創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・公明党をブッた斬る-14

2018-01-13 05:19:51 | Weblog

創価学会・公明党をブッた斬る   藤原弘達
  --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
       …S60/10=1985年…〈日新報道〉 ¥1,000
    ------(P90)---(以下、本文)-------

カネ、出世、モノ…の即物教
◆ タダ酒飲めない奴はダメだ
 池田大作語録がある。毛沢東語録と違い、会員必読文献として公刊してはいないが、将来、教典にでもするつもりか、本部で記録したものだ。他に、学会系企業社長会での発言語録もある。例えば、池田と公明党議員懇談会記録抜粋ではこうだ。
 「みんな元気だな--。ところで今ふところにいくらもっている。坂井…万、みんな十万前後。渡部7千円。ナベは男らしいからな。議員は10万ぐらいもっていないと。ナベのところ選挙心配ないよ。(衆議院の定数改正で、愛知は3~4になると石田(幸)報告)」
 「こうしてタダで食っているんだから、まあ、ただ酒をのめないようじゃー政治家になれない。東大はだめだよ(総長が、ただ酒は飲むなと卒業式講演したことがあるからだろう)(注・東大総長ではなく、京大総長・瀧川幸辰が、昭和二十九年卒業式訓辞で述べた。池田は、タダ酒を飲めぬ奴はダメだというのである)
 「皆、学会に入っていなかったらどうなっていたかね。坂井は職工長だね。田代…売れない医療器具のセールス。ナベ、マージヤン屋の用心棒。山田…中小企業のタレ流し。持永…一人で売れない雑誌つくっているだろう。八ヒロ…学会に入らなければよかった。私の学会をつくっていたかな。
 持永…日体大の体育の教師。花房…トルコブロで背中流している。…みち子…有吉さわ子」(段勲編『創価学会・公明党の研究』晩声社)
 内輪の放談のせいか、記録の省略からか、部外者には意味不明の部分はあるが、池田大作の気持よさそうな口調を映し出しているのと、職業、身分に関してあからさまな差別的蔑視観の現われているのに注目されたい。

 池田大作は、贈り物をもらうのが好きな男らしい。おおざっぱにみても資産二兆を超えるという創価学会の頂点に立つ池田が、やたらとモノをほしがるのも不思議である。しかし、池田の感覚は常識でははかり難いものがあるのだ。学会元教学部長・原島嵩は「池田大作の欲望と支配」(「現代」五十七年一月号)で、こう書いている。
「池田氏は『私に品物を寄こせば、それだけで信心の電流がながれる』と常々語っていたから、各地の幹部は、何とかして『池田先生に喜んでいただける品々』を贈ることに腐心した。
 さらに、学会首脳、公明党首脳、外郭会社や団体に届けられた贈答品も、すべて『池田先生のもの』として、池田氏のもとに集められた。あまりにたくさんの品が届くので、一括して倉庫に入れ、本部職員にバーゲンで安売りすることもあった。その売り上げは、もちろん池田氏のふところに入った」
 もっとも、自民党の政治家だって盆暮の贈答シーズンになると、庭先にプレハブ倉庫を建てて、贈り物をしまいこむ。ほしくもない物はデパー卜に戻せば現金にかわる。権力者の役得--いわでものことだ。池田の場合、権力者の役得だけでなく、“御供養”を要求する姿勢とダブる。この生きボトケさまは、やたらとモノやカネを御供養として要求する。新興宗教事業屋としての池田教の素顔に他ならない。

 このような、カネ、出世、モノに対する執着というか怨念は、池田を頂点とした創価学会幹部に共通する。なるほど、三千人か四千人の弱小信者団体から七八〇万世帯にふくれあがったが、依然として、その意識たるやマイナーなのだ。零細企業のオヤジから叩きあげて大社長になっても、その心たるや、なお零細のままなのだ。少数派の被害者意識がウラ返しに戦闘的となり、加害者への報復的行動へと彼らを駆りたてているということでもある。
 世界有数の経済大国、国民総中流意識などといっても、わが日本国の大衆社会の底辺は依然、繁栄から取り残された心貧しき層である。そこには、現状に対する欲求不満というメタンガスが充満している。創価学会のもつ体臭は、これらの人々を欲とガムシャラな突進(いわゆる上昇指向とは別のものだ)へと吸いつけるのに、まことにふさわしい一種のイカサマであり、板キレ、紙キレに過ぎない御本尊神聖視から「利」絶対に及ぶ即物主義にこそ、その信仰の決定的ともいえる特徴があるといってよい。

パ口ディ好きな創価学会
◆ あやかりネーミング商法
 新カント派哲学を学んだという牧口常三郎は、真・善・美の真にかえ利・善・美とし、「価値論」を著わし法華信仰に結びつけた。「価値論」から創価教育学会体系の完成に取り組み、創価教育学会が生まれた。ここまでは、牧口常三郎独自のツギハギ哲学の世界である。
 ところが、牧口の一番弟子をもって任ずる戸田城聖の時代になると、創価教育学会から「教育」をはずし「創価学会」と看板を塗りかえてしまう。創価教育学会は小学校教師の会員が中心だったが、教育の二字をはずしてしまうと、日蓮正宗信徒団体として門戸を開いたことになる。
 敗戦、占領軍進駐、言論の自由、民主主義バンザイが叫ばれる中で、戸田城聖は戦前と同じく出版業を始める。創価学会の方は教義の勉強会が中心で、稼ぐのは出版業だ。
 新民主主義講座と銘打った出版をやる。執筆者は、野坂参三、堀真琴から室伏高信まで名を連ねていた。発行元は「日本小学館」である。日本小学館という社名は、老舗の小学館の上に「日本」をつけたものである。新民主主義講座の執筆者に共産党の大物・野坂参三をひっぱりだすなど、時勢便乗に抜け目ない男だ。左翼同調者だったわけじやない。むしろ、後年、弟子の池田大作にいわせると、「初代牧口会長が反権力で闘って、その次の戸田城聖会長から右寄りになった。自分がその軌道を左寄りに修正した」そうだ。
 もっとも、この池田の言葉は創共協定の時、共産党・宮本顕治と会談した席上でのことであるが……。
 日本小学館では「冒険王」「少年日本」はじめ数種の雑誌を出した。「冒険王」にしても「少年日本」にしても、戦後育ちの年輩者なら思い出すであろう。「少年日本」は、後に「日本少年」と改題した。元来は、戦前、「実業之日本社」が出していた雑誌名なのだが、戦後は復刊されなかったものだ。

 戸田城聖の「民主主義講座」であるが、本人は当時、仲間に向かって時局便乗企画じゃないと説明したそうだ。法華経の教えは民主主義に結びつく。
 大衆が民主主義に飛びつく時代だから「民主主義講座」の読者を法華経の教えに結びつけることができる、という論理だ。後年、公明党の唱える仏法民主主義、仏法社会主義など、これに類する発想とみてよい。
 雑誌「大白蓮華」は二十四年、創価学会発行である。「蓮華」は本山・法主直轄の雑誌だが、学会はこれに「大白」の二文字を乗せてしまう。

◆ まねした奴が元祖を名乗る、この厚かましさ
 学会直系出版社「潮」も同じ発想だ。極太明朝体で「潮」と題字をのせた表紙の月刊誌は、雑誌「新潮」から「新」をはずしただけだ。
 政府お声がかりの「公明選挙運動」から「公明政治連盟」のネーミングが生まれ、略称・公政連はやがて「公明党」となる。
 要するに、ネーミングに全く独創性はない。よそさまのイメージを都合よくいただく--ものまね上手だ。この手のやり口は、テレビのコマーシャルがよく用いる語呂合わせまがいの感覚である。滑稽なのは、元々よそさまのイメージに便乗したことをすっかり忘れてしまい、自らを元祖のように思い込む厚顔無恥さである。池田大作“語録”の中に、大作の自画自讃がある。
「文芸誌に一字名前が出て来る。今迄は一字名前はタブーであったが、『潮』にならって来た。『海』や『文』が出る。『潮』が勝った」(『人間・池田大作の野望』継命編集部編著)
 元祖「潮」にあやかって一字名の雑誌が出てきた、と悦に入っているのだから、ご愛嬌を通り越して、厚かましい。
 こういうあやかり精神は、時流に敏感だから便乗主義と同根だ。創価学会・公明党が、時に右寄り、時に左寄り、中道、そして連合と変転極まりないのは少しも不思議ではないが、包装だけちよっと変えて中身の変わらないものを売りつける、まさに羊頭狗肉の商法というべきものなのだ。
       ---------(96P)-------つづく--

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