今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

沖ノ鳥島をコンクリート保全

2010-11-26 | 歴史
沖ノ鳥島(おきのとりしま)は、北緯20度25分、東経136度05分に位置し、東京から約1,700km、小笠原諸島父島からでも約900km離れた我が国最南端の島である。
太平洋の絶海に孤立して形成された約東西5 km、南北1.8kmほどのサンゴ礁で出来た島(環礁)で、海面上に姿を見せるのは東小島(かっては東露岩と呼ばれていた)と北小島(北露岩と呼ばれていた)の2つの島(岩の様、ともに干潮時、高さ約1,5m)だけ。1987(昭和62)年9月、海上保安庁が行った調査では、2つの島は浸食が激しく、満潮時にはわずか70センチほどが海面上に姿を現すのみであることがわかった。このままでは、この2つの島が侵食により、水没して領土ではなくなってしまう恐れがあった。島が消滅すると200カイリ(海里)漁業水域(排他的経済水域(EEZ)参照)などの広大な経済水域が失われてしまうため、時の政府は、同年11月26日、海岸災害復旧事業の名目で、コンクリートによる「領土保全工事」を行なうことに決定した。冒頭向かって左の画像は、1987(昭和62)年9月21日に撮影した干潮時の沖の鳥島北露岩。そして、建設省(現:国土交通省)が翌1988(昭和63)年5月より、岩の周りを鉄製消波ブロックで2重に囲み、その中を特殊コンクリートで固める緊急対策工事を実施し、10月末までにほぼ完了した。それが冒頭右の画像:出来上がった目玉焼きのように見えるコンクリートの領土であり、これは同年9月4日撮影のものである(画像はいずれも、アサヒクロニクル「週間20世紀」1987年号、1988年号より借用)。
日本では小笠原諸島の一部として、東京都小笠原村に属し、住所は郵便番号「100-2100」、東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地(北小島)及び、2番地(東小島)となっている。
しかしながら、施工後約10年が経過し、厳しい自然条件のもと護岸の破損などの劣化が急速に進行。東京都だけでは保守費用を負担しきれないことから、1999(平成11)年度以降は島の保全に万全を期するため、海岸法を改正し、全額国費により国土交通省(当時建設省)が直接海岸の維持管理を行うことになった。
現在では北小島と東小島の2つのみであるが、第二次世界大戦の前の調査では北小島を含め6つの島があったようだが、この島が何時日本の領土となったかについて、以下参考に記載の※1の国土交通省HP:「沖の鳥島の保全」によれば、「第一次大戦後の1931(昭和6)年南洋群島委任統治とともに日本領となる。」・・とある。この時、初めてこの島が日本の領土となり、それまでパレセヴェラあるいはダグラス礁と呼ばれていたこの珊瑚礁が、内務省告示第163号により初めて沖ノ鳥島と命名された由。
又、国土交通省HPには1939(昭和14)年から1941(昭和16)年までに気象観測所並びに灯台の建設工事を行い、前後7回に分けて基台ブロック工事を行なう。・・とあるが、これは、第一次大戦の緊迫した国際情勢の中、水上航空基地や対空監視哨など軍事施設の建設が主目的であったようである(以下参考に記載の※2、※3を参照)。実際に沖の鳥島には太平洋戦争時の米空軍の攻撃跡があるそうだ。
第二次世界大戦後沖ノ鳥島は「サンフランシスコ平和条約」により、アメリカの統治下にあったが、1964(昭和39)年に日本はアメリカと小笠原返還協定を締結。1968(昭和43 )年に小笠原と共に返還された。
海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)による海洋(海)は自由航行の認められた公海と、領海(12海里〔一部3海里〕)、接続海域(領海から12海里以内の排他的経済水域内)、排他的経済水域(EEZ)の4つに分けられている。排他的経済水域(EEZ。以後EEZとする)とは、国連海洋法条約に基づいて設定される経済的な主権がおよぶ水域を指し、沿岸国は国連海洋法条約に基づいた国内法を制定することで自国の沿岸から200海里(約370km<1海里=1,852m>)の範囲内の水産資源および鉱物資源などの非生物資源の探査と開発に関する権利を得られる。
先にも述べたように、沖ノ鳥島は、我が国の国土面積(約38万km²)を上回る約40万km²のEEZを有する国土保全上きわめて重要な島であるが、この沖ノ鳥島が「島」といえるかどうか・・・?
国連海洋法条約では、「島とは自然に形成された陸地であり、水に囲まれ、満潮時においても水面上にあるものをいう」(第121条第1項)と規定されており、この定義に従えば、あくまで満潮時でも水面上に出ている部分がごくわずかでもあるのだから、沖ノ鳥島はれっきとした「島」ということになる。日本政府はこの国際法を根拠に沖ノ鳥島は「島」であるとして、島を中心にした半径200海里について「EEZ」と設定している。
しかし、この日本のEEZ設定に対して、2001(平成13)年頃から水域内で中国の海洋調査船が調査をしていることが判明。日本の抗議に対し中国側は「沖ノ鳥島は島ではなく岩だ」として、日本のEEZの設定を認めない姿勢をとっているようだ。こうした動きもあって、東京都は沖ノ鳥島での経済活動を実践するため、深層水と表層水の温度差を利用した発電の実験や漁業活動の計画を公表し、2005(平成17)年5月20日には「東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地」と記したチタン製の看板を設置。経済活動実証のために同年8月に建設が決まった灯台の運用を開始しているという(以下参考に記載の※4:「日本財団」のここ)参照。)ただ、この「島」とする主張には、若干苦しい言い訳の面もあり、今後の火種になることが心配はされる(その理由等は以下参考に記載の※3のここ、又、※5などを参照)。
我が国は、四方を海に囲まれた海洋国家であり、古来より、豊かな海の幸を始めとして、人や物の往来など、海の恵みを享受しながら発展してきた。資源の乏しい我が国にとって、海は海上交易により多くの富をもたらす場でもあるだけでなく、海は国民の重要な食料である水産物を安定的に供給する場であり、今後、海底に眠る鉱物などの海洋資源に対する大きな期待もある。
日本の領土面積は約38万km²で、世界第61位に過ぎないが、日本の領海(領土から約22kmは約43万平方km)、EEZ(同約370km)は約405万平方km。領海とEEZの合計は世界第6位の広さを誇っている。しかし、このEEZの設定に関して、複数国家の水域が重複する地域を中心として国家間の対立が発生しており、海洋国家日本にとっては、沿岸域を含む「領海」ならびに「EEZ」とEEZの外側に国連海洋法条約の許す範囲で拡張が可能な「大陸棚」等の海洋管理は、国策としての最重要課題の1つである。
海洋管理のうえで重要な役割を果たすのが、わが国の領土であってEEZの起点を構成する遠隔離島の存在である。とりわけ、領有権問題を抱える北方四島(歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島=北方領土)、竹島尖閣諸島、東シナ海と太平洋の境界に位置する南西諸島(北から南へ、大隅諸島、トカラ列島、奄美群島、沖縄諸島、宮古列島、八重山列島、尖閣諸島と連なる。)、太平洋のはるか沖合に点在する大東諸島、小笠原諸島・沖ノ鳥島・南鳥島の存在が大きい。これら日本の領海がどのようになっているか地図で確認した人は少ないのではないかと思うが、その概略図を以下で見てください。遠隔地にある離島の重要性が改めて理解できるのではないだろうか。
日本の島へ行こう《日本の領海》 こちら参照 ⇒ http://imagic.qee.jp/eez.html
これらの遠隔離島は、基本的に行政区画としてはそれぞれ地方自治体のもとにあり、前述の領土、領海ならびに沿岸域管理の関係がでてくる。しかし、EEZならびに大陸棚の管理の上では、その周辺360度がEEZおよび大陸棚を構成するという特異な条件下にあるので、これら遠隔離島およびその周辺のEEZおよび大陸棚は、都道府県ではなく国が管理すべき性質のものであろう。事実、沖ノ鳥島については、海岸法の改正により海岸の直轄管理制度が導入されている。
EEZの場合は、領海の基線から200海里までの海洋空間、すなわち海面・海中・海底ならびに海底下のすべてが管理の対象範囲であり、EEZの範囲内にある生物資源、海底鉱物資源やエネルギーなどの非生物資源のすべて、現在利用されているものはもちろん将来利用されることになるものや、科学的調査活動を含むこれらの空間・領域の利用そのもの全てが管理の対象である。ただし、船舶航行の自由や上空飛行の自由などが適用され、「公海」と同様の法的地位をも併せ持った性格を有する海域である。
これらを管理するのは国にしか出来ない。
このような広大な日本の海の海上の安全および治安の確保を図ることを任務としているのが国土交通省の外局である海上保安庁である。この海上保安庁は海上保安庁法第25条により、軍隊ではない事が規定されている。世界的に見た場合、一般的に主権を行使できる国境警備隊・沿岸警備隊は「準軍事組織」と認知されているため、海外の報道や資料では海上保安庁を「準軍事組織」として扱っている場合もあるらしいが、巡視船などに海上自衛官を同乗させることはほとんどなく、日本の法律もそれを定めていない。
竹島の場合、1952(昭和27)年に大韓民国大統領李承晩が自国の支配下にあると一方的に宣言し占領。現在も韓国側が武力によって占有している.。以来、韓国は現在も、軍に準ずる装備を持つ韓国の武装警察官(独島警備隊)約40名を常駐させているが、武力による占拠に加え、この島に守備隊を常駐させ日本側の接近を警戒している。そのため、日本の海上保安庁の船舶や漁船はこの島の領海内には入れない状態が続いており、日本政府の再三の抗議にもかかわらず、灯台、ヘリポート、船舶の接岸場などを設置、島の断崖絶壁には宿泊施設を建設し、実効支配をしているようだ。 
今年・2010(平成22)年9月7日、中国漁船が日本の領海である沖縄県尖閣諸島付近で操業し、その後日本の海上保安庁の巡視船に衝突してきた事件いわゆる「尖閣諸島中国漁船衝突事件」と、海上保安庁がこのときの様子をビデオに撮影したものがインターネットのYouTubeに流れ今、マスコミを騒がせている。
そもそも、ことの発端は、領海を侵犯した中国の漁船が停船命令を無視し、逃げるどころか海上保安庁の巡視船に体当たりしてきた。海上保安庁は8日にこの中国漁船を停船させ、同漁船の船長を公務執行妨害で逮捕。この船の船長は、外国人漁業規制法違反等の容疑で石垣島へ連行された。船長を除く船員も同漁船にて石垣港へ回航、事情聴取が行われた。
そして、船長らを日本の法に基づいて粛々と裁けばよいのに、中国政府の「釣魚島(尖閣諸島)は中国固有の領土」であるという根拠を元に、事件発生の日から5回にわたって北京駐在の丹羽宇一郎大使を呼び出し、日本側の措置に強硬に抗議、船長・船員の即時釈放を要求してきた。これに屈したかのように、船員14人は13日釈放。那覇地方検察庁鈴木亨・次席検事は船長の行為に計画性が認められないとし、また日中関係を考慮したとして、1人残っていた中国人船長をも処分保留で釈放すると突如発表。本決定を仙石由人官房長官が容認し、25日未明、中国側が用意したチャーター機で、中国人船長は石垣空港から中国へと送還された。中国に到着した船長は畿内より降り立つときVサインをし、英雄の如く迎え入れられている姿をテレビで見たときには、日本人として情けなくて見ていられなかった 。
この取調べ途中に日中関係を考慮するなどとして、政治的配慮から中国人船長を釈放するなどと言ったことをする権限は検察庁に無く、検察庁の者が自分の意思であのような発言をして船長を釈放などするわけは常識的にないだろうから、これは恐らく仙石官房長官など政府からの圧力によるものだろうということは見え透いている。
日本の海上の安全と治安を命を懸けて守っている海上保安庁など現場の多くの者は、はらわたが煮えくり返るほど憤り、悔しい思いをしたことだろう。それは、我々日本国民の多くもも同様である。
そんな民主党菅政権の弱腰外交を見透かしたように、2010(平成22)年 11月1日、ロシア連邦のメドヴェージェフ大統領が、北方領土の国後島を訪問し、「ロシアの領土を訪問」しただけだと発言している。
こんなことで、日本の国、領土が守れるのか・・・。野党マスコミなどからも海上保安庁が中国漁船が追突してきた時の一部始終を撮った証拠のビデオを公開せよとの求めにも何故か頑として応じなかった民主党左派政府であるが、11月に入ると予算委員会所属の一部の議員に対してのみ那覇地検によって数分間に編集されたものが限定公開された。
しかし、その後、ユーチューブ上に海上保安庁が撮影したと思われる44分間にわたる動画が何者かによって公開された(ビデオの公開)。
インターネット動画サイト・YouTube への投稿者名「SENGOKU38」のSENGOKUは仙石38はサンパ-中国でアホと云う意味だそうだ。ビデオの内容は以下で見ることが出来る。
YouTube-尖閣諸島中国漁船衝突事件 流出ビデオ コピー転載 1/6 
http://www.youtube.com/watch?v=7t1Z7CuFWxI
このビデオの公開後、我地元神戸にある第5管区海上保安本部所属の男性海上保安官が自分が投稿したと名乗り出てきた。この保安官に対しては、内部情報を外部に流出した公務員としての規律上の責任問題は別として、日本国民が知りたいと思ったビデオを見ることが出来るようにしてくれたことに対して、「よくやった」とする意見が多い。
しかし、もし、これが機密文書であればこれが簡単に流出してしまう管理体制はまったくの杜撰と言うほか無く、所管の大臣の責任は当然追及されるべきだろう。それに、日本人として国を守らないといけないとの気持ちが少しでもあるなら今のなんとも頼りない菅政権は、1日でも早く政権交代をしてもらわないと、日本の島が、そして、領土が守れなくなってしまうだろう。それが、一番の心配事である。
兎に角、今、日本は、島・領土を守るために、早急に、国防問題を考えなおさなければならない時期に来ている。
(冒頭の画像向かって左は、1987年9月21日に撮影した干潮時の沖の鳥島北露岩。右は、コンクリートで固める緊急対策工事を実施した後の翌年9月4日撮影のものである。いずれもアサヒクロニクル「週間20世紀」より借用)
※1:国土交通省HP:沖の鳥島の保全(国土交通省HP)
http://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/kaigan/gaiyou/panf/okinotori/index.html
※2:沖の鳥島問題
http://www.tanaka-kunitaka.net/okino-torishima/
※3:幻想諸島航海記/[特別篇]沖ノ鳥島の謎
http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/sp01/
※4:日本財団
http://www.nippon-foundation.or.jp/ships/topics_dtl/2007956/20079561.html
※5:領有権問題の地域における戸籍・住民票登録等に関する質問主意書と答弁書
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ryouyuukennsitumonn.htm
小笠原諸島地名事典 Place Names
http://homepage1.nifty.com/Bonin-Islands/sakusaku/4_1.htm
沖ノ鳥島 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6
国土交通省関東地方整備局・京浜河川事務所|ホームページ
http://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/
海岸保全区域の指定(東京都知事)
http://www.tanaka-kunitaka.net/okino-torishima/3news.html
海上保安庁HP
http://www.kaiho.mlit.go.jp/
九州・パラオ海嶺南部の地殻構造(PDF)
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jepsjmo/cd-rom/2005cd-rom/pdf/j078/j078p-001.pdf#search='パラオ海嶺'
【イチから分かる】「海猿」海上保安庁の全貌 (1/3ページ) - MSN
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101020/crm1010201428020-n1.htm
尖閣諸島に関するニュース- Yahoo!ニュース
http://news.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&p=%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6&ei=UTF-8


いいかんぶつの日

2010-11-20 | 記念日
日本記念日協会で今日・11月20日の記念日をみると「いいかんぶつの日」があった。
記念日の由来には、“海産物や農産物を干したり乾燥させたりして出来るのが、昆布、かつお節、干ししいたけ、切干大根などの「かんぶつ(干物・乾物)」。日本の伝統的な食文化である「かんぶつ」を味わい、楽しみ、学ぶ日にと、日本かんぶつ協会が制定。日付は干物の「干」の字が「十」と「一」で成り立ち、乾物の「乾」の字は「十」「日」「十」「乞」から成り立っていることから、これらを組み合わせると「11月20日にかんぶつを乞う」と読むことができるため。」・・・とあった。ま~、色々記念日を考えるね~。
「かんぶつ」は漢字では干物とも乾物とも書く。干物は“ひもの”とも言うが、英語に直すと“Dried fish”。一般的に魚などの魚貝類の身を干して乾燥させ、保存性をもたせたものである。生物の魚などは常温で置いておくと急速に腐敗するがこれは主として微生物の繁殖が原因であるが、干物は、干して乾燥させ、かなりの水分を除くことで微生物が繁殖しにくいようにしている。同時に殆どが塩分に漬けているが、これは濃い食塩水の中では微生物が生育しにくくなること、又、塩の脱水効果により魚から水分が出て乾燥も進みやすくする利点もある。だから、塩が強い干物は、あまりカラカラに干さなくても保存がきき、生干しでも3、4日はもち、もう少しよく乾燥させれば一週間以上も保存することができるがその分、乾燥度の高いものほど身が硬くなる。
身を開き、内臓を取り除いてから干す加工法が一般的だが、いわしなど小型の魚はそのまま干して「丸干し」として食用に供するものもある。
乾肉(ほしにく)や、乾燥野菜なども「かんぶつ」の一種であるが、このような完全乾燥させたものは“乾物”(英語ではGroceries〔グロサリー〕)として、区別して扱われることが多い。
干物は風通しを特に重要視するため、乾燥した空気が吹き込む冬場の物が美味しいとされている。また、夏場は日光に当てると煮立ってしまい美味しさを損ねる為日陰干しが美味しいと言われている。実際には天日干しと言っても1時間程度干すだけであとは影にて干す事が多いようだ。全国の海辺では土産品としてよく使われている。冒頭掲載の写真では天日で干しているが、その時間も短時間で、干したあと1時間程度で直ぐに販売されるようだ。
干物も最近は保存性を高めるためにあまりひどく干したものは食味が悪くなるので一般に好まれず、生(なま)干しのものが好まれるようになった。そのため、乾燥という手段は貯蔵性を増すというより、原料から別のうま味をもった食品をつくるための手段とされるようになった。
干物の一種に一汐と呼ばれるものがある。これは漁師達が自分で食べる用に、とれたての魚を船上で開いて海水(汐)につけ、港に帰ってくるまで、乾かす程度に干したものが始まりだという。保存を目的に作る干物よりも薄塩で、魚の味わいがより楽しめる。こうすることによって、魚の水分がある程度減ってもうまみの成分量は変わらず、うまみが凝縮され、魚の持つうまみがより引き出されるので美味しいのだと聞いている。
炊きたてのご飯においしい干物。昔からこれほど簡単で身近な食べ物はそうはない。普通の家庭だけでなく、私など仕事で良く出張をしたが、そんな時宿泊したホテルや旅館の朝食でも和食には必ず「干物」が出てきた。
昔から余り肉食をしない日本人にとって、魚は動物性タンパク質の供給源として、またカロリー源としても重要な栄養食品であった。また、魚のタンパク質は体内では合成されない必須アミノ酸の一つ「リシン(リジン) 」を多く含んでおり、穀類、特に米を主食としている日本人は、このリシンが不足がち」になるので、「米と魚」の組み合わせは、必須アミノ酸のバランスが理想的で抜群に相性が良いそうだ。
私など、子供の頃には流通や保存の問題もあり、生の魚は臭うので大嫌いだったが、干物は塩漬けして魚の水分を出す過程で魚の生ぐさみも消えいるので食べることができた。今では、スーパーなどでも新鮮な生干しのものが豊富に販売されており、今でも、刺身以外の魚が余り好きではない私などは大変重宝している。
干物と言えば、2007(平成19)年度のユーキャン新語・流行語大賞の本選でのベスト10入りを逃したものの候補語60語にノミネートされた流行語に「干物女(ひものおんな)」があった。
干物女とはひうらさとるの漫画『ホタルノヒカリ』の主人公・雨宮蛍の生活ぶりから出来た言葉だそうだ。
この漫画は日本テレビでテレビドラマ化され、好評につき、今年(2010年)7月から続編の「ホタルノヒカリ2」も放送いるようだが、私自身は、漫画もドラマも見ていないが、ユーキャン新語・流行語大賞の説明では、“主人公・雨宮蛍は20代にして恋愛を放棄。平日は毎日会社から帰ってマンガを読んで一人手酌で酒を飲み、休日は布団の中でうだうだ過ごすのが幸せという女性”のことだそうだ。その主人公の女性がお酒のつまみとして魚介類の干物をよく口にしていたので“干物女”ということらしい。

上の画像はひうらさとるの「ホタルノヒカリ(1)」(講談社)
ひうらさとる公式サイトによれば、作者が、この連載漫画を書こうと思ったのは、まわりの20代の女の子を見ていると、“マイペースで口では「彼氏ほしいですよー結婚しなきゃヤバイですよねー」といいつつ焦りや具体的な行動があまりみられない。趣味などの自分の世界は確立しているけど、それを必要以上に自己主張することもなく、仕事を含む生活スキルはそこそこのラインをキープしているのでこれまた必要以上にきりきりがんばりすぎない。”といった印象を受け、そして、「今の女子たちは恋愛に対するボルテージがかなり下がっているんだ!」という事実に軽い衝撃を受けたことからだという。
こんな、職場ではOLらしさを装っているがプライベートでは男っ気もなくだらだらとした気ままな1人暮らしをしている・・・、心もカラカラに乾いた干物のような感じのキャラクターに同世代の女性が共感を受けているのだという。
我々のような古い世代のものにはなんとも空虚な生き方にしか思えないのだが・・・。しかし、ネットで、色々調べてみると非婚眺望また非婚の女性が確かに増えているようだ。
非婚とは結婚していない、または結婚しないことを意味しており、 従来用いられてきた「未婚」に対して、「自らの意志で結婚を選択しない」という意味をより強く込めるために「非婚」が用いられているようだ。
この「非婚化」は先進国において顕著のようであるが、日本も戦後の経済成長と共に女性の社会への進出も著しく、経済力もつけ高学歴で自由と独立を求める女性に非婚眺望が増えたとしてもそれはある種当然の成り行きであったのかもしれない。
私などの年代の者は、結婚していて当たり前、未婚や離婚は珍しい時代に育ったが、どんな形で結婚をしようが、結婚をした以上は相手のことを気遣いどんな苦労があったとしても、夫も妻もご互いにそれを耐え忍んで送らなければならなくなる。今の時代のように、自由な生き方を望む人が多くなると男性にとっても女性にとっても、ある種自由を束縛される結婚生活は煩わしい存在なのかもしれない。
現在当たり前のように思われている一夫一婦制の結婚と言う制度が確立したのは、実はほんの100年前ほど前からのことであり、それ以前は一夫多妻も認められていたのだ。
一夫一婦制の考えが日本にもたらされたのは江戸時代、キリスト教の伝来した時といわれており、キリスト教の貞操観念が重視されたものである。しかし、その考えはすぐには広まらず、江戸時代には妻の他に妾を囲うことは、上流の武士社会や富裕な町人層では普通に行われていたことであり、こうしたいわゆる蓄妾制(妾を囲っておくこと)は明治時代に入ってからも続いていたが、法的にも1870 (明治3)年に制定された「新律綱領」では妻とを同等の二親等として登録を認められていた(日本で初めての本格的な戸籍制度・壬申戸籍は、1872〔明治5〕年施行)が、これは、家制度を存続維持させるためにはどうしても跡取りが必要であったからだ。
しかし、文明開化の時代、近代国家を建設ためには西洋の習慣を取り入れなくてはならない、一夫多妻は人倫にもとるからやめようという動きも出、1871(明治4)年の廃藩置県の直後、宮中でも女官総免職の動きがあったようだ。そして、戸籍法上からは1882(明治15)年に妾が削除され、1898 (明治31)年に民法によって一夫一婦制が確立することとなる。
明治以前の宮中の女官は江戸城の大奥と同じように隠然たる勢力をもち、明治維新後の政府も手を焼いていたようだ。その後段々是正はされたが、古い形式の階級と格式だけは残り、尚侍・典侍・掌侍・命婦など7つの職名があり、公家華族や京都士族、社寺家出身の処女でなければならなかった。それが、「東宮殿下の御成婚を間近に控えた宮内省が、この機会に長い伝統の下に置かれた従来の女官姓を根本的に改革し、新時代に適応する制度を設けんとし・・・」(1923=大正12年8月26日付け大阪毎日新聞)て、宮中伝統のお局(つぼね)制度を廃止して普通の宮内官と同じように通勤し、古めかしい職名と彼女らにつけられた源氏名も辞めて本名で呼ぶことにした。古くは女官は天皇の側室候補の意味もあった。新聞報道では宮内省の方針のように発表されているが、これは皇太子のイニシアチブによる改革であったという(アサヒクロニクル「週間20世紀」1923年号より)。つまり、天皇がお局制度を拒否したのは、ここに言う当時の東宮(皇太子)裕仁殿下(昭和天皇)が最初だったのである。
今で言うところの”家”を中心とした家制度は明治時代から第二次世界大戦が終わるまでのものであり、この家意識は、戦後、1947(昭和22)年に民法が大規模に改正(戸籍の構成単位が家から夫婦へ) されたものの、高度経済成長期までは旧来型の「結婚」という制度によって“家”は保たれてきたが、高度経済成長期の急激な都市化・核家族化はこうした家意識を急激に希薄化させていくことになった。
そして、今、離婚・非婚が増え、なしくずしのシングルも急増しているが、結婚というものに対する価値感も変化し、我々の年代のような者とは違って「人は必ず結婚しなくてはならない。」という意識から「どうして、結婚しなくてはならないのか。」という疑問さえ投げかけられるようになっているようだ。
しかし、家制度をなくすのはよいが、家庭を形成する結婚と言うものまでなくして、今後はどんな形のものが出来るのか・・・?
明治~今までに定着した家制度以前のもっと古い時代(平安時代)の日本には「通い婚」といった合理的な結婚の方法もあった。通い婚とは、結婚後に双方の同意に基づきそれぞれ別々の住まいにて居住し、必要時において何れかの居宅に通い合う夫婦形態を言っている。つまり、会いたいときだけ会いに行くという形式のものである。
今の時代は結婚もせず、同棲しているだけの人も殖えているようだが、これなら、同棲をする必要も無い。ものぐさな「干物女」といわれる女性にも受け入れられるのでは・・・。
少子高齢化の時代に、非婚化を解決せずに少子化を改善するにはこのような合理的な結婚もあってよいのかもしれない・・・なんて考えてしまうのだが・・・。
何か「かんぶつ」の話が「干物女」・・・いや、今の非婚化女性の話にまで飛んでしまったが・・・m(_ _;)m ゴメン!!。
(冒頭の画像は、天日干し風景。Wikipediaより)
干物大百科
http://www.himono.info/
干物(乾製品)について
http://www.hi-ho.ne.jp/~fish/question/himono/
干物の栄養成分的特徴
http://www.hi-ho.ne.jp/~fish/question/himono/nutrition.html
北國屋干物大学
http://www.interq.or.jp/kansai/ascent/index_f.html
IZU NET:干物の作り方
http://www.izunet.jp/taberu/himono/index.htm
干物- Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%B9%B2%E7%89%A9/
干物 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E7%89%A9
日本乾物協会
http://www.j-kanbutsu.jp/
リシン - [コスメ・ビューティ用語集]All About
http://kw.allabout.co.jp/glossary/g_cosme/w005990.htm
新語・流行語大賞(公式サイト)
http://singo.jiyu.co.jp/index.html
ひうらさとる公式ページ
http://www.satoru-h.com/top.html
通い婚(かよいこん)とは - 結婚・ウェディング用語辞典
http://www.kekkon-soudanjyo.jp/glossary/matchhunting/post_79.html
明治の初めまで日本も一夫多妻制だった!? - [結婚式] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/225488/2/
日テレドラマ「ホタルノヒカリ」公式サイト
http://www.ntv.co.jp/himono/check/index.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html



世界糖尿病デー

2010-11-14 | 記念日
今日・11月14日は世界糖尿病デー である。
糖尿病は今や世界の成人人口のおよそ5~6%の人が抱える病気となっており、その数は増加の一途を辿っているという。
世界糖尿病デーは、従来、IDF(国際糖尿病連合)と WHO (世界保健機関)により、糖尿病の認知向上を目的として1991(平成3)年に制定されていたそうだが、そのような増加の状況を踏まえ国際連合が、国際糖尿病連合 (IDF)の要請してきた「糖尿病の全世界的脅威を認知する決議」を2006(平成18)年12月20日に国連総会で採択し、インスリンの発見者であるバンティング博士の誕生日である11月14日を「世界糖尿病デー」に指定した。
IDFは決議に先駆け、”Unite for Diabetes”(糖尿病との闘いのため団結せよ)というキャッチフレーズと、国連や空を表す「ブルー」と、団結を表す「輪」を使用したシンボルマーク(ブルーサークル)を採用。全世界での糖尿病抑制に向けたキャンペーンを推進している。
日本でも、2007(平成19)年11月14日には東京タワーや鎌倉大仏、通天閣などを「世界糖尿病デー」のシンボルカラーである青にライトアップし、糖尿病の予防、治療、療養を喚起する啓発活動が展開され今日に至っている。
なお、国連が「世界○○デー」と疾患名を冠した啓発の日を設けたのは、12月1日の「世界エイズデー」に続き「世界糖尿病デー」が2つ目だそうだ。糖尿病による死者数は、エイズ(AIDS。後天性免疫不全症候群) による死者数に匹敵し、糖尿病関連死亡は、エイズ の関連死亡を超えると推計されており、 日本においても、高血圧に次ぐ罹患率の多い疾患となっているそうだ。
糖尿病は、血糖値(血液中のブドウ糖濃度)が病的に高い状態をさす病名である。
この糖尿病も高血圧も生活習慣病のひとつであるが、糖尿病は高血糖そのものによる症状を起こすこともあるほか、長期にわたると合併症を引き起こし、体中の微小血管が徐々に破壊されていき、腎臓を含む体中の様々な臓器に重大な傷害を及ぼす可能性があり、糖尿病治療の主な目的はそれら合併症を防ぐことにあるという。
糖尿病、高血圧、肥満、高脂血症(=脂質異常症)、の合併は「死の四重奏」「syndrome X」「インスリン抵抗性症候群」などと称されていた(以下参考に記載の※:「(財)健康医学協会HP」の健康医学:死の四拾重奏参照)。これらは現在メタボリックシンドロームと呼ばれている。この「メタボリックシンドローム」(メタポ)は、2006(平成18)年の流行語大賞の一つに選ばれている。
2007(平成19)年の国民健康・栄養調査によると、「糖尿病が強く疑われる人」の890万人と「糖尿病の可能性を否定できない人」の1,320万人を合わせると、全国に2,210万人いると推定されており、しかも、糖尿病が疑われる人の約4割はほとんど治療を受けたことがない人だという。これは、糖尿病がはじめのうちは、痛みなどの自覚症状がないことから、検査で血糖値が高かったり、治療が必要といわれたことがあっても、そのまま治療を受けない人が多いからのようだ。そして、糖尿病が原因で死亡する人は年間で1万4千人くらい(平成19年人口動態統計)いるという。そのほか、もうひとつの大きな問題が先ほど述べた合併症であり、糖尿病による腎臓障害で人工透析を始める人は、年間1万5千人ほどおり、糖尿病が原因の視覚障害の発生も年間約3,000人もいるという(以下参考に記載の※2:「生活習慣病を知ろう!(厚生労働省HP)」の糖尿病のペーシを゛参照)。
そのため、糖尿病の検査は、2008(平成20)年度から実施されている特定健診(一般に「メタボ健診」といわれているもの)に含まれており、特定健診は40歳~74歳までの公的医療保険加入者全員を対象としている。
日本が世界に誇るべき国民皆保険制度。これは、公的な支えによって運営されており、誰でも等しく医療を受けられることが特徴である。しかし、近年の少子化や長期的な経済の停滞が保険料収入の減少を招き、一方で高齢化によって医療費は年々増加している。このような状況の中、現在の国民皆保険制度を堅持し、将来にわたり、社会保障制度全般を持続可能なものとしていくため、2006(平成18年)6月、医療制度改革関連法が成立した。これら法律は要するに、中長期的な医療費の適正化を目指したものであり、その1手段として、国が示す基本方針に基づき、医療保険者が新たに「特定健診」を実施することになったのである(以下参考に記載の※3:「医療制度改革について」、※4:「厚生労働省告示第百五十号」参照)。厚生労働省の2007(平成19)年の資料によると、現在、国民医療費の3割が生活習慣病で、死因別死亡率の6割が生活習慣病が原因となっているという(以下参考に記載の※5参照)。
つまり、メタボが生活習慣病の大きな一因となっているという学説に基づき、内臓脂肪を減らすことで生活習慣病対策、ひいては将来の医療費削減につながるだろうというのである。ただ、厚生労働省はメタボ健診によって年2兆円の医療費を削減できるとしているようだが、この見込みは楽観的すぎる。メタボ検診費用の方が多くて、かえって赤字になるだろう、という批判もあるようだ。
そして、メタボ健診受診率や保健指導実施率、のち(2008→2012年度)の目標到達度によって後期高齢者医療制度への財政負担が保険組合や自治体に対して最大10%内で増減されるようだ。つまり、予防対策をしていない場合には国からの助成が出なくなったり、また、一定期間内の減少率が国の基準に達しなかった場合には、事実上の「罰金」を課すといったいわゆる「アメとムチ」によって、保険者が受診を促すようにし、かつ、被保険者に対してメタボを解消する動機付けの機会を増すことを狙っているようだ。メタポ健診の項目は平成19年厚生労働省令第157号第1条に規定されている。
このメタポ健診については、世界的に複数の診断基準があり、混乱が生じていことから、約150カ国の専門家が参加するIDFとNCEP(米国コレストロール教育プログラム)が中心となって診断基準の統一が協議されてきたが、2008(平成20)年には診断の国際的な統一基準が示され、今後統一基準で腹囲が診断の必須条件から外れることになったようだ。
IDF基準は腹囲が基準値以上で中性脂肪などの血液検査の結果の4項目の内2項目に異常があればメタポと診断するが腹囲は人種別に定めている。一方、NCEPは、腹囲など5項目のうち、3項目に異常があればメタポとし、腹囲は必須条件ではなく基準値は一種類しかない。日本はIDF基準と同じ考え方に基づいているが、統一基準はNCEPを基本としており、腹囲は必須条件から外れるが、人種別に定めている。NCEP基準は、肥満でなくても他の項目に異常があればメタポと診断される。日本が2008〔平成20〕年から始めたメタポ検診では、腹囲測定が必須で、シンボル的存在となっており、国際的に日本のメタポ検診の特異さが際立っているようだ(<メタボ>腹囲が必須条件から外れる 診断基準を国際統一 毎日新聞 、2008年8月20日より)。
世界のメタポの代表的な診断基準を比較したものは以下参考に記載の※5のメタボリックシンドロームの疫学を参照されると良い。
日本のメタボの腹囲基準において、世界で唯一「男性が女性よりも基準が小さい」(日本の場合男性:85cm以上、女性:90cm以上)独自路線をとっているのは、肥満と言っても病気につながる肥満とそうでない肥満があり、その違いは、お腹まわりの脂肪にあるとしている。つまり、脂肪には皮下脂肪と内臓脂肪があるが、お腹まわりにつく脂肪が内臓脂肪(脂肪組織参照)であり、この内臓のまわりに脂肪が多くたまる内臓脂肪こそが、糖尿病や高血圧などの生活習慣病をひきおこす主要な原因の一つなのだという。そして、欧米人の場合は皮下脂肪型の肥満が多いのだが、日本には高度の肥満は余りいないが、糖尿病などの発生率はアメリカより日本人に多く、日本人は民族的特徴から、米国人より内臓脂肪が多く、メタボへの悪影響を受けやすいとされており、日本では特にこの内臓脂肪の蓄積による肥満(内臓脂肪型肥満)が共通の基盤として着目され、腹部肥満=男性型肥満ともいわれている上半身型肥満(リンゴ型肥満)に対して注意が呼びかけられているようだ。
この内臓脂肪の蓄積で生活習慣病の危険性が高まる「メタボリック症候群」の診断基準の妥当性について検討していた厚生労働省研究班が今年・2010(平成22)年2月9日、現在は「90cm以上」としている女性の腹囲を「80cm以上」に厳しくすれば、より多くの脳卒中や心疾患を予防できるとする研究結果をまとめたことが報道されている。研究班は、全国の40~74歳の男女約3万6千人に、腹囲と、血圧や血糖値などの関係を調べた。
メタボリック症候群は、内臓脂肪蓄積に加え脂質異常、高血圧、高血糖のうち2項目以上に該当する状態だが、男性で85cm前後、女性で80cm前後を上回ると、そうした状態になる可能性が3倍に高まり、心筋梗塞や脳卒中が起きるリスクが大幅に上昇することが分かった。・・・というのである(以下参考に記載の※7参照)。
そうであれば、基準の変更を真剣に検討する必要があるだろう。
ただ、日本では、生活習慣病は内臓にたまった脂肪細胞が原因としているが、日本人には肥満でない人にも生活習慣病が多いことなどから、脂肪組織以外の臓器が関与しているのではないかという推定もされれていたようだが、今年・2010(平成22)年11月6日朝日新聞朝刊に、”血糖値を上昇させるホルモンが肝臓でつくられていることを金沢大学の金子周一教授らのグループが突き止めた。このホルモンを抑えると血糖値が改善されることをマウスの実験で確かめた。血糖値上昇が原因となる糖尿病や生活習慣病の新薬開発に繋がることが、米科学誌「セル・メタポリズム」に掲載された”ことが掲載されていた。同グループは、肝臓に着目し、糖尿病患者から採取した約3万7千種のたんぱく質遺伝子を解析した結果、血糖値が高い人程肝臓で作られるホルモン「セレノプロティンP」の濃度が高いことがわかり、このホルモンをマウスに注射して実験の結果血糖値が上昇しインスリンが利きにくくなり、ホルモンがつくられるのを抑制したマウスでは血血糖値が低くなったという。同グループは、こうした肝臓由来のホルモンを「ヘパトカイン」と命名し、金子教授らは「ホルモン濃度の計測などにより、糖尿病になりやすい体質の人の早期発見も期待できる」と話している・・・・という(以下参考に記載の※8参照)。つまり、これまで後天性の糖尿病は脂肪摂取が主な原因と考えられていたが、肝臓との関連が見いだされたのはこれが初めてだという。そうすれば、メタポ検診でNCEP基準は、肥満を必須基準として居らず、肥満でなくても他の項目に異常があればメタポと診断されるのに、日本のみが肥満を必須基準としていることが正しかったのかどうか?。それは、私にはわからないが。・・・。
このように肥満が必ずしも病気と言うわけではないようだが、肥満が良いわけではないので、肥満ににならないように気をつけた方が良いことには間違いない。腹囲だけでなく、ヒトの肥満度を表す体格指数として、ボディマス指数(BMI=Body mass index。)がある。 BMIは、身長の二乗に対する体重の比(BMI=体重kg/〔身長m〕2)であらわされる。
WHOでは25以上を「標準以上 (overweight)」、30以上を「肥満 (obese)」としているが、日本肥満学会では、WHO より厳しく、BMI22の場合を標準体重としており、25以上の場合を肥満、18.5未満である場合を低体重としている。 以下で、自分の肥満度をチェックしてみよう。
BMI(肥満度)チェック
http://www.health.ne.jp/check/bmi.html
どうも、日本のメタポ検診には、その導入の動機などには、一寸厭な面も見られるのだが、メタポとは、病気ではなく、本来生活改善をするきっかけとなるべきものであり、その意味で、「メタボ健診」を行なうことは意義があると思う。
私も、メタポ検診を受けるようになって、基準をパスするように、毎日ウオーキングをしたり、食時にも気をつけるようになったし、入浴の都度体重測定もするなど、肥満にならないよう気をつけるようになり、御蔭で、一時より腹囲もかなり良い状態になっている。しかし、これで、誰もが元気になり、平均寿命がどんどん延びることは結構なことであるが、これから先の長い人生、日本の保険制度や年金問題は、寿命が延びる分、ますます重要なな問題となってくるだろうな~。長生きするのはいいけれど老後を過ごすのに必要なお金はどこから稼ぎ出せば良いのだろうか?それが心配だよ・・・(-_-)ウーム。
(画像は、2010年度版「世界糖尿病デー」公式ポスター。世界糖尿病デー 公式ホームページより)
参考:
※1:(財)健康医学協会HP
http://www.kenkoigaku.or.jp/
※2:生活習慣病を知ろう!(厚生労働省HP)
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/seikatu/index.html
※3:医療制度改革について
http://www.pref.tochigi.lg.jp/kokuho/cont_06/index.html
※4:厚 生労 働省 告示第百五十号(PDF)
http://www-bm.mhlw.go.jp/bunya/shakaihosho/iryouseido01/pdf/info02_01.pdf#search='平成19年厚生労働省令第157号第1条'
※5:糖尿病等の生活習慣病対策の現状について<厚生労働省>(PDF)
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/06/dl/s0620-10b.pdf#search='、国民医療費 3 割 生活習慣病'
※6:メタボリックシンドローム情報〔国立国際医療センター 研究所〕
http://www.imcj-gdt.jp/metabolic_synd/mts_overview.html
※7:共同通信ニュース:女性メタボ基準は腹囲80センチ より厳しく、厚労省
http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010020901000922.html
※8:時事ドットコム:血糖値上げる肝臓ホルモン発見=糖尿病の新たな治療法に期待−金沢大
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010110500369
生活習慣病予防セミナー
http://www.terumo.co.jp/healthcare/seminar/report/fy2006/02_061206_osaka.html
ユーキャン新語・流行語大賞
http://singo.jiyu.co.jp/
世界糖尿病デー 公式ホームページ [世界糖尿病デーイベント実行委員会]
http://www.wddj.jp/
糖尿病ネットワーク
http://www.dm-net.co.jp/
糖尿病 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%96%E5%B0%BF%E7%97%85
国民皆保険とは - 時事用語 Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%9A%86%E4%BF%9D%E9%99%BA
厚生労働省:平成18年度医療制度改革関連資料
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shakaihosho/iryouseido01/index.html

昭和のマルチタレント・森繁久弥の忌日

2010-11-10 | 人物
軽妙さとペーソスが溶け合った演技で親しまれ、半世紀以上にわたって活躍したマルチタレント森繁久弥が、この世を去ったのが昨・2009(平成21)年の今日(11月10日)であった。
森繁久彌(本名同じ)は、大阪府枚方市出身。1913(大正2)年5月4日、大きな海産物問屋菅沼家の3人兄弟の末っ子として生まれる。久彌という名前は、父が大実業家・岩崎久彌(三菱財閥3代目総帥)と深い親交を持っていたことに由来するという。又、菅沼家は江戸時代には江戸の大目付だった名門の出身だったらしいが、久彌が2歳の時父が死去。母方(馬詰家)の実家も色々と子細、経緯等があって7歳の時に母方の祖父の姓を継いで「馬詰」姓から「森繁」姓となったという。
1934(昭和9)年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇部にて活動していたが、1936(昭和11)年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退し、東京宝塚劇場(現・東宝)の東京宝塚新劇団へ入団。その後は日本劇場の舞台進行係を振出しに東宝新劇団、東宝劇団、古川ロッパが座長を務める緑波一座へと劇団を渡り歩いたという。
戦時中の1939(昭和14)年、難関のNHKアナウンサー試験に合格してNHKに入局、妻子とともに満州電信電話の放送局に赴任しているが、アナウンサーになったきっかけは徴兵制度を避ける為。海外へ赴任出来る当時としては数少ない仕事であったから」らしいが、ぼんぼん育ちの自分を鍛え直す意味もあったという。大陸のおおらかな気風に接し、引き揚げ時の修羅場もかいくぐったことが芸の原点になったと、しばしば書き記しているという(2009年・11・11朝日新聞)。
1945(昭和20)年、敗戦を新京で迎えソビエト連邦軍に連行されるなどして苦労の末、1946(昭和21)年11月に帰国、又、劇団を渡り歩くが、1947(昭和22)年、東宝で、衣笠貞之助監督の「女優」に映画初出演をするがセリフも無い端役であったらしい。ここから通算150本にも及ぶ森繁の映画人生の幕が上がったわけだが、すぐに俳優として芽が出たわけではない。1949(昭和24)年、再建したばかりの新宿のムーラン・ルージに入団。演技だけでは無くアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集めるようになるが、全国的に注目されるようになったのは、1950(昭和25)年、NHKがアメリカの「ビング・クロスビー・ショー」に倣ったラジオ番組「愉快な仲間」のレギュラーになってからだ。メインの藤山一郎の相手役のコメディアンとして抜擢され、ムーラン・ルージュを退団。『愉快な仲間』は2人のコンビネーションが人気を呼び、3年近く(同年1.3 ~'52.7.25)続く人気番組となった。
この放送がきっかけで映画や舞台に次々と声が掛かり、一躍人気タレントとへとのし上がることになるのだが、彼は、不遇なときも暇さえあれば映画を見て自分の割り込む余地がどこにあるかを研究したと言う。2枚目か3枚目か或いは敵役か。そんな下積みの成果が、一気に開化したのが、1952(昭和27)年の源氏鶏太原作の小説『三等重役』を映画化したサラリーマン喜劇「三等重役」であった。
森繁は「愉快な仲間」出演の同年、出演2作目の映画・新東宝「腰抜け二刀流」((1950年9月)公開)で映画初主演も果たして入るが、この「三等重役」の主演は河村黎吉であった。映画のあらすじなどは以下参考に記載の※1:「森繁久彌 - goo 映画」を参照されると良い。
「三等重役」とは「サラリーマン重役」のことで、創業社長でもオーナー社長でもなく、一般社員と意識的にも能力的にもさほど変わりのない人物が名目だけの取締役、あるいは社長になったことを指し、源氏鶏太の本作によって広まった語であるそうだ。
戦後の日本では財閥系企業を中心に大企業経営者が多数公職追放処分を受け、権限を大幅に剥奪され、会社経営への参加を拒まれたため、それまで重役になる見込みのなかった社員たちが大挙して役員に押し上げられた。
この映画(5月29日公開)では、前社長が戦争協力者とされて公職を追放され、思いもよらず「三等重役」(社長)になった役を演じた河村黎吉もさることながら、それに振り回される人事課長役を助演した森繁久彌に人気が集まり、シリーズ化された。河村自身も毎日映画コンクール演技特別賞を受賞(但し、受賞が決定したのは本人の死後)し、同年9月4日公開の続編「続三等重役」でも社長役を演じ一躍、人気スターとなったが、同年に胃癌で倒れ、急逝したこともあって、以後、森繁が社長役として主演の「社長」シリーズへと発展した。森繁を映画スターにした最初の作品である。
このシリーズもの「三等重役」では、老獪な人事課長・森繁と対照的に真面目な秘書役で共演していた小林桂樹が、社長シリーズでも秘書役で出演。高度成長期の企業を舞台に、浮気者の森繁社長に謹直実直の秘書(小林桂樹)や慎重な総務部長(加東大介)、宴会好きの営業部長(三木のり平)らを配しててんやわんやの仕事ぶりを描くのが基本パターンであった。
そして、森繁社長がバーのマダムや芸者と浮気をしようと試みる様(浮気は必ず寸前で失敗する)と、森繁、のり平らによる宴会芸が繰り広げられるのが毎度のお約束事でもあった。変な日本語を話す日系人(フランキー堺)なども定番キャラクターとして活躍した。
1963(昭和38)年の社長シリーズ16弾予告編が以下で見れる。
社長漫遊記 予告編
いや~、今では懐かしいなかなかの芸達者ばかり。この時代はよかったな~。私が現役でこの頃勤めていた会社でも、年3~4回は会社での慰安旅行(1泊)があり、夜には必ず宴会をしていた。そして必ず会社には三木のり平の演じているような宴会屋と呼ばれるものがいるもので、彼らが場を取り仕切った。今では、カラオケで歌を競ったりしているが、当時はカラオケなどないので、時と場所にもよるが、時間がたつと、芸者の三味線に合わせて皆で茶碗を箸で敲きながら調子っぱずれの歌を歌い、乗ってくると必ず何人かが踊りだした。映画と同じだ。本当にこの映画が流行っている。頃は楽しかったな~。
そして、森繁は、1953(昭和28)年からマキノ雅弘監督の「次郎長三国志」シリーズに三枚目の森の石松役で出演、シリーズ第8作の「海道一の暴れん坊」で無念の死を遂げるまで大活躍した。森繁の石松初登場はシリーズ2作目「次郎長初旅」終盤からであるが、回を追う毎に人気が高まり、石松最期の「東海一の暴れん坊」では、森繁の石松が事実上の主演であり、敵に囲まれながらも「俺は死ねねぇんだよ」と笑みを携えながら斬られる石松は、最高に格好良かった。
この映画は粗製濫造気味の映画ながらも完成度の高い内容への評価は高く次に述べる「夫婦善哉」と合わせて森繁の出世作となったことからも、日本映画史上において重要な作品群であるとされているようだ。
1955(昭和30)年、豊田四郎監督の「夫婦善哉」に淡島千景と共に主演。この映画でのだめ男ぶりも好評を博し、その演技力によって森繁の名声を確かなものにした。同年、久松静児監督の日活「警察日記」で田舎の人情警官を演じこれも代表作の一つとなる。ドタバタ喜劇を足がかりにスターとなったが、これにより、単なるコメディアンから人生の悲哀をにじませる縁起派俳優へと転進する。
舞台は、何といっても森繁がライフ・ワークとして、1967(昭和42)年東京・帝国劇場にての初演以来1986(昭和61)年まで19年間、900回も好演した「ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」が有名である。20世紀初頭、帝政ロシア領となったユダヤ人村シュテットルに暮らすユダヤ教徒の牛乳屋のテヴィエ(Tevye)とその家族の生活を中心に描いたものであるが、最後にはユダヤ人が迫害され、住んでいるところを追われる哀しい話である。
冒頭の画像は、1982(昭和57)年10月帝国劇場での同ミュージカル千秋楽での森繁である。
「屋根の上のバイオリン弾き」の父性愛あふれるテヴィエ役に続いて、1983(昭和58)年に初演された「孤愁の岸」では薩摩武士・伊集院十蔵役の熱演。史上名高い宝暦治水の薩摩藩士の苦闘ぶりを杉本苑子が描いて第48回直木賞を受賞した作品を舞台化した大作。
宝暦4年(1754年)財政難に喘ぐ薩摩藩に、突然「濃尾三川(濃尾平野を流れる木曽川・長良川・揖斐川の三巨川)普請手伝い」の幕命が下った。これは、幕府が大名諸侯の勢力をそぐために用いた策略であった。
川普請総奉行に任命された薩摩藩勝手方家老・平田靱負(竹脇無我)は直情一徹の大目付・伊集院十蔵(森繁久弥)を副奉行に据えた。帰れる日だけを夢見て遥か濃尾の地に向け、千人の藩士が鹿児島を出発してゆく。苦難の始まりであった・・・。 
上の画像は35年間劇場としては西日本一の観客を集めてきた大阪・キタの梅田コマ劇場が約400メートル先に建築された阪急不動産茶屋町ビルに移り、名称も「劇場飛天」(今は梅田芸術劇場)として、再出発した。「飛天」は1992(平成4)年11月に開館。その杮落し(こけらおとし)特別公演が、森繁主演の「孤愁の岸」であった。森繁はこの時既に79歳、年齢を感じさせない迫力の縁起で生まれ故郷大阪の観客に感動を与えた。
テレビドラマでは、草創期から活躍しているが、テレビではTBS系列で放送された「七人の孫」などに見られる一徹な老人が懐かしい。1976(昭和51)年2月2日にスタートした長寿番組である。黒柳徹子が司会を務める徹子の部屋(NET)には記念すべき第1回の放送から通算13回にわたってゲスト出演している。このようなラジオやテレビでのトーク番組・バラエティ番組等では、その独特な話り口が「森繁節」として親しまれた。
森繁は、第10回NHK紅白歌合戦 (1959年)に初出場しロシア民謡カチューシャを歌い。第16回(1965年)まで、歌手として連続7回出場しているが、第13回紅白で、自作の「知床旅情」を唄うが、この紅白で自作の歌を初めて歌った出場者でもある。この歌は、森繁が1960(昭和35)年の映画「地の涯に生きるもの」の撮影で知床半島羅臼(らうす)に長期滞在している間制作され、その最終日に羅臼の人々の前で「さらば羅臼よ」という曲名で披露されたものだという。1970(昭和45)年に加藤登紀子がリリースし徐々に人気に火がついた。
以下は何時のものか判らないが森繁とコロムビア女声合唱団による歌である。後年の歌とは若干歌い方が違うように思うが森繁の歌は加藤登紀子とは又違った味がある。
YouTube-しれとこ旅情 森繁久彌、コロムビア女声合唱団
何の番組であったか忘れたが、「歌は語るように唄うもの」と言っていたのを覚えているが、正に、森繁の歌は語りである。
昭和の大スター、森繁久弥は、映画、芝居、ミュージカル、歌と、真のマルチスターであり、いろんなことを書き出せばきりがなくなる。そんな昭和の大スターは結構エッチなことも好きななおじさんでもあった。以下ではやはり昭和のマルチスターであった美空ひばりとの対談(1988年TBS正月特番「春一番!熱唱美空ひばり」)で、美空ひばりに、“物心付いて一番最初に助兵衛な話を教えてもらったのが森繁だ”と暴露されるがそのとぼけた森繁の表情がまた良い。そのひばりもこの翌年の平成元(1989)年が始まった直後の6月24日、52歳の若さで亡くなった。これは貴重な映像である。
YouTube-美空ひばり&森繁久弥
昭和のマルチスターのことを書き出すときりがないのでこれくらいでやめるが、森繁の歌の中で、1955(昭和30)年にレコーディングされた歌「銀座の雀」(作詞:野上 彰、作曲:仁木他喜雄)が好きである。同年に映画「銀座二十四帖」の主題歌にとりあげられヒットするが、歌手森繁の代表曲として、また和製シャンソンの代表作として、当時よく歌われたものだ。
森繁の歌はここ⇒ 森繁久彌、ダーク・ダックス 銀座の雀 1977
歌詞はここ   ⇒」銀座の雀 森繁久弥 歌詞情報 - goo 音楽
それと、以下では森繁の語りと歌。そして、劇中のコーラスをダークダックスが唄う。一流の役者と、一流のコーラスグループのコラボ、プロの仕事はさすがですよ。
森繁久彌、ダーク・ダックス ケンタッキーの我が家 1977
かってドラマ「大往生」(NHK-BS2、1996年)・・・で「生きて生きて一生懸命生きてそして寿命が来たらその時死ぬよ」・・・そんなことを言っていたように思うが、満96歳での他界となれば、本当に惜しい俳優ではあったが、年齢的には大往生と言うことになるでしょうね。うらやましい限りだ。
最後に、1976(昭和51)年の森繁と黒柳徹子との対談で森繁の話芸を堪能しながら往年の森繁さんを偲ぶことにしよう。この対談ではさすがの黒柳もただ聞き入るばかりだ。
(追悼) ~森繁久弥の話芸~
http://www.youtube.com/watch?v=yR_1R_N2wWM

(冒頭の画像は、主演ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」の千秋楽での森繁、1982年10月、東京・帝国劇場にて、2009・11・11朝日新聞掲載の者を借用。2番目の画像は、1992年11月大阪の劇場「飛天」杮落し特別公園「孤愁の岸」チラシ。マイコレクションより)
参考:
※1:森繁久彌 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/c87437/index.html
橋本寿朗『戦後の日本経済』報告そのⅢ
http://ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/old/staff/ou/2nian4.html
日本映画劇場
http://www.nihoneiga.info/index.html
森繁久彌 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%B9%81%E4%B9%85%E5%BD%8C【巨星】森繁久弥(森繁久彌)さんの歌、動画【知床旅情】
http://matome.naver.jp/odai/2125786029451236574

いい5世代家族の日

2010-11-05 | 記念日
日本記念日協会で、今日・11月05日の記念日を見ると「いい5世代家族の日 」があった。
記念日の由来を見ると”親、子、孫、曾孫、玄孫とほぼ1世紀、5世代にわたって血縁関係で結ばれた「5世代家族」は家族のありがたさ、命の大切さ、健康な長寿社会のシンボル的存在との考えから、製薬会社のノバルティスファーマ株式会社が制定した日。”だそうだ。
ノバルティスと言う会社は、スイス・バーゼルに本拠地を置く、国際的、製薬・バイオテクノロジー企業で、その医療用医薬品部門の日本法人がノバルティスファーマ株式会社 (Novartis Pharma K.K.) だそうである。
社名のノバルティス "NOVARTIS" とは「新しい」という意味の"NOVA"と、「芸術、技術」を意味する"ARTIS"を組み合わせたものとのことだ。
兎に角、このような分野の知識のない私には、同企業のやっていることをとやかくブログで書くことは出来ない。同社のことは以下参考に記載の※1、同社HPを参照されたい。
♪なんでこんなに 可愛いのかよ
 孫という名の 宝物
 じいちゃんあんたに そっくりだよと
 人に言われりゃ 嬉しくなって
 下がる目じりが下がる目じりがえびす顔
大泉逸郎の演歌「孫」である。以下で聞ける。
You-Tube孫-大泉逸郎 http://www.youtube.com/watch?v=YBqQYn4ZH9g
私も小学校に通っている孫娘がいるが孫は本当に子供以上に可愛いものだが、孫の子の曾孫、その子の玄孫などはどの位可愛いものだろう・・。又、そのような孫たちと一緒に生活できたらどれほど幸せだろうかな~。
今日このブログを書く気になったのは、少子・高齢化の今の時代に「5世代家族」など、一体どのような生活をしているのか・・と少々関心を持ったからであるが・・・。
地球物理学者で、夏目漱石の門下生でもあり、吉村冬彦の筆名で作品を書いた寺田寅彦随筆『東上記』に以下の文がある。
「大井川の水涸(か)れ/\にして>蛇籠(じゃかご)に草離々たる、越すに越されざりし「朝貌(あさがお)日記」何とかの段は更なり、雲助(くもすけ)とかの肩によって渡る御侍、磧(かわら)に錫杖(しゃくじょう)立てて歌よむ行脚(あんぎゃ)など廻り燈籠のように眼前に浮ぶ心地せらる。街道の並木の松さすがに昔の名残を止むれども道脇の茶店いたずらにあれて鳥毛挟箱(とりげはさみばこ)の行列見るに由(よし)なく、僅かに馬士歌(まごうた)の哀れを止むるのみなるも改まる御代(みよ)に余命つなぎ得し白髪の媼(おうな)が囲炉裏(いろり)のそばに水洟(みずばな)すゝりながら孫玄孫(やしゃご)への語り草なるべし。・・・・・」(明治三十二年九月)。詳しくは以下参考に記載の※2:青空文庫参照。
昔は旅人で大いに賑わった大井川沿いの街道を歩く人も少なくなり街道沿いの荒れた茶店に、時代も徳川の世から明けて明治の維新の世に余命を繋いでいる白髪の媼が囲炉裏の傍で、鼻をすすりながら玄孫には一体何を思い語っているのだろうと私は関心を持った。
血縁関係で結ばれている5世代と言えば、一番上の世代から数えると”親、子、孫、曾孫、玄孫”となるが、一番若い世代から数えると”子・父母・祖父母・曽祖父母・曽曽祖父母の順となる。正に、曽曽祖父母の年代の人は、凡そ1世紀の人生を歩んできたことになるのだから・・。この随筆は1899(明治32)9月初出だそうだから、もし、ここに登場する白髪の媼が1世紀前に生まれたとすれば、寛政11年(1799年)誕生ということになる。
尊号一件などの紛争の遠因となった天明の大火のあった年の翌・天明9年1月25日(グレゴリオ暦1789年2月19日)天明から寛政に改元。寛政13年2月5日(グレゴリオ暦1801年3月19日)までが寛政の時代であり、この時期の天皇は第119代光格天皇(こうかてんのう。明治天皇の3代前)。江戸幕府将軍は第11代徳川家斉ということになる。
寛永12年(1635年)に参勤交代の制度が確立されてから、諸大名は領地と江戸の間を往復しなければならなくなり、それに伴い、商人や庶民の交通量も多くなり、ひいては紀行や名所案内、道中案内が出回るようになった。そして、東街道(いわゆる東海道五十三次)を軸にした名所絵が色々な人物に多数描かれるようになったが、大きな川なのに江戸幕府が防衛上橋を作らなかったために東海道の一大難所であった「越すに越されぬ」大井川も多くの浮世絵に描かれた。
上に掲載の歌川広重のほか葛飾北斎もまた、ここで苦労する旅人を生き生きと描き出している。以下のリンク先の絵を見てください。
山梨県立博物館:博物館資料のなかの『富士山』:葛飾北斎 『冨嶽三十六景』
寺田の文中にある“蛇籠(じゃかご)に草離々たる”の蛇籠は、河川の護岸工事などに使用される鉄線などを用いかごに、砕石を詰め込んだものであるが、江戸時代には材料も竹製であった。蛇の形に似た石籠であったこから名が付いたといい、元来円筒形のものであったようだ。
北斎の『冨嶽三十六景』に描かれている対岸の土手は、元和2年(1616年)、徳川頼宣によって築かれた水除堤と考えられる。・・とあり、このようなものであったのだろう。
又、寺田の文中に、「越すに越されざりし「朝貌(あさがお)日記」何とかの段は更なり、雲助(くもすけ)とかの肩によって渡る御侍、磧(かわら)に錫杖(しゃくじょう)立てて歌よむ行脚(あんぎゃ)など廻り燈籠のように眼前に浮ぶ心地せらる。街道の並木の松さすがに昔の名残を止むれども・・・」とあるが、「朝貌(あさがお)日記」は、近松徳三(以下参考に記載の※3参照)の歌舞伎狂言『朝顔日記』をもとに脚色した雨香園柳浪(馬田 昌調)の読本版『朝顔日記』が好評を博し、歌舞伎狂言や人形浄瑠璃への改作が行われ、歌舞伎・浄瑠璃では『生写朝顔話』(あるいは『生写朝顔日記』)として上演されていると言う(以下参考に記載の※4参照)が、それのことだろう。その浄瑠璃の「大井川の段」で、恋する人を慕って流浪する盲目の娘深雪(後に朝顔)が大井川のほとりで川留めの悲恋に泣くが、その時、奇跡的に目が治るくだりがある。地元では、朝顔の目に最初に映った松として枝ぶりのいい松を「朝顔目明きの松」と名付け保存しているいう。初代の松は高さ20m余りの見事な松であったが、昭和になって枯れてしまい、現在ある松は昭和62年に植えられた4代目の松だという(以下参考に記載の※5参照)。
いや、なんだか今日の記念日「いい5世代家族の日」と関係ないような話をしているようだが、全く関係がないということではない。寺田の随筆に登場する白髪の媼は、東海道の名所でもあり当時の旅人にとっては東海道一の難所と言われる大井川沿いの道脇の茶店で生活をし、参勤交代の行なわれていた時代から、江戸幕府に対する倒幕運動から、明治政府による天皇親政体制へ転換した明治維新など様々な世の中の動きや出来事を目で見、そして経験してきたことだろう。
今、玄孫を持つ人の1世紀前は、1910年つまり、明治43年であり、寺田が『東上記』を書いた((明治32年)の10年後、大逆事件で、幸徳 秋水らの社会主義者が逮捕された頃に生まれた人だ。そして、今では当たり前の本格的政党内閣原敬内閣が成立したのが1918(大正7)年のことである。1910年生まれの人なら8歳になったときである。この年、第一次世界大戦の影響による米価高騰により富山で米騒動が起っている。そして、戦後の経済恐慌(1920=大正9年)、関東大震災(1923=大正12年)を経験し、1925年(大正14年)には、普通選挙法が成立し、満25歳以上の男子のすべてに衆議院議員の選挙権が与えられたが、女子には、まだ選挙権がなかった。この年、治安維持法が定められ、社会主義運動や労働運動が取りしまられ、その後、罰則が強化され、民主主義・自由主義・平和主義までを取締りの対象とした。そして、日本のファシズムが進展していった。
1929(昭和4)年には、 アメリカのウォール街で起きたパニックがきっかけの恐慌が世界に広がり、世界的大不況(世界恐慌)が起った。
1931(昭和6)年に 満州事変、翌・1932(昭和7)年には 青年将校らが総理大臣の犬養毅を暗殺するという 五・一五事件 が起こり、この結果、政党政治が終わった。
1933(昭和8)年 、国際連盟を脱退、1936(昭和11)年、 二・二六事件 、1937(昭和12)年、 盧溝橋事件をきっかけに日中戦争支那事変)が起 こり、1939(昭和14)年に 第二次世界大戦へ突入、そして、1944(昭和19年) にはアメリカのB29による本土爆撃が激化し集団疎開が始まった。そして、1945(昭和20)年、 アメリカ軍の沖縄への上陸。 広島・長崎に原子爆弾が落とされ、やっと ポツダム宣言を受け入れ、連合国に無条件降伏し、戦争は終結。農地改革財閥の解体が行なわれた。そして、翌年、天皇が年頭詔書で人間宣言をした。また、労働組合が結成され、メーデーが復活、 日本国憲法が公布された。 そして、戦後の荒廃した世の中を必死に生き伸びて今日に至っている人達なのである。
今日曽曽祖父母と呼ばれている人たちのすごい人生である。これらの先人が、長い人生の中で見聞きし、体験し、得てきた知恵の中から子供や孫・曾孫たちも学ぶことは多くあるはずである。このように多くの人生経験を積み重ねてきた親や子その孫たちが共に暮らして行けるなんてどんなに幸せだろうか。
玄孫などとの5世代が一体どのようにして今生きているのだろうか?
そう思って調べていると、ノバルティスファーマ社のプレスリリースに、2001(平成13)年9月に実施された「5世代家族の生活と意識調査」について、報道関係者に発表されているものがあった(ここ参照)
5世代家族は、5世代が顔を合わせやすい環境(5世代同居、同じ市町村、同じ都道府県)で2/3が暮らしており、農・魚・林業地区に住んでいる人は5世代同居が多く、住宅地に住んでいる人では3世帯~4世帯に分かれて暮らしている家族が多いという。そして、上の世代から「受け継いだもの」の、トップは男女とも「生活習慣」だったという。男性では「財産/家」「仕事」が続くが、それを除くと、男女とも「家族や人との接し方」「思いやり/いたわり」「家族を大切にする/家族/家族の絆」など人付き合いのコツをあげる人が多くいるという。うらやましい限りだ。
敗戦後の日本では、誤った戦後教育による自己主義の増長とともに経済成長に伴う拝金主義がのさばり、戦前にはあった日本の良き生活習慣の多くが失われてきた。しかし、5世代家族では、今の世の中で一番欠けているものが、大切に受け継がれているようだ。そして、年下の者は年長者を敬い大切にしているようだ。今の多くの日本人は、核家族化のなか、特に都市部などでは親子もバラバラに生活をし、地域との繋がりを持たない人も多く、子供が年老いた親の面倒を見るどころか、保険金目当てに殺してしまうといった悲惨な事件さえ現れる世の中になってしまっている。情けない話だ。
今や日本の国の財政は借金まみれ(以下参考に記載の※7:「リアルタイム財政赤字カウンタ」参照)で、しかも世界的な不況の中、一部の超お金持ちを除いて、多くの老人が、老後の生活(医療・年金・介護など)に非常に不安を持って生きている。少子高齢化の中若者も就職さえままならない社会となっており、高齢化の進行と共にその負担増に苛立ち始めている。このような時代、家族が助け合いながら一緒に生活をすることが出来たら一番良いのだが・・・。
最近は、健康志向で、元気な年寄りが増えている。私達夫婦も年齢的にはどちらかと言えば元気な方だと思う。私など、若い頃から本当に良く遊び、常識外れの酒の飲み方をしてきたが、本当に仲の良かった飲兵衛友達などはその酒が原因で私より先に天国に召され誰もいなくなってしまった。私は肝臓が特別丈夫だったのか医者からは胃は真っ黒だといわれて、肝臓の薬を毎日飲んではいるものの、それでも、しぶとく毎日1合ほどの晩酌だけ続けている。血圧も少し高いのでそれをおさえるための薬も飲んでいるが、若い頃のような無茶をしなくなった分何か今のほうが若い頃より体調もよく健康な感じがしている。メタポ検診もOKだ。
しかし、これからの大変な日本の状況を考えると、時々、誰もが健康で長生きするのが本当に良いことなのか・・・?などと考えたりする日がよくある。医学も凄い進歩をしており、肝臓移植だなんだといって大概の病気は治ってしまう。人生50年などちょっとは寂しいが、平均寿命が70代~80代・90代と、このまま行くと人は120歳くらいまで生きられるのだというが、それでは、人は何時まで働かなくてはいけないのだろう? 
先ず、資源には限りがある。そして、地球上に生存できる人口が限られたものだとすれば若者に対して高齢者が圧倒的に多くなるわけだから、年よりも何時までも働かなければ、年金も医療費その他社会保障費がもたないだろう。しかし、何時までも年寄りが働くようになると、肝心の若い人は優秀な人以外の普通の人はますます就職するところがなくなるのではないか・・。そりゃあ~会社などで、60過ぎ70歳らいの人なら高校や大学出たばかりの人よりずっと知識・経験も豊富だし仕事も出来るだろうからな~。
それと、地方で農業や、漁業・林業といった仕事をしていれば、広い家で少なくとも3世代4世代同居又近隣に住んで一緒に交流をしながら楽しく過ごせるだろうが、都市部に住むサラリーマンなど、そのような住環境にないし、会社では転勤が多く、地域社会や学友などとのとの繋がりも切れ、家族ともバラバラになる者が多い。60~70位までサラリーマンしてると尚更だろう。そして、年をとれば、夫婦だけ、その連れ合いが亡くなればただ1人でひっそりと寂しい生活をしなければならなくなる。私など、今は、好きなお酒も控え目に慎ましい生活をし、たった1人だが孫娘(息子たちとは別居)はいるが、玄孫どころか曾孫の顔を見る頃は、どうなっているのか自信はない。好きな酒ぐらい気にせずに飲んでそれが元でポックリと死ねたら・・・そうしたいものと思っているのだが・・・。酒のせいで変な病気になり、寝たきりの植物人間状態で末期を迎えるのも厭だし・・・、やはり、それ相当の健康面に努力もしなければいけないのだが、段々と、生きることも、死ぬことも難しい年代に近づいてきたな~などと思うと、一寸哀しい気もする。
ちなみに、孫以下の7世代は孫・曾孫(そうそん)・玄孫・来孫・昆孫(こんそん)・仍孫(じょうそん)・雲孫をいいいこれを七等(しちとう)・・・と言うそうだが・・・こんな言葉はどういうときに使うんだろうね。・・・私には、全く関係のない言葉ではあるが・・・。
(冒頭の画像は、「孫―男ふたりの人生のうた」 単行本、大泉 逸郎 , 荒木 良治共著 )
※1:ノバルティスファーマ株式会社
a href=http://www.novartis.co.jp/
※2:青空文庫:作家別作品リスト:寺田 寅彦
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person42.html
※3:近松徳三 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E8%BF%91%E6%9D%BE%E5%BE%B3%E4%B8%89
※4:生写朝顔話
http://homepage3.nifty.com/koshikyo/yadoya.htm
※5:東海道通信:朝顔の松
http://www.c-walk.com/tokaido/shiseki/15simada/15asagao.html
※6:世代家族の生活意識と実態」調査について(PDF)
http://www.novartis.co.jp/news/2001/p010914.pdf#search='5世代家族の生活と意識調査'
※7:リアルタイム財政赤字カウンタ
http://ueno.cool.ne.jp/gakuten/network/fin.html
山田大名行列
http://www.d1.dion.ne.jp/~fugetsu/yamada.htm
島田宿大井川川越遺跡
http://www.e-sea.jp/city/iseki/index.html
法岸寺 朝顔日記 深雪の墓2
http://www.tamagawa-rou.co.jp/shimizu61.htm
まご - ウィクショナリー日本語版
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%BE%E3%81%94
生写朝顔話 - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%94%9F%E5%86%99%E6%9C%9D%E9%A1%94%E8%A9%B1/
人文
http://www.fps.chuo-u.ac.jp/~hrsk/kisoen/asakura/st_human.html
続柄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E6%9F%84
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
七等- Yahoo!辞書
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&dname=0na&dtype=0&stype=1&p=%E4%B8%83%E7%AD%89&index=09929108120900