創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・公明党をブッた斬る-9

2018-01-08 07:56:08 | Weblog

創価学会・公明党をブッた斬る   藤原弘達
  --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
       …S60/10=1985年…〈日新報道〉 ¥1,000
    ------(P63)---(以下、本文)-------

池田の会長辞任は戦術転換だ
 池田大作が本山に訖びを入れ会長を辞任、名誉会長へと退く。その後間もなく、大石寺・細井日達法主が心筋梗塞で急逝した。後任に、創価学会寄りと目されていた阿部日顕宗務院総監が選ばれ、第六十七世法主、管長職を継いだ。しかし、学会寄り新法主誕生後も、学会対檀徒会の争いは鎮静化に向かわない。
 本山、創価学会、檀徒会と、三つ巴の混戦にケリをつけるべく、池田大作会長辞任、お詫び劇の演出であったが、簡単には幕がおりなかった。 創価学会批判派僧侶、活動僧侶と檀徒会は、先の“お詫び登山”も池田会長辞任も、いずれも単なる演出とみているから、偽装を暴く追及をやめない。
 この時期、本山は「現時局下における宗内僧侶の進むべき方途」について通達を出した(五十四年十月、日蓮正宗宗務院)。
 この通達で、活動僧侶や檀徒会の動きにブレーキをかけた。創価学会に対しても、「六・三〇」(注・五十三年六月三十日「聖教新聞」掲載〈教学上の基本問題について〉)、「一一・七」(注・五十三年十一月七曰、いわゆる“お詫び登山”で、池田会長が日達法主に対して行なった、お誇び挨拶)を十分徹底させよといっている。
 しかし、創価学会へ向けていったのはむしろつけ足しみたいなもので、通達の本旨は活動僧侶と檀徒会を押えるところにあったという。喧嘩両成敗をみせかけたが、明らかに創価学会の力が働いたものだ。
 だから創価学会は、「御法主上人猊下のご指導通り峻厳な信行学の実践に励み、外護の大任を果たし切ってまいりたい」と、北条会長名の談話を発表した。創価学会は、宗務院通達をちゃんと“評価”したのである。つまり、「六・三〇、一一・七を十分徹底させよ」という命令に対しては、特別学習会で徹底させると、神妙に反応した。

 五十二年一月、教学部大会における池田大作記念講演「仏教史観」の中で、「創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果たす」、「(既成寺院は)修行者の集まる場所でもなければ、ましてや道場であるわけは絶対ない」などと述べ、学会の会館、研修所が現代における寺院であると強調したのである。
 この後、同じ年の四月、関西戸田記念講堂で池田大作は、日蓮の「生死一大血脈抄」を講義し、その中で「創価学会の組織こそ、生死一大事の血脈が厳然と受け継がれており……初代牧口会長、二代戸田会長の跡をつぐ創価学会の信心の血脈こそ、最も正しい仏法修行の軌道である」と述べたのである。
 単純化していえば、これら池田講演は「創価学会は創価教(出家にも通じる)」であって、「創価教の法主は初代牧口会長、二代戸田会長、三代池田会長と続くものだ」と明言しているわけである

 宗門側から批判の手があがるのは当然のことだった。五十三年六月には、「創価学会の言論資料について」なる質問状が宗務院から学会に送りつけられた。
 前出の「六・三〇」は、この質問状に対する学会側の回答で、六月三十日「聖教新聞」及び雑誌「大白蓮華」七月号に掲載された。回答は、問題となる表現は今後使わないとか、まことに遺憾であったなど、またまた一応全面陳謝にみえたが、宗務院から突きつけられた質問内容は掲載していない。一般会員に宗務院の質問を知らせることは、ちゃんと逃げているのだ。
「一一・七」という池田大作の“お詫び”は、「これまでいろいろな問題について行き過ぎがあり、宗内をお騒がせし、またその収拾にあたっても、不本意ながら十分な手を尽せなかったことは、総講頭の立場にある身として、この席で深くお詫びいたします」(「聖教新聞」五十三年十一月八日)という内容である。
 言論・出版妨害事件の時の池田大作“お詫び講演”と、この本山に対する“お詫び”を並べてみる時、両者がいかに共通したトーンで語られているかに気がつく。言葉巧みに反省をいうのだが、元凶が池田大作であるとは、最後まで表現を避ける。せいぜい、監督不行き届きの責任表明である。
 シラジラしいの一語に尽きるのだ。
 会長辞任劇は、始まりであって終わりではなかった。新たなトリック戦略の下で、池田・創価学会、池田教への行進が始まっていくのである。
       ---------(65P)-------つづく--

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