今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

出雲ぜんざいの日

2015-10-31 | 記念日
日本記念日協会で10月31日の記念日を見ると、「出雲ぜんざいの日」があった。
由緒を見ると、「出雲地方では旧暦の10月を神在月と呼び、その神在祭に振る舞われたのが「神在もち(じんざいもち)」。これが「ぜんざい」の語源となったと言われていることから、島根県出雲市の出雲観光協会が制定した日。日付は神在月(出雲以外の地では神無月)の10月のなかでも、10と31で「せんざい」語呂合わせで読める10月31日を選んだもの。」・・・とあった(*1参照)。
日本記念日協会に登録されたのは2007年だそうだ。いわゆる最近多くなった、観光客誘致のための市の特産品PRのためのもののようである。同市では、記念日の申請にあたって、同年に「日本ぜんざい学会」を立ち上げ、「日本ぜんざい学会新聞」(2007.7.1創刊号発行。*2参照)まで発行してPRに努めている。各自治体が町おこし(地域おこしまちづくりを参照)は、それなりに意義のあることではあるだろう。
例年猛暑の夏が終わると、食欲の秋が来る。その秋も深まり、気温がぐっと冷え込んでくると、温かい食べ物が恋しくなるが、甘党の人にとっては「ぜんざい(善哉)」もその一つであろう。
「ぜんざい」は、小豆を砂糖で甘く煮てや白玉団子(白玉粉と呼ばれる米の粉で作った団子)、などを入れた汁物である。これに対して、関東ではこれを「おしるこ(お汁粉」と呼び、汁気のない餡を用いたものを「ぜんざい」と呼ぶようだ。つまり、漉(こ)し餅を用いたものも粒餅を用いたものも汁のあるものは汁粉と呼ばれ、汁のないものが「ぜんざい」となるようだ。
関西地方では、粒餡を用いたものが「ぜんざい」で、漉(こ)し餡を用いたものは「しるこ」と呼んで区別しており、汁気のない餡を用いたものは、「亀山」や「小倉(小倉餡)」と呼んでいる。
「亀山」は、かつて岐阜県武儀郡にあった小金田村の旧村名・小屋名村のトップ級の大地主であっ亀山善兵衛かまた、その娘婿かは定かでないようだが、明治時代に大阪の天満に出てきて「亀山屋」という屋号で餅屋を開店し、目玉商品に亀山屋のぜんざいを「かめやま」という名で売っていたという。食道楽の大阪のド真申で、大阪の善哉とは違う田舎丸出しの小屋名風のぜんざい(田舎善哉)を大阪では「亀山」と呼ぶようになったようだ。(*3:「武儀郡小金田村」HPのいなかぜんざいの話(亀山異聞)を参照)。なお、これがそうかどうかはよくわからないが、ネットで検索すると、亀山氏の系譜について書かれているものがあった。この中に善兵衛の名も出てくる(*4を参照)。
また、京都市右京区の嵯峨二尊院門前長神町の二尊院内に「小倉餡発祥の地」と刻まれた石碑が建っている(建立者は、井筒八ツ橋本舗の六代津田佐兵衛)。
日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間のない820年頃の ことで、京のこのあたり 小倉の里(京都・嵯峨野-小倉山麓。小倉百人一首が撰ばれた地と伝わる)に亀の甲せんべいを作っていた和三郎という菓子職人がいて 809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培しそれに御所から下賜された砂糖を加え煮つめて餡を作り これを毎年御所に献上した。 その後、この和三郎の努力で洛西を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の 菓子にも用いられ、ハレの料理にも加えられるようになったといわれている(*5参照 )。
ただ、日本の製縄文時代から始まり、調味、防腐、保存に使用していたが、砂糖は日本には奈良時代鑑真によって伝えられたとされており、当時は、糖蜜の形で使用され、医薬品として扱われていたが、ある程度製糖の知識も普及し菓子や贈答品の一種として扱われるようになったのは平安時代後期のことと言われているが、ここで毎年御所に献上されたとされる餡も、当初のものは薬として献上されていたものだろうが、京都では平安時代の早い時期から薬じゃなく砂糖で小豆の餡が嗜好品として作られていたということだろう。
関西人の私など、「善哉」というと、まず第一に頭に浮かぶのは、豊田四郎監督の映画、『夫婦善哉』である。

この映画のことはこのブログ、「11月13日豊田四郎の忌日」でも簡単に触れた(ここ参照)が、同映画は、大阪を代表する作家織田作之助小説『夫婦善哉』(*6の『夫婦善哉』参照)を原作に、大正から昭和にかけての大阪を舞台に、大店のドラ息子(主演:森繁久彌)としっかり者の芸者(淡島千景)の愛情をなにわ情緒豊かにユーモラスに描かれたものである。
作品のタイトルとなっている「夫婦善哉」という言葉は、法善寺横丁にあるぜんざいの店「夫婦善哉(めをとぜんざい)」の名前から採られたたものである。
法善寺を「大阪の顔」だと言い、大阪を知らない人から、最も大阪的なところを案内してくれといわれたら、法善寺へ連れて行くと言う織田は、「めをとぜんざい」について次のように語っている。
「俗に法善寺横丁とよばれる路地は、まさに食道である。三人も並んで歩けないほどの細い路地の両側は、殆んど軒並みに飲食店だ。
「めをとぜんざい」はそれらの飲食店のなかで、最も有名である。道頓堀からの路地と、千日前――難波新地(補足:ここも参照)の路地の角に当る角店である。店の入口にガラス張りの陳列窓があり、そこに古びた阿多福人形が坐っている。恐らく徳川時代からそこに座っているのであろう。不気味に燻んでちょこんと窮屈そうに坐っている。そして、休む暇もなく愛嬌を振りまいている。その横に「めをとぜんざい」と書いた大きな提灯がぶら下っている。
はいって、ぜんざいを注文すると、薄っぺらな茶碗に盛って、二杯ずつ運んで来る。二杯で一組になっている。それを夫婦(めおと)と名づけたところに、大阪の下町的な味がある。そしてまた、入口に大きな阿多福人形を据えたところに、大阪のユーモアがある。ややこしい顔をした阿多福人形は単に「めをとぜんざい」の看板であるばかりでなく、法善寺のぬしであり、そしてまた大阪のユーモアの象徴でもあろう。」・・・と(*6の『大阪発見』の第二段 のところ参照)。
そして、また、豊田監督の映画「夫婦善哉」の中でも柳吉と蝶子が、夫婦善哉のいわれを語るシーンがある。
柳吉「こ、こ、ここの善哉(ぜんざい)はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫(だゆう)ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山(ぎょうさん)はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」、
蝶子「一人より女夫(めおと)の方がええいうことでっしゃろ」
放蕩で甲斐性のない柳吉が知ったかぶりで話し、喧嘩は絶えないが惚れた弱みで別れられないが、しっかりものの蝶子がすぐさま切り返す。
この店の、店名と同じ看板メニューは1人前のぜんざいを2つの器に分けたもので、いかにも得をした感じにさせるところが大阪らしい発想である.。因みに、柳吉の話に「昔何とか大夫ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな・・・」とあるが、これは、明治16年頃、文楽浄瑠璃語りの竹本琴太夫(5代目竹本政太夫の門弟。 7代竹本咲太夫)が「お福」というお店を開業したのが始まりという(*7参照)。
ただ面白いことに、*7には、「杯のぜんざいを2杯に分けて出すことにします。少しでも多く見えるように、分厚いがお皿のように浅い容器二つに分け、備前焼の湯呑、赤塗りの箸、これを朱塗りの盆にのせて出す。片方はあんをこした汁粉、もうひとつは小豆粒のぜんざいと決め、これを熱くしてふうふう吹きかけながら食べる趣向です。」・・・と、書かれている。
え・・・?夫婦善哉って、明治の開業当初は、あんをこした汁粉と小豆粒のぜんざいの2種類を出していたの・・?今はどうなのだろう?
私は神戸っ子だが、若いころから大阪で勤務していたし、飲兵衛だったので、法善寺横丁にはしょっちゅう行き、あちこちの店で飲んでいたし、最後には、夜食にお結び屋などへも行ったのは覚えているが、残念ながら、善哉を食べるために「夫婦善哉」の店などには行ったことがない。私は酒飲みだが甘いものも大好きの甘辛党で、家では善哉もよく食べるのだが、その時は、関西人らしく粒あんのものと決まっており、「夫婦善哉」では、粒あんのぜんざいが二杯出てくるものと思っていたのだが・・・。実際はどうなのだろう?

大阪には、もともと潰し餡の善哉しかなかったのだが、明治後半、三越呉服店(現:三越百貨店)内に食堂が開店、そこで漉し餡の東京風汁粉が売り出された。これが汁粉の本格的な大阪デビューだという説がある。前後して大阪には、或る食の遊びがあり、浪速橋筋の瓦町辺りの或る汁粉屋さんの店では「汁粉十二月」と言い、一月=若菜 二月=むめ 三月=さくら 四月=卯の花 五月=皐月 六月=水無月 七月=天の川 八月=名月 九月=翁草 十月=小春 十一月=神参 十二月=飛雲の12種類の汁粉があったという。これらの汁粉は一月の若菜から次第に甘みが加えられ十二月の飛雲に至っては極めて甘いものであったそうで、これらを一月から十二月まで無事に食べれば代金は無料。しかし、客は概ね五~六月で降参。大阪らしい酒落のキツイ遊びであったようだ(*8:「御座候HP」の“Azukiこぼればなし” ●寒露No.133を参照)。
いずれにしても、大阪でも、明治後半には小豆の粒あん以外のものも食べられてはいたようだ。
開店当初、また現在の夫婦善哉の「ぜんざい」が実際にはどのようなものかは別として、「ぜんざい」について、一般に言われている関西と関東での認識の違いはなぜおきているのだろうか?
それは、どうも、うどんの“きつね・たぬき論争”(*9参照)でみられるように、すでに、江戸時代からその認識の違いはあったようだ。

江戸時代後期の三都(江戸・京都・大阪)の風俗、事物を説明した一種の類書(百科事典のようなもの)である『守貞謾稿』(1853年)の巻六 生業には、「善哉」が登場し、また、「汁粉」についても言及している。そこには以下のように書かれている。(*10:『古事類苑>』飲食部/餅<団子・餡・併入>の善哉。の『守貞漫稿』 六生業巻についての記載部分559 頁560 頁〔ここ〕を参照。)。

守貞漫稿  六 生業
善哉賣
京坂ニテハ、專ラ赤小豆ノ皮ヲ去ズ、糖ヲ加ヘ、丸餅ヲ煮ル、號テ善哉ト云、
汁粉賣
江戸ハ赤小豆ノ皮ヲ去リ、白糖ノ下品或ハ糖ヲ加ヘ、切餅ヲ煮ル、號テ汁粉ト云、京坂ニテモ皮ヲ去リタルハ汁粉、又ハ漉饀ノ善哉ト云、又江戸ニテ善哉ニ似タルヲツブシアント云、又マシ粉アンノ別ニ全體ノ赤小豆ヲ交ヘタルヲ鄙(イナカ)汁粉ト云、或ハ八重成アリ、八重成ハ小豆ニ似テ碧色也、・・・・」

つまり、意訳すれば、京坂では専ら赤小豆(=小豆.アズキのこと)の皮を取らないで黒砂糖で煮、これに丸餅を入れたものを善哉と云い、これに対して、江戸では赤小豆の皮を取って、白砂糖の上等でないものか黒砂糖を入れて煮、切り餅をいれたものを汁粉と云っている。ただ、京坂にも、皮を取った汁粉はあり、漉し餡の善哉という言い方をしたと『守貞謾稿』には書かれており、また、江戸では、善哉に似たものをつぶし餡と云い、又、こしあんの別に「つぶあん」を使った汁粉は、「鄙(田舎)しるこ」といわれたようだ。また、八重成(やえなり)という小豆に似た碧色(青緑色)した豆を使った汁粉も商っていたようだ。そして、掲載文では省略したが、これら善哉や汁粉、雑煮などを夜商いする人のことを、三都ともに「正月屋」と呼んでいたようだ。その理由はよくわからないが、雑煮は正月を祝うもの、鏡餅を割って雑煮や汁粉・ぜんざいにして食べる鏡開きも正月の行事だったことなどが理由にあるのかもしれない。
そもそも、「ぜんざい」と「おしるこ」の語源は何なのだろう。「おしるこ」は「お汁粉」と表記することから、見た感じをそのままネーミングにしたのであろうことはすぐに察せられるが、関西では「ぜんざい」を「善哉」と表記するが、この善哉は元々仏教語であり、「よきかな」」を意味するサンスクリット語「sadhu」の漢訳である。
仏典では、仏が弟子の言葉に賛成・賞賛の意を表すときに、「それはすばらしい」「実に良い」といった意味で用いられている。
江戸期関西の文化が多く江戸に伝わっているのでぜんざいも関西から江戸に広がった食べ物であるとも考えられるが、江戸でいつ「おしるこ」と呼ばれるようになったかなどその経緯はよくわからないようで、関西のぜんざい・おしるこの違いが正しく伝わらなかったとの説もあるようだ。
江戸時代後期の全国的規模の方言辞書『物類稱呼』(越谷吾山 著)には以下のように出ている(*10:の汁粉>『物類稱呼』  四 衣食 558P参照)
〔物類稱呼  四 衣食 558P 〕
ぜんざいもち、京江戸共に云、上總にてじざいもち、出雲にてじんざいもちと云、〈在餅と書よし也〉土佐にてじんざい煮といふ、土州(土佐国の別称)にては小豆に餅を入て醬油にて煮、砂糖をかけて喰ふ、在煮又善在煮などゝ稱すとなり、(以下略)

このように、地域で呼び方が違うのは、現代よりも地域色(方言)が豊かであった江戸時代なら当然のことであろうが、京大阪で云う「ぜんざいもち」(善哉餅)を上總や土佐など出雲地方に古くから伝わる「じんざいもち」〈在餅〉と同じような表現をしているところがある。
出雲地方では、旧暦の10月に八百万の神が全国から出雲の国に集まり、この時、出雲では「神在祭(かみありさい)」と呼ばれる神事が執り行わ、そのお祭りの時に振る舞われた「神在(じんざい)餅」の「じんざい」が、出雲弁(ずーずー弁)で訛って、「ずんざい」、さらに「ぜんざい」となって、京都に伝わったと言うのだが・・・(*1)。
この「じんざいもち」(在餅)に触れた文献としては、江戸時代後期の喜多村信節 の随筆『嬉遊笑覧』(天保1 念=1830年 刊)には,
「【祇園物語】又云、出雲國に在もちひと申事あり、京にてぜんざいもちひと申は、是申あやまるにや、十月には日本國の、みな出雲に集り給ふ故に、在と申なり、その祭に赤小 豆を煮て、汁をおほくしすこし餅を入て、節々まつり候を、在もちひと申よし云々いへり、此事【懷橘談大社のことをかける條にも云ず、されど、【犬筑波集】に、出雲への留主もれ宿のふくのとあれば、古きいひ習はしと見ゆ、また在餅は善哉餅の訛りにて、やがて無月の説に附會したるにや、【尺素往來】に、新年の善哉は、是修正之祝著也とあり、年の初めに餅を祝ふことゝ聞ゆ、善哉は佛語にてよろこぶ意あるより取たるべし、」(*10:古事類縁の汁粉>〔嬉遊笑覽〕〈十上飮食〉また、詳しくは『嬉遊笑覽』下 巻十 上 飲食 四三六〔神在餅〕の コマ番号239を参照)・・・とあり、「ぜんざい」の出雲起源説はこれによっているようである(✳11参照。ここに、意訳分あり)。
ただ、この文には、ここへの引用文には書かれていないが、仏教語の「善哉」がお汁粉を意味するようになった由来は、これを食べたとんちで有名な室町時代の禅僧(一休禅師)が餅入りの小豆汁を食べ、おいしさに感動してあまりのおいしさに「善哉々々」と賞賛したのが、始まりとするとの説もあるとも書かれており、また、「今は赤小豆(あずき)の粉をゆるく汁にしたるを汁粉といえども昔はさにあらず。すべてこといふは汁の実なり、・・・とある。
そのことから、私はよく知らない本だが、『和菓子の系譜』には、「本来は餡の汁の中に子(実)として餅を入れるので餡汁子餅であり、略して汁子、転じて汁粉になった」としているよう(✳12参照)で、どうやら汁粉は、江戸で発祥したもののようだ(餅などを入れだしたのは、特に江戸時代末の模様)。
そして、善哉餅から神在餅が始まったという説もあるが、善哉の語源は汎語の善哉で、仏様が弟子たちの意見に賛成する時に「sadhu sadhu(善哉、善哉)」と言ったという。やがて大乗仏教の教典にこの「善哉」という言葉がしばしば現われるので庶民に親しまれるようになり、善哉は喜びを表す言葉になった。そして美味しい餅入り小豆汁を上方(関西)で善哉と呼ぶようになった。出雲地方ではこの「ぜんざい」が訛って「じんざい」になり、神在餅の名が生まれたというのだが・・・。
江戸中期の百科事典山岡浚明の著『類聚名物考』(成立年未詳。明治36~38年(1903~05)7冊の活版本として刊行.)の飲食の中に、ぜんざい(善哉)のことについて書かれているところがあり、ようやくすると、以下のようになる。
比叡山から京都へ出る道に長谷越(な がたにごえ)というのがあり、俗にシルタニゴエと言う。渓谷の間なので道が悪く、水が流れているのでこの名がある。この善哉餅も、赤小豆の粉が煮られて粘るのが谷道のぬかっているようなので、そこから転じたもので、長谷餅とも言う。もともとは渋谷(しぶたに)越だったが、江戸時代にはシルタニゴエと訛って「滑谷越」などと書くようになっていた。それでシルタニゴエからシルコになったというのだが、こじつけもいいことだろう(原文は*10の汁粉〔類聚名物考〕〈飮食〉参照)。
結局何が真実か・・?はわからないままである。


参考:
*1:毎月19日は「食育の日」~「出雲ぜんざいの日」ご存知ですか?~ | 出雲市
http://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1318842254728/
*2:ぜんざいの日ー出雲ぜんざい学会
http://www.1031-zenzai.com/
*3 :武儀郡小金田村HP
http://www.sudadenki.com/koganedamura/
*4:亀山氏の系譜の研究 その⑤
http://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11391692395.html
*5:発祥の地コレクション/小倉餡発祥の地
http://hamadayori.com/hass-col/food/OguraAn.htm
*6:作家別作品リスト:織田 作之助
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person40.html
*7:みなとQ人気連載>わが町人物史:木文字 かめ 
http://minato-q.jp/blog/?cat=16
*8:御座候HP
http://www.gozasoro.co.jp/index.html
*9:『きつねうどん』と『たぬきそば』の謎
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/9450/kitsune.html
*10:古事類縁 飲食部/餅<団子・餡・併入>
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E9%A3%AE%E9%A3%9F%E9%83%A8%2F%E9%A4%85%E3%80%88%E5%9C%98%E5%AD%90%E3%80%80%E9%A4%A1%E3%80%80%E4%BD%B5%E5%85%A5%E3%80%89
✳11:神在餅についての記述【嬉遊笑覧】 佐太神社公式ホームページ
http://sadajinjya.jp/?m=wp&WID=5613
ぜんざい - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%96%E3%81%84



文鳥の日

2015-10-24 | 記念日
日本記念日協会で今日10月24日の記念日を見ると、「文鳥の日」があった。
由緒を見ると、文鳥にくわしいライターの伊藤美代子氏が制定。日付は10と24で「手に(10=テンと2)幸せ(4)」と読む語呂合わせと、この時期に手乗り文鳥のヒナが出回ること。それに「1024」の数字で、文鳥の姿をあらわせることなどから。江戸時代から愛されてきた文鳥について考える日。・・とあった。
伊藤美代子と言うライターのことを私はよく知らないが、文鳥に特化した本を書いたり、文鳥グッズなどを販売しているらしい。プロフィールは参考の*1を参照されるとよい。由緒の「1024」の数字で、文鳥の姿をあらわせる・・・とあるが、よくわからないのでネットで調べてみると見つかったここ参照)を参照されるとよい。
私にはよくわからないが、今のペットブームの時代、だけでなくいろんな鳥獣がペットとして飼われており、そんな中の文鳥ファンが寄り集まっていろいろブログで交流しているようだ。
ペット(英語:Pet)とは、一般的には愛玩を目的として飼育される動物のことであるが、人間は、基本的に、人の心を和ませたり楽しませてくれるペットが好きであり、人間が太古からペットを飼っていた証拠は、いずれの大陸からも発見されているが、それらは、ペットして手当たり次第に飼い始めた野生動物の中から、家畜として有用なものが見いだされたと考えられているようだ。
家畜とペットの境界は曖昧であるが、オオカミ(イヌ)の家畜化が3万年 - 1万5千年前から行われ、狩猟の際の助けとして用いられた。以下、トナカイ、ヒツジ、イノシシ(ブタ)、ヤギ、ウシ、ニワトリ、ハト、ウマ、ラクダなどが、家畜として飼育されるようになった。また農耕のはじまりとともに、害獣となるネズミなどを駆除してくれるネコやイタチのような小型肉食獣が珍重されるようになったという。
上述の通りペットの歴史は家畜に先行していると考えられているようだが、明確に愛玩動物として飼育された最初の例として史料が残っているのは、5,000年前の古代エジプトピューマ(ネコ科)だそうである。南米のインディオではインコサルを飼っていたようだ。
奈良時代に成立(養老4年=720年)した『日本書紀安寧天皇11年(西暦不明)の条には「猪使連(イノツカイノムラジ)」という職が記述(*2の卷第四:安寧天皇参照)されており、古くは猪(イノシシ)が飼育されていた。イヌ、ウマ、ウシ、ネコなどの動物は、先史時代にユーラシア大陸で家畜化されたものが、列島に入ってきたと推定されている。
一般社団法人ペットフード協会調べによる2014(平成26)年の、「日本のペットの飼育率状況」を見ると、犬:14,4%(15,8%)、猫*9,8%(10,1%)、金魚:4,9%(5,2%)、熱帯魚*2,3%(2,5%)、小鳥*1,8%(1,2%)となっており〔()内は昨年〕、犬・猫の飼育率が圧倒的に飼育率は高いが、ただ、飼育率は前年より若干減ってはいるが、金魚と、小鳥の飼育率が高くなっている。
また、今後、ペットの飼育を希望する飼育意向率は、現在の飼育率の犬は1,92倍.猫は1,86倍、小鳥2,1倍に対して、金魚は0,91倍と減少、その中で、小鳥は、2,1倍と他のものより、増加率が高い。近年、小鳥の飼育希望者が増えてきているということか。いずれにしても、多くの人が今後何らかのペットを飼育したいと考えているようである*3;「ペットフード協会」の全国犬猫飼育実態調査参照)。
今日ペットは、家族として、パートナーとして、仲間として人の暮らしに密接に関わり、心を癒してくれたり、あるいは愛玩されたり、共生するなど、様々な面を持った存在である(「<ahref=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%9E%E3%83%AB>コンパニオンアニマル(人生の伴侶としての動物)」参照)。この中で、鳥類の飼育率が年々減少傾向にあり業者も今後を心配していたようだ(*4参照)がそれが昨年ごろから若干増加傾向になってきたのは朗報だろう。。
日常生活で飼育する鳥類のことを愛玩鳥というが、愛玩鳥は、主に姿形や鳴き声、さえずりを観賞する目的で飼われるもので、それ以外にでは猛々しさ(ワシタカのような猛禽)や、面白いしぐさ(ヤマガラインコオウムなど)を観賞するためにも飼われる。猛禽の場合は権威の象徴としてや、狩猟目的ではなくスポーツとしての鷹狩りのために飼われる場合もある。
食用や採卵用の家畜として飼われる鳥は家禽と呼ばれ、愛玩鳥とは区別されるが、これらの中にもチャボオナガドリのように、観賞用に品種改良された種がありこれらは愛玩鳥とされる。またかつて通信手段(伝書鳩用のカワラバト)や、狩猟用(鵜飼い鷹狩りに用いられる鷹やハヤブサなど)など、有用目的をもって飼養されたが、現在はその有用性を失い、現在はかつてあったその技術を継承するためだけに飼われている鳥も愛玩鳥とは呼ばれない。もっとも、こういった技術継承の目的とは関係なく、それらに用いられる種を飼う場合もあり、その場合は愛玩鳥とされている。
愛玩鳥として飼われる鳥類は小鳥が多い。もともと寿命(*5の種類別の小鳥寿命表参照)が人間よりはるかに短く、環境の変化に敏感でちょっとした管理の不手際で飼育途中に死なせてしまうことも多々あるので、例外的に長命で人懐こいインコ、オウムを除くと犬や猫のようなコンパニオンアニマル扱いされることは希である。
私の妻の義兄(姉の夫)は船乗りだったので留守が多く、若いころは妻の実家で一緒に住んでいた。そして、航海先でオウムを買って帰り家で飼っていた。オウムは50年も生きるそうだが私が妻と結婚して初めて妻の実家へ行った時には、何歳になっていたのか知らないが、非常に人になつき特に 妻にはよくなつき、妻の顔を見るとすぐに近づいてきて手の上に乗り顔を摺り寄せてくるほどであった。そして、生まれて間なしのころから飼っているからであろう物覚えがよくていろんなことを本当に多くよくしゃべり、家の前が丁度バス停でその前の軒先近辺にかごに入れて飼っていたので、妻がバスで帰ってくるとそれがわかるらしく、「お帰り、お帰り」としゃべりだすので、近所でも有名になっていた。
長い年月をかけて、人間に順応してきたペットであるが、時代時代により流行がある。
今やペットの代名詞的存在である犬は日本でも、旧石器時代から(縄文犬参照)から、また、猫も平安時代から飼われていたようであり、宇多天皇の日記『寛平御記』には自らが飼っていた黒い猫の記述がにみられ、これが「家猫」に関する、日本の史料における最古の記述とされている。
「朕閑時述猫消息曰。驪猫一隻。太宰少貳源精秩滿來朝所献於先帝(光孝天皇のこと)。
愛其毛色之不類。餘猫猫皆淺色也。此獨深如墨。」(*6参照)
訳すとこうなるのだろう。
「今日は暇だから、私の猫の消息について述べてみよう。この驪猫一隻は、大宰大弐を務めたた源 精(みなもと の くわし)が秩満ちて来朝し(任を終えて朝廷に戻ったとき)、先帝(光孝天皇)に献上したものだ」。
「その毛色 は類い希で、他の猫がみなどこかぼやけた淺色色なのに比べ、この猫だけは墨のように 真っ黒で、まことに愛おしい。」。
『寛平御記』は当時10巻が伝存していたようだが、現在は1巻も残存していないそうだが、『源氏物語』の注釈書である『河海抄』などで引用され残っているようだ。
ここでの引用文には、「猫」と書かれているが、平安時代、「猫」は「」と表記されていたので、『寛平御記』でも、実際には「狸」と書かれていたようである(*6のここ。*7参照)
また、ここで、黒猫のことを「驪猫」(りびょう)と書かれているが、「黒」には「汚れた」「腹黒い」といった意味もあることから、「」の字は本来は黒馬という意味の字で、猫に使われた前例は無いようだが、「」という字を含む好字であるので、自分の愛する黒い猫に『驪猫』という表現を使ったのではないかという(*8参照)。
そして、犬猫以外のペットでは、江戸時代に、金魚が大流行した。
金魚のことについては依然このブログ3月3日「金魚の日」(*9参照)でも書いたが、日本でも鎌倉時代にはその存在が知られていたようだが、金魚そのものは、約500年ぐらい前の室町時代末期に当時貿易港として栄えていた堺 (大阪府堺市)に持ち込まれたのが最初だとする説がもっとも有力とのこと。この当時持ち込まれたのは、今ワキン(和金)とよばれている種であるが、当時は高価なものであり、又、日本は戦乱の時代でもあったことから、金魚は普及しなかった。
江戸時代前期になると世の中も平穏になり、再び中国から金魚が持ち込まれたが、未だ養殖技術もなく池などで飼われていたが、それは、非常に高価で、本当に限られた上流階級だけに許される贅沢品であったが、寛延元年(1748年)に出版された安達喜之の金魚の飼育書「金魚養玩草」(*10参照)をきっかけに、金魚が大流行した。しかし、当時はまだ希少だったため、値段が高く、庶民にとっては高嶺の花だったが、江戸中期から後期にかけ、大量生産が可能になったため、庶民にも金魚を飼う風習が広がっていった。縁日でお馴染みの金魚すくいもこの時期に誕生したようだ。
そして、明治維新直後、日本には外国から多くのものが輸入されるようになったが、中でもウサギは簡単に飼育ができる上に食用にもなると大人気に。庶民間でウサギの売買が止まらず、一羽につき月一円のウサギ税が課せられ、無届で飼育したものには一羽につき二円の過怠税を申し付けられたほどであったという(*11参照)。
また、熱帯地域に生息している熱帯魚が日本に伝わったのは19世紀の後半のことで、一般に飼育されれるように広がったのは第二次大戦後の昭和30年代からで、当時は温度調整の設備もあまりなかったので大変苦労したようだが1960年~1970年代頃から熱帯魚ブーム(*12参照)があったのを覚えているが、今でも、根強い人気を誇っているようだ。そのころ私も、水槽で、グッピーを飼っていたが飼い方が悪かったからだろう、子を産んで増えたと思っていたらいつの間にか数が減っている。どうやら共食いしていたようだ。

さて、「文鳥の日」に他のペットのこと長々と書いてしまったが、文鳥のことを書こう。
ペットとして日本でもポピュラーな存在の文鳥は、英語名がJava Sparrow(ジャワ雀)というくらいで、もともとインドネシア(カンゲアン島、ジャワ島、バリ島)の固有種で.スズメ目カエデチョウ科,)の小鳥で、学名をPadda oryzivora、「パダ・オリジヴォラ」というが、この学名は米食い鳥(Rice bird)の意味で、実際にインドネシアの稲作地帯に大量に生息し日本のスズメと同じように人間の作るお米などを食していたようだ。
形態は、全長17cm。体重約24-25g。頭部の羽衣は黒く、頬は白い。体上面や胸部の羽衣は青灰色、腹部や体側面の羽衣は薄いピンク色。尾羽は黒い。冒頭の画像参照.。
熱帯の米食い鳥が、日本にやって来たのは何時の頃からだろうか?
その名からも、17世紀の初頭くらいに。おそらく、南蛮貿易などのために東南アジアに広く進出していた日本人たちが、現地で文鳥と接するようになり、日本にも持ち込んだのではないかと推測される。ただ、文献的には、江戸時代に著された本草書『本朝食鑑』(1697年刊)の中に外国から輸入され、姿かたちが美しいので文鳥と呼ばれるようになった(原文「・・・近時自外国来、以形麗号文鳥、・・・」)とあることから、元禄期にはすでに我が国で飼われ、「文鳥」と呼ばれていたのは確かなのだろう。
それでは、文鳥の名前の由来はどこから来たのだろう?
正確なことはわからないが、「」の字源は、「模様。古くは入れ墨(文身)も表した」ようであり、『漢和辞典』でも。「模様や彩り(いろどり)」とあるのことから、彩色の有る鳥なのでそれを文鳥と呼ぶようになったようである(文鳥については、以下参考の*14:「文鳥団地の生活」の文鳥の歴史が詳しい)。
しかし、中国で柄模様(文様【もんよう】)のある鳥すべてを指す言葉「文鳥」が、日本では原種のジャワ雀だけを指す言葉となったのは、それだけ、その飼育が他の小鳥よりも早く盛んになっていたことの証拠とも言えるようだ。
18世紀にはすでに文鳥の日本国内での繁殖が始まっており、次第に盛んになっていったようで、例えば、水戸藩の本草学者佐藤成裕(中陵)が、19世紀初期に著わした『飼篭鳥』(*14)には、「先年は長崎にて殖し諸方へ出し、近年ハ備前の児嶋郡の林村の佐藤九郎治なる者盡く巧者にて、数百羽を籠にして大坂及江戸に出す。」・・とあることから、庶民文化が花開く文化・文成年間(1804〜30)になって、ようやく文鳥の需要も拡大し、繁殖も所々で一般化し、大規模化されていったようである。
また、19世紀半ばの『百品考』(山本亡羊著。*16)という書物には、人々が好んで文鳥を飼育繁殖したため、逃げ出したのか、京都市中を普通に飛びまわっている文鳥の様子が、筆者の実体験として記されているほどだったという(*13参照)。
そして、初期の広重の花鳥画などの浮世絵にも文鳥が描かれる(など、異国風でありながら日本画にも自然に溶け合う姿が、画題としても好まれていたようであり、江戸時代を通じて日本人に最も親しまれてきた外来の小鳥であったようだ。
広重の花鳥画ここ参照→ 歌川広重《梅に文鳥》とハクバイ(白梅) - 海の見える杜美術館
こうした文鳥の普及化を背景として、文鳥には、白文鳥、桜文鳥、をはじめ、さまざまな品種が作り出されていく。
江戸時代の文鳥たちは、原種のジャワ雀と同じ姿をしていたが、明治時代の初め頃、現在の愛知県弥富市又八新田地帯の文鳥を繁殖する農家で、全身純白の文鳥が突然変異により誕生したそうだ。白文鳥の創出者について、愛知県弥富町の神社に建てられている「白文鳥発祥の地」の碑には、幕末当地に嫁いできた女性が持ってきたつがいの桜文鳥に起源する旨が記されているようだ。
ここ参照→ 文鳥・弥富市特産
その白い文鳥の系統は人気となって数を増やし、明治から大正時代にかけて夏目漱石の小説『文鳥』にも描かれるほど国内で一般化したようだ。
「十月早稲田に移る。伽藍のような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖で支えていると、三重吉が来て、鳥を御飼なさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ですと云う返事であった。文鳥は三重吉の小説に出て来るくらいだから奇麗な鳥に違なかろうと思って、じゃ買ってくれたまえと頼んだ」

これは、夏目漱石『文鳥』(*17参照)の出だしの文を抜粋したものである。
三重吉とは、日本の児童文学を語る上で欠くことのできない、童話雑誌『赤い鳥』を創刊した鈴木三重吉のことである。三重吉は、1901(明治34)年、第三高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文学科に入学。夏目漱石の講義を受ける。1905(明治38)年23歳の時、神経衰弱を煩い、静養のため大学を休学し、広島県佐伯郡能美島(現・広島県江田島市)で過ごす。この間に『千鳥』の題材を得る。1906年(明治39年)3月に『千鳥』(*18参照)を完成させ、夏目漱石に原稿を送ったところ、推薦を得高浜虚子に原稿が送られ、雑誌『ホトトギス』5月号に掲載された。以降、漱石門下の一員として中心的な活動をおこなうようになった。
1908(明治41)年の大阪朝日新聞に掲載された漱石の『文鳥』には、友人(三重吉)に薦められ文鳥を飼うこととなった主人公のささやかな生活が綴られており、作中、主人公が連想で語る『美しい女』と文鳥の姿とを重ねて語る場面があり、美しいものの死を描いた作品と評されている。ただ、文鳥を飼うこととなった主人公は最初は世話をし、文鳥の姿に様々な感慨を抱くが、小説を書くのに忙しくなって、世話を怠るようになると、「家人(うちのもの)」がかわりに世話をするようになった。主人公が気のすすまない用事で2日ほど文鳥をかまわなかった時、文鳥は死んでしまう。
この綺麗な文章の随筆は結末が悲惨なので、文鳥愛好者にはどうも不評らしい。
一方の鈴木三重吉が書いた『文鳥』 は1909(明治42)年11月3日の『国民新聞』 に掲載されたもので、三重吉(当時28歳)が成田中学校(現:成田高等学校)勤務時代、当時国民新聞社の社員となっていた高浜虚子の依頼で、俄拵へ(にわかごしらえ)に、短時日のうちに書き上げたものだそうだ(*19参照)。
内容は、少年時代に従姉の千代と隠れるようにして飼った文鳥を、千代が他へ嫁いでいった後に逃がしたという思い出と、その後も忘れられなかったその白い鳥を飼って、漱石先生にも薦めて飼わせたという随想的作品である。参考*9には、「文鳥」の掲載文がある、興味のある人は読まれるとよい。いずれにしても、この時期文鳥を飼うのが流行っていたことはよく理解できる。
このころ、白文鳥は日本生まれであることから、「Japanese rice bird」として海外にも輸出されるようになったようだ。
そして、この白文鳥が数を増し、江戸時代以来の原種色の文鳥(並文鳥)と交配することで、原種色の文鳥も所々に白い差し毛の斑(はん)が入る桜文鳥に変質していったと考えられているようだ。
近年、世の中は空前のペットブームであるが、何故かマイナーな存在に甘んじていた小鳥も、最近、また、東京や大阪などに鳥カフェが相次いでオープンしたり、鳥をモチーフにした文房具や小物を置いてある店が増えるなどしており、じわりじわりと鳥ブームが広がっていると聞く。
確かに、言葉を話すオウムやインコ、手乗り文鳥などは可愛いよね。私なんかもペットを飼いたいとは思うのだが、余り長生きしないものは死ぬとかわいそうだし、もう私たちも年を取っているので、逆に、長生きするものは、何時までも飼い続ける自信もないので結局何も飼うことはあきらめている。
幸い、私の家は山の登り口にあり、庭に少しばかり木を植えているので、シーズンになると毎朝同じ時間にウグイスメジロが番で来てくれる。ここを自分たちの縄張りにしているようだ。それをヒヨドリが近くの高い大きな木の上などで見ていて、小鳥を見つけるとそれを追っ払い、花の蜜や実を横取りしようとする。小鳥は、ヒヨドリが来るとさっと近くの木の中に逃げ込み、ヒヨドリがいなくなるとまた出てきて餌をつついている。家人がヒヨドリが来たのを見つけると必死に追っ払っているのが滑稽である。毎度おなじみの光景である。見ていて厭かない。だから、無理に小鳥をペットとして飼わなくても楽しめている。
かわいい子鳥と言えば、私がまだ子供のころなど、神社の縁日に行くとよく見かけた「小鳥の占い」を思い出す。もう見なくなって久しいな~。
お賽銭を渡すとおじさんがかごを開け、小鳥にお賽銭を渡す。すると小鳥が小さな参道をちょんちょんと進んでいき、賽銭箱に小銭を落としてから鈴をガラガラと鳴らす。さらに階段を上ってお宮の扉を開き、中からおみくじを取りだして持ち帰る。そしておみくじの封を開けておじさんに渡し、麻の実をもらってからかごに戻る……。
これがヤマガラ(山雀)を使った「小鳥の占い」である。
ヤマガラは、スズメ目シジュウカラ科シジュウカラ属に分類される小鳥で、ウグイスやメジロ同様、和鳥として古くから飼育されてきた歴史がある。飼育は、ウグイスやメジロ、オオルリヒバリといった、鳴き声を競わせて楽しむ和鳥とは違って、芸を仕込んで覚えさせることを楽しむもので、ヤマガラを飼育するための専用の「ヤマガラかご」なる鳥かごまで使い平安時代には飼育されていた文献が遺されているという(Wikipedia)。
学習能力が高いため芸を仕込む事もでき、覚えさせた芸は江戸時代に盛んに披露されたそうで、特におみくじを引かせる芸が多く、日本最古の遊園地とされる浅草「花やしき」でも、明治初年から「ヤマガラの芸」が評判を呼んだという。以下参照.。
二〇世紀ひみつ基地小鳥のおみくじ芸・伝統の見世物

このようなヤマガラ芸は1980(昭和55)年ごろまでは神社の境内などで日本各地に見られたことから、我々年輩の者には本種はおみくじを引く小鳥のイメージが強いが、おみくじ芸自体は戦後になってから流行し発展してきたもので、曲芸は時代の変化とともに変遷してきた事が記録から読み取れるという。
このような野鳥をペットとして飼うことは、戦前は広く行われていたが、戦後鳥獣保護法制定による捕獲の禁止、自然保護運動の高まり、別の愛玩鳥の流通などにより、これらの芸は次第に姿を消してゆき、1990年頃には完全に姿を消した。このような芸をさせるために種が特定され飼育されてきた歴史は日本のヤマガラ以外、世界に類例を見ないそうだ。
野鳥が手乗り文鳥のように飼い主の手に乗るくらいに親しくなれば、この上なくかわいいが、野鳥で、真っ先に、人間の手に乗るのは、このヤマガラだと考えられているそうだ。というのは、ヤマガラは子飼い( 子供の時から 引き取って養育すること)をしなくても人馴れしやすく、しかも好奇心旺盛だからだというが、いくら可愛くても日本の野鳥は飼えないので幼鳥のインコや手乗り文鳥が手頃ということだろう。
ストレスフルな現代社会において、「癒し」としてのペットの役割は今後もますます高まっていくことだろうが、ペットブームの影で、ペットを飼いきれなくなってペットを捨てる飼い主も非常に多くなってきているようだ。
犬や猫の殺処分数の増加が話題になっているが、それ以外にも問題はある。鳥や亀などペット由来の外来種が、捨てられたり、逃げ出したりして、日本の生態系等に悪影響を及ぼすこともあるからである。生き物を飼う以上は最後まで責任をもって飼ってほしいものですね。
動物の愛護及び管理に関する法律のあらまし - 環境省
捨てず 増やさず 飼うなら一生 - 環境省

参考:
*1:伊藤 美代子のプロフィール
http://profile.ameba.jp/mou2006/
*2:古代史獺祭・列島編/メニュー/日本書紀
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/m00.htm
*3:一般社団法人ペットフード協会
http://www.petfood.or.jp/
*4:小鳥たちが消えていく国、日本:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20070724/130533/
*5:日本ペットフード
http://www.npf.co.jp/index.html
*6:猫の日本史:日本最古の飼い猫記録、宇多天皇の「うちの御ねこ」
http://www.huffingtonpost.jp/nekojournal/cats-history_b_5904530.html
*7:『猫の古典文学誌 鈴の音が聞こえる』(田中貴子)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2015-06-16
*8:『ねこ』の語源を考える15
http://tatage21.hatenadiary.jp/entry/2015/02/28/124840
*9:金魚の日 - 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/3713241f8bdb539308bf033ab73375ab
*10:国立国会図書館デジタルコレクション - 金魚養玩草
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2540518
*11:明治初期の兎投機―「開化物」とメディアから見えてくるもの(Adobe PDF)
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/51353/1/edu_51_30.pdf#search='%E6%98%8E%E6%B2%BB+%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%82%AE%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A0'
*12:熱帯魚の歴史 | 熱帯魚の森
http://aquamori.jp/knowledge/history.html
*13:文鳥団地の生活
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/bun2/
*14:国立国会図書館デジタルコレクション - 飼籠鳥 20巻. [1]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554941
*15:『飼籠鳥』における「文鳥」:
http://rara-avis.sblo.jp/article/52826680.html
*16:百品考―国文学研究資料館
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0257-019906
*17:夏目漱石『文鳥』-青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/753_42587.html
*18:鈴木 三重吉:作家別作品リスト - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person107.html
*19:鈴木珊吉氏寄贈の鈴木三重吉資料 7|成田市立図書館
http://www.library.city.narita.lg.jp/digitalcontents/yukari/miekichi/sankichi007.html
ペットとの共生推進協議会
http://www.pet-kyousei.jp/
ペットブームの影に... - BOWEYES
http://www.boweyes.com/magaginetantei.html
日本野鳥の会
http://www.wbsj.org/鳴き声
日本の鳥百科 サントリーの愛鳥活動 サントリー
http://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/nakigoe.html
ブンチョウ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6




昭和天皇・皇后が戦後初めて靖国神社に行幸した日

2015-10-16 | 歴史
1952(昭和27)年の今日10月16日は、 昭和天皇香淳皇后が戦後初めて靖国神社行幸された日である。
靖国神社は、東京都千代田区にある神社であり、同神社は、以前に、このブログ「東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(Ⅰ,Ⅱ)」(*1参照)でも書いたように、その前身は、1869(明治2)年に戊辰戦争での朝廷方の戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により創建された「東京招魂社」が始まりであり、本殿に祀られている「祭神」は「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊であり、よくみられる神社などのように日本神話に登場する神や天皇などではない。
その後の事変戦争、ひいては大東亜戦争殉死した日本の軍人などが祀られることになるが、明治期の軍人でも、あの乃木希典や、東郷平八郎などは戦時の死没者でないため靖国神社には祀られていない。
國神社は、勅祭社旧別格官幣社であったが、戦後の1946(昭和21)年に、日本国政府の管理を離れて東京都知事の認証により、宗教法人法宗教法人となった。
昭和天皇は、終戦直後から1975(昭和50)年まで、10回靖國神社の行幸をしていたが、1975(昭和50)年11月21日の大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)を最後に行わなくなった。ただし例大祭(春と秋の年に2回)に際しては、勅使の発遣は行っている。
昭和天皇が親拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、「宮中祭祀憲法違反である」・・・とする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978(昭和53)年に極東国際軍事裁判(東京裁判とも呼ばれる)でのA級戦犯14名(靖国神社では昭和殉難者と呼ぶ)が合祀されたことに対して不満であったことを原因とする見方が、歴史学界では有力となっている(A級戦犯合祀問題参照)。ただし、合祀後も勅使の発遣は継続されている。
この問題(靖国神社問題)に対する論争は今日まで続いているが、今日ここで意見を述べるつもりはない。関心のある方は、日本国との平和条約第11条の解釈や、参考*3、*4等を参照し自分で判断されるとよい)。
冒頭で、「1952年昭和天皇・皇后が戦後初めて靖国神社に行幸した日」と書いたが、正確に書けば、終戦直後の.1945(昭和20)年8月20日、同年11月・臨時大招魂祭にも昭和天皇は行幸されており、(1952(昭和27)年の行幸は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本との間の戦争状態を終結させるために締結された平和条約日本国との平和条約」(「サンフランシスコ講和条約」ともいう)締結以降初めての行幸と書くべきだろう。
冒頭掲載の画像は、天皇皇后両陛下が10月16日、7年ぶりに靖国神社に参拝したときのもの。東京の近県からも駆け付けた遺族らは、黄色いリボンの遺族章を付け、拝殿前のうすべりに座って両陛下を送迎した。「両陛下のご参拝で心のしこりがとれた」と遺族に一人は語ったという。

第二次大戦中、1945(昭和20)年5月7日、この時日本とともに戦っていた、唯一の同盟国ドイツが連合国に降伏した。ついに日本はたった一国で連合国と戦う事になった。内閣は鈴木貫太郎首相の下で、連合国との和平工作を始めたが、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北の責任を回避し続ける大本営の議論は迷走を繰り返す。
一方、「神洲不敗」(8月15日の玉音放送で使用された「大東亜戦争終結ノ詔書」にも「神州ノ不滅ヲ信シ・・・」と出てくる)を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げ、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。
連合軍は沖縄での膨大な被害(沖縄戦参照)を苦慮し、それを超える被害を受けるのを猛烈に嫌がり、この言葉は連合軍の日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を中止に追い込む一因となった(中止理由は作戦中止参照)。
すでに2月、ヤルタ会談の密約、ヤルタ協約で、ソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。
そして、7月17日からドイツのベルリン郊外のポツダムで、米英ソによる首脳会談が行われ、同26日には、全日本軍の無条件降伏と、戦後処理に関するポツダム宣言が発表された。
しかし、鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連による和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た。
このような降伏の遅れは、その後の本土空襲原子爆弾投下、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも更なる惨禍をもたらすことにもなった。
散々な被害を受けた後、日本政府がポツダム宣言受諾の意思を連合国へ直接通告したのは同年8月14日であり、翌15日の正午、昭和天皇による玉音放送によってポツダム宣言受諾を国民へ表明し戦闘行為は停止された(日本の降伏)。
翌日、連合軍は中立国スイスを通じ、占領軍の日本本土受け入れや、各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼。19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。
しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太千島への攻撃を継続し、8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。ソ連軍による北方領土択捉島国後島占領は8月末、歯舞諸島占領は9月上旬になってからのことであった。このソ連からの北方領土返還問題はいまだに解決していない(北方領土問題参照)。
8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した。
その後9月2日、東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、米・英・中・豪・加・仏・蘭など連合諸国17カ国の代表団臨席の元、日本政府全権重光葵,外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書(*5:「王立図書館」第二次世界大戦資料館→文書・音声保管庫参照)への調印がなされ、ここに1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)はついに終結したが, この大戦では、わが国に310万人余りという未曾有の人的被害のつめ跡を残した。また、終戦後においても、旧ソ連軍による強制抑留(シベリア抑留
参照)等により亡くなられた方々も多くを数えている。
しかし、降伏文書調印後の日本本土は、サンフランシスコ講和条約締結までの間、アメリカを中心とする連合国軍(GHQ)による占領統治下に置かれた.(連合国軍占領下の日本参照)。
占領地の行政権(日本本土除く)は剥奪され、日本の外交権も停止され、日本人の海外渡航を制限し貿易、交通をも管理した。漁業活動のための航海も、マッカーサーラインを暫定的に引き、講和後に廃止されるまで制限下に置かれるなど、何をするにも日本の自由にはならなかった。
輸出用日本で製造された製品品には、Made in Japan(メイド・イン・ジャパン、日本製)と表記される。しかし、戦後占領期の日本では、1947(昭和22)年2月の連合国軍最高司令官指令として、輸出向け製品には「 Made in Occupied Japan 」(占領下日本製)と表示することが義務付けられた(1949年(昭和24年)12月解除)。
以下の画像は私のコレクションの一つ「オキュパイドもの」と言われるものである。一輪挿しだろうか?酒好きの私は、これをタンブラーとして利用しているが・・。底の部分には「 Made in Occupied Japan 」と刻印されている。

今の国会の最大の焦点である、集団的自衛権の行使を可能にすることなどを盛り込んだ安全保障関連法は、19日未明の参議院本会議で採決が行われ可決・成立した(*6、*7参照)。野党がこれに反対し徹底抗戦していた最大の理由はこれら法案の違憲性の問題であったように思う。
その憲法は、占領下の中にあって、1945(昭和20)年10月4日、マッカーサーの示唆により憲法改正の作業が開始され、連合国軍総司令部によって作成された草案を基に日本側による修正が一部加えられ、翌・1946(昭和21)年11月3日に新憲法として公布されたものであるが、設立過程、解釈と体制を巡って、現在もなお日本国内で論争が続いているのは、主として平和主義戦争放棄)についてであろう。
かねてから憲法第9条を主とする憲法改正論議がされながら、戦後70年経った今でもまだ改正されないのは、憲法を改正する為には、衆議院、参議院で憲法改正案2/3以上で可決し、その後、国民投票で1/2以上で可決しなければならないが、まず、国会で議席数を単独で2/3以上を取れる政党がないことである。このような厳しい縛りがあるから、諸外国ではその時代の状況に応じて改正されている憲法が日本では改正できない実情がある。
しかし、現実に日本を取り巻く安全保障環境が変化し厳しい状況にある中、憲法を守って国がつぶれてしまってはダジャレもならない。政府批判をするのはたやすいが、国防を司るものにとっては、有事に備えて必要な防衛体制だけは整備しておかなければならないだろうし、憲法改正が不可能であれば、憲法解釈論で対応せざる面もあることも理解しておかなければならないのではないだろうか。
1951(昭和26)年9月の、サンフランシスコ講和条約には「日本国が主権国(主権を完全に行使できる国家)として国際連合憲章第五十一条(*8参照)に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極(とりきめ)を自発的に締結することができることを承認する。」と明記される(*9、参照)。この問題について、違憲性や、憲法解釈論の是非をここでこれ以上触れるつもりはない。この問題を考えるのであればまずは、以下ページなどとよいのではないだろうか・・・。
安保法案とは?
再軍備の政治的展開と国民世論の動向(上)
再軍備の政治的展開と国民世論の動向(下)

1951年9月8日(日本時間9日)、第二次世界大戦に敗れてアメリカなど占領下にあった日本が6年ぶりに国際社会への復帰を認められた。
この日午前10時過ぎ、アメリカサンフランシスコのオペラハウスで対日講和条約の調印式が行われアメリカをはじめ48か国との講和条約が締結され、日本側は吉田茂首相をはじめ池田勇人蔵相ら計6人の日本全権が署名した。

上掲の画像は、日本全権の署名シーン。署名しているのは吉田首相。写真はアメリカ公文書館蔵。
続いて、同日夕方、オペラハウスから車で10分ほど離れたサンフランシスコ湾口の金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)近くにある米軍基地プレシデオ(Presidio)で、駐留米軍に日本国内の基地を提供することを取り決めた日米安全保障条約(旧日米安保条約と呼ばれるもの条文*10参照)が調印された。米軍は講和条約の全権4人が署名したが、日本側は、首相が単独で調印。他の全権は署名をしていない。吉田は反対の空気の強い安保の署名の責任を一人で負う方を取ったようだが、秘密条約を除き世界の外交史上まれな異常そのものの調印プロセスをたどって作成された条約ではある(1960年に新日米安保条約が発効したことに伴い、失効した。旧安保と新安保の相違点はここ参照)。

上掲の画像は外務省外交資料館蔵「旧)日米安保条約」

講和が予想より早く実現したのは激化する冷戦のお陰であった。講和と安保によって、戦後日本の方向は決まった。「全面講和」「永世中立」論から離れて、日本は西側陣営の一員としてアメリカ依存を強めていくことになる。
敗戦国日本は、1952(昭和27)年4月28日、6年8か月ぶりに主権を回復するとともに国際社会へ復帰した。前年9月のサンフランシスコ講和会議で調印された対日平和条約が、最大の交戦国だったアメリカの批准書寄託を待って発効し、イギリス、フランスなど手続きを済ませていた29か国と国交を回復したからである。
現代でも残る沖縄基地問題等を残した条約ではあったが、敗戦国日本にとっては、講和条約の締結により、絶対的な存在であった占領軍権力の消滅は、国内政治では、吉田派鳩山派の抗争(*11:「資料に見る日本の近代」の第6章 55年体制の形成 > a. 吉田内閣から鳩山内閣へ参照> 吉田対鳩山参照)、再軍備をめぐる保守・革新の論争、日本共産党の武力闘争(武装闘争、*12など参照)などの激動を生み出したが、経済やスポーツ面の国際交流の復活は日本国民に大きな希望をもたらした。
日本の国際社会復帰を国民が肌で実感したのは、同年7月にフィンランドのヘルシンキで開かれた第15回オリンピック大会だったのではないか。
もともと日本は1936(昭和11)年のベルリンオリンピックに続き1940(昭和15)年に東京で夏季、札幌で冬季両大会(東京オリンピック 参照)を開催することがIOC総会(国際オリンピック委員会)で決まっていた。ところが日中戦争の激化で、返上した経緯がある。第2次大戦後初の1948 (昭和23)年ロンドン大会には、ドイツとともに招待されなかった。
世界を戦火に巻き込んだ元凶として国際社会から白眼視されていたからである。それだけにベルリン大会以来16年ぶりの参加となったヘルシンキ大会は、スポーツ関係者ばかりでなく一般国民にとっても「待ちに待った大会」であり、選手団派遣費用の大半を一般市民や企業からの募金と記念バッジの売り上げで賄うなど、国民的な支援活動が展開された。
ただ、当時まだ保有外貨が乏しかった(日本の外貨準備高の変遷参照)政府は、派遣選手団の人数を厳しく制限した(*13参照)。そのためオリンピック出場の実績がなかった重量挙げ、フェンシング、射撃の三種目では、選手一人にコーチなしの参加となった。
この大会では、レスリングフリースタイルバンタム級の石井庄八が優勝し、日本に唯一の金メダルをもたらし、フライ級では北野祐秀が銀メダルを獲得し、レスリング日本の幕開きとなった。そのほかの競技では、競泳や体操などで、銀5個、銅2個、を獲得している(「ヘルシンキオリンピックでの国・地域別メダル受賞数一覧」を参照)。

上掲の画像は、ヘルシンキ五輪のレスリング、フリースタイル・バンタム級で日本に唯一の金メダルをもたらした石井庄八。

経済面で国際社会復帰の具体的なあかしとなったのは、1952(昭和27 )年5月29日に国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)が日本の加盟を承認したことである。
IMFは国際貿易を活発化するために為替相場の安定を図る機関であり、世界銀行は戦災復興や開発途上国の資源開発のための資金を融資する機関である。
この二つの組織に加盟を許可されたことは、第二次世界大戦後の国際経済運営の枠組みとしてアメリカ主導で組織された「ブレトン・ウッズ体制」(1944年のIMF設立から1971年8月のニクソンショックまでの間、世界経済を支えてきた国際通貨体制。ブレトンウッズ協定による。*14も参照)に、日本もようやく迎え入れられたことを意味していた。
日本に割り当てられたIMF出資金は2億5000万ドルで、これはオランダに次ぐ9番目の金額だったが、当時の池田勇人蔵総は3億ドルの負担を申し出る。この強気を支えたのは、朝鮮戦争がもたらした戦時の特殊な米軍特需(朝鮮特需)による日本経済の急激な復興だった。
日銀『貿易及び貿易外便覧』(1959年12月)によると、特需収入は1950(昭和25)年では1.5億ドル。朝鮮戦争特需のピークは1952(昭和27)年の8.2億ドルで、輸出総額の2/3、外国為替受取高の4割近くとなった。1950年からの4ヵ年累計では24億ドルに上ったという(*15:「情報史年表」1950年代参照)。
これは当時の国際収支赤字を補填したうえに大量の外貨蓄積を可能にし、開戦前のドッジラインによる不況を一挙に解消して、高度経済成長への足場をかためたのである(*16参照)。
国際社会に乗り出すためには航空や海運の整備も欠かせない。1952(昭和27)年7月1日には羽田空港の地上施設の一部がアメリカ軍から返還され、同日に現名称の「 東京国際空港」に改名して開港した。当初は、国際線33往復、国内線4往復のささやかな「空の玄関」だったようだ。
海運関係では、前年には、横浜ーニューヨーク航路が再開され、1952年6月24日には日本郵船がスエズ運河経由の欧州航路を復活させた。サンフランシスコ講和条約発効を受けて、戦後初めて日の丸を掲げてニューヨークに入港したのは、日本郵船の赤城丸(Ⅱ)だった(*17、*18参照)。

上掲の画像は、戦後初めて「日の丸」を形容してニューヨークに入港する日本郵船の赤城丸。
また、この年、東京銀行(旧: 横浜正金銀行。現:三菱東京UFJ銀行)が,外国為替銀行として、初めて海外支店をロンドンに設け、国際電信電話株式会社法(昭和27年法律第301号)が公布され、翌年4月1日に開業の運びとなった。
このように、様々な分野で日本が国際社会復帰の第一歩をふみだしたのが、1952(昭和27)年であり、昭和天皇の終戦直後の1945年8月20日及び、同年11月の臨時大招魂祭の2度の行幸以来、7年目となる1952年10月16日の靖国神社行幸は、あの戦争での多くの戦死者を慰霊すると同時に、何とかこ日本がここまで来られた現状を報告したかったからではないだろうか。私はそのように思っているのだが・・・。


(上掲の画像中、Wikipediaより借用の、外務省外交資料館蔵「旧)日米安保条約」のほかは、『朝日クロニクル週刊20世紀』1951年号、1952年号より借用、また、ブログを書くにあたり、以下参考に記載のHP以外同書も参考にさせてもらっている。)
参考:
*1:靖国神社公式HP
http://www.yasukuni.or.jp/index.html?mode=skip
*2:東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(Ⅰ,Ⅱ)-今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20090604
*3:日本に戦犯は存在しない?:-YAHOO!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12119141127
*4:サンフランシスコ平和条約第11条に関する資料
http://1st.geocities.jp/nmwgip/SF11.html
*5:王立図書館
http://royallibrary.sakura.ne.jp/index.html
*6:安全保障関連法 参院本会議で可決・成立 NHKニュース - NHKオンライン
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150919/k10010241451000.html
*7:和安全法制等の整備について - 内閣官房
http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/housei_seibi.html
*8:国連憲章テキスト | 国連広報センター
http://www.unic.or.jp/info/un/charter/text_japanese/
*9:防衛省・自衛隊:日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定
http://www.mod.go.jp/j/presiding/treaty/sougo/sougo.html
*10:日米安全保障条約原文(旧)(東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室)、
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T2J.html
*11:史料に見る日本の近代
http://www.ndl.go.jp/modern/index.html
*12:内側からみた日共'50年代武装闘争 (長谷川浩・由井誓の対談)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/650.html
*13:歴代夏季五輪の参加国や競技種目、日本選手の参加数など
http://ouenbu.com/olympic/natsu-sanka.html
*14:ブレトン・ウッズ体制
http://www.findai.com/yogo/0307.htm
*15:情報史年表
http://www.digistats.net/x/index.php?%BE%F0%CA%F3%BB%CB%C7%AF%C9%BD
*16:独り21‐経常収支
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-21.html
*17:戦後占領期海事年表
http://homepage3.nifty.com/jpnships/showa3/showa03_nenpyo.htm
*18:日本郵船の歴史 | 日本郵船
http://homepage3.nifty.com/jpnships/showa3/showa03_nenpyo.htm
外国為替銀行の成立
http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/wp_unu_jpn86.html
日本オリンピック委員会公式HP
http://www.joc.or.jp/
日本の再軍備 - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh1602-010.html
【安保法案閣議決定】よく分かる新しい安保法制Q&A(1/4ページ) - 産経ニュース ...
http://www.sankei.com/politics/news/150514/plt1505140045-n1.html
靖国神社―Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE

コンビニATMの日(新)

2015-10-08 | 記念日
日本記念日協会の今日・10月8日の記念日に「コンビニATMの日」がある。
由緒を見ると、コンビニATMのパイオニアである株式会社イーネット(同社HP*1参照)が制定。日付は1999年10月8日コンビニエンスストアに銀行で初めて銀行の共同ATMが設置されたことから。身近で便利な銀行窓口のコンビニATMのさらなるPRが目的。・・・とあった。
はじめに、
長いことブログを書いていると、ネタ切れになり、良くあるチョンボだがこのブログも書きあげてから1999(平成11)年の今日、同じタイトルで書いていたのに気が付いた。取り消そうと思ったが、前には、主として、コンビニエンスそのものに焦点を合わせて書いていたが、今回は、ATMに焦点を合わせて書いたので、重複は多いが、そのままコンビニATMの日(新)としてアップしたものであることを お断り申しあげておきます。そのつもりで読んでください。
以前のものは以下を参照してください。
コンビニATMの日(旧)→ ここ参照。

コンビニATMとは、コンビニエンスストアなどに設置されている現金自動預け払い機(ATM=automatic teller machine「オートマチック・テラー・マシン」の略)のことである。“テラー”という単語は(銀行の)金銭出納係,窓口(係).のことをいい、つまり、その窓口業務の代わりをする機械がATMというわけである。
日本のATMでは、ATMの機器利用者の本人認証のために、磁気情報が記録された専用のキャッシュカード(Cash card)または通帳と、通常4桁の暗証番号を用いる。
ATMでは利用者が自分自身で、専用のカードを差し込んだ後、暗証番号を入力し、設置されている専用端末(パネル)を操作して各種サービスを受けるという仕組みになっている。その形態や機能は、提供する金融機関の種類によって異なるが、一般に銀行・信用金庫・信用組合・労働金庫・農協などの場合、端末に紙幣(及び硬貨)、通帳、カードなどの受入口や支払口を備えており、簡単な操作で現金の入出金や残高照会、振り替えや振り込み、通帳記帳、ローンの返済、暗証番号の変更などができるようになっているが、その前身は、現金の払い出しの機能しかなかったCD(「Cash Dispenser。キャッシュ・ディスペンサーの略)で、「現金自動支払い機」と訳されるものであった。

銀行のオンラインシステムとは、銀行に構築されているネットワークオンラインシステムのことであるが、預金や貸出など、銀行の勘定系の事務は、かつて人手で労働集約的に行われていた。預金の口座元帳への記帳などこれら大量の事務作業を、情報処理技術・コンピュータシステムによって自動化・機械化していったのが始まりである。
一般に企業の情報システムは、本来の業務を支援するものと言える。一方銀行のシステムは、システムの機能自体が銀行の商品やサービスを具現化している。また、銀行のシステムが扱うデータは顧客の金融資産のデータであり、そのデータにCDやATMで顧客が直接アクセスする点が特徴である。従って、一般の企業の情報システムに比較して、信頼性や可用性、操作性などの面で一段上のレベルが求められてきた。
日本の銀行システムは、アメリカと比較して、リアルタイム指向のシステムとしての発展が早かったが、それには、以下のような理由があるようだ。
1、かって、アメリカでは小切手が主流であり、リアルタイム性はあまり求められなかった。一方、日本では現金が主流であり、リアルタイム性が必須であった。
2、.アメリカの銀行は州境(と州の境)を越えた営業が禁止されていて、市場によって銀行が分かれていたため、銀行の規模があまり大きくなかった。
3、日本の銀行は競争が制限された規制下でのビジネス展開であったため、金利などで差別化が図れないことから、効率性や信頼性が重要視された。
高度経済成長下において、ピープルズバンク(大衆の銀行。〔リテールバンキング〕を基本理念とした経営基本戦略を積極的に推進していた三和銀行(現:三菱東京UFJ銀行)が、1959(昭和34)年、真空管を使用したIBM 650を導入したのが、日本初の銀行へのコンピュータ導入である。
そして、コンビニエンスストア内のATMは、1998(平成10)年11月に、三和銀行がローソン内に設置されていたダイエーOMC(現:セディナ)が運営するクレジットカードのCDにおいて、三和銀行のキャッシュカード( Cash card)で残高照会や現金引出しが可能なサービスを開始したことから始まった。
翌1999(平成11)年3月にはさくら銀行(現:三井住友銀行)が単独でam/pmにさくら銀行の「コンビニブランチ」(無人出張所)として初めてアットバンクATM(@BΛNK)を設置したが、同年10月8日には,複数の金融機関が提携して全国初の共同のコンビニATM・イーネットを東京・神奈川・静岡の各都県に設置した。これを根拠に日本記念日協会認定の「コンビニATMの日」は制定されている。

ATMの設置主体は基本的には各金融機関により、営業店に併設される。現在では相互接続により、提携金融機関の取引もできるようになっている。一つの管理行のもと、数個の金融機関が共同で運営し、各預金者が無料で利用できる共同出張所の形態もある。なお、提携金融機関の取引には原則、手数料が徴収される。
過去には、銀行界が運営会社(日本キャッシュサービス/NCS)を作り、共同ATMを駅などに設置していたが、金融機関の業態間におけるオンラインの相互接続が進んだことにより、事業を終了し解散(1996年)した経緯がある。
コンビニATMの個々のATMの管理は、コンビニATM運営会社と提携する都市銀行や地方銀行が地域ごとに行っている。
イーネットは、コンビニエンスストアにおけるATMの保守管理、ATMに関する事務受託業務等を主たる業務として設立された会社であり、コンビニだけでなく、従来の店舗外共同ATMについてもアウトソースを請け負っており、全国の都市銀行信託銀行地方銀行第二地方銀行やコンビニエンスストア、リース会社などの共同出資により設立されている。
銀行をはじめとするATM管理を主たる業務とするが、あくまでも金融機関のアウトソースを請け負うのみであり、セブン銀行イオン銀行のようにイーネット自身が預金や融資などの金融業務を行うわけではないため、業種としては金融業ではなくサービス業に位置づけられる。これは、同業他社のローソン・エイティエム・ネットワークスゼロネットワークスと同様である。
コンビニATMを利用するメリットとして、コンビニATMは24時間稼働しているためいつでも利用できることや、コンビニに併設しているため買い物したついでに利用できることなどがあげられる。現在では、コンビニだけではなく、スーパーマーケットや鉄道の駅、空港、それにパチンコ屋などにも設置されている。

一般に、金融機関の店舗にあるATMの営業時間と比べて、コンビニATMは24時間稼働など大幅に営業時間が長く、取引金融機関の定める時間帯で利用することができる。時間外や提携金融機関の取引においては有料となる場合があるが、金融機関によっては無料で利用できる設定をしているほか、手数料無料の特典がついた普通預金も発売されている(「みずほマイレージクラブ」など)。
時間の利便性と場所の利便性に、銀行店舗の統廃合が進んだ影響に加えて無料入出金提携先が増加したことなどにより、金融機関の新しい拠点として利用は増加している。利用者の傾向としては、若い世代や単身者世帯の利用率が高い(*2参照)。
社団法人日本フランチャイズチェーン協会(*3)の、2015(平成27)年7月度の統計調査月報によると、全国のコンビニエンスストアの店舗総数は、52,872店(昨年同月50,863店)で昨年より、2009店(3.9%)増えている。その利用者数つまり、来店客数は、2015年7月1,534,572千人(昨年同月1,473,099千人)で、昨年より61473千人(4.2%)増となっている。
参考*2は日本郵政公社郵政総合研究所が行った「金融機関利用に関する意識調査」であるが、その中で、「インターネットバンキングの利用率」も調査をしている。
今はインターネットの時代であるが、同調査によると、インターネットの利用率は、全体で35%、2人以上世帯では36.4%、単身世帯では29.7%となっている。
それでは、インターネットは利用するが
インターネットバンキングの利用はどんなものだろう。
調査によると、「インターネット利用世帯におけるインターネットバンキングの利用率」は、全体で17.0%、2人以上世帯では15.7%、単身世帯では23.0%とまだまだ低いが、世帯主の年齢別にみると、2人以上/単身に関わらず、30代の利用率が突出して高い結果となっている(2人以上20.7%、単身32.1%)。
「インターネットは利用するがインターネットバンキングを利用したことがない」世帯では、「セキュリティ(防犯対策)上不安がある」(40.5%)、「ネット上のやりとりだけで決済されるのは不安である」(43.9%)等マイナスの評価の割合が高かったから とするものが多かったようである。
インターネットバンキングで今後利用したいサービスについては、利用経験による差が大きいようだ。
「インターネットバンキングを利用したことがある」世帯では、「振込・振替・送金」(69.0%)が7割近くを占め、「残高・明細等の照会」(66.3%)が続いており、「利用したいサービスはない」(7.5%)は少ない。「インターネットは利用するがインターネットバンキングを利用したことがない」世帯では、「残高・明細等の照会」(37.3%)が最も多く、一方、「利用したいサービスはない」(49.0%)も約半数を占めているという。
しかし、これからは、セキュリティーの面も強化されるだろうし、インターネットに慣れた若い世代が成長してくると次第にネットバンキング利用者も増えてゆくだろう。
今では、多くのコンビニで、公共料金・税金の払込、郵便関連(ポスト・切手・葉書・収入印紙)、宅配便・ゆうパック受付、チケット予約・販売、プリペイドサービス、写真プリント、コピー・FAX・データ出力、銀行ATM、通販商品受取、ギフト、•おせち料理の注文、年賀状印刷•市区町村の証明書などの発行など多くのサービスを行っている。これらは、だいたいどこのコンビニでも持っている機能のようだが、このほかにも個々のコンビニでは独特の機能を持っているところもあるようだ(*4参照)。

それに、最近のコンビニは今の少子高齢化社会に対応して、都市部に高齢者が増えていることから、それら高齢者向け惣菜等食品の販売に力を入れており、それまでの若者だけでなく高齢者の購買客も増加してきている。そのようなコンビニが普及し、生活は非常に便利になったが、そんなコンビニやスーパーの多くにATMが設置されているのが普通になってきた現在、わざわざ銀行に出向かなくても、ネット銀行口座を設けて、コンビニやスーパーのATMで現金の引き出し・預け入れだけではなく「振込・振替・送金」などもできると非常に便利である。
主なコンビニATMとしては以下のように分類される。
○「金融機関の免許を持たない、コンビニATM運営専業会社のATM」としては、イーネット(ファミリーマート、一部のサークルKサンクス、一部のデイリーヤマザキポプラスリーエフココストアグループセーブオン、一部のドン・キホーテなど。)や、ローソンATM(ローソン・エイティエム・ネットワークス-日本国内のローソン店舗〔一部の店舗を除く〕)、BankTimeゼロネットワークス-サークルKサンクス。32都道府県で展開)、ゼロバンク(ゼロネットワークス。岐阜県・愛知県内のサークルKサンクス、ピアゴで展開。)など。
○商業施設との連携を主体にする銀行(新たな形態の銀行)が展開するコンビニATMには、セブン銀行セブン&アイ・ホールディングスグループ内〔セブン-イレブンイトーヨーカドーなど〕、野村證券、大和証券、新生銀行、新銀行東京などと連携)と、イオン銀行 -(イオングループ内〔ミニストップイオンマックスバリュザ・ビッグ、イオンのないイオンモールなど)がある。
○その他既存金融機関の展開するコンビニATMには、アットバンク(三井住友銀行・西日本シティ銀行 - 旧am/pmから転換されたファミリーマート、SMBC日興証券など)や、タウンネットワークサービススルガ銀行と提携 - ヤオコークリエイトSDなど。)がある。
「どのコンビニATMが最も普及しているか?」についてまとめものがあった(*5参照)。どのようなところが、何時、どのような調べ方をしたものか明示されていないので、どこまで信用できるかわからないが、設置台数は以下のように書かれている。
1位:セブン銀行ATM - 21,433台
おもにコンビニの「セブンイレブン」に設置されているセブン銀行ATMは、イオン銀行を除くすべてのネット銀行が利用できる特徴がある。
セブンATMの最新情報はこちら
2位:E-net(イーネット) - 13,275台
セブン銀行ATMがセブン銀行単体で運営されているのに対し、E-net(イーネット)は、さまざまな会社からの支援を受けているので、コンビニだけでなく、スーパーマーケットやホームセンターにも多く設置されているのが特徴。E-net(イーネット)は、「セブン銀行」を除くすべてのネット銀行のキャッシュカードが使える。
E-net ATMの最新情報はこちら
3位:ローソンATM - 10,916台
ローソンATMは、「イオン銀行」、「セブン銀行」を除くすべてのネット銀行のキャッシュカードに対応している。
ローソンATM の最新情報はこちら
4位:イオン銀行ATM - 5,594台
イオングループには昨2014年に、連結子会社のダイエーを完全子会社化したので、これも含まれる。そのほか、イオングループにはイオンと名のつかない会社が多くあるので、外部では、その実態はよくつかめないのではないか?表面上から見ているより相当に規模は大きいはず。イオンのショッピングセンターは地域一番店を目指した大規模店が多い。イオン銀行には、「利用できるATMが少ない」というデメリットがあると書かれているが、イオン銀行加入者数はすごく多いだろう。「利用できるATMが少ない」ことについても、最近ではみずほ銀行ATMやE-netと提携したり、ATM設置数の拡大を図っているようなので、今後急速に設置台数は拡大していくだろう。
イオン銀行の最新情報は こちら

5位:ゼロバンク・バンクタイム - 設置数不明とのこと。

上掲はイオン銀行のATM
商業施設との連携を主体にするセブン銀行やイオン銀行はグループ企業での買い物割引やクレジット利用についてポイント還元などの利点もあり人気である。イオンなど株主優待制度(*6)が優れており、消費者にとってメリットは大きい。またこれらの銀行への預金の利率も都市銀行などより高いので、これらの銀行へ預金をして、買い物代金などはクレジットで支払うなどして、ポイントを貯めてゆくと良いのじゃないかな~。

(b能等の画像はイーネットのATM)
参考:
*1:株式会社イーネット
http://www.enetcom.co.jp/
*2:「第8回 金融機関利用に関する意識調査(平成15年度)」 結果概要(日本郵政公社)
http://www.yu-cho-f.jp/research/old/research/kinyu/kikan-press/houdousiryou.pdf
*3:社団法人日本フランチャイズチェーン協会
http://www.jfa-fc.or.jp/
*4:コンビニ(CVS)徹底比較
http://convini.xyz/
*5:最新版!コンビニATMの設置台数ランキング | ネット銀行100の活用術
http://ginkou.jp/katsuyou/convenience-atm-ranking.html
*6:野村證券 | 株主優待
https://www.nomura.co.jp/retail/stock/yutai/
【コンビニ利用法】もっと便利に! サービス比較 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2133004271189865501
銀行ATMの歴史 - マイナビニュース
http://news.mynavi.jp/articles/2012/09/26/bankatm/
コンビニATM - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%8BATM







デザインの日

2015-10-01 | 記念日
今日10月1日は「デザインの日」である。
1959(昭和34)年のこの日、通商産業省(現在の経済産業省)に、デザイン奨励審議会(※1参照)が設置され、デザイン振興政策が行われるようになったことを記念して、同省等により1990(平成2)年に制定されたもの。
つまり、今日は「デザインに対する理解を深める日」と云うことになるのだろう。
最近、デザイナー(英:designer)の佐野研二郎氏が制作した2020年東京五輪パラリンピックエンブレム(英::emblem)について、ベルギーのリエージュ劇場ロゴ(ロゴタイプ。英; logotype)が酷似していると指摘され、デザイン(英:design)を手がけた佐野氏の盗作疑惑が問題となった。当の佐野氏は盗作について事実無根としているが、別の案件でも次々と疑惑が発覚。ついに、大会組織委員会は、使用を中止することを決めた(2015年9月1日。※2参照)。

デザインの盗作問題以前に、先ず、「デザインとは何か」、「デザインの創造性とは何か?」といったことがこのようなことの専門ではない私にはよくわからないのだが、これを機に、少し、デザインのことについて調べ。勉強して、そのことを書いてみる気になった。
「デザインは、ある対象について、良い構成を工夫すること。」(wikipedia)とあるように、デザインは日本語ではある特定のものに対する「設計」にもあたり、「形態」や「意匠」(※3の制度 > 知的財産権制度の概要>意匠とは参照)と訳されてきたが、それだけに限らず、人間の行為(その多くは目的を持つ)をより良いかたちで適えるための「計画」も意味していて、その多くは目的を果たすために使われている。
「意匠(英語:デザイン[design])」の語源はデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareであることから、デザインとは、ある問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現することと解さている。つまり、創意工夫という意味合いが強いようだ。
従って、デザインは芸術の分野だけにとどまらず、建築や服飾、あらゆる製品など多岐にわたって使われていることから普段の生活にとても身近な存在であり、また、それらを取り扱う産業界にとっても非常に重要なものである。
特にマスメディアの発達した現代において、デザインの重要性は年々大きくなり、そのデザインの良否があらゆる産業の営業活動に大きな影響を及ぼすようになった。
オリンピックのエンブレムに使われたロゴもオリンピック協賛企業にとっては、多額の協賛金の見返りとして、自社製品販売等の営業面に大きな影響を与えるものであろう。言い換えれば、そのロゴを利用したいがために協賛しているといえる企業も多いことだろうから、今回のような問題は本当に困った問題であろう(※4、※5参照)。

かって工芸と呼ばれたものは、実用品に芸術的な意匠を施し、機能性と美術的な美しさを融合させた工作物のこと。多くは、緻密な手作業によって製作される手工業品である。あくまでも実用性を重視しており、鑑賞目的の芸術作品とは異なる。ただし両者の境界は曖昧であり、人によっても解釈は異なる。
そのような、工芸と呼ばれた職人の技術をデザインという新しい基準に応用し、産業の発展へ、さらには世界レベルの水準向上へと推し進めてきたのは、先人のたゆまない努力があってのことだろう。
現在では、「工芸」は美術工芸を指す用語となっているが、これはごく近年になってからのこと。現在の国立研究開発法人産業技術総合研究所(略称:産総研)の前身となった機関のひとつでもある「工芸指導所」の名称からも、当時の認識が読み取れるという(※1のデザイン振興活動のあゆみ参照)。

嘉永6 年(1853年)、ペリー浦賀に来航し,日本の長い鎖国時代は幕をとじた。この時,欧米先進国ではすでに産業革命が終了し,工場制工業も軌道にのり,資本主義社会の基盤となる諸法制もほぼ整備された段階であった。反面,我が国では,家内工業を中心とした封建的産業経済様式をとっており,商業制度を支えるべき商工業者の特権的集団である株仲間も,江戸時代末期からの商品流通構造の変化,多様化により経済発展の阻害要因となるなど商業ルールまでもが混乱状況を呈しつつあった。
このような状況において,我が国が欧米先進国に伍してゆくためには,欧米諸国のように一定の発展過程を経て近代化を成しとげてゆくのを待つ訳にはゆかず、短期間に欧米の諸法制及び技術の移植を行うことによって近代化を図らなくてはならなかった。
西欧諸国からの技術・機械の導入にあたって、その資金を得るため外貨を獲得すること、すなわち輸出品の増大は明治政府にとって最重要課題のひとつであった。当時の我が国の輸出品は,産業の発達段階からみても、生糸、茶、銅等の原材料が主要品であったが、加工品として陶磁器などの工芸品が挙げられる。
輸出品としての工芸品は我が国政府として1873(明治6)年初めて出品したオーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会での,日本独特の風趣を備えた美術工芸品について大好評を得て、東洋の小島にすぎなかった我が国の名を、欧米に知らしめる効果があった(6年前のパリ博覧会には,徳川幕府をはじめ2,3 の藩が出品したが,国を代表していた訳ではなかった)。
この後、海外博覧会への出品は、ウィーンを皮切りに明治26 年まで20 数回にわたっておこなったが、逆に、ウイーンの機械館を見て、産業の近代化を一足早く成し逐げていた欧米の優秀な技術を見るに及んで、日本の拙劣さが目立ち、多くの課題を抱え込むこととなったのである。
このように、日本の近代化の中で150年ほど前から始まったザイン振興活動は、当時の主な輸出商品である工芸品の形状や色彩を改良する活動からスタートしていった。

日本では、1888(明治21)年の意匠条例が意匠の登録制度の始まりであり、その後、約10 年毎に3 回の法改正がなされ,大正10 年法へと引継がれているが、その後同法の時代が第二次世界大戦をはさんで約39 年間続き、その後昭和34 年法が29 年間施行されてきた。
最初の意匠法は「工業上ノ物品ニ應用スヘキ考案即チ各種ノ形狀模様等ニシテ工業ト相須テ離ルヘカラサルモノ」(農商務省案に付された理由書)であると認識され、その内容について意匠とは「専ラ工業上ノ物品ニ應用スヘキ風韻上ノ考案」(農商務省案に付された逐条説明)と説明されていた(※3の制度>知的財産権制度の概要>意匠制度120年の歩み参照) 
このようにこれらは外観デザインの改良にすぎないが、大正10 年法施行後約10 年を経た、意匠制度史上の中間地点にあたる1928(昭和3)年に法改正作業が行われており、法改正は未完に終ったが、そこでは、デザイン活動の革命的変化、つまり、当時の情報化社会が生み出したソフト産業、サービス産業の発展とそれに伴い、そこに生じる知的資産・独創性についての保護を求めて、「知的所有権」の新たな位置づけと役割を要請されていた。
そして、1928(昭和3)年には、小規模ながらも商工省(1949年通商産業省に改組後、現:経済産業省に改組)が国策事業として仙台市にある仙台陸軍幼年学校の跡地に国井喜太郎(*4の国井喜太郎産業工芸賞参照)を所長とする「工芸指導所」(後に工業技術院産業工芸試験所→統合再編により現:産総研)を設立したのが、日本の産業工芸とデザインの研究・振興施策の歴史の始まりといえる(※6参照)。
これは当時の世界的な不況(世界恐慌)の中、各国の、輸入制限や保護関税政策を引き起こさせ、我が国の輸出にも大きな影響を与えたことから、この難局に直面した日本政府は国産品愛用と海外販路開拓の政策を執るがその効果は思わしくなく、昭和2年、産業合理化運動を展開している中、帝国工芸会会長で男爵でもある阪谷芳郎が各国の輸入抑制の中輸出を活発化する為に、商工大臣中橋徳五郎にあて、「工芸振興ニ関スル建議」を行い、この後、工芸的手工業に最新の科学技術の応用を図り、内外デザイン思想の紹介普及と人材育成の中心機関として、設置されたものであった。(※3:「経済産業省 “特許庁」の”意匠制度120年の歩み“参照)。
当時、工芸指導所では、世界の最新動向を把握しながら実験的な試作を行い、勃興しつつあったモダンデザインを取り入れて改良を図ろうとしていた。そのために、世界的なブルーノ・タウトシャルロット・ペリアンなどの著名なデザイナーが招聘された(※7参照)。
1940(昭和15)年12月、工芸指導所は東京に移転したが、この頃から戦火が激しくなり、本来の目的は、十分に遂行はできなかったようだが、終戦をむかえると、経済復興を支える重要な政策として、再びデザイン振興がスポットを浴びるようになった。
第二次世界大戦の敗戦によって産業・経済に大きな打撃を受けた我が国は、早急に経済を回復することによって国民生活を安定させ、産業の基礎を固める必要があった。そのためには国内の資源を開発して各種の産業を活発化するとともに貿易の振興によって海外市場を獲得するなど、民間資本の蓄積,増大を図らなければならなかった。
戦後、我が国の生産技術及び産業意匠への啓発の契機となったのは、欧米文化の直接的な流入であった。1946(昭和 21) 年には進駐軍から住宅及び家具什器類など大量発注が行われ、設計と試作には工芸指導所が当たり、その生産には全国の有力工場が加わるという、我が国工業界にとって画期的な事業となり、量産方式の各種技術が修得された。
一方、1950 年代は「I.D栄光の時代」といわれ,戦後のデザインを代表する作品が欧米に次々に登場し、我が国にも紹介された。戦後の我が国の産業界はこのような国際的なデザインをかつてないほど急激に吸収しながら進行した(※3の財産権制度の概要>意匠制度120年の歩み>第8章 昭和34年意匠法の改正参照)。
だが、戦後の産業復興とともにデザイン活動が活発に展開するなかで、欧米デザインの模倣・盗用問題が発生した。1950年代まで、ほとんどの日本企業(とくに製造業)には、専門のデザイン部門はなく、当時、産業工芸試験所は、東芝やソニーからもデザインの委託を受けていたという。
日本経済にとって貿易輸出の伸長は極めて重要な課題であり、戦後の通商政策は貿易の障害となるこの種の問題に早急に対処する必要があった。
このような反省に基づき、1946(昭和 21 )年に早くも産業意匠権の確立運動がみられた。
この年、政府は、生活必需品の優良化と適正商品の量産化を図るため、当時の商工省の外局であった特許標準局(現:特許庁)内に商品標準化委員会を設け、商品の標準化による原料資材の有効利用及び生活能率の向上を期すると同時に,国民生活の文化的合理的再建を目指し、工芸学会もまたこの問題に関し世論の喚起に努め、図案家及び図案の保護を提唱した。そして1947(昭和 22) 年 4 月には,勅令第 5 号発明奨励委員会官制に基づいて設置された発明奨励委員会第 6 部会に対して,商工大臣から「輸出貿易の促進を図るための優秀意匠の奨励及活用方策如何」という諮問がなされ、その答申において意匠の創作権保護に関し、現行意匠法の改正及び民間団体による意匠権保護に関する運動と実践を提案。この提案における意匠法改正には意匠法の保護対象につき,その内容を「近代的産業意匠」とすることを要望しているが、急には実効を上げるに至らなかったようだ。
1952(昭和27)年4 月に、工芸指導所は産業工芸試験所(英:Industrial Art Institute。略称:IAI)と改称し、インダストリアル・デザイン(英:industrial design)の指導・研究が主要な業務となった。
産業工芸試験所では、G. ネルソンE. ソットサスといった著名なデザイナーを海外より招聘し、企業のデザイン部門をはじめとするデザイン関係者を実地に指導する場を積極的に設けた。
昭和30 年代に入ると高度経済成長が始まり,産業が発展し、その構造も変わり、製品デザインの対象産業領域も広がったが、日本では、1955(昭和30 )年頃、まだまだ国内メーカーが欧米のプロダクトデザイン(英: product design。製品のデザインのこと)を模倣し、海外から非難されていた。
デザイン制作の主たる目的は輸出政策としてデザインの盗用及び模倣を防止することにあったことから、1957(昭和32)年には、優れたプロダクトデザインを選定するGマーク選定制度を開始(Gマークの「G」はgood designの略。公益財団法人日本デザイン振興会〔※1〕が主催するグッドデザイン賞を受賞した商品・サービス・活動などに表示されるマーク)。また、「輸出検査法」(昭和 32年法律 97号. ※8参照)を制定し、輸出検査制度の強化をした。これは、輸出品の声価の維持および向上をはかり,輸出貿易の健全な発達に寄与することを目的としている(第1条)
 
上掲の画像はGマーク


経済産業省(当時、通商産業省)は1958(昭和33))年にデザイン課を設置して以来、時代の変遷に沿って組織や業務を変革しながらデザイン政策を続けてきた。
1959(昭和34)年には、「輸出品デザイン法」(昭和34年法律第129号。※9参照)を制定して、盗用模倣防止の法的体制の整備をし、デザイン奨励審議会 を設置し、本格的なデザイン政策を開始している。
さらにJETRO(ジェトロ。日本貿易振興機構の略)等と共同して国際見本市等での対外宣伝に努め、世界市場に向けて個性が発揮できるよう指導するとともに、製品管理や包装の合理化、色彩研究などといった関連分野まで、その業務範囲を広げて指導に努めた。
ここから、秋岡芳夫剣持勇豊口克平ら日本を代表するデザイナーが輩出していった(※7参照)。
またこの時期に、日本インダストリアルデザイン協会(※10)や日本デザインコミッティーなどのデザイナー団体も設立され、デザイナーの活動も活発化していった。
1960年代に入ると、デザイン活動の中心は企業へと移っていった。大きな役割を終えた産業工芸試験所は、1969(昭和44)年に製品科学研究所(産総研の前身である工業技術院に属した研究所のひとつ)として組織再編を受け新たな役割を果たしていった。

デザインと言う、このような専門分野のことを、私のような専門知識を持たないものが書くことは難しい。ネットで調べたことなどを基に書いたが、色々と謝ったことを書いているかもさ入れない。デザイン制度のその後の歩みなど、その概略は、参考※3:「経済産業省 特許庁>制度・手続 > 意匠」のところで、詳しく書かれているが、その概略なら、同HPの“第3部 意匠制度120 年史年表”を見られるとよい。

今問題となっていることは、特に「デザイン」創造性についてだろう。
日本語の「学(まな)ぶ」は「学(まね)ぶ」に同義で、「真似(まね)る」に同義だとも言われている(ここ参照)。
人は、それぞれ特技や長所を持っており、自分にはない他人のそんな良い点、スキルを手本として、先ずはその人に劣らないように学(まね)ぶことから始めるのが、学びの基本・・・とされている。
最近はよく個性の時代と言われる。テレビなど、吉本のタレントや女性の恰好?をしただけの人などが多く出ている。以前。朝日新聞の「天声人語」にこんなことが書いてあったのを覚えている。
「芸能人能がついて芸がなし」
昔は芸を磨き優れた芸を売るのが芸能人だった。しかし、何時のころか余り芸のない人たちが芸能人と呼ばれだした。今のテレビはコマーシャルの合間に、あまり売れていない金のかからないタレントと呼ばれる人、私流の定義でいえば、タレントとは「芸のない芸人、昔はスポーツ選手や歌手その他の職業で少しは名の売れてはいたが、今はそれでは食えなくなった人達のこと」と解釈している。
たとえ芸にしても、先ず基本をしっかり身に着けてそれから自分の特色を芸に生かすべきだろうが、それでは年数がかかりすぎ、今はJ時間をかけてそのような基本を身につけていない若い未熟な人や昔売った名前や顔を利用しているだけの人ばかりがテレビには出演している。まず、今の、テレビそのものが、芸を見せる場所ではなくなってしまったからそれでよいのかもしれないが・・・。、
しかし、まともなビジネスの世界ではそのようなものは通用しない。
私なども職業柄、商社、メーカー、チェーンストアーなどのサービス業などいろいろな流通業界の仕事を経験し、そして、非常に多くの会社を見てきたが、例えば、日本では後発のスーパー業界などでも、その先進国であるアメリカなど本場のスーパーの多様な業態を視察し、それをまずは徹底的に学(まね)び、それをやってみて、その中から、アメリカではなく、日本の風土に合う独自の業態開発に力を入れてきたところだけが今生き残っている。ただ、単に、真似ごとをしているだけのところは、倒産あるいは吸収されている。
日本は日本の独特の風土がある、それをわからないままに攻めてきた、アメリカやフランスなど流通業の先進国もほとんどが失敗をしている。それに引き換え、スーパーではないが、コンビニエンスストアーセブンイレブンなど、本家アメリカのセブン-イレブンを飲み込んでいる。また、日本でチェーンストアーが始まった時には、四日市の片田舎の呉服屋上がりのスーパーであった岡田屋は、新業態を開発し、今では当時日本一であったダイエーをも飲み込み、イオンとして世界市場を制覇しようとしている。
これら成功している企業は単に、真似事をしただけではなく、徹底的に学(まね)び、それを消化したうえで、じっくりと時間をかけて独自のノウハウを付加して完全に自分のものとしたからこそ強いのである。私達消費者などが、店舗など表面的なものを見ても、わからない、管理・運営上のノウハウ創造しているのである。
さて、デザインの世界はどうなのだろう。
デザインを勉強している人も最初から思いついたデザインを次々と書ける人はいないだろう。多くの人は、優秀な先人デザイナーの書いたものを見て、学んできたことだろう。
どんな分野であれ、それまでに先人が残してきたものを学び、知識なり秘術を習得せずして一流の専門家になるのは不可能だろう。数字や英字などを使ったロゴに関しても、今までどんなものが創られきているか。そして、それが何を表現しようとして、そのような、「形態」「意匠」ができあがったのか等々。
デザインの語源がデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareであるとすれば、言い換えれば、「デザインは、思考というプロセスを経た結果としての表現」であると言えるのだろう。
新しいデザインを想像するには、いろいろ過去にあるものを見た上で、それらで使われていたロゴとよく似たものを一部使ったとしても、全体としてそこにその人の思考や計画を表すための明確な根拠があれば良いのではないかと考えられる。ただし、意匠登録されているものは使えないが・・・。
しかし、佐野市氏は、盗作とされているもののデザインを「見たこともない」し、「私はアートディレクター・デザイナーとして、ものをパクるということをしたことは一切ありません」と、盗作疑惑を記者会見で一蹴していた。
私はこの時の会見を不思議に思った。私は、若い時、東京で5年間ほど住んでいた(昭和30年代末〜昭和40年代初め)。、当時、東京タワーへは、東京テレビ(1960年に東京放送[TBS)に改称)で 『アイデア買います』 という番組の公開放送を見るために何度も行った事がある。素人発明家のアイデアを審査して、良いものがあれば、業者がそのアイデアを買うといった番組で、当時人気番組であった。それに刺戟されて、新宿近辺にあった発明協会へ加入し、会社の私と同じ面白い事大好き人間同士で、つまらぬものをいろいろ考え出し、それでも、3つぐらい実用新案の申請をしたが、中途半端で特許もとれなかった。それでも、そのお遊びのお蔭で、特許の仕方や、当時品川にあった特許庁へ提出済みの特許などを調べに行って、特許に係るいろいろな知識を身につけたのは、無駄にはならなかった.。しかし、その時、まだ製品化はされていないが今後使用するかもわからない製品の名称やデザインなどすごい数の意匠登録数がされているのに驚かされた。
それなのに、佐野氏のようなプロが似ているとされているものについて見たこともない。パクリはしていない・・などの発言を聞いて、実際にどうだったのかは知らないが、この男は信用できないな・・・と思った。
其の後、佐野氏のエンブレムの原案については、組織委員会が国際商標登録(※12)を行うためにIOC(国際オリンピック委員会)と共同で行った国内外の商標調査の中で、複数の似たデザインが見つかったことなどから、2回にわたって佐野氏自身によって修正が加えられて、最終的なデザインが決まったという(※13参照)。つまり、2度も修正したものがまた問題となっていたのである。
アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトの以下の名言があるという(※14参照)。
「全体は部分の為にあり、部分は全体の為にある。そしてそれら全てが全体に奉仕する。」
では、佐野氏の原案は、2度修正されているが、その部分も全体も一体どのような理由づけで何を表現するために修正されたのかか。「パクリ」ではないというなら、デザイナーとして、きっちりとその理由づけを説明すべきではないのだろうか。その真実は知らないが、それをしない限り、不信感はぬぐえないだろう。しかも、修正が2回もあったことやどのようなデザインになったのかなど完成まで、組織委員会が、審査委員に伝えていなかった…などと聞くと、組織委員会と佐野氏間に何があったのか・・そんなことまで疑問が感じられる。
このデザイン疑惑だけでなく、2020年東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場(東京都新宿区)建設問題(※15参照)や、東芝の不正会計処理(粉飾決算)問題(※16参照)等、外国から見れば、日本の国はちょっと何かがおかしいと思い始めているのではないだろうか。国にしても大企業にしても内部統制が全く機能していないな~。

参考:
※1:日本デザイン振興会
http://www.jidp.or.jp/
※2:東京五輪のエンブレムを組織委員会が使用中止とする方針 - GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20150901-tokyo-2020-emblem/
※3:経済産業省 特許庁>制度・手続 > 意匠
https://www.jpo.go.jp/seido/isho/index.html
※4:[6]2020年大会のスポンサーが決定! : TVステーション
http://tvstation.jp/sport/olympic-verification/6758/2/
※5:東京五輪スポンサー一覧 佐野研二郎エンブレムを使っている企業への不買運動も・・・
http://mera.red/%E4%BA%94%E8%BC%AA%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E4%B8%80%E8%A6%A7
※6:財団法人 工芸財団
http://www.k5.dion.ne.jp/~kougei/index.htm
※7:「工芸」から 「デザイン」へ - AIST: 産業技術総合研究所(Adobe PDF)
http://www.aist.go.jp/Portals/0/resource_images/aist_j/aistinfo/aist_today/vol05_06/vol05_06_p40_41.pdf#search='%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%B7%A5%E8%8A%B8%E8%A9%A6%E9%A8%93%E6%89%80++G.+%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3'
※8:輸出検査法(廃)
http://www.houko.com/00/01/S32/097.HTM
※9:輸出品デザイン法 新旧対照表 1
<ahref= http://nomenclator.la.coocan.jp/ip/suprev/rev/exportd/r001.htm > http://nomenclator.la.coocan.jp/ip/suprev/rev/exportd/r001.htm
※10:日本インダストリアルデザイン協会
http://www.jida.or.jp/
※11:日本デザインコミッティー
http://designcommittee.jp/
※12:国際商標登録とは - 商標権取得応援サイト
http://www.trademark-jp.net/intlreg.html
※13:エンブレム問題 修正内容を完成まで伝えず NHKニュース - NHKオンライン
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150903/k10010215341000.html
※14:デザイン 名言集・ 格言 ~最大級~ - 心に残る名言集・格言
https://mobile.twitter.com/design_bot
※15:総工費は1550億円…新国立・新計画決まる :-まとめ
http://www.yomiuri.co.jp/matome/20150605-OYT8T50063.html
※16 :東芝の粉飾決算は何故刑事事件にしないのか 東芝に限らず粉飾決算は上場企業で...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14149768779
デザイン ー Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3