今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

閏日「2月29日」

2008-02-29 | 記念日
今日は閏日「2月29日」
今年は、がある年つまり閏年太陽暦においては、約4年に1度、余分な1日閏日(うるうび、じゅんじつ)が入れられる。閏日とは、太陽暦においてと太陽の運行(季節の移り変わり)とのずれを補正するために入れられる日のこと。ユリウス暦では4年に1度、グレゴリオ暦では400年に97度の閏年の2月の日数を1日増加させる。このときつけ加えられた日が閏日であり、加えられる日の名前は日本では2月29日である。しかし、歴史的な理由から2月24日を閏日とする国もあるのに、何故、日本は、閏日を「2月29日」としたのだろう?・・・ま、たまには、そんなばかげたことを勉強してみるのも良いのでは・・。詳しくは、ここに書いてあるので読まれるとよい。↓
閏日を2月におくことの由来 及び欧米で2月24日が閏日であることの由来
つまり、古代ギリシア太陰暦を元にしてつくられた暦法である初期のローマ暦では年始は3月1日であり、2月は年末の月であったことによる。暦が農耕暦だった名残りだよね。古代ローマで使われたロムルス暦って、3月が一年の始まりで、一年が10ヶ月しかなかった。December(デケンベル、30日)は、今日の12月に該当するが当時は10月だった。それが12月になった経緯、又、各月の名前の謂れなどなかなか面白いので、暇な方は、ちょっと、ローマ暦を覗いてみるのも良いね。ちょっとした話題にはなるよ。(^0^)
ところで、日本においての閏年の算定は、グレゴリオ暦西暦)ではなく、神武天皇即位紀元(皇紀)によって行なうことが、法令(明治31年勅令第90号〔閏年ニ関スル件〕ここ参照)により定められている。・・・神武天皇即位紀元?は、初代天皇の神武天皇の即位を元年(紀元)とする日本の紀年法である。通称は皇紀(こうき)と言いうが・・・。え!まだ、そんな紀元が活きているの・・・?と思われるかも知れないが、明治から昭和20年の終戦までは元号と共にこの神武暦がよく使用されていた。例えば西暦2008(平成20)年の今年は、神武暦2668年となる。現在では公の暦で神武暦をみることはほとんどないが、神武暦が公式に廃止されたわけではないから生きている訳だ。
ところで、この「閏年」の「閏(うるう)」と言う字の語源は知ってるだろうか?漢字の「閏」は、「うるう」と読んでいる。もともとは太陰暦で月の周期と1年のずれを調整するために挿入された「うるう月」を意味していた。中国の現存最古の部首別漢字字典「説文解字」(せつもんかいじ)によると、中国で王は通常宗廟内で政務を摂ったが、執務室が12室あり、月ごとに違う部屋で政務を摂ったが、閏月には政務を摂る部屋がなく、うるう月には王は「門」中にいる習わしがあったのだという。そのさまを示したものが「門」+「王」だという。
以下参考に記載の「水の漢字館②(漢字に見る「水」の文化)」を見ると、"「【潤】:会意兼形声。閏ジュンは「門+王」の会意文字(かいいもじ)で、暦からはみ出た「うるう」のとき、王が門内にとじこもって静養するさまを示す。じわじわと暦の計算の外にはみ出てきた日や月のこと。潤は「水+音符閏」で、じわじわとしみ出て、余分にはみ出る水分のこと。"とあり、忙しい王様も閏月や閏日くらいは、余分の月や日ぐらいはゆっくりと休養されたのだろうね。
そのようなことから「うるう」の漢字は「門+王」の「閏」を使っているが、この字に関して、正岡 子規は「墨汁一滴」(以下参考に記載の図書カード:正岡 子規「墨汁一滴」参照)の三月五日の中で「誤りやすき字左に」について述べており、そのなかに”喬の夭(よう)を天に誤り、※[#「聖」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの、47-8]※[#「門<壬」、47-8]の壬(じん)を王に誤るが多し。”・・・とあり、閏」は「門+王」ではなく「門+」だと書いている。事実、丘参考に記載の「>Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] » 漢字の現在:西向く「士」」を見られると、『三省堂国語辞典』でもかつて「門+壬」の字を使っていたこともあるようであり、JIS第2水準には、「王」が「玉」になった「閠」という異体字も収められているという。現在では、「閏』となっているので、「説文解字」の語源を採用しているのだろう。
現在の日本で使われている暦は、1837(明治)年に導入された太陽の運行に基くグレゴリオ暦。それまでは、中国から伝わった月と太陽の運行に基いた太陽太陰暦を使っていた。古くから使われていた太陽太陰暦は旧暦、新しく使われるようになったグレゴリオ暦を新暦という。太陽太陰暦は、その名の示すとおり太陰暦と太陽暦とを組み合わせたもので四季の一巡には太陽の運行、日々の移り変わりを知るには、毎夜満ち欠けをして変わる月の運行を用いるのがよく日本でも長く使われてきた。農耕社会ではいつ種を蒔き、いつ収穫するかを知ることが重要であった。その意味で月の運行は農業作業の基準となり太陰暦が使われ浸透していったのは自然のなりゆきだったことだろう。
現在のグレゴリオ暦の前のユリウス暦は月の満ち欠けを基本とする太陰暦だったローマ帝国内にユリウス・カエサルが紀元前46年に布告した暦法であるが、既に当時、4年に1度、閏年が入るとしていたということは、大変画期的なものだったろう。
余談だが、北欧神話に登場する太陽の女神ソール(またはソル)が出てくる。その中にムンディルファリという男が、自身の二人の子供があまりに美しいことから、娘にソール(太陽)、息子にマーニ(月)という名をつけた。神々はこれに怒り、二人を捕らえて、太陽を牽く馬車の馭者をさせた。ソールは太陽の運行を、マーニは月の運行と満ち欠けを司る。 馬の名は、馬の名はアールヴァク(「早起き」の意)、アルスヴィズ(「快速」の意)といい、体を冷やすための鞴(ふいご)が取り付けられている。 太陽は常にスコルという狼に追いかけられているため、急いで運行しなければならない。そんな北欧神話に基づいて青銅器時代に造られた、「太陽の車」がデンマークシェラン島の北西部にあるオズヘレズ文化史博物館に展示されているそうだ。この像の金箔で覆われている面が昼の太陽、金箔の無い暗い面が夜の太陽を表しているといい、この太陽の車が単に太陽の運行を説明するだけでなく、暦を現しているという解釈が最近出て来ているという。今回の主たるテーマーでないためこれ以上は書かなのが、面白い話なので興味のある人は、以下参考に記載の「黄金の車・・・ヨーロッパの青銅器時代を代表する遺品」及び、「ソール (北欧神話) - Wikipedia」を見られると良い。
ところで、この閏年で何を連想しますか?・・・先ず、殆どの人は、閏年でオリンピック開催年であることを考える人が多いだろうね。近年は全て閏年開催であり、そのため閏年は「オリンピックイヤー」とも呼ばれてれる。今年2008〔平成20)年は、8月8日から8月24日までの期間、中国の首都北京を主な会場として開催予定の第29回夏季オリンピックが開催される。しかし、陸上マラソン男子の世界最高記録保持者、ハイレ・ゲブレシラシエ(34)=エチオピア)が2月4日、北京の大気汚染と気候に懸念を示し、北京五輪でのマラソン出場に慎重な姿勢を示したという。それに、今、日本で大問題となっている食品の農薬問題もある。本当は、北京にオリンピック開催資格があるんだろうか?。
次にアメリカ合衆国大統領選挙も同様で、最初の1789年の選挙と、1900年の選挙を除き、閏年に行われている。今年は、民主党予備選でヒラリー・クリントン上院議員とバラク・オバマ上院議員が激しい選挙戦をしている、初の女性大統領また黒人大統領が誕生するかもしれないとフィーバーしているが、ここに来て、万一オバマ氏が大統領になると暗殺されるのではないかといった物騒な話が出てきている。北京もアメリカも目が話せないね~。
ところで、英語では閏年のことを「Leap year(リープ・イヤー)」と呼ぶ。「leap」とは「跳ぶ」という意味。しかし、何が一体「跳ぶ」のかというと、通常1年は365日だが、365を7で割ると1余る。従ってある年の3月1日が月曜日ならば翌年の同じ日は火曜日、翌々年は水曜日、と1日ずつずれていくはずであるが、閏年には2日分ずれてしまうことから「1日跳ぶ年」ということだそうだ。そして、4年に1度の閏の日・2月29日は、「A Leap Year Proposal」といって、かって、イギリスでは女性から男性へのプロポーズが公認され、プロポーズされた男性は断ることができなかったという。先日、”漫才家の太平サブローがラジオで「バレンタインデーに義理チョコはいらない」といったところ、そのあと、局を出ようと思ったら1人の女性が「ラジオ聞きました」といってチョコレートを届けにこられて困った”と言っていたという話を家人から聞いたが、当時のイギリスの男にとっては、閏の日・2月29日は本当に恐い日だったろうね~。
今では、そんなことではなく、かってのそのようなことから転じて、女性から男性に「閏年にプロポーズすると幸せになれる」と伝わっているそうだ。・・・でも、もし男性が断ったらどうなるんだろう?。”私の幸せを壊した”と・・・、ぶる!!やはり、恐い感じがするね~。そんなことなら、日本流バレンタインの義理チョコの方がマシかな~。
今日の記念日をと日本記念日教会の今日の記念日探すと、2月29日は「キン肉マンの日」だそうだ。”1979(昭和54)年に集英社の「週刊少年ジャンプ」に連載されて以来、多くのファンを獲得した日本を代表する漫画作品でありアニメ作品である「キン肉マン」(ゆでたまご原作)の記念日をと集英社が制定。日付はキン(金曜日)と肉(29日)を組み合わせたもので、1年に数回しか巡ってこない。2007年は6月、2008年の今年は2月と8月、2009年は5月のみ。キン肉マンDVD発売のPRも。”とあった。私も昔、何度か見たことあるが良くよくは知らない。以下参考に記載のHPなどを見てください。
参考は以下をクリックしてください。この下のページに表示されます。
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閏日「2月29日」:参考

2008-02-29 | 記念日
参考:
2月29日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8829%E6%97%A5
説文解字 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E6%96%87%E8%A7%A3%E5%AD%97
Sanseido Word-Wise Web [三省堂辞書サイト] » 漢字の現在:西向く「士」
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2008/02/11/%E6%BC%A2%E5%AD%97%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%9C%A8%EF%BC%9A%E8%A5%BF%E5%90%91%E3%81%8F%E3%80%8C%E5%A3%AB%E3%80%8D/
水の漢字館②(漢字に見る「水」の文化)
http://homepage1.nifty.com/shincoo/m062kannji-kaiji.html
図書カード:正岡 子規「墨汁一滴」 
http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/card1897.html
復活祭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E7%A5%AD
自転と公転の同期 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%BB%A2%E3%81%A8%E5%85%AC%E8%BB%A2%E3%81%AE%E5%90%8C%E6%9C%9F
黄金の車・・・ヨーロッパの青銅器時代を代表する遺品
http://okada.de/denmark/sjaelland/solvogn.htm
ソール (北欧神話) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AB_(%E5%8C%97%E6%AC%A7%E7%A5%9E%E8%A9%B1)
「閏」の字源
http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/lang/lang95.htm
説文解字 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E6%96%87%E8%A7%A3%E5%AD%97
歴史と暦(明治5年・「改暦の布告」明治31年「閏年に関する勅令」など)
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/koyomi.htm
Yahoo!ニュース「大気汚染は苦難」男子マラソン記録保持者、不出場の可能性も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080204-00000922-san-spo
Yahoo!ニュース - アメリカ大統領選挙
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/us_presidential_election_2008/
キン肉マン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E8%82%89%E3%83%9E%E3%83%B3
キン肉マン 公式サイト マッスルキングダム
http://www.kinnikuman.jp/
キン肉マン(Not Official Fan Page)
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Denei/3634/
キン肉マンソングINDEX
http://www.gamesworld.jp/MF/MANUAL/contents/another/kasi_index.htm
キン肉マン29周年記念サイト
http://www.kin29.jp/


エッセイ記念日

2008-02-28 | 記念日
今日(2月28日)は「エッセイ記念日」
木村治美エッセイストグループ(KEG)が制定。
エッセイストの元祖といわれているフランスのミッシェル・ド・モンテーニュの誕生日(1553年2月28日)に因んだものとか。記念日としたのは、木村治美エッセイストグループ(KEG)。エッセイストの集いを開いたり、エッセイを公募するなどの活動を行っているようだ(以下参考に記載の「木村治美エッセイストグループ 」参照。
goo国語辞典「エッセイ」によると、エッセー 【(英) essay; (フランス) essai】 とは、”(1)形式にとらわれず,個人的観点から物事を論じた散文。また,意の趣くままに感想・見聞などをまとめた文章。随筆。 エッセイ。(2)ある特定の問題について論じた文。小論論説。”・・・とあり、エッセーは、筆者の体験や読書などから得た知識をもとにしての、それに対する感想や思索、思想を散文によってまとめたもの、それに、論文随筆などを全て指すようだから、幅は非常に広いね~。
「エッセイ記念日」は、ミッシェル・ド・モンテーニュの『エセー(随想録)』(Essais )(1580年刊初版は、2巻本)に因んでのものと言われるが、これは、1580年から1581年にかけてモンテーニュがフランス、ドイツ、オーストリア、スイスを経てイタリアに旅し、様々なエピソードや都市ごとの宗教的な違いを詳細に記したもので、モンテーニュの死後に原稿が見つかり、1774年に Travel Journal(旅日記)という題名で出版されたものだそうである。
モンテーニュはフランス南西部ボルドー近郊に近いモンテーニュ城に裕福な貴族の子として生まれた。母方はマラーノの血が入ったセファルディム(コンベルソ)の家系だという。
父は政治にも熱心でボルドーの市長を務めたことがある。ミシェルは6歳になるまで、家庭教師のもと専らラテン語(ラテン語は当時の学問に必須の知識)を用いて育てられトゥールーズで法学を学び、フランスの法官になった。1557年、ボルドーの高等法院(パルルマン.Parlement)に務めていたとき、同僚にエティエンヌ・ド・ラ・ボエシーと知りあい深い友情を結んだという。以下参考に記載の「松岡正剛の千夜千冊『エセー』全6冊ミシェル・ド・モンテーニュ」によると、ボエシーは、高潔で、若くして深い見識があり、このボエシーとの出会いがモンテーニュを変えたというが、この親友はわずか30歳そこそこで疫病に倒れて死んだそうである。モンテーニュがこの友人から受けたものは格別だったそうで「ラ・ボエシーと付き合った4年間にくらべたら、それ以降の人生なんて暗くて退屈な夜にすぎない」とさえ書いているそうで、彼はそんな「喪失」を動機に思索や行動を決断したようだ。
1565年に結婚し6人の娘が生まれたが、そのうち成人したのは1人だけだという。1568年には、父の死によりモンテーニュ城を相続し、1570年、37歳で法官を辞任して故郷に戻り、モンテーニュ城館の塔に「読書室」をつくって、読書と思索の生活に入ったという。やがて『エセー(随想録)』の執筆を初め、先に書いた、「随想録」2巻が1580年に出版されたのである。
『エセー』 は岩波文庫から全6冊が出版されているよう だが、これらは一挙に書かれたものではなく、いろいろの時期のエッセイが入っている。だいたいは執筆順に並んでいるが、あとで何度も加筆訂正をしているそうで、どこの部分が初期のモンテーニュの文章で、どこが円熟期のモンテーニュなのかは区別がつきにくいという。
その冒頭で、「世間で評判になりたいのなら、私だってもっと技巧を凝らして身を飾っただろうけれど、これは私が私を書いているのだからそんなことはしない、私自身が私の本の題材なのだ」というようなことが書いてあり、「私自身が私の本の題材だ」ということらしい。
そして、モンテーニュは「私はこれからはもう走らない」と決心して、現実社会から退いたという。だから、『エセー』はたいへんにゆっくりと文章が歩行の速度で綴られているそうだ。
このモンテーニュのゆっくりとした「思索の速度」がその後のヨーロッパにおけるエッセイの母型になったのだという。だから、『エセー』は書き上げてからも、何度も何度も加筆訂正をしているがそれをやりつづけることがモンテーニュの楽しみであり生き方でもあったようだ。
日本では、10世紀末に清少納言によって書かれた枕草子の巻末の跋文によれば、執筆の動機および命名の由来は、”内大臣伊周が妹中宮定子一条天皇に当時まだ高価だった料紙を献上した時、「帝の方は『史記』を書写なさったが、こちらは如何に」という宮の下問を受けた清少納言が、「枕にこそは侍らめ」と即答し、そのまま宮から紙を下賜されたことによる。「枕草子」の名もそこから来るというのが通説である。日常的風景に対する鋭い観察眼は「をかし」という言葉で象徴されている。つまり、「をかしの文学」などとも言われているがその理由は以下参考に記載の「不二草紙 本日のおススメ: 『をかし』の語源…『萌え=をかし論』の本質」などを呼んでみると判るだろう。尚以下参考に記載の「枕草子講座」で、『 枕 草 子 』 の解説がされているので時間のある人はこれを読むとよい。
その後も、鴨長明の乱世をいかに生きるかという自伝的な人生を書いた随筆方丈記吉田兼好が退屈を凌ぐために書いたと言われているが、実際はいかに生きるかを探求する作品『徒然草』など優れた随筆作品が登場した。以下参考に記載の”図書カード: 鴨 長明「方丈記」”、”新訳もの狂おしくない『徒然草』”、”古典に親しむ:典に親しむ”など読まれるとよい。今の時代ネットで、これらの文学をいつでも親しめるのだから幸せな時代だよね~。でも、今の時代のように何でも露骨に表現しないとわからない人が多くなった時代に「いとおもしろき」随筆などいうものなどは面白くないのかもしれないね~。私も、現役を退き、暇な時間を利用して、こんな、中途半端な『今日のこと色々』を書いているが、モンテーニュのように、ゆっくりと書かなければいけないのだろう。毎日のことなので、どうしても追われて書いている感じで、少々、荒っぽくなってきた気がする。これからは、余り、無理せず書くようにしなければ・・・\(_ _ ) ハンセィ。
(画像は、原 二郎 訳モンテーニュ「エセー」岩波文庫全6冊)
参考:
木村治美エッセイストグループ
http://www.mmjp.or.jp/keg/index.htm
松岡正剛の千夜千冊『エセー』全6冊ミシェル・ド・モンテーニュ
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0886.html
不二草紙 本日のおススメ: 『をかし』の語源…『萌え=をかし論』の本質
http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2006/02/post_4e6f.html
枕草子講座
http://www.daito.ac.jp/~hama/m_batubun.html
図書カード: 鴨 長明「方丈記」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000196/card975.html
新訳もの狂おしくない『徒然草』
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/turezuregusa.html
古典に親しむ:典に親しむ( 方丈記、 徒然草他)
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kotenpeji.htm
木村治美 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%B2%BB%E7%BE%8E
偉人データベース木村治美(きむら・はるみ)
http://f1.aaa.livedoor.jp/~ijin/kimuraharu.html
フェミニズム25
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/femi27.html
エッセイスト-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%88
シンデレラコンプレックス-Wikipedia
>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%A9%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/

日大の人力飛行機「リネット号」が初飛行に成功した。(日本初の人力飛行 )

2008-02-27 | 歴史
1966(昭和41)年の今日(2月27日)、日大の人力飛行機「リネット号」が初飛行に成功した。(日本初の人力飛行 )
人力飛行機は、人間の筋力のみを動力源とする飛行機のことである。鳥のように大空を自分の力で飛びたいというのは、古代からの人間の夢であり、それを達成したいと世界各国の人々が研究をかさねねてきたことにより、現代の航空機の発展が見られる。
1490年に、『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などの精巧な絵画で有名なレオナルド・ダ・ヴィンチオーニソプター(鳥のように翼を羽ばたかせる事によって飛ぶ航空機)の設計図を描いている(ヘリコプターのような航空機のスケッチも残していることが知られているが)。
航空史(航空に関する年表参照)の黎明期に開発された飛行機械は大半が鳥のように羽ばたくものであった。しかしながら、鳥は単に翼を上下させているのではなく、翼自体を変形させつつ複雑に羽ばたくことで揚力推力を同時に得ている。そのことが判明するのは19世紀中盤以降、写真技術の発達によってであった。そのような動作を機械で模倣する事は技術的にも困難であり、また人力にしろ動力にしろ、パワーウェイトレシオ(出力荷重比、馬力荷重)が不足で、なおかつ、羽ばたきに耐える強度を持った翼を開発できなかったため、オーニソプターによる飛行の試みはことごとく失敗に終わった。
1783(天明3)年 モンゴルフィエ兄弟熱気球ジャック・シャルルと助手のロベールが水素気球で有人飛行に成功する。以降も、これに始まる軽航空機の発展とはあまり関わりがなく作られ続けるが、イギリスのジョージ・ケイリーが揚力と推力を分離する固定翼機のアイディアを着想し、1849(嘉永2)年に三葉のグライダーを製作し、10歳の少年を乗せての滑空に成功。1853(嘉永5)年には、単葉のグライダーを製作し、ケイリーの馬車の御者の操縦で100m以上の飛行に成功した。そして、1903(明治36)年、あのアメリカのライト兄弟が固定翼機「ライトフライヤー号」による有人動力飛行を実現させるとオーニソプターの開発は下火となる。
それでは日本ではどうかというと、江戸時代に、備前国浮田幸吉が、やはり、空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを研究。「鳥の羽と胴の重さを計測しその割合を導き出し、それを人間の体に相当する翼を作れば人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」と結論づけたという。そして、表具師の技術を応用し、竹を骨組みに紙と布を張り柿渋を塗って強度を持たせた翼を製作。試作を繰り返し1785(天明5)年夏、旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がり、風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したとも言われているそうだが、河原で夕涼みをしていた町民の騒ぎとなり、即座に岡山藩士によって取り押さえられ、岡山所払いにされたのだとか。 もし、幸吉の飛行が事実であるならば、ケイリーのグライダーによる有人飛行実験よりも60年以上早く行ったことになり、記録された有人滑空飛行としては世界で最初ということになるのだが・・・。(世界で始めて空を飛んだ表具師浮田幸吉の墓)。話は本題に入るが、動力航空機の発達した現代においても、動力を使用せず、人間の力だけで空を飛びたいとの欲求は、常にあるようで、人力飛行機の研究は、世界各国で行われてきた。
イギリスのサザンプトン大学で1961(昭和36)年に「SUMPAC」号が有人人力飛行に成功したそうだがそれ以来、 人力による飛行法としてプロペラ機が中心となったようだが、日本では日大・理工学部が先駆者となり、1963(昭和38)年に、機械工学科航空専修コース(現在の航空宇宙工学科)の卒業研究の一環として故木村秀政(以下参考に記載の「Hidemasa Kimura」参照)のもと研究開発が行われてきたという。そして、1966(昭和41)年今日・2月27日、足でこいで飛ぶ日本初の人力機「リネット号」が東京・調布飛行場で初飛行に成功。1963(昭和38)年より足掛け3年かけて製作されたものであった。地上1m、飛行距離10mと世界でも英国に次いで3度目〔世界で4番目〕の快挙。2回目のテストでは瞬間高度3mに達し、高さでは世界新記録を達成したという(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。また、1977(昭和52)年には「ストークB」」が未公認ながら当時の世界記録を塗り替える飛行距離2093.9mを記録しているという。
このような人力飛行機の滞空距離を競う競技会、「鳥人間コンテスト選手権大会」が読売テレビ(ytv)系列全国ネットで放送されていた。第1回大会が開かれたのが、1977(昭和52)年、滋賀県近江八幡市・宮ヶ浜水泳場であった(『びっくり日本新記録』内で放送 )。以下参考に記載の「第35回公開市民大学/鳥になりたい男たち-人力飛行機にかける青春-」によると、1977(昭和52)年7月、ロンドンでテームズ河に翼をつけた人が飛び込んで行った夏の祭りをよみうりテレビが模して急遽企画したものだという。以降毎年、7月後半に琵琶湖(1980年から 会場を彦根市・松原水泳場へ移す)で開催され高さ10mのプラットホームから飛び立ち、直線飛行距離を競い合っている。同大会は、第1回では、競技部門(飛距離を競う)のみであったが、第2~9回は競技部門は、コミックエントリー(飛距離を競わず、面白い飛び方を競う) となり、第10回に滑空機部門、人力プロペラ機部門、女性パイロット部門が追加され飛距離を競い、第11回より、コミックエントリーは中止されるなど、人力飛行機の技術開発の進展や番組の放送形態の変化に伴い、競技部門は開催年度によって大きく変化している。そのなかで、第27回(2003年)には、人力プロペラ機部門で日本大学理工学部のサークル、航空研究会のMöwe20(メーヴェ20)が、飛行直線距離としては、同会場での事実上の限界記録34654,10m(34,6km)を飛び大会記録を更新し、鳥人間の夢の目標値である琵琶湖大橋まで辿りついた。
面白いので私も第1回よる毎回ズット見ていたが、最近はあまりテレビを見なくなり、そういえば、ここ数年見ていない。その後、どうなっているのかは、知らないが鳥人間コンテストのことは「鳥人間コンテスト選手権大会」を参照されると良い。
以下参考に記載の「(財)日本航空協会のホームページ」の航空スポーツの記録 (Record)・日本記録/滑空機(Gliders)を見ると、I-C 一般 (Aeroplanes )では、 日大式NM-03型 Möwe21号が、静岡県庵原郡蒲原町 富士川滑空場~駿河湾で、2005年8月6日に記録した直線距離 49,172 km、滞空時間 1時間48分12秒 が現在のところの日本記録だそうである。(詳細は同HPを参照)
尚、余談であるが、空を飛ぶキカイである飛行機の開発の動きが日本に紹介された明治中期には、「飛行器」などと訳されていたそうだ。誰が最初に現代使用されている「飛行機」という語に訳したかであるが、文豪・森鴎外が「小倉日記」の1901(明治34)年3月1日付に「飛行機の沿革を説く」とあるのが初出だそうである。「小倉日記」は、ドイツ留学から帰国後陸軍軍医学校・大学校教官に任じられ、その傍ら、文学活動をしていた鴎外が、1899(明治32)年、当時東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部(以下参考に記載の※都督部参照)が置かれていた小倉(西部)に左遷(鴎外本人の受け止め方)1902年(明治35年)に東京勤務となる間に書かれたもの。軍医になってドイツに留学した鴎外は、飛行機の開発にも関心を強め、国産機開発の動きにかかわったこともあった。
飛行する機械をつくりたい、と訪ねて来た青年発明家・矢頭(やず)良一(以下参考に記載の「豊前人物伝/頭 良一」参照)に、留学時代に知った開発の歩みについて熱っぽく語ったことを記した部分だ( 以下参考に記載の「日本の計算機,矢頭良一(手動計算機)Yazu」の森鴎外 『小倉日記』抜粋部分参照)。また鴎外訳の『人の一生 飛行機』が1911(明44)年に出版 されている(以下参考に記載の近代日本の肖像「森鴎外」では「人の一生 飛行機」の翻訳本を詠むことが出来るよ)。鴎外の新しい側面をみたような気がするね。
(画像は、足でこいで飛ぶ日本初の人力機「リネット号」の東京調布飛行場での初飛行1966年2月。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
人力飛行機 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%8A%9B%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F
グライダー関連サイト(日本)
http://www.arknext.com/link/per/007ja.html
(財)日本航空協会のホーム
http://www.aero.or.jp/index.htm
~人力羽ばたき飛行機~
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kazuho/index.html
(財)日本航空協会のホームページ・各種イベント後援(航空スポーツカレンダー)
http://www.aero.or.jp/koku_sports/event-info/event-top.htm
第35回公開市民大学/鳥になりたい男たち-人力飛行機にかける青春-
http://www.cst.nihon-u.ac.jp/college/35/01.html
Hidemasa Kimura(木村秀政)
http://www.hi-net.ne.jp/~take5/hidemasa/Kimura_main.html
asahi.com : ニュース特集「飛行機」初訳者は鴎外? ライト兄弟飛行の2年前
http://www.asahi.com/special/wrightbrothers/TKY200311190212.html
人力飛行機に関する基礎研究(日大理工学部HP)
http://www.kenjm.cst.nihon-u.ac.jp/rik_news/manpower_abe.html
※都督部
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/division/totoku.html
豊前人物伝/頭 良一(やずりょういち)
http://www2.ktarn.or.jp/~kenchan/yazu.html
日本の計算機,矢頭良一(手動計算機)Yazu
http://homepage2.nifty.com/Miwa/Historic%20Computer/Yazu.html
近代日本の肖像「森鴎外」
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/342.html

1979(昭和54)年2月26日文部省が自殺防止対策を通達

2008-02-26 | 歴史
1979(昭和54)年2月26日のこの日、 小中高校生の自殺増加により、文部省が自殺防止対策を通達 。
今年に入ってからは余り耳にしなくなったが、昨年までは、若年者の犯罪や、いじめによる自殺について、新聞・雑誌・テレビなどでよく取り沙汰されていた。私の地元神戸でも昨2007年に滝川高校でも飛び降り自殺事件が起りショックを受けた。これもいじめが原因のようであるが、そのような昨年のいじめの実態などは以下参考に記載の「アホウドリの滑走のように:〔いじめ:小中高校生の自殺〕」を参考にされるとよい。
2006年8月、静岡県内のある公立中学1校の1~3年生を対象に厚生労働省の研究班が約600人を調査すると、中学生の25%が「うつ状態」という結果が出たという。
◆中学生25%が「うつ状態」 厚労省調査 (J-CAST 07/5/20)
http://www.j-cast.com/2007/05/20007613.html
そして、専門家は、いじめの有無ばかりに注目せず、子供の心の状態に教師や親が関心を高める必要性を指摘しているという。
以下参考に記載の「プラトン政策情報館:いじめによる児童・生徒の自殺」によると、”平成6年~平成17年のいじめの学校数と発生件数について、中学生の自殺問題が大きな波紋を呼んでいるため、文部科学省も、本格的な調査に乗り出し、その結果を発表しているが、学校におけるいじめの発生件数について、正式な統計は公立学校についてのものしかない。また、その最近の傾向としては、発生学校数・発生件数ともに、小中学校では減少の傾向にあるものの、高等学校においてはやや増加の傾向が見られるという。発生学校数で見ると、小学校では10校に1校、中学校・高等学校では3校に1校の割合でいじめが発生しているとあり、一方、文部科学省の同じ調査によると、公立学校における児童・生徒の自殺者数は、近年緩やかに減少しているものの、平成17年度においても105人存在しており、自殺者については小学生よりも中学生、中学生よりも高校生の方が多くなっているとのこと。しかし警察庁、生活安全局地域課が公表している「平成17年中における自殺の概要資料」(平成18年6月)によると、平成17年(文部省統計は年度であることに注意)の小中高校生の自殺者数は、小学生7人、中学生66人、高校生215人の合計288人となっており”、文部科学省の数値の倍以上である。
そして、”自殺の理由として上位に上がっているのは、「厭世」「精神障害」「父母等のしっ責」であるが、「その他」の中に全体の6割ほどが分類されてしまっているため、正確な自殺原因の特定がなされていないというのが現状”のようだ。
又、以下参考に記載の「自殺、福岡県筑前町立三輪中学校(関連)」の記載しているところによると、”「学校のいじめは減少している」という文部科学省の「いじめ」に関する調査に対し、「実態を反映していない」との指摘が出ているが、法務省の調査では増加傾向にある。同省の調査によると、学校でのいじめは、2005(平成17)年には前年より2割以上増えている”といい、この”法務省調査は、各地の法務局など人権擁護機関が、「いじめで人権を侵害された」と相談した当事者の申告などに基づいている。一方、文科省は、学校や自治体教委の報告を積み重ねる形だ。学校側がいじめを見落としたり黙認したりすれば、統計には反映されない"・・・と指摘している。それぞれの立場でそれぞれ調べ方が違うので、私達直接このような問題の調査に携わっていない者には、これらをどう見たらよいのか判らないが、やはり、文部科学省の調査は、当然に甘く、いじめや自殺者数の実体についても非常に少なめに出ているのだろうとは思うよ。
しかし、それにしてもまず思うことは、子供たちの、いじめによる自殺は親の責任が非常に大きいとも思う。無論、学校の責任も無視できないが・・・。ただ、問題を学校のせいにばかりするのはどうだろう?。子供がいじめられていることを素直に親に話せないで自殺してしまうというのは、やはり、子どものいじめによる“助けて!”・・・というサインを見逃してしまったということであり、これは親として、反省すべきところであろう。子供は、直接悩み事を話してこなくても必ず何らかのサインをだしているのだろうと思う。しかし、誰も気付いてくれず助けてくれないと悲観して自殺してしまうのだろう。それと、今の親自体が、戦後の経済成長と共に、経済面で豊かになったこと、又、戦後教育などの面で、忍耐とか我慢をすることに慣れておらず、子供の教育にいたっては当然に親以上に精神面での教育がなされていないだろう。戦後宗教や道徳といった面の教を避けてきたこともあり、今の時代の人達は”生きる”ことの大切さや自分以外の他人への”思いやり”の気持ちなども薄れてきているようだが、いずれにしても、子供のそのような悩み事を同じ家庭で生活をしていながら気づいてやることが出来ない・・・これが最も深刻な問題のような気がする。
今、自殺は少年だけでなく、貧富の格差が開く中、生活苦の老人などのものも増えてきている、これまでも各省庁ごとに自殺予防対策に取り組んできた腰の思い政府も、今後は自殺対策基本法(平成18年10月)に基づき、自殺の防止及び自殺者の親族等への支援の充実等を図るなど、自殺対策の総合的な推進を図っているようだ。(以下参考に記載の「内閣府共生社会統括官・自殺総合対策」参照)
最後に、最近ちょっと気になるというか私には面白いHPを見つけたので物好きな人は以下を見てみてください。
平成19年(2007)の殺人発生数は戦後最低
http://blog.livedoor.jp/kangaeru2001/
今年・2008(平成20)年2月1日に警察庁が、昨2007(平成19)年の犯罪統計(以下参考に記載の「犯罪統計資料〔平成19年・平成18年対前年同期比較〕」参照。但し、重たいので注意)を発表したが、殺人の認知件数は1,199件で平成3年の1,215件を下回って戦後最低を記録したという。それは、よいことであり、それが何が問題かというと、例えば、「去年のニューヨーク市の殺人事件数が過去最低」というニュースは日本の新聞も取り上げているのに、自分の国の「殺人発生数が戦後最低」になってもマスコミがとりあげないという不思議だというのである。
確かに最近のテレビなどでも、どこで殺人があった、自殺があったと不幸な出来事はこれでもかこれでもかと言うほどくどくど毎日報じられている。知らない外国人がテレビを見ると日本の国って今はそれ程ひどい国になってしまったのかと驚くのではないかと考える。
ところで、映画「三丁目の夕日」をご存知ですか?その映画の舞台となった1958(昭和33)年の殺人発生数は2,683件で、平成19年はそのころからの半分以下になっている。しかも人口は当時より3割ほど増えているというのに・・・。殺人以外の強盗、強姦、放火も、それぞれおととしの10%前後も減少していて、もちろん「三丁目の夕日」時代より少ない。未成年の凶悪犯罪も大幅に減っているという。そこで、少年の殺人統計グラフを見てくださいというので見てみた。以下のページである。
少年犯罪データベース 少年による殺人統計
http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Satujin.htm
内容は、結構私適には面白いので、興味のある人はゆっくりと読めばよいが、要するに、警察の統計にもいろいろ恣意的な問題もあるようだということである。
私も、現役時代、調査したことを発表するのに色々レポートをっ作成する時には、統計資料を使ってきた。昔から、「数字」ほど便利なものはなく「人を納得させる」のには数字を、また、逆に「人を騙す」のにも数字が使われると言われている。私なども自分のレポートを納得させるために必要なデーターを拾い、又作ったものだ。そのように、先にも書いたが、それぞれの立場のものが、それぞれに自分達の都合の良いように数字を使って統計資料が作られていることは承知しておくべきだろう。だから、数字はややこしい。だから、少なくとも、マスコミなど、多くの人に影響を与える立場にある者は、簡単に発表者の数字をそのまま取り上げて、それで、良いとか悪いとか言っていると、発表者に上手く利用されるだけである。・・また、悪いことは伝えるがよくなっていることは伝えないというのも不公平である。バランスをとってもらいたいものである。しかし、最終的には、そんなマスコミの報道を信用している消費者がマスコミ報道に洗脳されてゆくことになるのだろう。今のようにテレビなどのマスメディアの発達していない時代には、それ程、大きく報道されなかった、犯罪や事件が、今ではテレビのニュースまがいのバラエティーで興味深々に取り上げられる。今インターネットの発達等により、犯罪の種類も増え凶悪な少年犯罪も発生し、少年のいじめや、いじめによる自殺も多く発生しているようであるが、それでは、過去においては、そのような若年者などによる凶悪な犯罪・いじめ・自殺などといったものは本当に少なかったのか・・・というと、私も、少し考え直さなければいけないかな~などと思ったりもしている。例えば、以下のデーターを見てみよう。
少年犯罪統計データ ↓
http://kangaeru.s59.xrea.com/toukei.html
この警察庁の統計がどこまで、信用できるかは別にして、それを正しいものとして、例えば、この中の 自殺統計などを見ると、15~19歳の1920(大正 9)年~2003(平成15)年自殺統計10万人当り若年者者自殺率を見る限り、1950(昭25 )年、15.3 % 1955(昭30 )年、31.7 % 1960 (昭35 )年23.8 %をピークに2003(平15)7.3%と減ってきている。ただ、今の時代は当時より豊かな世の中になっている。当たり前といえば当たり前ともいえる。自殺発生の理由など細かなことは知らないが、その時代時代によって、理由は違っているだろう。今は、食べることが出来ないといった苦しみじゃ~なく、ちょっとした事に悩みうつ状態になってしまう・・・・。何か、ひ弱い、豊かさ・贅沢さからきた精神面の弱さや悩みから起こっているのではないかと思われる問題が多いように思うのだが・・・。
(画像は、内閣府自殺対策推進室の平成19年度の「自殺予防週間ポスター」)
参考:
いじめ- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%81
少年犯罪データベース・昭和54年(1979年)の少年犯罪
http://kangaeru.s59.xrea.com/54.htm
プラトン政策情報館:いじめによる児童・生徒の自殺
http://blog.so-net.ne.jp/platon-bunken/2006-10-19
アホウドリの滑走のように: いじめ:小中高校生の自殺
http://blogs.dion.ne.jp/albatross_works/archives/cat_223223.html
自殺、福岡県筑前町立三輪中学校(関連)
http://ameblo.jp/respect-you-0725/entry-10018900428.html
人権擁護局フロントページ
http://www.moj.go.jp/JINKEN/index.html
自殺対策基本法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%AE%BA%E5%AF%BE%E7%AD%96%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%B3%95
自殺対策支援センターライフリンク 『自殺対策基本法』
http://www.lifelink.or.jp/hp/syomei.html
自殺対策基本法
http://www.ron.gr.jp/law/law/jisatu_k.htm
中学生25%が「うつ状態」 厚労省調査
http://ikaruga007.exblog.jp/i33
内閣府共生社会統括官・自殺総合対策
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/index.html
第3回自殺総合対策の在り方検討会
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/sougou/taisaku/kentokai_3/gijiroku.html
生徒指導関係略年表について
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/04121504.htm
日本再生ネットワーク 「教育情報」 :子供の自殺
http://ikaruga007.exblog.jp/i33
ALWAYS 三丁目の夕日
http://www.always3.jp/05/
ALWAYS 続・三丁目の夕日
http://www.always3.jp/
統計(警察庁)
http://www.npa.go.jp/toukei/index.htm
犯罪統計資料(平成19年・平成18年対前年同期比較)
http://www.npa.go.jp/toukei/keiji31/hanzai.html -->