今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

福澤諭吉が『学問ノスゝメ』の最終刊・第17篇を刊行。

2005-11-25 | 歴史
1876(明治9)年の今日(11月25日)、 福澤諭吉が『学問ノスゝメ』の最終刊・第17篇を刊行。
福沢諭吉(1834年~1901年)は、日本を代表する啓蒙思想家・教育者で、慶應義塾大学の前身である蘭学塾創始者でもある。「学問ノスゝメ」「西洋事情」「文明論之概略」などの著書があるが、『学問ノスゝメ』はその初編の序の有名な句「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」で知られている。1872~76年(明治5~9)に、17編の小冊子として刊行された。その初編は,1872(明治5)年,福沢が郷里大分県の中津に中津市学校を開設させたとき、同郷の人々に本当の学問の趣旨を示すために書いたものだそうである。その最終巻第17編を刊行後、1880(明治13)年これらを1巻にまとめた「合本学問之勧」を刊行しているが、その序に、「本編は余が読書の余暇随時に記すところにして、明治五年二月第一編を初として、同九年十一月第十七編をもって終わり、発兌の全数、今日に至るまで凡そ七十万冊にして、そのうち初編は二十万冊に下らず。これに加うるに、前年は版権の法厳ならずして偽版の流行盛んなりしことなれば、その数もまた十数万なるべし。仮に初編の真偽版本を合して二十二万冊とすれば、これを日本の人口三千五百万に比例して、国民百六十名のうち一名は必ずこの書を読みたる者なり。古来稀有の発兌にして、またもって文学急進の大勢を見るに足るべし。書中書記の論説は、随時、急須の為にするところもあり、また遠く見るところもありて、怱々を筆を下したるものなれば、毎編意味の甚だ近浅なるあらん、また迂闊なるが如きもあらん。今これを合して一本となし、一時合本を通読するときは、或いは前後の論脈相通ぜざるに似たるものあるを覚うべしと雖ども、少しく心を潜めてその文を外にしその意を玩味せば、論の主義においては決して違うなきを発明すべきのみ。発兌後すでに九年を経たり。先進の学者、苟も前の散本を見たるものは固よりこの合本を読むべきに非ず。合本はただ今後進歩の輩の為にするものなれば、いささか本編の履歴及びその体裁の事を記すこと斯の如し。(明治十三年七月三十日)」と有るように、その売れ行きはものすごく、全国各地で偽版も出たようである。
明治開国以来その近代化の中にあって、啓蒙思想は社会の近代化に果たした役割は大きかった。福沢は「学問ノスゝメ」のなかで、封建的な儒教思想を痛烈に批判し、個人の独立・平等およびそれを前提とした国家の独立を、特に強調するという特徴をもっていた。
福沢諭吉は、「人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし」と身分差別を批判したことは、維新の社会変革を推進する大きな力となった。しかし、他方で、「学問を勤めて物事を良く知るものは貴人となり富人となり、無学なるものは貧人となり下人となるなり」とあるように、日用の役にたつ学問(「実学」)の強調が、かえって、ある偏見を生む結果となっていることが後に指摘されている。要するに左官や車夫のような手足を用いての力役は「やすき」仕事だから「卑しい」という。身体を使っての肉体労働蔑視が見られ、これは、ひいては、教育、学問の力によって精神労働者に成り上がることが立身出世であるとする概念の起源となっている。つまり、この初編からは、おおまかに言えば学問=独立のための手段、という図式が見えてくるのである。「職業に貴賎なし」であるが、やはり「難しき仕事をする人を身分重き人と名づけ」が彼の本心なのであろう。「文明論」でも政府の役人、医者、学者、豪商などを重視している。人に生まれながらの貴賎・富貴はないけれども、努力の結果として得た地位に貴賎はあるのだというのが、諭吉の社会感覚だったのだと思う。
今の日本においては、世間には「おちこぼれ」といわれる人たちが、行き場をなくして悩んでいる。小さいときから、学問を見につけ、一流企業へ入社できる人だけが一人前で、それ以外の汗して働く仕事がなんとなく蔑視されているような、こんな時代に至る要因が、こんな「学問ノスゝメ」にあったとしたら、・・・随分とこの本の読み方も変ってくるね。もう、この本は著作権の問題もなくなり、WEB上で読めるようにもなっている。以下参考にも記しておいたので、今一度読み直してみてはどうかな・・・。
【画像は福沢諭吉。1万円札の肖像抜粋)
参考:
『学問のすすめ』全文テキスト
http://www.slis.keio.ac.jp/~ueda/gakumon.html
【文明論之概略】福沢諭吉
http://www.slis.keio.ac.jp/~ueda/bunmeiron.html
福翁自伝(1)
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/fukuzawa/fukuou.htm
福翁自伝(2)
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/fukuzawa/fukuou.htm
最後のサムライたちの塾 /第34講 福沢諭吉(1)~第40講 福沢諭吉(7)
http://www.geocities.jp/sidoukansonjyuku/jyuku/jyukupage.html

山一證券が自主廃業を決定

2005-11-24 | 歴史
1997(平成9)年11月24日、山一證券が戦後最大の負債総額3兆円を抱え自主廃業を決定 。
野村、日興、大和とともに4大証券の一角を占め、創業100年の歴史をもつ、山一證券が経営破綻。自主的に廃業することを決めて、11月24日、大蔵省に届け出た。引き金になったのは資金繰りの悪化であったが、顧客の損失を転々とさせる俗に言う「飛ばし」が行き詰まり、山一自身が抱え込むことになって、膨大な簿外債務が出来たのが最大の原因であった。当事の山一證券の野沢正平社長は記者会見で、自主廃業と営業の休止を発表した後、テレビの前で「私らが悪いんです、社員は悪くございません。」と号泣し、頭を下げていた姿が今でも目に浮かぶ。企業の社長が、臆面もなくテレビの前で泣く姿は見ていても、面白くないね~。
1997(平成9)年という年は、日本の資本主義の根幹を揺るがした年であるが、その頂点に達したのが11月であった。11月3日には、準大手証券の三洋証券が会社更生法の適用を申請して倒産。11月17日には、日本の都市銀行では初めてとなる北海道拓殖銀行が経営破綻。そして、7日後の11月24日、四大証券の一角である山一の自主廃業を届出のニュースは、日本列島に衝撃が駆け抜けた。翌日には、全国の山一證券各支店に解約などを求める顧客が詰め掛けたほか、破綻したわけでもない大手や地方銀行の一部にも預金の解約を求める長い列が出来た。政府関係者や日銀総裁などが国民に冷静な行動を呼びかけるなど、正に、平成恐慌を思わせる状況であった。
この山一證券は、、1965(昭和40)年にも「山一危機」という新聞報道が発端で解約騒ぎが起こり、倒産の危機を迎えたことがあり、当時大蔵大臣であった田中角栄は、昭和初めの金融恐慌の再来となることを懸念し、日銀の特別融資を行い事態を収拾したことのある会社である。
兎に角、この山一證券の倒産が社会に及ぼした影響は非常に大きい。今まで、安全神話のあった大手金融機関が破綻し、政府が銀行は大手でも助けないとの意思を明確にした事件だからだ。この後、前社長などが逮捕されたが(飛ばしなどで)、日本の企業と総会屋の癒着問題、監査をしている公認会計士と企業との馴れ合いなど諸々の問題が次々と表面化し、これ以降、金融の混乱が日本初の世界恐慌になるのを恐れた政府は、住宅金融専門会社(住専)以来、タブーとなっていた、「公的資金」の投入を決断することとなった。そして、その後、大手銀行などを核とした合併や倒産などの金融大再編へとつながり今日に至っている。しかし、今年に入っても、カネボウ旧経営陣による粉飾決算事件で、会計監査を担当した中央青山監査法人の公認会計士4人が、不正に加担した疑いで9月13日に逮捕された事件が発生している。中央青山監査法人によるカネボウの監査は、中央監査法人と青山監査法人が2000(平成12)年に合併するずっと以前、中央監査法人時代の1973年まで遡れるという。この中央青山監査法人は、担当した山一證券やヤオハンジャパンの粉飾決算が刑事事件となっているほか、破綻した足利銀行の監査を巡り、今年(2005年)1月には金融庁から戒告処分を受けている。検察は「馴れ合いの監査」を暴きだした形である。
今、日本では、銀行に預けてもただのような金利しか貰えず、それに不満を持つ人たちや団体の資金は、株式投資に向かっており、今、やっと、日本の株式市場は、今まで余り市場に関心のなかった人たちや団体などからの注目を集めようとしている。このような株式投資において、もっとも注目されるのが企業の決算情報であるが、その決算情報の適正さを証明している監査法人が、企業と馴れ合いで、いい加減な「監査証明」を出しているということは、企業と一緒になって、投資家を欺き、投資家に莫大な損失を与えるものであり、これは当然に犯罪行為である。そして、株式市場そのものの信頼性を失い、これからの日本経済にも多大な影響を与えることになる。しかし、私も、現役の頃、企業の決算には深く係わっていたこともあり、今の日本の大手監査法人の監査の状況や、企業の決算に対する姿勢などもそこそこ承知しているが、企業と監査法人の「馴れ合い」関係は、決して珍しいことではないと思っている。問題点として、監査をする担当者が同じ企業の監査を長年続けている・・といった問題が指摘されているが、問題の本質は、そのようなものではなく、今の会計監査のあり方に構造的矛盾があるのである。つまり、関与先の決算の妥当性を監査する立場にありながら、監査法人は、関与先から監査報酬を受け取るため、関与先が監査法人から見て顧客の立場でもあるという矛盾である。だから、難しいことを言う監査法人はもう契約しないと契約を解除されても仕方がない弱い立場なのである。このような基本的な問題は、今までのも指摘されながら、いまだに改善されていない。
そして、又、日本の「商法上」にも矛盾がある。商法上の資本金の大きな大会社などでは、会計を会計の専門化である会計監査人が監査し、株主総会で選任された企業の監査役は、取締役(会社社長)の職務の執行状況を法に触れる様なこともなく適正に行っているか、又、決算の状況は株主総会に提出される決算書に正しく表示されているか、その決算書は、監査をする会計監査人(監査法人)が、適正であることを確り監査しているかを監査することになっている。しかし、企業の監査役に、会計監査人の監査が適正であることを監査できるだけの能力を持った人がどれほどいるだろうか?又、この商法上選ばれた監査役ですら、株主総会での選任に於いては、会社が選んだ人を株主総会で承認しているだけであり、その監査役も報酬は会社から支払われているのである。どうして、報酬を支払ってくれている会社に言いたいことをいえるだろうか。このような問題は、昔から、問題があるたびに話題になるが、政府も法改正しようとしないし、企業も改めようとするところは少ない。今、世間では、厚生省他色々と公務員の団体の不正、不当な会計処理が指摘され始めているが、そのような団体の問題の発生も全て、この内部での監査・・・俗に言われる内部統制が機能していないことによるものであろう。これらを解決できないのは、日本人の体質的なものに問題があるのかもしれないな~・・・?
(画像は、記者会見で「私らがわるいのです」と涙声で訴える当時の経営者)
参考
山一證券ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%80%E8%AD%89%E5%88%B8
山一證券の破綻と株主被害 山一110番に電話殺到
http://www1.neweb.ne.jp/wa/kabuombu/members/1111.htm
中央青山監査法人公認会計士逮捕&内部統制強化への衝撃
http://nikkeibp.jp/style/biz/management/risk/050920_taiho/

勤労感謝の日

2005-11-23 | 記念日
今日(11月23日)は「勤労感謝の日(Labor Thanksgiving Day)」
勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう国民の祝日。1948(昭和23)年公布・施行の「祝日法」で制定。戦前の「新嘗祭」の日をそのまま「勤労感謝の日」に改めた。
「新嘗祭」って、知ってますか?とりあえず広辞苑に記されている説明をを見てみよう。広辞苑には、
にいなめさい【新嘗祭】 (しんじょうさいとも)天皇が新穀を天神地祇にすすめ、また、親しくこれを食する祭儀。古くは陰暦11月の中の卯の日に行われた。近時は11月23日に行われ、祭日の一とされたが、現制ではこの日を「勤労感謝の日」として国民の祝日に加えた。天皇の即位後に初めて行うものを大嘗祭という。にいなめまつり。しんじょうさい。【新嘗】ニヒナヘ(新饗)の転化か。
だいじょうさい【大嘗祭】 天皇が即位後、初めて行う新嘗祭。その年の新穀を以って自ら天照大神および天神地祇を祀る、大礼で神事で最大のもの。祭場を二ヵ所に設け、東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)といい、神饌の穀はあらかじめ悠紀と主基とに卜定せられた国郡から奉らせ、当日、天皇は先ず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。おおなめまつり。おおにえまつり。おおんべのまつり。・・・とある。
新嘗祭がいつ頃から行われていたのかは必ずしもはっきりしないが、日本書紀で皇極天皇元年(642年)の11月16日に新嘗祭の記述があるのが文献に出てくる最初だそうだ。
少し歴史的に振り返って見ると、村々では、古くから作物の収穫が行われ、これをニヘナヘ(ニヘノアヘ・新嘗)といっていた。そこでは、収穫物の一部が初穂として首長に貢納され、共同体の代表者である首長と共同体成員の関係が年毎に更(あらた)めて確認されたのであった。この儀礼が宮廷に取り入れられ、天子がその年の初穂を祖神に供えて共食する新嘗祭が旧暦11月中の卯(なかのう)の日に行われていた。この祭式を即位したばかりの天子が一世一度の大祭として始めて挙行するのが大嘗祭であり、天武天皇(631年? ~686年)の時代からそれほど下らない時期に制度化されて、何度かの中絶はあっても現在まで続いて行われている。11月に行われるのは、村々の霜月際と同様に、物忌みの期間を設けて冬至をめぐる季節の復活儀礼と連動させるためであったようだ。
日本の暦で10月は「神無月」つまり、日本中の神々が出雲の国に出かけてしまい神の加護がえられない月だから、日本中一切の神事が行われず、人々は慎み深い生活をすべきとされていた物忌みの期間である。そして、神々の帰って来る11月はおのずと祭りの行われる月になり、この時期が農業での収穫の時期でもあることから、最も重要な祭り・・ニヒナメの祭り(新嘗祭)・・・、「新穀収穫感謝祭」へと結びついてゆくことになる。
このニヒナメの祭りは、持統天皇(645~702)の大嘗祭(律令で制度化された初の大嘗祭)が冬至に行われている事からみて、「冬至祭」としての役割もあったようだ。もともと宮中での新嘗祭は、古来、11月の中の卯の日(太陰暦)に執り行われていた。それが太陽暦に切り替わったのち1873年(明治6年)、11月23日(卯の日)に行われて以来、この日が新嘗祭の日となったが、太陰暦11月中卯日は、ほぼ冬至の前後にあたっている。そのためこの日は最も日照時間の短い(=太陽の活力が最も衰えた)日であり、、忌み篭った果てに新穀を神と共にいただく事により、太陽の復活にあやかり、生命のよみがえりをはかった。それがニヒナメのもうひとつの意義であるらしい。つまり新嘗祭とは、収穫祭と冬至行事(≒復活祭)とが結合した祭りと言えるようだ。日照時間のサイクルと農耕のサイクル。冬至から春へ、夜から朝へ、闇から光への転換の象徴的体験。厳粛な物忌みを守り、人は一時的に死ぬ。そして神饌を共食する事により、神と一体になり、新たな生命力を得る・・・農業民族にとって一年で最も大切な儀礼であったのである。古代では皇室ばかりでなく各氏族の家々でも行っていた。この儀礼を天皇自らが行う儀礼が新嘗祭であり、「新天皇が初めて司式する新嘗祭」が大嘗祭なのである。
日本書紀で、稲は天照大神(アマテラスおおみかみ)が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆには)の穂を、孫の瓊瓊杵尊(邇邇芸命=ニニギのみこと)に授けて,この国にもたらさせたということになっている(天孫降臨)。そして、イネの生い茂る豊かな国として、日本は豊葦原の瑞穂国となったというのである。つまり、稲種は年の始め歳神=ニニギが、天照大神=日神=ムスヒ(生産霊)から授かったものを土地に播種して成熟させるというものである。それゆえ、ムスヒから派遣された稲種は首長の手を経て授かるものと考えられ,今にその習俗を伝えているところがある。それは稲穂が渡来し,天つ神からの授りもの,首長から与えられるという意識を生み,収穫感謝祭が変貌し新嘗祭の色彩を濃厚にしていったと考えられる。
新嘗祭では、天皇はニニギノミコトの役割を演ずる。そして「斎庭の穂」でつくられた神聖なる食事を食べる。それによって、高天原(天上)の神の力を身につけ、そして地上に繁栄をもたらす、という宗教的意義がある。そして、この新嘗祭のうち、天皇が即位してから最初に行う大嘗祭の儀式を済ませることによって、その天皇は天皇としての資格を身に付け、実質的に即位したことになっていた。だから、皇位の継承があったときは、必ず挙行すべき、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式であった。
しかし、日本の新憲法下のもとに再編成された「皇室典範」においては、即位の儀礼としては「即位の礼」のみが認めら、大嘗祭に関する規定などはどこにもない。それでは、今上陛下の即位はどのようにして行われたか・・・。「平成2年に挙行された大嘗祭についての考え方(政府の説明)」は以下のとおりとなっている。
大嘗祭の意義
「大嘗祭は、稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天応が即位後、大嘗祭において、新穀を皇祖及び天神地祇にお供えになって、みずからお召し上がりになり、皇祖及び天神地祇に対し安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。それは、皇位継承があったときは、必ず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世一度の重要な儀式である。」として、
大嘗祭の儀式の位置付けは、
「大嘗祭は、前記のとおり、収穫儀礼に根ざしたものであり、伝統的皇位継承儀式という性格を持つものであるが、その中核は、天皇が皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式であり、この趣旨・形式等からして、宗教上の儀式としての性格を有すると見られることは否定することができず、また、その態様においても、国がそのないように立ち入ることはなじまない性格の儀式であるから、大嘗祭を国事行為として行うことは困難で有ると考える。・・・とするも、大嘗祭は、「公的性格」を持ちその費用を「宮廷費から支出することが相当である」……との見解を示している。
そして昭和64年1月7日「剣璽等承継の儀」、平成元年1月9日「即位後朝見の儀」、平成2年11月12日「即位礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」など一連の「即位の礼」は、”国事行為”として行われ、11月22・23日「大嘗宮の儀」、11月24・25日「大饗の儀」については、”皇室の行事”として行われている。
戦後、新嘗祭自体は伊勢神宮及びそれに連なる神社の祭儀となり、伊勢神宮には天皇の勅使が遣わされて、大御饌(おおみけ:神が召し上がる食事)を供える形式となった。又、天皇は、神から人になったが、その人間天皇も、大嘗祭の儀式を行い、天から天王としての資格が与えられないと真の天皇となりえないのか・・・?。複雑な問題ではある。
(画像は東山天皇貞享4年(1687年)11月再興の儀を写したもの。右がユキ殿、左がスキ殿で。池辺義象・今泉定共編「御大礼図譜のもの・・・週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
新嘗祭 にいなめさい
http://www.tabiken.com/history/doc/N/N321L100.HTM
天孫降臨について
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/sinwa/korin.htm
日本書紀を読んで古事記神話を笑う
http://www3.point.ne.jp/~ama/index.html
伊勢神宮
http://www.isejingu.or.jp/maturi/maturi2.htm
[PDF] 皇位の継承に係わる儀式等(大嘗祭を中心に)について
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai8/8siryou3.pdf


大工さんの日

2005-11-22 | 記念日
今日(11月22日)は「大工さんの日」
日本建築大工技能士会が1999(平成11)年に制定。
この日を記念日としたのは、11月が「技能尊重月間」であること、「十一」を組み合わせると「士」となり「建築士」にふさわしいこと、22日は大工の神様とされる聖徳太子の命日(622年2月22日)であること、「11二二」を組み合わせると、11はニ本の柱をあらわし、ニは土台と梁あるいは桁を表して軸組合の構造体となり、11月22日が大工との関係が密接であることからとか・・・。
(社)日本建築大工技能士会は、建築大工技能士及び建築大工技能者の住宅建築に係る技能の錬磨と資質の向上に努め、もって技能者の社会的・経済的地位の向上を図るとともに、住宅建築産業の健全な発展に寄与することを目的とし、設立された・・・とあり、今、世間で話題を呼んでいる厚生労働省所管の公益法人の一つである???。
飛鳥・天平時代は、朝鮮半島や中国から建築技術を取り入れた時期である。仏教が百済王により伝えられた所謂仏教公伝(538年)の頃以降、日本でも寺院が建築されるようになった。588年から609年にかけて蘇我氏が朝鮮から来た慧滋〔えじ〕と慧聡〔えそう〕という僧侶に飛鳥寺(法興寺、元興寺とも)を建てさせた事に始まる。又、「日本書紀」によれば、593年に造立が開始されている摂津国の四天王寺は、聖徳太子が朝鮮から来たこの二人の僧侶から教えを受けて創建した日本最古の伽藍とされている。このことが、今でも宮大工の間では聖徳太子を大工の神様として拝まれている由来なのであろう。昔はこのように僧侶が自身の寺社の建築や修理にたずさわっていたようである。当時の伽藍配置や技法には、百済の寺院との共通性が指摘されているという。遣隋使・遣唐使の時代になると、中国の建築様式の影響が強くなり、平安時代、国風文化(中国の影響が強かった奈良時代の文化=唐風に対して呼ぶ)の時代になると建築様式も日本化し、柱を細く、天井を低めにした穏やかな空間が好まれるようになった。平安時代以降には日本独自の形態として発展し、この建築様式を和様と呼んでいる。
これら昔の建物は釘をほとんど使わずに木を組み合わせて建てている。また、「礎石〔そせき〕」という石を建造物の土台にしてその上に柱を立てているが、こうすることによって地震の揺れに対する反発を抑え建物の崩壊を防ぐ事ができるのだそうだ。また地面から木材に湿気が吸い上がるのを防ぎ、木材を腐りにくくする工夫でもあるという。日本は、地震の多い国であるが、このような古い建物が今に伝わっているのも、昔の、このような建築方法の方が地震などの自然災害に耐え得る耐震性をもっていたのだろうね。正に、匠の知恵と言うところか・・・。これら古くからある国宝や重要文化財等に指定されている伝統的な建築物などを保存するには高度な技術が必要である。そして、これらの国宝や重要文化財に指定されている古い建物の修理などは、専門的な技術をもった宮大工と言われる人たちによって行われている。しかし、このような文化財を修理できる宮大工の高齢化が進み、50人前後にまで減少しているという。しかし、後継者の育成を試みてはいるものの、今時、厳しい修行の中で時間をかけて高度な技術を修得しようとする若者が少ないのが実情のようである。今の時代、若者達の間には「セレブ」などといった言葉が流行しているが、身体を使って汗して働くことよりも、ホリエモンたちなどのように、頭を使って、投資などにより、楽に大金を稼ぐことが理想の世の中になっている。いずれは、日本の釘を使わない国宝級の伝統的古い建物も、鉄の釘で、修理するような時代が来るのかもしれない。今の外国かぶれの日本人には、日本の伝統を守ろうとする意識は低いからね~。日本の伝統的な国技である相撲も、今は、外国人力士が優勝争をする時代だから・・・。俺は、日本人だ。俺が日本の伝統を守ってやる・・・なんて、粋のいい奴は出てこないかな~。
(画像は、絵葉書より「大阪四天王寺」)
参考:
日本建築史ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%8F%B2#.
元興寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%88%88%E5%AF%BA
四天王寺- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA
大工辞典
http://www.rinku.zaq.ne.jp/daiku/jisyo/mokuji.html


インターネット記念日

2005-11-21 | 記念日
今日(11月21日)は「インターネット記念日」
1969(昭和44)年、アメリカの国防総省高等研究計画局(ARPA【エ-・アール・ピー・エー】)が、軍事目的で、インターネットの元型であるARPAnet(アーパネット)の公開実験を、カルフォルニア大学ロサンゼルス校・スタンフォード研究所・カルフォルニア大学サンタバーバラ校・ユタ大学の4か所を結んで開始した。アメリカは、たとえ外国から攻撃を受けても、国内の通信が止まることがないような仕組みをもったネットワーク作りを目指しアーパネットを開始したものであった。
その後30数年たった今日、インターネットは世界規模のネットワークとなり、また、接続されているコンピュータの数も非常に大きく拡大してきた。また、アーパネットに求められていた考えは確実に受けつがれ、世界のどこかのコンピュータが止まってしまっても、インターネット全体は動き続けるという非常に強いネットワークとして、今や社会の基盤となっている。
日本最初のホームページは、1992(平成4)年9月30日に茨城県つくば市にある文部省高エネルギー加速器研究機構 計算科学センターの森田洋平博士によって発信されたものが最初だそうだが、日本でのインターネットの普及は、Windows95の登場以降、パソコンなどの大衆化が進み、また、デジタルコンテンツの遠隔地とのやりとりや電子メールの利用などを可能にする手段として、インターネットの存在自体は広く知られるようになり、初めから趣味(の手段)としてインターネットを使う利用者が増え始めた。そして、「インターネット白書2005 」では、家庭からのブロードバンド利用者数は、3,224万4千人。1年で約1,000万人の伸び。ブロードバンド世帯普及率36.2%(2005年2月時点)。日本のインターネット人口は2005年2月調査時点で7,007万2千人。昨年、2004年2月調査の6,559万4千人と比較して447万8千人増(+106.8%)と伸びは鈍化しており、2005年12月末では7,372万人となる見通しだという。インターネット世帯浸透率(利用場所、接続機器を問わずインターネット利用者がいる世帯の比率)は82.8%となり、昨年の78.1%から4.7ポイント増加。また、インターネット世帯普及率(「勤務先/学校のみ」「携帯電話/PHSのみ」を除き、自宅の機器でのインターネット利用者がいる世帯の比率)は55.4%となったそうだ。
1992(平成4)に日本最初のホームページが開設されて、まだ、13年しか経っていないが、あっという間に広がったね~。
しかし、最近では、インターネット利用者は、様々な問題に悩まされている。先ず一番の問題は、無差別に送られるスパムメールや、インターネットやメールに潜りこんでコンピューターの動作を狂わせるウイルス対策の問題である。また、画面の指示に従ってクレジット番号を投入し、金を取られるといった悪質な詐欺事件などが色々と増えて来ていることである。更には、個人情報の漏洩問題も頻発している。
しかも、インターネットはあらゆるデジタルデータをその内容に関係なく、透過的に通信できるため、中には公序良俗に反する情報を流すケースも増えてきており、又、麻薬の販売や、爆発物等危険物の作り方、危険なモデルガンの改造といったものまで現れ、これらが犯罪にまで結びついて来ている。そして、インターネットでは、利用者の年齢などが必ずしも特定できるわけではないので、 児童など、社会に与える影響も憂慮されるようになった。しかし、これらのセキュリティー対策をきちんと行おうとすると、次にはプライバシー侵害の問題が生じることになるという。防犯とプライバシー保護の両立は難しものであろうが、これからは、益々、インターネットの利用は多目的に広がってゆくだろうし、新たな問題も発生してくるだろう。政府並びに関係機関は、安心して利用できるよう徹底したセキュリーティー対策を講じて欲しいものだ。いずれにしろ、ネットをするものは問題に巻き込まれないよう、しっかりと、自己防衛をしていくしかないだろうね~。特に、児童のネット交信については、親が十分に注意を払う必要があるだろう。
(画像:インターネット)
参考:
日本インターネット協会
http://www.iajapan.org/
日本最初のホームページ
http://www.ibarakiken.gr.jp/www/
日本のコンピュータの歴史
http://contest.thinkquest.jp/tqj1999/20204/old_contents/
Yahoo!ニュース - インターネット犯罪
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/net_crime/
インターネット-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88