虚妄と方便、ウソの上塗りの政治的序説に当たるものである。
 “床屋政談”でも外野席からの野次、岡目八目、素人政治批評であっても、時に庶民の鋭い政治感覚、キラリとしたものをもっているものだ。創価学会・公明党から出てくる政治スローガンとなると、そんなものは皆無、あたかも通行人の群を呼び込む客寄せ口上の如きものだ。 左様、寅さん……テキ屋のタンカの方が、はるかにワサビが効いている、とでもいっておこう。
       ---------(151P)-------つづく--

コメント
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