今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

EPAの日

2015-01-30 | 記念日
記念日協会に登録されている今日・1月30日の記念日に「EPAの日」があった。
「EPA」というと、わたしなど、「Economic Partnership Agreement」(経済連携協定)のことを思い出すのだが、記念日協会に登録されている「EPAの日」の「EPA」は、に多く含まれるエイコ サペンタエン酸(eicosapentaenoic acid=EPA)の略称で、記念日を設けたのは、水産事業や食品事業などを手がける日本水産株式会社
EPAには、中性脂肪を減らしたり、動脈硬化などの予防をする働きがある。日付は 中心の生活を送る現代人に肉(29)を食べた次の日(30)には魚を食べ、EPAを摂取してバラン スよい食生活を一年中送って欲しいという思いを込めて毎月30日を「EPAの日」として記念日登録したそうだ(※1参照)。

魚肉は最も古くから食べられていた食材のひとつであり、漁業は人類が初めて魚類甲殻類を川や海から捕獲し始めた中石器時代だろうとされている。
四方を海に囲まれた日本は厖大な数の河川にも恵まれたということもあって古くから魚食文化が根付いており、縄文時代の遺跡からは釣針や銛(もり)、漁網の錘(おもり)として用いられた土器片錘や丸木舟などの漁具が出土しており、漁や採集によって魚介類を収獲していたと考えられている。
鎌倉時代には、漁を専門とする漁村があらわれ、魚・海藻・塩・貝などを年貢として納めるようになった。
室町時代にはさらに漁業の専門化がすすみ、沖合漁業がおこなわれるようになり、の発達や交通網の整備、貨幣の流通など商業全般の発達に漁業も組み込まれていった。
江戸時代には遠洋漁業がおこなわれ、また、上方で発達した地曳網による大規模な漁法が全国に広まるなど、漁場が広がった。
江戸時代には、多くの商業都市も発達したが、大阪湾という天然の良港にも恵まれた大坂(大阪)は、全国の流通の中心となっていた。大阪湾沿岸域の都市周辺には既に多くの漁村が形成されていたが、これらの漁村から供給される魚介類により「雑魚場(ざこば)魚市場」と呼ばれる水産物市場が形成されていたようだ。

●上掲の画像は雑魚場魚市場。

雑魚場魚市場は、大阪商人や職人の生活を支えるのみならず、廻船によって、最大の消費地である江戸をはじめ、瀬戸内海を経由して日本海沿岸の各地まで水産物を供給していたようだから、まさに、大阪は「天下の台所」であった。
江戸においても、水産物の消費が拡大するにつれて流通業(商品を消費者まで届けるまでの各産業)が発達していった。当初は、幕府に魚を納めた残りを漁師たちが日本橋で売っていたが、鮮度を魚の目の色で判断するなど独特の技術(目利(めき)きの技)を持つ「仲買人」という職業が発達し、水産業の中でも分業化が進んだ(※2:「農林水産省-水産庁HP」の平成21年度水産白書ここ参照)。

●上掲の画像は、歌川広重の描いた『六十余州名所図会』の「上総 矢さしか浦 通名九十九里」・・・の図である。
砂浜が60キロも続き日本の白砂青松100選日本の渚百選に選定されている千葉県の九十九里浜
室町時代に、紀州の漁師が地引き網によるイワシ漁を伝えたとされ、江戸時代には「千両万両 引き上げる」と唄われるほど、イワシの地曳網漁の地として全国に知られていたそうだ。画面手前には揚がってくる魚を待つ魚屋や商人たちであろう姿も描かれている。図の地名となっている「矢さしか浦」 「九十九里」の謂れなどは以下参考の※3 を参照されるとよい。賑わっていた房州の江戸時代、明治初期の風景を描いた浮世絵が以下で展示されている。
浮世絵にみる江戸時代、明治初期の漁業 - 日本財団 図書館


●上掲の画像は、同じく広重のあの有名な『東海道五十三次』の「日本橋」の図である。
江戸から京へ向かう東海道(近世東海道)の起点であった日本橋の図には、参勤交代大名行列が朝早くから江戸を発つ様子が描かれているが、その手前には、魚を天秤棒で担いだ一団が、向こう岸にあった魚河岸から仕入れを終え、行商(物売り参照)に出かける様子も描かれており、江戸で一番賑わっていた早朝の日本橋の活気が伝わってくる。
同じく広重の日本橋の絵では、広重が一立斎の落款をもつ初期(天保3年=1832年頃)の傑作「東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図」(3枚組)がある。当作品では、日本橋とその周辺地域を、俯瞰構図で広々と描いており、題名にもあるように、とりわけ日本橋の下流北側に広がる魚市の賑わいのようすが詳しく描かれてお、富士山を望む橋の袂には、日本橋川を行き交う多くの舟と、店を開く者や、天秤棒に魚を満載にして売り歩く者など、大勢の人々の姿が描かれ、魚河岸があった日本橋界隈の賑わい振りが伝わってくる。以下にアクセスし、画面向かって右1の図を拡大して見られるとよい。。
国立国会図書館デジタルコレクション - 東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図

徳川家康の関東入国後、摂津から漁民が佃島に移り住み、幕府の膳所(食膳を整える所。台所)に供するために漁業を営んだ。のちに、日々上納する残りの鮮魚を舟板の上で並べて一般に販売するようになった。これが日本橋魚河岸の始まり。1923(大正12)年の関東大震災で壊滅し、その後、築地市場が出来るまでは、江戸および東京の台所として活況を呈していた。
戦後の1948(昭和23)年に出版された GHQ (連合国軍総司令部)天然資源局の報告書には、日本及び日本人にとって魚介類が如何に密接に結びついているかについて以下のように書かれているという。
例えば、「日本は世界に冠たる漁業国であり、漁業者にとって世界の7つの海(注1)のうち6つの海を航海するなど朝飯前」、「日本の漁業者にとって興味の湧かない海洋生物などなく、魚であれ、海藻であれ、余すところなく、無駄なく、利用している。」。また、日本においてこれほどまで漁業が発達した最大の理由として、日本周辺に魚介類の高い生産性を有する好漁場があり、特にアジサバイワシといった変動の激しい浮魚を上手に利用していると分析しています。この他、魚屋で楽しげに魚介類を買い求める主婦の様子、漁に勤しむ活気ある漁業者、山奥の農村においても5月になると鯉のぼりを掲げるなど日本人の日常生活や行事の中にいかに魚が溶け込んでいるかについて言及されています。・・・と(※2:「農林水産省-水産庁HP」の水産政策審議会 企画部会>第21回[平成20年1月25日]:“第Ⅰ章特集伝えよう魚食文化、見つめ直そう豊かな海”参照)。

戦後の日本経済の成長とともに魚介類の水揚げ量は増加したが、その増加を牽引した遠洋漁業・沖合漁業が1973(昭和48)年の石油ショックによって漁船のコスト高の影響を受け、また1970年代後半から世界の漁業国が200海里規制(排他的経済水域参照)を取るようなると、遠洋漁業・沖合漁業の水揚げ量が減少した。
それでも、日本の排他的経済水域(EEZ)の面積は世界第6位で、国土面積の約12倍もあり、我が国周辺水域が含まれる太平洋北西海域は世界の漁業生産量の2割を占める世界有数の好漁場である。
特に、我が国周辺海域では栄養塩や魚を運んでくる親潮黒潮などの海流がぶつかることで、豊かな漁場が形成されていることから、日本の海面漁業生産量は今なお世界第6位にあり、世界中で約25,000種程あるうち、、日本とその周辺海域からは約3,900種もの魚類の生息が報告されているという。(※2:水産庁の水産白書(平成24年度)や産政策審議会 第38回 企画部会資料2_4等参照)。
しかし、1985(昭和60)年のプラザ合意以降、円高が進んだために水産物の輸入が増加。1980年代半ば以降、遠洋漁業・沖合漁業・沿岸漁業などの海面漁業は漁獲量の下落傾向が続き、我が国の食用魚介類の自給率は、かつては100%を超えていた(ピークは昭和39年の113%)が、平成12年には53%となった。その後、国内生産量に下げ止まりの傾向が見られたことや水産物輸入量の減少により、近年、食用魚介類の自給率は微増傾向で推移しており、平成22年には60%までに回復はしているようだが、輸入に頼っている現状は続いている。

古くから豊かな海の恩恵を受けて、多彩な魚食文化が発展してきた日本では、魚は焼いたり煮たり、あるいは揚げたりと様々に料理されるが、刺身のように生でも食べるのは世界の中の少数派である。魚には傷みやすいものが多く、保存のために塩漬けや干物、燻製、あるいは油漬けなどに処理される例も多い。直接的な食品でない例としては鰹節や魚醤がある。
そんな『魚』(サカナ)の漢字の読みは、本来「ギョ」「うお」しかなく、昭和48年に当用漢字が改正されてから「さかな」の読み方が認められるようになった・・ということはご存知でしたか?
そもそも「うお」と「さかな」はまったく別のものを指していた。「とびうお」「魚市場(うおいちば)」「魚河岸(うおがし)」というように、水の中で泳いでいる生き物を「うお」と呼んでいた。「さかな」は漢字で書くと『』であった。「さか」は“酒”、「な」は“副食・おかず”を意味することばで、【酒を飲むときに添えて食べるもの】を「さかな」と呼んでいた。それがなぜ、魚を「さかな」というようになったのか。昭和初期の辞書には〔魚肉ハ、肴ニシテ、最モ美味ナレバ、其名ヲ専ラニスルナリ〕とあるそうだ。つまり、魚(うお)は肴(さかな)の中で一番おいしかったので、魚を「さかな」と呼ぶようになったという(※4参照)。・・・それほど魚は日本人に好かれていた食べ物であったわけだ。
しかし、生活水準の向上等により、魚介類の1人当たり消費量は世界の各地域で増加しているのだが、日本では減少しており、2008(平成20)年にはポルトガル、韓国に追い抜かれ、人口100万人以上の国の中では3位に転落しているという。
日本の国民1人1日当たりの摂取量は魚介類が減少傾向にある一方、肉類は増加から横ばい。2006(平成18)年には、初めて肉類が魚介類を上回った。2011(平成23)年の魚介類摂取量は前年より若干増加したが、肉類と魚介類の差は拡大している。以下は※5:「厚生労働省:国民健康・栄養調査(平成25年)」の結果の概要(3.食品群別摂取量の表9などより抜き書きしたもの。
※魚介類一日摂取量:2001(平成13)年94,0g(肉類76,3g)→2011(平成23)年72,7g(肉類83,6g)、
この傾向は、若い世代だけでなく、魚を多く食べていると思われる50代、60代にも魚離れが進んでいる。
        2001(平成13)年   2011(平成23)年  2014(平成25)年
50代魚介類120,8g(肉類73,2g)  81.6g(肉類87.5g) 81.2g(肉類91.0g)
60代魚介類123,0g(肉類56,8g)  97.7g(肉類68.8g) 94.6g(肉類76.9g)
このような状態が続けば、世代交代が進むにつれて、国民全体の魚介類の摂取量が急速に減少していく可能性は高い。

魚介類には、ビタミンやカルシウムなどの人の健康に必要な栄養成分や機能成分が豊富に含まれている。
・魚介類に含まれる栄養成分
・魚介類に含まれる主な機能成分
中でも、極寒の海の中でも活発に泳ぎ回るマグロやイワシ類・サバ類・サンマなどの、青魚、常温でも固まりにくい魚のサラサラした脂=必須脂肪酸には、ヒトの健康をサポートする秘密がある・・・と、今、注目されている。
健康な体を維持するためにはタンパク質を摂取する必要がある。タンパク質は肉や魚から摂ることができるが、肉だけでは脂肪の摂りすぎやコレステロールの増加が心配。一方、魚は余計な脂肪分が少なく良質なタンパク質が特長であり、健康維持のためには、肉よりも魚で良質なタンパク質を摂ることがオススメだというのである。
魚介類の中でも、青魚には、人の健康に有益な機能成分であるエイコサペンタエン酸(EPA)やドコサヘキサエン酸(DHA)などのオメガ3系脂肪酸(ω-3脂肪酸)である高度不飽和脂肪酸が多く含まれているそうだ。
EPAは、マイワシ、クロマグロ脂身、サバ、ブリなどに多く含まれており、血栓予防、抗炎症作用(炎症を抑える作用)、高血圧予防の効果が期待されており、
DHAは、クロマグロ脂身、スジコ、ブリ、サバなどに多く含まれており、脳の発達促進、痴呆予防、視力低下の予防などの効果が期待されているという。
日本人の食生活が豊かになり、魚介類中心の食生活から肉中心の食生活に変化してきたため、脂肪の摂取は多くなる一方で、EPAの摂取量は年々減ってきている。
また、1日の食生活におけるEPA・DHA量の調査によると、年齢によって異なるものの、全般的にEPA・DHA摂取量は必要量に足りていない。
ただ、以下参考の※1:「ニッスイHP」に、“いわし・さば・あじなどの青魚に多く含まれるEPAが脚光を浴びるようになったのは、1960年代にデンマークのダイアベルグ博士らが行った、デンマーク自治領であるグリーンランドのイヌイットの人々を対象に行った疫学調査がきっかけです。この調査では、n-3系脂肪酸の摂取量が多いイヌイットには、心疾患がほとんど認められませんでした。このことからEPAなどのn-3系脂肪酸が動脈硬化を予防すると考えられています。”・・・との記載があるが、このダイアベルグ博士らの研究を根拠として、魚油のサプリメントや魚を食べることを推奨する場面でよく引用される基本文献のひとつになっているが彼らの使用している統計が不完であり、その研究成果が信頼できないとする意見もあるのが気になるところではある(※6参照)。
しかし、青魚から採られる必須脂肪酸は、体内では他の脂肪酸から合成できないためにどうしても摂取する必要がある脂肪酸で、健康維持には欠かせない成分であり、食べ物から摂取する必要がある。
一時期、「おさかな天国」と呼ばれる歌が、全国のスーパー、百貨店などの鮮魚店コーナーのキャンペーンBGM用として流れていたのを思い出した。

サカナを食べると アタマが良くなる
サカナを食べると カラダにいいのさ
さあさ みんなでサカナを食べよう


正確な歌詞はここを参照→柴矢裕美/歌詞:おさかな天国/うたまっぷ
1991(平成3)年に水産庁の魚食普及事業の一環として全国漁業協同組合連合会(JF全漁連)中央シーフードセンターのキャンペーンソングとして制作された楽曲あるが、健康への影響を考えるとあながち無根拠とも言えないところがある(魚介類100g中の主な脂肪酸については魚介類の脂肪酸を参照。又、2012(平成24)年消費者庁より出されている「食品の機能性評価モデル事業」の結果は以下参考※「7:DHA・EPA協議会HP」のn-3系脂肪酸の機能性の評価結果を参照)。
したがって、近年「調理や片付けに手間がかかる」「価格が肉より高い」「青魚が嫌い」などの理由で日本人の魚離れが進み、このまま魚を食べなくなったら、日本人の健康はいったいどうなってしまうのだろうか?高齢化の進んでいる日本。元気で長生きするためには、青魚を食べるよう努力はした方がよさそうだ。
だがどれくらい摂取したらよいのだろう?
厚生労働省はDHA・EPAを摂取量の50パーセンタイル値(中央値)より作成し、1日1000㎎(1g)以上のEPA・DHA摂取を推奨している。1日1000㎎は魚に換算すると、1日約90 g以上。クロマグロの刺身なら約8,5人前以上(1人前80gとして)マアジなら約150g以上摂取する必要があるそうだ。
また、DHAとEPAを魚で摂取しようとすると、魚の種類によってDHAやEPAの含有量が異なるので、効率良く摂取するには魚の種類を選ぶことが重要になるようだ(※※7のQ&A参照)。
私の場合、同じサバ科でもマグロや、白身魚は好きなのだが、青魚はあまり好きではない。鮮度の良いものなら寿司や刺身では食べるが、煮物や焼き物は弱い。今の生活スタイルでは、厚生労働省推奨の摂取量を毎日とるのはとなかなか大変だ。そうなると、サプリメントで捕捉するしかないということなのだろうか・・・・。家人にいろいろ工夫をしてもらわないといけないな~。

参考:
注1: 7つの海:時代によって指す場所は変化するが、現在は「北極海、南極海、インド洋、北大西洋、北太平洋、南大西洋、南太平洋」を指す。

※1:ニッスイHP:サラサラ生活向上委員会
http://sara2.jp/
※2:農林水産省-水産庁HP
http://www.jfa.maff.go.jp/index.html
※3:九十九里浜(くじゅうくりはま)あれこれ - 千葉県山武市公式ホームページ
http://www.city.sammu.lg.jp/site/kids/99.html
※4:「魚」と「さかな」は別のもの? - トクする日本語 - NHK アナウンスルーム
http://www.nhk.or.jp/kininaru-blog/103903.html
※5:厚生労働省:国民健康・栄養調査
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kenkou_eiyou_chousa.html
※6:※6:エスキモーの死亡統計は不完全だった リンクDEダイエット 栄養のひろば
http://www.nutritio.net/linkdediet_kyu/FMPro?-db=NEWS.fp5&-format=news_detail.htm&-lay=lay&KibanID=44394&-find
※7:DHA・EPA協議会HP
http://www.dhaepa.org/index.html
かがわのお魚便利帳
http://www.pref.kagawa.jp/suisan/html/suisan/osakana/index.htm
魚肉の歴史
http://homepage3.nifty.com/onion/labo/fish.htm
やずやHP
http://www.yazuya.com/items/dhaepa/aozakana/index.html

エイコサペンタエン酸 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%82%B5%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A8%E3%83%B3%E9%85%B8










美濃部東京都知事が都の公営ギャンブル全廃を発表した日

2015-01-24 | 歴史
日本で最初の国際博覧会である大阪万博が開催された1970(昭和45)年に「走れコウタロー」という、競馬を題材にしたコミックソングが大ヒットトした。
同年7月5日に発売後、口コミでチャートの順位を伸ばし、最終的に100万枚近いヒッ トとなり、この歌を歌ったソルティー・シュガーは同年の第12回日本レコード大賞新人賞を受賞している。
初めてこの曲を聞いたときは、何という脳天気な曲!と思ったりしたものだが、メロディーは明らかにアメリカのカントリー・ミュージックであり、歌を歌っているソルティー・シュガーというグループは、カレッジ・フォーク(※1参照)に属するフォークシンガーグループなのである。
しかし、この「走れコウタロー」。楽曲としては徹底的なパロディ精神で貫かれており、ダービーの風景(出走前・観 客席・出走後ゴール直前まで)を描写しているものの、出走している馬名が他の博打に関連する言 葉であったり、当時の人気ギャグであったりとメチャクチャであり、更には競馬とは全く関係ない「引 っこ抜け」という応援が入ったりしている。
また曲中には、当時、東京都知事として公営ギャンブルの廃止に取り組んでいた美濃部 亮吉の声色をまねた以下のようなナレーション(語り)や、早口の実況中継が含まれている。

(美濃部 亮吉の口調でのナレーション)
エーこのたび、公営ギャンブルを、どのように廃止するかと、いう問題につきまして、慎重に検討を重ねてまいりました結果、本日の第4レース、本命はホタルノヒカリ。穴馬はアッと驚く大三元という結論に達したのであります。

(競馬実況中継)
各馬ゲートインからいっせいにスタート。
第2コーナーをまわったところで先頭は予想どおりホタルノヒカリ。
さらに各馬一団となってタメゴロー、ヒカルゲンジ、リンシャンカイホー(嶺上開花)、メンタンピンドライチ(※2のここ参照)、コイコイ、ソルティーシュガー、オッペケペ、コウタローとつづいております。
第3コーナーをまわって、第4コーナーにかかったところで、先頭は予想どおりホタルノヒカリ、期待のコウタローは大きくぐっとあいて。さあ、最後の直線コースに入った。
あっ、コウタローがぐんぐん出て来た。コウタロー速い。コウタロー速い。トップのホタルノヒカリけんめいの疾走。これをコウタローが必死に追いかける。
コウタローが追いつくか、ホタルノヒカリが逃げ切るか、コウタローかホタルノヒカリ、ホタルノヒカリかマドノユキ、あけてぞけさは別れゆく。

この曲のナレーションに関して、もともと美濃部都知事は、公営ギャンブル廃止派なのでナレーションをしていること自体がギャ グではあり、麻雀の役の馬名に釣られて他の麻雀の役を言ってしまうというミスやらかせ、「(公営)ギ ャンブル廃止とか言ってるけど、実際影では麻雀やってんだろ」という強烈な風刺を含んでいる。また実況中継に関しては、(出走している馬名がメチャクチャである事自体がギャグであるものの)実況の末に興奮しすぎて、馬名からの連想ゲームになり、蛍の光の歌詞の一節を実況してし まうという展開になるなど、二重三重のパロディが織り込まれている。



東京オリンピックが開催されるおよそ4ヶ月前の1964(昭和39)年、当時池田勇人首相が掲げた「所得倍増計画」によって、日本は高度経済成長への道を一直線に進んだ。
思い起こせば、私が若い頃、大阪の商社から東京の商社へ転職したのがちょうどこの頃であり、5年ほど東京にいたが、その後、結婚をするのを機に大阪へ転勤させてもらい戻ってきたのでよく覚えている。
戦後、およそ20年が過ぎ、所得倍増や高度成長政策の結果、その日その日の生活にも追われなくても済むようになるなど経済的にも、ある程度の余裕が出てくると、社会の動きは物質至上主義が全面をおおい、レジャー、バカンス、その日暮らしの無責任、無気力が国民の間に充満し、元禄調の世相が日本を支配するようになてゆく。
そんな高度成長の繁栄に国民が酔っている天下太平の風潮を厳しく戒めた言葉に福田赳夫の「昭和元禄」がある。
大蔵省を退職し、1952(昭和27)年の第25回衆議院議員総選挙で群馬三区から無所属で立候補し当選。国会議員となり、岸信介に仕え、野田卯一池田勇人と共に「大蔵省の3田」と呼ばれていた。
1960(昭和35)年12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で坊秀男田中龍夫一万田尚登倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗。「資源有限時代」の到来をいち早く予見、時代に警鐘を鳴らした。
だが、1967(昭和42 )年になっても、依然高度経済成長は続いていた。“60年代は年率10%台を維持し、”68年には自由世界でアメリカに次ぐ第2位の国民総生産を挙げるに至り、国民生活も向上。
高度経済成長の始った1955(昭和30)年(55年体制の始期でもある)から1967(昭和42 )年までの12年間に国民可処分所得は、5.、2倍に伸び、こんなに急速に豊かになったのは日本の歴史始まって以来の珍事であった(『朝日クロニクス週刊20世紀』1967年号)。
都心のビルは高くなり、主要道路は車で埋まった。一番の変化は町が明るくなったことである。
カー・クーラー・カラーテレビの3Cが言われだしたが、服飾の華やかさも目立ってきた。街を歩く女性の健康一杯の足がミニスカートからのぞくようになったと思うといつのまにか、街から大学生の角帽が姿を消し黒い詰襟もなくなった。
1967(昭和42 )年1月.、経企庁が発表した独身勤労者動向調査によれば、服装に収入の22、5%が割かれ(一般家庭は7,8%)、男の半数がドライヤーを持っている. (『朝日クロニクス週刊20世紀』1967年号)。
1967(昭和42 )年10月18歳のイギリスのファッションモデルツイッギーが羽田空港に降り立つと、翌“68年には中高年女性も巻き込んでミニスカートが流行するが、”67年には町の風俗としてすでに定着していた。
江戸時代、元和偃武から60年ほど経ち、将軍徳川綱吉の時代に入って女も男も衣服が華美になったが、昭和戦後も平和が続いて経済が繁栄すれば同様に奢侈(しゃし) 安逸な傾向となり、人々が、食べ物やファッション、音楽や美術などに、お金や時間を使うようになるのも当然といえば当然と言えるかもしれない。それにしても、長年、太平の世が続き、次第に風俗が華美になっていった元禄時代に、昭和40年代前半の昭和を重ねるという福田氏の発想なかなかのものではある。
このようになったのには、もちろん、欧米の影響もある。ロンドンを発信とするファッション革命の波が先進諸国の女も男も巻き込んで、頂点に達したのがビートルズとツイッギーのスターであった。
ビートルズのロックと形式打破の服装、それは大人の権威と伝統への若者の反逆でもあった。日本では敗戦後のベビーブームの時期に生まれた人々が成人を迎えようとしていた。
長髪とひげ、トンボ眼鏡。女性のミニとブーツ。ダークスーツとミンクのコートへのアンチテーゼであり、紳士淑女神話から脱して、ジーンズやTシャツ、男女差のないスタイルへと流れ込んでいった。
昭和元禄の時代に流行った音楽と言えば何といっても、グループサウンズ(略称GS)であろう。
ブームをもたらした代表的存在は1960(昭和35)年に登場したベンチャーズである。デビュー曲『ウォーク・ドント・ラン』は全米2位の大ヒットとなり、その人気はすぐにわが国にも飛び火し、”62年(昭和37)に寺内タケシとブルー・ジーンズが結成されたころからGSの出現する“65年ごろまで、空前のエレキ・ブームが訪れた。「テケテケテケテケ」というあの特徴的な音にしびれた(※4の>音楽>ここ参照)。



本格的なGSとも言うべき存在、ザ・スパイダースの1966(昭和41)年2月リリースのシングル、「ノー・ノー・ボーイ」や、ベンチャーズのエレキブームで下地が作られたところに、同年6月のビートルズ来日公演以降、エレクトリックギター等の楽器を自ら演奏しながら歌うグループが日本で次々とデビューし、グループサウンズの大ブームが巻き起こった。
エレキ音楽は、その前のロカビリーなどと違い、たんに聞くための鑑賞音楽というだけではなく、若者たちがみずから楽器を取って音楽をやりはじめようとした点で、現在にいたるバンド・ブームの源流である。
このような時代に、人口の1割が住む首都東京に社会・共産両党が推す革新知事が誕生した。マスコミは、「東京燃う」と書きたて、政府自民党は大きな衝撃を受けた。
"60年代から政府が推進した経済の高度成長政策の歪(ひずみ)は徐々に広がり、大都市圏では公害、交通住宅などに深刻な影響を与えていた。有効な政策を打ち出せない政府に対する都市住民の不満が爆発し、住民運動の激化、革新首長の誕生が目立つようになっていた。
1967(昭和42)年4月の第6回統一地方選挙で、マルクス経済学者美濃部亮吉候補が、社会党共産党推薦で立候補し、「東京に青空を」というキャッチフレーズを掲げ、保守知事の長期化で倦怠した都政からの刷新を訴え、初めて革新候補として,東京都知事選に当選したのもこの流れに乗ったものだった。

上掲の画像は、「東京にも青空を」スモッグに覆われた当時の東京都心部。建設中の超高層霞が関ビルもテレビ塔も”霞”の中。画像は、『朝日クロニクル週刊20世紀』1967年号より)。
当時、都議会では汚職が相次ぎ、現職議員が逮捕されて解散、出直し選挙が行われるなど、都庁がグチャグチャだったことも、革新都知事の誕生に大きく手を貸した。
そして、テレビ出演などで得た知名度を生かし、マスコミからも「美濃部スマイル」の名で好意的に報道された結果、多くの女性票を獲得したことも大きな勝因の一つだろうが、この選挙では同時に、それまで対立することの多かった、社会・共産両党が提携し「ストップ・ザ・サトウ(当時の佐藤栄作首相)」を合言葉に地方選挙を国の政治レベルで争った。又、学者・文化人をかつぎ、社・共両党を基盤にしながらも、「明るい革新都政をつくる会」(ここ参照)という市民組織を形成して選挙を戦うなど、新しい選挙戦術が打ち出されたことが大きい。この美濃部亮吉・都知事も昭和元禄の時代を語る上で、欠かすことのできない人物の一人であろう。
1971年秦野章(自民党推薦・警視総監)、1975年石原慎太郎(自民党推薦・代議士・作家)、松下正寿(民社党推薦)を破り、以後、1979(昭和54)年までの12年間(3期)に渡り東京都知事(第6・7・8代)を務めた。
東京都知事選挙で行われた「革新統一方式」は、以後、一挙に全国に拡がり、一時は日本の総人口の半数近くが革新自治体施政下になった。
革新市長は住民との対話を重視した。杉並区・高井戸のごみ処理場建設問題(東京ゴミ戦争参照)で、「反対者が一人でもいたら着工しない」という美濃部知事の姿勢はその象徴。また、社会福祉に力を入れ環境保全、公害防止に努力した。
老人医療費無料化(※5参照)、高齢住民の都営交通無料化、公害対策で企業に厳しい条件を課すなど、福祉、環境政策において様々な施策を次々打ち出した。その他主な施策には、歩行者天国の実施、荒川線を除く都電の撤去などと共に、東京都主催の公営競技廃止がある。
公営ギャンブル廃止を政治公約として前面に押し出して闘った美濃部は都知事就任後に公約実行という形で、1969(昭和44)年1月24日に公営競技廃止の通達を出し、それまで行っていた競輪・競馬・競艇・オートレースの全ての事業から撤退している。「走れコウタロー」の歌が発売された(1970年)の1年前のことであった。
これにより、東京都の単独主催場であった大井オートレース場と「競輪のメッカ」とも呼ばれた後楽園競輪場は興行そのものが廃止され、江戸川競艇場大井競馬京王閣競輪などの開催権は東京都とは別に主催権を特別区や市町村に引き渡された。
これに対しファンからの苦情が相次ぎ、東京都の収益も激減。都営ギャンブル収益は、当時、年間百余億円あったという(Wikipedia.)。また、これらについてはパチンコ産業の拡大を政治面から後方支援する目的があったのではなかったかとの疑念を示す意見もある(※6参照)が、そのようなこと私にはよく判らないが、ちょっと言い過ぎではないだろうか。

東京でだめなら 名古屋があるさ
  名古屋がだめなら 大阪があるさ

という歌(「東京でだめなら」(作詞:星野哲郎,作曲:首藤正毅)が、高度成長期がまだ続いていて「何とでもなる」という時代にヒットしていたのを思い出した。
●以下は、渥美清バージョンである。

東京でだめなら - 渥美清 - 歌詞・動画 : 歌ネット

たしかにギャンブルは一日でも早くこの世からなくなってほしいものだが、東京都で公営ギャンブルを廃止しても、競輪、競馬狂は隣の大宮(埼玉県)や川崎(神奈川県)に移動するだけのことだろう。しかし、今、全国の公営競技の現状は非常に厳しい問題となっているようだ・・・(※7参照)。
その反面、パチンコ業界は大盛況な様だが、このパチンコ、戦後に私たちがお遊びでしていたようなものとは違って、今では、あっという間に3~4万円も、負けるという。もう昔のようなお遊びという域を超えてしまっており、ギャンブルに近いものになっていると思うのだが・・・。
これらが取り締まられないのはどうしてだろう? むしろ、カジノ解禁に合わせて合法明文化の動きさえあるようだ。カジノを誘致しようとしている都市には、東京都も入っている。人は、賭博の魅力から抜けられないのだろうか・・・。(パチンコの問題点、※8参照)。

「革新都政」を旗印に勇ましく突き進んだ美濃部も、東京都の赤字を増やすだけで、財政を逼迫(ひっぱく)させ、結局、次期(1979年東京都知事選挙)の鈴木俊一都知事に尻拭いをさせる結果になってしまった。

美濃部都政の下での公害防止条例の制定、老人医療の無料化などは全国に波及していった。こうして、革新首長の政策は都市住民の支持を集める一方、国の政策転換をも促す契機となったことは評価されるべきである。
しかし、革新自治体は、さまざまな限界を持っていた。ひとつは「3割自治」という言葉に象徴されるように、日本の地方自治制度はさまざまな規制や補助金行政によって中央政府の統制下にあった。国政を保守に握られている為、革新自治体がこの壁を破るのは容易ではなかった。
このため革新自治体の勢いを”67年1月(第31回衆議院議員総選挙)と”69年12月(第32回衆議院議員総選挙)の総選挙に反映できなかった。
社会・共産両党が主導権争いをはじめたことも革新自治体の退潮につながった。共産党が革新自治体をテコに勢力を伸ばしたことが社会党の警戒心を呼び、自治体選挙での社共共闘がじっくりいかなくなったのである。”70年なかばには、革新自治体の運動は沈滞と分裂の季節に入ることになる.。.

さて、1979年東京都知事選挙で、美濃部の後継者として立候補した、元総評議長の太田薫等を破り都知事となった鈴木は、老人医療費の無料化を廃止するなど、美濃部革新都政の目玉政策だった福祉の大幅な削減や都職員の給与引き下げにより、2期目には都の財政の黒字化を成し遂げた。
しかし、3期目以降、都庁舎の丸ノ内から新宿への移転をはじめ、東京国際フォーラム江戸東京博物館東京臨海副都心の開発に代表される箱物行政の推進で多額の起債を発行した結果、都の財政は再び赤字に転じ、美濃部革新都政下の水準にまで悪化した。
鈴木、4戦目となる1991年東京都知事選挙では総勢16人の激戦で争われた為、反鈴木票が分散したこともあり、辛うじて4選を果たし、選挙後の、東京都議会では社会党が知事与党に加わり、4期目は事実上のオール与党体制で都政運営を行った。
バブル崩壊の影響もあり、鈴木都政4期目で財政はさらに悪化。
鈴木が5選不出馬を表明した1995年東京都知事選挙では、長らく内閣官房副長官を務めた石原信雄が鈴木都政の継承を訴え出馬したが、当選挙には有力候補が次々に立候補。最終的に、反権力、リベラルなイメージの強い作家で前参議院議員の青島幸男が圧勝した。石原の落選は、「国民の政党に対する不信感の表れ」のまさしく象徴的な出来事であった。
鈴木が4期目に開催を計画していた世界都市博覧会はこの都知事選で争点化していた。青島知事就任後、東京都議会は臨海副都心開発を見直した上、都市博の開催を求める決議を賛成多数で可決したが、青島は「中止補償は金で購いが着く。青島は約束を守れる男かそうでないのか、信義の問題なんだ!」と反対し、公約通り中止を決定。バブル景気崩壊と失われた20年が始まった時期で体力の無かった建設業界などに影響を及ぼした。

1996(平成8)年に、競馬アニメ「みどりのマキバオー」のテーマ曲としてソルティー・シュガーの「走れコウタロー」の歌詞が若干改変され、F・MAP(フジテレビのアナウンサー3名[福井謙二、三宅正治、青嶋達也]によるユニット)により「走れマキバオー」というタイトルでカバーされた。このカバー版では「コウタロー」を「マキバオー」に差し替えたり、また美濃部都知事をアニメ放送時の青島幸男都知事に変更したりするなどのアレンジが行われた.。作詞:池田謙吉/替え歌:大田一水/作曲:池田謙吉、前田伸夫/編曲:石川鷹彦メインボーカルは福井が担当。間奏の競馬実況は青嶋、青島幸男東京都知事の物まねは福井だそうだ。
青島幸男東京都知事の物まねのところは以下の様になる。
(セリフ)
「エー このたび、公営ギャンブルを、どのように
中止するかと、いう問題につきまして、
慎重に検討を重ねてまいりました結果・・・
知事、そう何でも中止、中止と申しましても・・・
エー、ですから都市博も中止にしたことですし・・・
知事、競馬にはマキバオーには夢があるんですよ。ロマンがあるんですよ。
知事!レースの実況はアオシマですよ、青島アナウンサー!!
えっ!アオシマ名前が好きだなぁ。やっぱり開催するかぁ~!
開きましょう!開きましょう!そうしましょう!!!」

「走れコウタロー」で始まったので、「走れマキバオー」で、〆た。最後に以下で、聞いてみてください。
みどりのマキバオー OP「走れ!マキバオー」 YouTube



冒頭の画像は、東京都知事当選後も各方面から励ましを受けた美濃部氏。写真は、右から俳優の花沢徳衛、神田隆、田村高廣、加藤剛。1967年7月15日東京般若苑にて。『朝日クロニクル週刊20世紀」 1967年号より。
参考:
※1:カレッジ・フォーク(フォークとミュージックの時代)
http://www.aki-f.com/folk/cat.php?id=2
※2:初心者のための麻雀講座
http://www2.odn.ne.jp/~cbm15900/html/info2.html
※3:ソルティー・シュガー/歌詞:走れコウタロー/うたまっぷ歌詞
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=35731
※4:種村剛◆「社会情報学」基本資料目次
http://homepage3.nifty.com/tanemura/socio_info.html
※5:その昔、老人医療費(自己負担)は無料でした-厚生年金・国民年金情報通
http://www.office-onoduka.com/nenkinblog/2008/03/post_130.html
※6:左翼は何故公営ギャンブルを廃止したのか?
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52860061.html
※7:特集/競馬・ボート・競輪・オートレース 公営ギャンブルの窮地
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20111004/1318118890
※8:パチンコの換金、法的になぜ罰せられない?カジノ解禁ムードで強まる 合法明文化の動き
http://biz-journal.jp/2013/11/post_3344.html
「革新自治体」時代終り
http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/kakusinnzititai.htm
走れコウタロー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B0%E3%82%8C%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%83%BC












阪神淡路大震災から20年 1.17のつどい

2015-01-17 | 記念日
地の底から響く「ゴーツ」という音と共に、「ドドドドド・・・」と、まるでSF映画に出てくるような巨大怪獣が地底を走り向けたのか・・・と思うような激しく突き上げるような揺れに襲われ驚いて目を覚ましたとき、ツインベッドで寝ていた女房が隣のベッドからジャンプするような形で私のベッドの上に飛びこんできた。
兵庫県南部地震」(阪神・淡路大震災)が阪神・淡路地域を襲ったのは、1995(平成7)年1月17日午前5時46分のことであった。
震災が起こったのは、私の母が、癌で前年末に亡くなり、四十九日の法要(中陰参照)を済ませて、私の家に泊まっていた兄弟たちがそれぞれ帰って行った翌早朝のことであった。中陰法要の中でももっとも重要な法要とされる四十九日の法要を何事もなく終えることが出来たのは、母の日ごろからの信仰のお蔭であったかもしれない。
私の家は山の麓の固い地盤にある為、幸いなことに私の家を含めご近所の家も壁の亀裂など小さな被害はあったものの家の倒壊等は免れ、死者も出なかったが、ご近所の年老いた人達の中には、怖い思いをした心労からか、地震発生後2~3ヶ月ぐらい経って、知っているだけで3人ぐらい亡くなった。そして、ご近所の親しい人達からは良く言われた。「あなたのお母さんは怖い思いをしなくて良かったですね」・・・と。人が亡くなっているのによかったですね・・はおかしいとは思うのだが、確かに、私の母は非常に怖がりだったので、同じ亡くなるなら、あんな怖い思いをしなくて良かったと思うし、御近所の方も同じ思いだったのだろう。神戸では、震災で直接亡くなった人以外に、生き残った多くのお年寄りが震災後なってから次々と亡くなられたと聞いているが、そのような人がどれだけの人数いたかは定かではない。

2015(平成27)年1月17の今日、あの震災から、20年を迎えた。
日本で初めての近代的な大都市における直下型地震(内陸地震)は、大きな破壊力をもって、家・建物を倒壊させ人命を奪っただけではなく、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などライフラインが寸断され広範囲で全く機能しなくなり、肝心の救援要請さえ出来ない状態となった。(内陸地震のことについて詳しくは※1の内陸地震、※2のコラム第5回内陸の地震、※3の地震の型参照)。
この震災では家屋の倒壊だけではなく、火災の被害が甚大であった。神戸市長田区では、地震直後の火災に伴う火災旋風が確認されたが、消火活動が間に合わず、被害をより大きくする結果となった。地震発生直後に長田区で数10件発生した火災は火災旋風により近隣住宅に次々と飛び火し、最終的に須磨区東部から兵庫区にかけての広範囲、6000棟が焼失した。
火災の起こった南の方角から私たちの住んでいる北の方角へと向かってきた火は、幸い途中の東西に走っている山陽電鉄の軌道のある広い通りを境にして、そこから北側にまでは及ばなかったが、山陽電鉄の駅は倒壊、全焼していた。
長田と須磨の三角点の頂点のような所に位置するところの高台にある私の家からは、火災の全貌が、目撃されたが、余りの凄まじさを目の当りにし、涙が止まらなかった。


上掲の上段長田区JR新長田駅若松町付近。下段:須磨区常盤町周辺 JR鷹取駅付近。いずれも1995年1月18日撮影のもの。まだブスブスと燃えている。画像は※4:「神戸市安全・安心のページ」の「震災資料室-阪神・淡路大震災の記録」にリンクされている震災写真オープンデータサイト「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」より借用したもの。
震災は、多くの命を奪うとともに、都市基盤や建築物に甚大な被害を与え、私たち市民に直接的な大被害を与え、大切なものを数多く奪っていった。また、復旧の長期化に伴い、産業、都市機能、生活などに様々な影響を及ぼし、20年経った今日でも未解決事項を多く残している。
神戸市の被災状況及び復興への取り組み状況ここを参照してください。
阪神・淡路大震災では、政府や行政の対応の遅れが批判された一方で、学生を中心としたボランティア活動が活発化し、「日本のボランティア元年」と言われた。
これをきっかけに、ボランティア活動への認識を深め、災害への備えの充実強化を図る目的で、1995(平成7)年12月の閣議では1月17日「防災とボランティアの日」が制定され、翌1996(平成8)年から実施されている。
この日のことは以前にこのブログでも書いた。→防災とボランティアの日
阪神・淡路大震災の後の地震や水害などにおいても、大勢のボランティアが活躍しているが、一方で、震災等に駆けつけたボランティアが逆に現地の「迷惑」となっていた面などあり、ボランティアとして被災者に何をしてあげることが一番望ましいことなのか・・・。ボランティアの在り方が問われる面も多々あった。
被災者の気持ちは複雑なものである。多くのボランティアが被災地に応援に駆け付け勇気づけの為に「頑張って」・・・と声をかけてくれる。それが被災者にはかえって傷つくこともある。被災者の多くが身内や友人・知人を亡くし、家を無くし、生きてゆく希望さえ・・・、何もかも無くして、それでもただただ必死に生きていかざるをえないから「気張って」生きているだけなのに・・。「頑張って」・・・と云われても誰の為に・・・、何の為に・・・これ以上頑張るのか?・・・。こんな励ましのつもりの言葉でさえも傷つくものなのである。
震災の後、被災者が語っている中で、傷心している人の多くは深刻顔をして励ましてくれるよりも「笑顔」が見たかったと言っていた。ただ「笑顔で話しかけ、その人の話を黙って聞いてくれる人」・・・。そんな人との出会が一番嬉しかったと・・・。又、「歌」というものが非常に被災者を勇気づけてくれたようである。「歌」には特別な力があるようだ。
阪神・淡路大震災からひと月近く過ぎた2月14日の夜。震災被災者を励ますため、神戸市長田区の南駒栄公園(ここ参照)に、関西に活動拠点を置く中川敬率いる人気ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」(※5。実際にはソウル・フラワー・モノノケ・サミットという名義の別動隊バンド)が出前ライブにやってきた。
たき火にあたっていた被災者が「兄ちゃん、待っとったで」と迎えてくれた。粉雪が舞うなか、被災地特有の諸般の理由からアコースティックな楽器で民謡や昔の歌謡曲を奏でていた。その時の光景をもとに、次の日にかねてより親交が深かったヒートウェイヴの山口洋と作った主旋律の一部に乗せて一気に曲を書き上げ、詞も仕上げたものが「満月の夕」だったという(※6 参照)。
その日の神戸の空には、震災から丸一か月の満月(※7参照)が浮かんでおり、最大余震の到来が噂される中、ライブを観る被災者たちが口々に「満月を見るの、怖いわ」と言っていたのを中川が耳にしたことから、この唄は産まれたそうだ(Wikipedia)。

風が吹く 港の方から 焼けあとを包むようにおどす風
悲しくて すべてを笑う 乾く冬の夕

時を超え国境線から 幾千里のがれきの町に立つ
この胸の振り子は鳴らす “今”を刻むため

飼い主をなくした柴が 同胞とじゃれながら車道 (みち)をゆく
解き放たれ すべてを笑う 乾く冬の夕

 ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
 ヤサホーヤ 焚火を囲む 吐く息の白さが踊る
 解き放て いのちで笑え 満月の夕
(以下略)
「満月の夕(ゆうべ) 」(作詞 : 中川敬/作曲 : 中川敬 & 山口洋)
「満月の夕」では、被災地の惨状や、復興への厳しい現実、そして、それらに向き合う人々のひたむきな姿が歌い込まれている。歌は、しだいに広がり、大きな反響を得た。この曲は今ではガガガSP沢知恵、平安隆、酒井俊、J-Min大竹しのぶアン・サリーなど、多くのアーティストによりカバーされている。
被災地神戸の人にとっては、満月を見ると、この歌を思い出し、もう、忘れられない歌になっている。以下で視聴できる。良い歌なので聞いて見ては・・・。
満月の夕/ソウル・フラワー・ユニオン - YouTube
満月の夕 (ゆうべ) / 中川敬 (with 伊丹英子) 

神戸市の中心中央区より西側、兵庫区、長田区、須磨区は地震と同時に起こった火災が大惨事を起こしたが、中央区より東側では考えられないようなビルや鉄道、高速道路の倒壊などが起こったが、阪神大震災直後の1月18日には神戸入りし、それまでの環境活動などのネットワークを通じて支援を呼びかけ、1月19日には東灘区御影公会堂での炊きだし、また、1月23日には松山ユースホステルへ、高齢の被災者を一時避難させるプロジェクトをはじめ、その後、隣接する灘区の石屋川公園( YAHOO!地図参照)をボランティアの拠点として「神戸元気村」(※8参照)を立ち上げ、民間ボランティアセンターの先駆けとして活動を行っていた山田和尚。通称バウさんとも呼ばれる人(本名:山田成雲)がいた。
同氏のことを私は余りよく知らないが同氏が代表を務める「神戸元気村」は、はじめの2週間ほどで、被災者支援の20余りのプロジェクトを立ち上げるなど活躍し、その行動力は大したものだったようだが、経歴もよく判らず、運営面で色々トラブルもあったようで良くない評判も耳にするのは残念なことである。同氏は、今年(2015年)1月5日に お亡くなりになったと聞く(享年63歳)。
震災後7年たった2002年に「神戸元気村」は解散しているが、.同年1月17日付朝日新聞「天声人語」には、以下のように書かれていたという。
“行政ができないことをやってきたという自負はあるだろうが、山田氏にはなお気がかりな点がある。「自立するのを助ける」。この意識が行政側にもボランティアにもあって「単に困っているだけの」被災者との摩擦を招いたことだ。お互いに自立した人間として接するべきだ。
山田氏は17日早朝、六甲山頂から神戸の街に頭を下げて「お礼」をし、区切りにすると語っていた。“・・・と(※9参照)。
どうも、ここに書いている事だけでは、よく判らないが、被災者にも困っている事や悩んでいる事などその事情は人によって様々だろう。一律にこうだと決めつけても、それが被災者の助けになっているとは限らない。
2011年に発生した東日本大震災で被災した人たちで、大津波で家をそして身内を失った人たちも、今後、又、同じような大地震による大津波が何時あるかもしれない危険性も心配されるなかで、馴れ親しんでいた今まで住んでいたところへ一日も早く戻り、そこに住みたい人、危険だから高台へ引越したい人・・・、年齢やその人の置かれた状況などにより色々と考え方も違うだろう。そのような人たちにはどのような援助が必要なのか・・・。いろいろと権利関係も絡み、被災した人たちでないと解決できない問題も多い。難しい問題だ。
震災で亡くなられた方を追悼するとともに、震災で培われた「きずな・支えあう心」「やさしさ・思いやり」の大切さなどを次世代へ語り継いでいくため、神戸市では、阪神・淡路大震災から20 年となる今日午前5時~午後21時に神戸市中央区の東遊園地神戸市役所南側)で「阪神淡路大震災1.17のつどい」が行われる。
震災の歌と言えば先に書いた「満月の夕」以外にも感動的な曲「しあわせ運べるように」がある。
神戸市立西灘小学校で音楽専科教諭を務める臼井真氏が、阪神・淡路大震災で自宅が崩壊。震災から約2週間後、身を寄せていた親戚宅で、生まれ育った神戸の街の変わり果てた姿をニュースで見て衝撃を受け、わずか10分で作詞・作曲した楽曲だという。

亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に 生きてゆこう
傷ついた神戸を もとの姿にもどそう
やさしい春の光のような 未来を夢み
響きわたれ ぼくたちの歌
生まれ変わる 神戸のまちに
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように

「しあわせ運べるように」(神戸オリジナルバージョン)の一番。
神戸復興を願い作られた当初の歌詞は二番までだったが、2005年に3番が作詞されたようだ。同楽曲は原曲の「神戸オリジナルバージョン」のほか、2011年に発生した東日本大震災後に制作された、歌詞中の「神戸」を「ふるさと」に置き換えた「ふるさとバージョン」がある(※10参照)。
追悼式典などで歌われるようになり、新潟県やイランなど国内外の大地震被災地にも広まった。東日本大震災の被災地でも歌われている。
今日「1.17のつどい」では、慰霊と復興のモニュメント(※4のここ参照)前にて、17時46 分の黙祷後、神戸市立西灘小学校の臼井先生と児童により、この「しあわせ運べるように」と、「笑顔の向こうに」(作詞:たかいちづ 作曲:臼井真。※10のここ参照)を含む数曲が合唱される。

この笑顔の向こうに
たくさんの悲しみがあるの
どんなに笑顔を作ってみても
悲しみは癒されない
(以下略)
「笑顔の向こうに」は、阪神・淡路大震災で1歳半の息子を亡くした女性(たかいちづ)が書いた歌詞に、臼井真教諭が曲をつけたものである。歌詞はここ参照、歌は以下参照。

笑顔の向こうにー YouTube

神戸市だけでなく、兵庫県でも、「ひょうご安全の日を定める条例」(平成17年4月1日施行)に基づき、阪神・淡路大震災の経験と教訓を継承するとともに、いつまでも忘れることなく、安全で安心な社会づくりを期する日として、1月17日を「ひょうご安全の日」と定め、県民の参画のもと、「ひょうご安全の日」にふさわしいさまざまな事業に取り組んでいる(※11参照)
南海トラフ巨大地震異常気象等による自然災害への危惧が高まる中、政府の地震調査委員会(地震調査研究推進本部内に設置)が昨2014年12月19日に発表した2014年版「全国地震動予測地図(※12のここ)は、関東地方の多くの地点で30年以内に震度6弱以上の揺れが起こる確率が上昇した・・・としている(※13参照)。
地震大国日本(ここ参照)に住む以上、もう、地震からは逃げられないと覚悟しなければいけないだろう。あとは、他人事と考えずに十分な備えをして置くしかないのろう。

最後に、一言。
阪神大震災から20年目を迎えた神戸。表面的には復興したように見えるが、「復興」によって失われたものはないのだろうか?
東日本大震災から間もなく5年目を迎える東北地方の人たちも、神戸の表面的な目に見える復興だけを見ずにその実態などよく観察して後で後悔しない復興を成し遂げられることを祈っています。例えば、かっては神戸の西の新開地と呼ばれていた繁華街長田区大正筋商店街。震災でその80%以上を焼失したが今では大きなビルが多く建ち、外観的には完全に復興したように見える。以下参照。
新長田・六間道

・・・が、その実態はどうなのか・・。以下を一読されてみるのも良いのでは・・・。

震災から19年、神戸市がもたらした“復興災害”~市民の資産毀損させ他県企業優先




参考
※1:J-SHIS地震ハザードステーション
http://www.j-shis.bosai.go.jp/
※2:NHKそなえる防災
http://www.nhk.or.jp/sonae/
※3:地震・防災:あなたとあなたの家族を守るために
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/index.htm
※4:神戸市安全・安心のページ
http://www.city.kobe.lg.jp/safety/index.html
※5:SOuL FLOWER OFFiCiAL CiTE
http://www.breast.co.jp/soulflower/index.html
※6:神戸で生まれ東北に響く 「満月の夕」の歌:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/CMTW1412020400002.html
※7:月齢カレンダー - こよみのページ:1995年2月
http://koyomi8.com/moonage.htm?cmd=19550209110
※8:神戸元気村
http://www.geocities.jp/anomotoyuki/koube/genkimura.html
※9:神戸元気村、解散。震災7年に思う。
http://www.jca.apc.org/water-w/2002KOBE.html
※10:「しあわせ運べるように」公式サイト
http://www.shiawasehakoberuyouni.jp/profile.html
※11:1.17は忘れない ひょうご安全の日公式サイト
http://19950117hyogo.jp/
※12:地震調査研究推進本部
http://www.jishin.go.jp/main/index.html
※13:今後30年、大地震の確率上昇 相模トラフの想定盛り込む :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG19HA7_Z11C14A2CR8000/
1995年、被災地神戸からの元気
http://www.geocities.jp/poppo1954/index.htm
震災発 | 2015年-阪神・淡路大震災20年メモリアルイベント一覧・リンク集
http://www.shinsaihatsu.com/news/past_news15event.html
神戸新聞/阪神・淡路大震災20年特集
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/chronicle/
阪神・淡路大震災 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%83%BB%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD

明太子の日

2015-01-10 | 記念日
何時も参考にしている「今日は何の日~毎日が記念日~」(※1)を見ると、今日・1月10日の記念日に「明太子の日」があった。
福岡県福岡市博多区に本社を置く辛子明太子のメーカーふくや(※2)が制定したそうである。
1949(昭和24)年のこの日(十日恵比須の日)、前年のふくや創業以来研究を重ねてきた「明太子」を初めて製造し、店頭に並べ販売を開始。福岡名産「からし明太子」が誕生した。
「明太子」は助宗鱈(すけそうだら。介党鱈とも書く)の卵(鱈子[たらこ])の塩辛で、元々は朝鮮半島に伝わる家庭の惣菜だった。これを日本人の口に合うように味附けして、からし明太子が作り上げられた。…とある。

「十日恵比須」(十日戎)は、正月10日に行われる初恵比須(はつえびす)の祭礼である。わが地元・兵庫県西宮市の西宮神社・大阪の浪速区にある今宮戎・京都東山区建仁寺門前の蛭子(えびす)神社などの祭りが名高い。西宮神社は、えびす神社の総本社(名称:「えびす宮総本社」)とされている。
えびす神社は、えびす或いはヒルコ或いは事代主を祭神とする神社であり、全国に点在し、夷神社、戎神社、胡神社、蛭子神社、恵比須神社、恵比寿神社、恵美須神社、恵毘須神社などと表記する。また正式名では「えびす」の語を含まない神社であっても、祭神がえびすである場合「○○えびす神社」と通称されることもある。またおもに関西地域では、親しみを込めて、「えべっさん」などと呼称されている。
神社では、いろいろな宝物を枝先につけた縁起物の笹を売るが、この始まりは、京都の蛭子神社だと聞いている。「商売繁盛でササもってこい」。京都では「酒」のことを「ササ」という。お酒を飲んで千鳥足で来る参拝客が多く、この「ササ」から「笹」とし、青々として真っすぐ伸びることから縁起が良く、ゑびす様の持ち物である釣り竿でもあることから笹の授与が始まったという。それを、門前に店を構えていた露天商たちが全国の「ゑびす神社」で笹を縁起物として販売し、えべっさんと笹は切っても切れないものになったようだ。
ふくやが「明太子」を製造・販売を開始したのが十日恵比須の日とあるが、これは、ふくやの本社と同じ場所・博多区にある十日恵比須神社の祭礼の日であろう。
同神社では、毎年1月8日から1月11日まで正月大祭が執り行われ、8日が「初えびす」、9日が「宵えびす」、10日が「正大祭」、11日が「残りえびす」と呼ばれている。正月三が日を過ぎて福岡博多の街で最初に行われるお祭りであり、正月大祭期間中は福引きや芸妓かち(徒歩)詣り(1月9日)などが有名。今年一年間の商売繁昌、家内安全、交通安全、漁業繁栄などを願う人々で大変賑わっているようだ。
同社正月大祭については、同社HP(※3)の以下のページが詳しい。
http://www.tooka-ebisu.or.jp/newyear.html

ふくやが制定した1月10日の「明太子の日」は、日本記念日協会には登録されていないが、同協会には、これとは別に、12月12日の「明太子の日」が記念日登録されている。その由来については以下のように書かれている。
「韓国伝来の辛子明太子が初めて日本に到来した発祥の地の山口県下関。その下関市で明太子専門業として、辛子明太子を全国に普及させてきた前田海産株式会社(※4)が制定したもの。
日付は日本で初めて「明太子」という名称が新聞(関門日日新聞)に登場した1914(大正3)年12月12日に由来する(「明太子開発史」成山堂刊に記載)。・・・と。そして、「当時の新聞などの客観的な資料を中心に制作している」という以下参考の※5:「明太子.JP」のホームページがリンクされていた。
このように、明太子については、韓国から輸入したという話(下関)と明太子を独自に開発した(博多)という説があるようだ。
Wikipediaによると、朝鮮王朝 (李朝) の太祖(李 成桂)から第 25代哲宗までの 471年間の歴史を編年体で記録した書『李朝実録』(正式には『朝鮮王朝実録』) のなかの1424年に編纂されたという『世宗実録』には、「1424年、監司(ここ参照)がタラの卵の塩辛を献上した」との記述が残っているが、タラコはどこにでもあるもので、学術的に辛子明太子と結びつけることはできない。スケトウダラを加工して食べる食文化は江戸時代の日本でも広まっていた。・・・とある。

スケトウダラ (介党鱈、鯳、Theragra chalcogramma、英: Alaska pollock)は、タラ目タラ科に属する魚類で、体長約70cm、最大で全長91 cm、体重1,400 gに達するが寿命は不明だそうである。3歳以上で性成熟し、産卵期は海域によって異なり12月から翌年3月、分離沈性卵(沈性卵=周りの水より重く沈む卵。⇔浮性卵)を産卵する。稚魚は春先の藍藻類の大増殖期の頃に孵化し、成長すると沖合の深い海域に移動する。
マダラよりは小さく、背側の体色は褐色で、まだら模様が繋がった2本の縦帯模様がある。腹側は白色。タラ類に共通の特徴である。3基の背鰭(せびれ)と2基の臀鰭(しりびれ)をもつ。外見はマダラやコマイに似るが、スケトウダラは目が大きく、下顎が上顎より前に出ており、口ひげはほとんど目立たない。


上掲の画像はスケトウダラ、下段がマダラである。
単一種としての漁獲対象資源の大きさとしては世界の漁業資源の中でも、最も大きなものの一つだそうである。本種は北太平洋およびその付属海に広く分布し、太平洋東岸のオレゴン沖から、アラスカ湾ベーリング海カムチャッカ半島東岸・西岸、オホーツク海、日本周辺東北沖以北の太平洋および日本海に分布がみられる.。
広い範囲を回遊せず比較的狭い範囲の群れを形成していると考えられており、これらの海域にはそれぞれ産卵場が形成され、漁業が広く展開されている(※6)。
我が国のスケトウダラを対象とする漁業は、北海道周辺海域とともに200海里体制(排他的経済水域)が確立される以前はベーリング海を主要な漁場として利用していた。ベーリング海東部では1930 年代にすでにスケトウダラを漁獲してフィッシュミール(魚粉)としていた記録があるそうだ。
1960 年代に北海道立水産試験場(※7のここ参照)により冷凍スリミ製法が開発されたことにより、スケトウダラの需要が高まり、これにより漁場もベーリング海から沿海州、オホーツク海へと北洋全域に広がり、漁獲量は増大し始めた。
FAO(国際連合食糧農業機関)統計によると、我が国沿岸を含む北太平洋全域のスケトウダラ漁獲量は1976年にはピークの500万トンに達し、その後一時減少するものの、1978 年から再び増加の傾向を示し、1986年には歴史上最大の680万トンの漁獲が得られているが、1990 年代以降になると、米国の漁獲が堅調な推移を示す中で、日本とロシアの漁獲量は減少し、近年の総漁獲量は300万トンを下回り、最盛期の半分以下となっているようだ(※8参照)。
又、我が国周辺では、北海道および本州北部の太平洋岸および日本海側にスケトウダラの産卵場が形成され、沖合底曳き網および刺し網漁業等の沿岸漁業により漁獲されている。北海道南部の噴火湾(内浦湾)は太平洋系群を支える産卵場として、また北海道西部の桧山沖(江差町)は日本海北部系群の産卵場として知られている。北海道では 1900 年代からスケトウダラ漁業が開発され、1910 年ころから、すでに漁獲統計上にスケトウダラが現れていたとされている。
1970~80 年代における国内総漁獲量は年間最大50 万トンを超えていたが、1990 年代に入ると、根室海峡、日本海北部系群、およびオホーツク海南部の漁獲量は減少を続け、近年の資源水準は低位となっている。1980 年代後半にはこれら3系群(海域)で年間30万トン前後であった漁獲量は1998年以降10万トン未満となっている。このような中で、唯一、太平洋系群のみは比較的安定した漁獲が続いてきた。
太平洋系群の資源量は1990年代には106~156万トンの範囲で変動していると推定されており、年間20万トン前後の漁獲が得られていた。しかし、この群れに関しては、近年、加入量が安定せず、不連続に発生する卓越年級の有無に資源量が大きく影響される状況にあり、資源状況は楽観できないとされている。2006年度の資源量は77万トンと推定され、ここから年間およそ14万トンの漁獲が得られているという(※8参照)。

このようなスケトウダラは、漁獲しても古くは冷凍できないために、ほとんどが干ものなどに加工されていたが、それでも利用しきれないものは、飼料になったり破棄されることもあったようだ。これを船上ですり身にし、冷凍する技術が確立されてから、一躍脚光を浴びることになり、以来、現在でも多くの竹輪や蒲鉾、薩摩揚げなどが本種のすり身で作られている。又、鮮魚としてはあまり馴染みがないが、安い鍋材料、煮つけなどに使われてもいるようだ。
本体よりも、万人に好かれているのが真子(食用とされる魚類の卵巣⇒魚介類の卵参照)であり、名称は「鱈子(タラコ)」であるが、正しくは「スケトウダラコ」である。タラ類でもっとも卵巣の味が良いという。
白子 (精巣)の味わいもよいのだが、こちらはマダラよりも落ちるそうだ(※9参照)。
1903年頃から北海道においてスケトウダラ漁が本格化して、スケトウダラの卵の塩漬け(たらこ)が盛んに食べられるようになり、1910年から1921年にかけてスケトウダラの卵巣に食塩と食紅を添加した「紅葉子(もみじこ)」が開発され、樽詰めにして北海道各地、山形、新潟、東京、名古屋、大阪、下関等に出荷されたという。
昭和初期までは塩漬け、生のものを「すけこ」、「すけそうこ」と呼ばれていたようで、これは「すけそうだら子(すけそうだらこ)」の略で、製品名としては正しく表記していた。それがいつの間にか「すけそう」が消費者の側で略されて「たらこ」になったという。これとゆでたジャガイモで作るタラモサラダも美味しいそうだ(※10参照)。

冒頭に述べたように、辛子明太子の歴史は、現在、諸説が複数存在しているようだが、※5:「明太子.JP」では歴史的資料に基づいた、今西一・中谷三男共著『明太子開発史』(成山堂刊)を基に、辛子明太子の一節が述べられている。
スケトウダラを加工して食べる食文化は、17世紀ごろには朝鮮半島で広まっていたとされており、赤唐辛子ニンニクでまぶした「キムチ」や「コチョジャン」等と同じように辛子めんたいこは古くから辛子を使用した朝鮮半島の伝統的食品の1つとなっていた。
日露戦争直後の1905(明治38)年、から、鉄道省(後の日本国有鉄道→現・JRグループ)は下関と当時日本領であった朝鮮釜山との間に関釜連絡船を運航していた。また、太平洋戦争中1943(昭和18)年には下関港の容量不足と輸送力の増強の目的から、博多~釜山間にも「博釜連絡船も新設されていた。昭和の初期から、韓国側の連絡船では釜山を経由して、赤唐辛子やニンニクでまぶした辛子明太子(「明卵漬[ミョンナッジョ]」)が日本へ輸入され、下関、福岡、北九州、などの朝鮮半島との交流が盛んな地域では、日常の惣菜として魚屋の店頭などに並んでいた。
これが「博多の辛子明太子」として博多の名物食品になったのは、第二次世界大戦後、朝鮮(現在の韓国のソウルの地)で育った川原俊夫氏(㈱ふくやの創業者)が博多に引き揚げてきて、朝鮮で食べた美味しい辛子明太子の味を日本人に伝えたいとの想いで、1949(昭和24)年頃から北海道産のタラコを使って唐辛子を用いた調味液等で味付けする独自の加工方法で製品化し、博多中洲で販売したのがきっかけとされている。
辛子明太子は、当初は、食卓に並ぶ惣菜の一つという存在であったが、この博多の辛子明太子は朝鮮半島の原形のものより、漬け込みで味を染みこませるだけではなく、乳酸発酵をともなうという効果もあり、日本人の味覚に合うように工夫されていることから、徐々にその美味しさが広く浸透することとなる。
ふくやの後を追って、福岡市内を中心にメーカーも増え、競争による製品開発も活発化し、特に、1975(昭和50)年に山陽新幹線が博多駅まで繋がり、東京博多開全通後に設立された福さ屋(※12)が新幹線駅や東京の三越百貨店等へ販路を築き、「博多名物辛子めんたいこ」として全国的に知れ渡るようになり、土産品、贈答品としても高い評価を得るようになった。
博多名産・辛子明太子の方が全国へ波及したために最初に入ってきた下関のまぶし製法よりも博多で盛んであった漬け込み製法が主流となり(※11のQ&A参照)、近年では料亭や老舗醤油メーカーなども明太子を扱うようになり、良質の原材料を贅沢に使用した高級品の研究も進んでいるが、現在でも、まぶし製法も少数ながら生産されており、市場向けの高級品として流通している。
そんな辛子明太子。土産用以外に、全国でおにぎり・パスタの具としても広く利用・販売されており、2007年には、おにぎりなどの加工用辛子明太子の出荷量が、ついに土産用の辛子明太子の出荷量を逆転したという。
辛子明太子は日本全国に広がり、その普及の裏で誰が辛子明太子の元祖かを調べ主張する者がいる。これはかつて各業者がそれぞれ自分だと名乗っていたから混乱が起きたのであり、日本統治時代の朝鮮で現地の辛子漬け明太子を初めて販売した樋口商店(※13)の樋口伊都羽、戦後のパイオニアを育てた油政商店(下関/海産物関連業)の山根考三、従来の紅葉子に唐辛子や酒粕を散布したまぶし型明太子の始祖・高井商店(下関。現在のイリイチ食品の前身)の高井英一郎、現在の辛子明太子の直系を造ったふくや(博多)の川原俊夫の労があって今日に至っているという説がある。このように多くのプロセスを経て今日の辛子明太子が日本に普及したのである。

先日(2015年1月5日)朝日新聞朝刊第一面トップ記事に「明太子 国境を溶かす」のタイトルで、冒頭以下のように書かれていた。
昨年暮れ、ソウル。百貨店の食品売り場で辛子明太子店に人だかりが出来ていた。
店員が呼びかける。
「日本の家庭の味です」・・・・と。
そして、明太子の起源の一つは、1948年、博多にある。としてふくやの紹介がされていた。朝鮮半島から伝わったメンタイが日本の家庭の味として本国に逆に進出している。日本には、明太子の他キムチやチジミ、焼肉など今では朝鮮半島から伝わった食文化が多く根付いている。
日本の国土、風土の中で独自に発達した料理「日本料理」(日本食。和食とも呼ぶ)が世界の注目を集めている。
2013年11月、「和食」の無形文化遺産への登録が、ユネスコの事前審査で勧告され、同年12月に登録されたからだ。
米(穀類)・野菜・魚が多くの場合料理の基本素材とされており、寿司および刺身、天ぷら、蕎麦などは日本国内外でもよく知られると共に料理店はミシュランにおける評価も高い。
オムライスやカレーライスなど洋食の一部でも、日本に定着し一般的に食され日本で独自の発達を遂げている料理は日本国外において日本の料理として扱われることもある。ラーメンなど中国料理をルーツとする(和式)中華料理や、イタリア料理をルーツとするスパゲッティ・ナポリタンなどについても同様である。ここの所日本には外国人観光客が大勢訪れるようになり、日本文化の多様さに驚いていることだろう。
日本は昔から外国の文化を受け入れられるものはすべて受け入れ、それを日本ナイズ化してきた。朝鮮半島の食文化も同様である。
同じ素材を使っても、調味料やソースを使て日本独自の料理に変えてゆく。戦後しばらくの間薄味好みの日本人、特に関西などは、焼肉屋やキムチなど一部の人を除いては嫌って食べなかった。それが、日本人の好みに合わせた味付けに変えてゆき今では、大勢の人が之を食べるようになった。あらゆるものを日本のものに変えてゆく…これは日本の一番大きなとくしょくかもしれない。今や日本人にとって明太子も日本の食べ物となっている。
韓国への進出では明太子のライバル社「やまやコミュニケーションズ」(福岡市。※14参照)が先行しているが、「ふくや」も里帰りを果たすべく計画を練っているようだ。

上掲の画像はソウルに進出した「やまや」の料理店で、明太子が食べ放題のランチをとる人達(2015年1月5日付朝日新聞より)

辛子明太子は、その形状によって販売価格・流通経路が大きく異なる。
卵巣の形を保ったままのものは「真子(まこ)」といい、比較的高値で取引される。主に贈答や接待に用いられる。皮が切れたものを「切れ子(きれこ)」と称し、比較的安価で家庭用として好まれる。さらにまったく形がなく粒のみのものを「ばら子(ばらこ)」という。ばら子はパック詰めにして業務用に使用されたり、チューブに入れたりして販売されている。切れ子には少し切れただけのものから、ほとんどばら子に近いようなものまで多種が存在する。なお、真子・切れ子・ばら子の品質には特に違いはない。
私は神戸在住だが、私の家では、三宮に出たときなどはそごう神戸店に入店している鮮魚店「漁舟」で明太子を買っている。切れ子だがちょっと切れただけの立派なものであり、非常においしい。この正月用に年末に買いに行った時も常連客がすごく大勢列を作って買ってっていた。
冒頭に掲載のものは、私達大人が食べるための明太子である。あまり辛くはなく、生のままで食べる。ただ孫用には別には明太子ではなく普通のたらこを買っている。明太子同様立派なものでこれも生で食べるとおいしい。
明太子に対してどのようなイメージを持っているのかは人それぞれだが、本当においしい明太子のことを知らないのは不幸なことだ。
明太子を食べくらべてみると、ものすごく辛いものもあれば、辛さが控えめなものもある。そして本当においしい明太子は、辛らさの中にもしっかりとした味が感じられる。そういう明太子は値段も高いが、一度は食べてみて欲しいものだ。「漁舟」で明太子はほんの少し切れただけの切れ子のものをグラム買いするので、非常にお買い得だ。
人によって、明太子にどういうものを求めるかも違うだろうが、一度本当においしい明太子を体験したら、スーパーなどで売っている普通のものではもの足りなくなるだろう。明太子されど明太子・・・・と言ったところである。

お土産用や贈答用として販売されている良質な明太子も、実は食べくらべてみると全然味が違う。私は現役時代仕事柄出張が多く、福岡や下関へ出張することが多かったし、サラリーマン人生後半には福岡にも5~6年転勤で住んでいたこともある。
福岡ではやまややふくやのものを良く買っていたし、下関へ行くとかば田食品(※14参照)の「,昆布漬の辛子明太子」を土産によく買ってきたものだ。辛さも昆布味でまろやかになっており、私たち関西人の口にはよく合い、だれからも好まれ評判が良かった。
スケトウダラの卵巣は2本が一対(いっつい)の状態で繋がっており、対単位で一腹(ひとはら)ニ腹(ふたはら)と数える。
1尾の卵巣には約20万~150万粒の魚卵が詰まっている。 一般に魚卵は栄養豊富とされているが、スケトウダラの卵巣も例外ではなく、ビタミンB1・B2・Eが豊富に含まれている。また、エネルギーは100g当たり126キロカロリー(※15:「五訂増補日本食品標準成分表」参照)あるという。
私は酒が好きなのでの明太子やたらこでも質の良いものは,生でそのまま食べるのが好きだが、普通のものなら これを加熱して少し焼いたり、おにぎりの具材やお茶漬けの具、あるいはイカと和えて酒の肴としたりなど・・・好物なので良く食べる。
しかし、私の場合、痛風ではないが数値的にその直前にあり、明太子などの魚卵は痛風には良くないプリン体が多いともいわれるので余り量をとらず適量を食べる事に心がけている。大体、病気と云うのは、嫌なもので、好きなものが食べられなくなるのが辛いよ。

参考:
※1:今日は何の日~毎日が記念日~
http://www.nnh.to/
※2:ふくや
http://www.fukuya.com
※3:十日恵比須神社 公式ホームページ
http://www.tooka-ebisu.or.jp/
※4:前田海産公式ホームページ
http://www.maeda.ne.jp/indexj.html
※5:明太子.JP
http://gpi.sakura.ne.jp/rekishi/
※6:水産庁/「平成25年度 我が国周辺水域の資源評価」の公表 ... - 農林水産省
http://www.jfa.maff.go.jp/j/press/sigen/131031.html
※7:独立行政法人 水産総合研究センター
http://www.fra.affrc.go.jp/
※8:スケトウダラ(総説) - 国際漁業資源の現況(Adobe PDF)
http://kokushi.job.affrc.go.jp/H19/H19/H19_59.pdf#search='%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%88%E3%82%A6%E3%83%80%E3%83%A9+%E6%BC%81%E7%8D%B2+%E6%AD%B4%E5%8F%B2'
※9:市場魚貝類図鑑
http://www.zukan-bouz.com/
※10:タラモサラダのレシピ 469品 [クックパッド]
http://cookpad.com/search/%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%80
※11:全国辛子めんたいこ食品公正取引協議会
http://www.mentaiko-ftc.org/index.html
※12:福さ屋公式ホームページ
http://www.fukusaya.info/
※13:株式会社樋口商店 ホームページ
http://www.higuchisyoten.co.jp/webpage/
※14:明太子(めんたいこ)のやまやコミュニケーションズ
http://www.yamaya.com/
※15:かば田食品ホームページ
http://www.kabata.com/
※15:五訂増補日本食品標準成分表-文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/05031802.htm
朝鮮王朝実録 - 文化財庁
http://jpn.cha.go.kr/japanese/html/sub3/sub2.jsp
東京大学総合図書館旧蔵 朝鮮王朝実録 画像データベース
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/jitsuroku/
辛子明太子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E5%AD%90%E6%98%8E%E5%A4%AA%E5%AD%90