今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

愛妻家の日

2008-01-31 | 記念日
今日(1月31日)は「愛妻家の日」日本愛妻家協会が制定。1月の1を英語の「I」に見立て、「あい(I)さい(31)」の語呂合わせからとか。
日本愛妻家協会なんてものがあるなんて知らなかったものだから、早速、同HPを覗いてみた。
TOPページに、「日本愛妻家協会は、地球温暖化よりも家庭寒冷化現象の方を気にして見ました。愛妻家が増えるとこれまで夫婦環境をむしばんでいた倦怠感は削減され家庭が少し温かくなる。すると世界は平和になるかもしれない、と考えてみたのです。」・・・とあった。また、名誉会長プロフィールには、”日本愛妻家協会の名誉会長は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)さんです。タケルさんは世界で初めて愛妻家宣言をした人物として有名です。日本書記によると1900年前に弟橘姫(オトタチバナヒメ)という奥さんの訃報を旅先で聞いたタケルさんが大きな声で人目もはばからず「吾が妻恋し・・・」と叫んだとされ、それ以来愛妻家のイメージが定着しています。そこで愛妻家の元祖としてタケルさんに名誉会長をお願いしています。”・・・とあった。(同HPの日本愛妻家協会趣意書参照)
HPの名誉会長は日本武尊さんだそうだが、日本神話の英雄ヤマトタケルは、『日本書紀』(日本武尊)と、『古事記』(倭建命こと小碓命〔おうすのみこと〕、またの名を日本童男〔やまとおぐな〕)と、二つの漢字表記がある。又、日本武尊は『日本書紀』では景行天皇の第二皇子。『古事記』では第三皇子。母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。日本武尊と垂仁天皇(『古事記』に伊久米伊理毘古伊佐知命〔いくめいりびこいさちのみこと〕)の女、両道入姫(ふたじのいりひめ。『古事記』では帯中津日子〔たらしなかつひこ〕命)との間に出来た子が、仲哀天皇ということになっているのだが仲哀天皇の実在性には疑問点があり(仲哀天皇架空説)、両道入姫についても、垂仁の娘ではなかったのではないかとの疑問もある。しかし、一応、この人物が記紀の上では日本武尊の正式な后(〔きさいの転〕皇后中宮)と言うことになっている(以下参考に記載の「神代と人代の相似形」参照)。
『古事記』、『日本書紀』による説話は、大筋は同じであるが、主人公の性格付けや説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差があるが、『古事記』は浪漫的要素が強く、主人公や父天皇の人間関係から来る悲劇性に彩られたものであるのに対して『日本書紀』の方が天皇賛美の傾向が強く、天皇に従属的であるといえるだろう。『古事記』では、小碓命は随分と乱暴な父天皇からも嫌われた存在として描かれている。
冒頭にある弟橘姫という奥さんの訃報を旅先で聞いたヤマトタケルが人目もはばからず「吾が妻恋し・・・」と叫んだとされ事については、「『古事記』による説話の概要」の「西征」「東征」を見るとよくわかるので、詳しいことは、そちらで見ていただきたい。
景行天皇より、「西征」を命じられたヤマトタケルは、討伐から帰ると又、すぐに「東征」を命じられるが、途中伊勢へ赴き叔母の倭姫命より天叢雲剣と袋を賜ったあと、『古事記』の倭建命の場合は、まず尾張国造家に入り、美夜受媛(みやずひめ、宮簀媛)と婚約をして東国へ赴いている(『日本書紀』にはない)。また、東征後の帰りに尾張に入った倭建命は、かねてより結婚の約束をしていた美夜受媛と歌を交わし、その際媛が生理中であることを知るが、そのまま結婚してしまう。そして、伊勢の神剣草薙剣(天叢雲剣)を美夜受媛に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ちに行くが、伊吹山の神に氷を降らされ、意識が朦朧としたまま下山し、居醒めの清水(山麓の関ヶ原町あるいは米原市)でやっと正気を取り戻すが、すでに病の身となっていた。 弱った体で大和を目指していたが能煩野(のぼの=伊勢の鈴鹿山のふもと)に到ってついに力尽き 「大和は 国のまほろば・・」の4首の国偲び歌を詠って亡くなった(以下参考に記載の「**古事記** 」参照)。
ヤマトタケル(倭建命、日本武尊)の英雄説話は数人の英雄たちの寄せ集めであるとの説が有力である。妻も1人ではなく弟橘媛もその中の1人であり、正式な后ではなく妾的な存在であったようだ。タケルが「吾が妻恋し・・・」と叫んだことから、それ以来愛妻家のイメージが定着しているとあったが、「東征」に行く際には妾的な弟橘姫を同行し、途中先ず、、尾張へよって美夜受媛と婚約してから出かかけており、途中でタケルのために犠牲になってくれた弟橘姫の訃報を聞いて「吾が妻恋し」と叫んだといっても、私にはそれが、愛妻家のイメージには繋がらない。だって、尾張に帰ってきたときには、結婚の約束をしていた美夜受媛が生理中であることを知っていても結婚しているのだから、記紀の記載を表面上からだけ見るとタケルはよほどの好き者といえるかもしれない。しかし、ヤマトタケルが特定の人物をモデルにしたものではなく数人の英雄たちの寄せ集めであるとしたら、その妃とされている女性たちも特定のある人物を云うものではないのだろう。尾張の美夜受媛(みやずひめ)のミヤズは、宮住みの意とされ、神霊の憑依する語呂であり、つまり神剣にやどる神霊の奉祀者であるとされている。他にも近江の安国造の祖先、意富多牟和気の娘・布多遅比売、吉備臣建日子の妹・吉備穴戸武媛などと呼ばれて子を産んでいる妃は多くいる。(倭建命の系統参照)
これらヤマトヒメも、ヤマトタケル同様、大和王権の拡張のために、天照大神信仰を広めるべく諸国に赴いた皇族巫女たちが集約されたものであろう。
日本愛妻家協会HPの活動理念の中に、”失われつつある日本独自の愛妻家という文化を再生します ”とあるが 、日本独自の「愛妻家」とは、どういうものを想定しているのだろうか?。私にはよく分からないが、昔といわなくても戦前・戦後の頃と今の時代の人などでは、妻に対する「愛」の考えも随分と変ってきているだろうな~。少なくとも、私などのような戦前生まれに者は、妻に「愛しているよ」などといった言葉は出てこないし、夫婦の愛情は、赤の他人が結婚して、双方がご互いに気遣いあい、時の経過とともに、自然とそれなりの「愛」が確認し合えているのではないかと思っている。特に、男としては、経済的な面で妻に心配をかけないようにし、何かあると頼りにされる男性であるように心がけている。それが、妻への愛情などと考えているのだが・・・、多分、これは古い考えなのだろう。同協会HPの事業計画には、「愛妻家の日」の午後8時、日本中の300万人の夫が食卓につき妻に感謝とねぎらいの言葉をかけると、日本は少し平和になるかもしれないという壮大な社会実験」をしようとしているらしい。 「夫が妻に感謝とねぎらいの言葉をかける」のはいいことだが、妻の方も普段から夫の勤労に対して感謝の気持ちを表して欲しいと思うのだが・・・。
(画像は、新しい家族を待ち望む若い家族。フリー百科事典Wikipediaより画像部分カット)
参考:
日本愛妻家協会
http://www.aisaika.org/
愛妻家 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%A6%BB%E5%AE%B6
ヤマトタケル - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%AB
やおよろずの神々を想う
http://shrine.s25.xrea.com/kamigami.html
皇女の嫁ぎ先~伝承時代編~
http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/asobi/naisinnou/n-d.htm
古事記・日本書紀研究
http://inoues.net/shoki/kojiki_shoki.html
古事記の世界
http://homepage1.nifty.com/Nanairo-7756/
歌語り風土記 走水の海
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/17kana01.htm
ニンニク - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%82%AF
竜ヶ岳
http://star.freespace.jp/evergreen2/hiking2/ryugatake/ryugatake101.html
天皇陵めぐり
http://inoues.net/tenno/tenno_meguri.html
神代と人代の相似形
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou60/kai06001.html
**古事記**
http://www.geocities.jp/fuumin2006/kojiki.html

『東京ブギウギ』『青い山脈』など作曲した服部良一 の忌日

2008-01-30 | 記念日
今日(1月30日)は、『東京ブギウギ』『青い山脈』など作曲した服部良一の1993(平成 5)年の忌日 <85歳>
服部良一(はっとり りょういち)は大阪出身の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している。)で、ジャズの都・大阪で音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人である。
服部良一といえば私達の年代には先ず「東京ブギウギ」、「買物ブギ」や「銀座カンカン娘」などが思い起こされる。これらの曲は第二次世界大戦後の混乱と復興の真っ只中にあった1947(昭和22)年~1950(昭和25)年に発表されたもの。中でも1947(昭和22)年、有楽町の日劇で笠置シズ子が歌った「東京ブギウギ」は大爆発した。普通は立ち姿で歌う流行歌手の型を破って、笠置は激しく動き回り、歌って踊った。
「東京 ぶぎうぎ リズム ううきうき 心 ずきずき わくわく」(作詞:鈴木勝)
笠置の「東京ブギウギ」は、以後『大阪ブギウギ』や『買物ブギ』など一連のブギものをヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれるようになる。
「あの娘可愛や カンカン娘 
赤いブラウス サンダルはいて 
誰を待つやら 銀座の街角 
時計ながめて そわそわにやにや 
これが銀座の カンカン娘」 
大ヒットした「銀座カンカン娘」は新東宝が1949(昭和24)年に製作した映画の主題歌(作詞:佐伯孝夫、歌:高峰秀子)である。これも明るい曲で、戦後の荒廃した庶民の心に開放感をもたらしてくれた。
日本に初めてジャズが伝わったのは1900年頃とされている。上陸地はさだかではなく神戸港、横浜港、大阪港など諸説存在する。日本で初めてのプロのジャズバンドは1923(大正12)年4月に神戸で旗揚げした。宝塚少女歌劇団オーケストラ出身の井田一郎(以下参考に記載の「※井田一郎」参照)をリーダーとするラッフィング・スター・ジャズバンド(ラッフィング・スターズ)である。その後宝塚を止めた井田は、1923(大正12)年8月に道頓堀に松竹座が開場していた松竹座オーケストラ(管弦楽団)にヴァイオリン奏者として入団。1925(大正14)年には、大阪最大のユニオン・ダンスホールに入って、本格的ジャズバンド「チェリーランド・ダンス・オーケストラ」を結成し活動するが、大正天皇崩御を理由に大阪市がダンスホールの営業を1年間停止したため、大阪を拠点としていた井田や南里文雄ら多くのプロのジャズマンは東京に拠点を移していった。ちょっと、横道にそれかかったが、服部のことに戻る。
以下参考に記載の「日本ジャズ史-その黎明の時代」によると、大正時代(1912年7月30日から1926年12月25日)の大阪には、”日本を代表する大衆音楽の勃興(ぼっこう)、すなわち『ジャズの都』といった特別の音楽環境があったそうで、例えば、道頓掘川には粋な屋形船の上で熱演するジャズバンドがあり、本場アメカのミシシッピー河を上下するショーボート(※2)とは行かないまでも、水の都大阪ならではの光景があった”という。そして、”大阪・三越少年音楽隊、大阪・高島屋少年音楽隊、うなぎの出雲屋少年音楽隊のバンドが、毎週土曜日の夜になると道頓堀戎橋の下に浮かぶ屋台舟でジャズ音楽が聞こえてきた。又、道頓堀一帯は高級花街なので芸者たちもその音楽に刺激を受け、そんな彼女らが少女音楽団を組織した河合サキソフォンバンドと呼ばれるものがあったほど大阪のジャズ熱は相当なものだった”のだという。
服部良一は、1907(明治40)年10月1日、大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれたという。彼もジャズの都大阪でその感性を磨いたのだろう、小学生のころから音楽の才能を発揮していたそうだが、1922(大正11)年、大阪実践商業学校入学後、翌1923(大正12)年、16歳のときには、好きな音楽をやりながら給金がもらえると道頓堀のうなぎ料亭「出雲屋」に少年音楽隊が結成されると入隊。1923(大正13)年大阪実践商業学校卒業。しかし、その2年後に、第一次大戦後の不景気もあって音楽隊が解散すると、松竹座オーケストラに参加(※1)。同年に大阪放送局がラジオ放送を開始すると、すぐに局内に大阪フィルハーモニーオーケストラが結成されるが、1926(大正15)年、ここに入団する(この時19才)。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテル(メッテル先生のこと参照)に服部は見いだされ、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けたそうで、このころ、後年日本を代表する指揮者の一人となった朝比奈隆も彼から指導を受けていたそうだ。オーケストラの傍らジャズ喫茶でピアノを弾いていたという。昭和に入ると服部は、レコード会社の仕事をするようになり、1929(昭和4)年頃、コッカレコード(国歌レコード製作所)でサクソフォーンと編曲を担当し、タイヘイレコードの専属となった。1931(昭和6)年頃には大阪コロムビアで街頭演歌師出身の作曲家鳥取春陽のジャズ演歌の編曲の仕事をした。この鳥取春陽も 1923(大正12)年、関東大震災後、活動拠点を東京より大阪に移したとき、まず影響を受けたのが道頓堀から流れるジャズだったと言う。服部は、1933(昭和8)年上京し、その翌1934(昭和9)年2月、東京進出をはかったニットーレコードの音楽監督に就任した。
昭和になると良一はレコード会社の仕事もするようになり、1933年上京。翌年にはニットーレコードの音楽監督に就任。1936(昭和11)年コロムビアの専属作曲家となって第1作目が淡谷のり子の歌う「おしゃれ娘」(作詞:久保田宵二)。そして「別れのブルース」(1937年、作詞:藤浦洸)で一流の作曲家の仲間入りをはたす。その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷は「雨のブルース」」(1938年、作詞:野川香文)も大ヒットさせ、「ブルースの女王」と呼ばれるようになる。その後、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、感傷的なブルース調の『湖畔の宿』など服部メロディーの黄金時代を迎えた。大東亜戦争が始まると服部の音楽個性であるジャズ音楽は敵性音楽として排除された。
戦後すぐには、映画「青い山脈」の音楽監督,もつとめるが、主題歌の同名「青い山脈」は東京芸大出身のクラシックの正統派藤山一郎が格調高く歌唱し、日本の国民的な流行歌にもなった。日本映画界に於ける映画音楽の名曲中の名曲といえる。そのほか、先ほど紹介した「東京ブギウギ」、「銀座カンカン娘」、「青い山脈」ほか、当時最先端のジャズなど洋楽のリズムやビートを歌謡曲に大胆に持ち込み、古賀政男マンドリンギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、服部は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムをいかし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立。まさに”日本ポップスの父”的存在となった。1993(平成5)年の今日・1月30日、呼吸不全のため死去後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。
香川県に生まれ、生後間もなく大阪市福島区の米屋の養女となったが笠置シズコ子は、小学校卒業後の1927(昭和 2)年、「大阪松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団の前身)に入り初舞台を踏む。1938(昭和13)年に、1923(大正12)年に発足の帝国劇場」で旗揚げした「松竹歌劇団(SKD)」に参加。服部良と組んでジャズ歌手として売り出した。その後も、ブギがヒットし、「ブギの女王」と呼ばれるようになるが、笠置の歌曲のほとんどを服部が手がけた。
関西人の私達としては、「東京ブギウギ」も良いがその後、昭和25年にヒットした「買物ブギ」の方が好きである。
「今日は朝から 私のお家は
てんやわんやの 大騒ぎ
盆と正月 一緒に来たよな
てんてこまいの 忙しさ
何がなんだか さっぱりわからず
どれがどれやら さっぱりわからず
何も聞かずに 飛んでは来たけど
何を買うやら どこで買うやら
それがごっちゃに なりまして
わてほんまに よういわんわ
わてほんまに よういわんわ」
この曲は、大阪人である服部が作詞(村雨まさを名)、作曲したもので、それを、大阪育ちの笠置が歌った。大阪弁の面白さと笠置のキャラクターがマッチした傑作。恐らく、彼女以外にこの歌の味を出せる歌手はいないだろう。人気歌手の笠置シズ子は1950(昭和25)年、ブギ・コンビ服部良一とアメリカへ渡った。このころ「買物ブギ」が大ヒットしたが、この曲のあとブギ・ブームは次第に冷えていった。
以下では、松竹大船映画「懐かしの歌合戦」昭和25年(1950)より笠置シズ子 「買物ブギ」の1コマが見れるよ。
YouTube買物ヴギ 笠置シヅ子
http://www.youtube.com/watch?v=N_043fnhTdk
又、以下には、「買物ブギ」の歌詞つきのMIDIがある。長い歌だけど面白いよ。
買物ブギ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ada-kazu/new_page_387.htm
※1、当時、多くの映画館が、専属オーケストラをおいて、アトラクションに、歌手を加えたジャズ演奏を行っていたようだ。
※2、ミシシッピー河を上下するショーボートを舞台に1936年に映画化されたアメリカ映画「ショウボート(Show Boat)」 が有名。以下参考に記載の「ショウボート(Show Boat)」 参照。
(画像は、1950(昭和25)年ブギ・コンビ人気歌手の笠置シズ子と渡米時の写真。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)
服部良一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E8%89%AF%E4%B8%80
服部良一 公式サイト「胸の振り子」
http://www.r-hatto.com/index.html
日本ジャズ史-その黎明の時代
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub10.html
鳥取春陽 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%8F%96%E6%98%A5%E9%99%BD
大阪 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA
あだかずホームページ/音楽の部屋
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ada-kazu/100.htm
銀 座 カ ン カ ン 娘
http://8.health-life.net/~susa26/ikoi/kankan.html
※井田一郎
http://www.geocities.jp/nipp17734/ida.htm
NHK大阪放送局 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/NHK%E5%A4%A7%E9%98%AA%E6%94%BE%E9%80%81%E5%B1%80
大阪フィルハーモニー交響楽団 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%A5%BD%E5%9B%A3日東蓄音器
http://zarigani.web.infoseek.co.jp/spp/spp4.htm
※ショウボート (1936) Show Boat
http://www.geocities.co.jp/hollywood/5710/show-boat.html

「西成線列車脱線火災事故」が発生した日。死者191人、82人が負傷した。

2008-01-29 | 歴史
1940(昭和15)年 の今日1月29日大阪で「西成線列車脱線火災事故」が発生した。 西成線・安治川口駅附近でガソリンカーが脱線転覆し炎上。死者191人、82人が負傷した。
1940(昭和15)年の1月29日午前6時40分頃、大阪市内の鉄道(省線。戦後における国鉄)・西成線(現JR桜島線)の3輌連結気動車(ガソリン動車)が安治川口駅港内の踏切を越えたところで、最後部1輌が脱線し、左に横倒しになった。タンクが破損、流れ出したガソリンに引火し、折からの強風に煽られて社内は火に包まれた。重工業地帯の職場に通勤する乗客300人は、すし詰め状態で、社内はたちまち悲鳴の交錯する地獄図絵に。特別警官隊、憲兵隊、住友金属従業員、警防団、国防婦人会の人々が駆けつけて消化につとめ、アセチレンガスで車体上部を焼ききって救出した。結局死者191人、82人が負傷した。事故の原因はポイント(分岐器)の切り違えで、信号係2人が起訴され、禁錮1年6月の刑を受けた。(アサヒクロニクル「週間20世紀」)。
この事故は列車通過中にポイントを転換したために3輌中の最後尾1両が2対のレールにまたがったまま走行し、同駅構内の踏切付近の構築物に衝突して発生した列車脱線事故であるが、気動車(ガソリン動車)の燃料であるガソリンへの引火により火災が発生した列車火災事故が重なったことから大惨事になった。
この時の事故車両キハ42000形気動車は150馬力のGMH17形ガソリンエンジンを搭載したもので、燃料積載容量400リットル、車長19メートル、定員125名の当時としては最大級の気動車であったそうだ。このキハ42000形気動車は元来、車長16メートルのキハ41000形用小型台車を元に若干拡大した軽量設計のTR29形台車(台車のことは鉄道車両の台車を参照)を使い、車体長は大きく延長した一種のストレッチモデルで、ややバランスが悪くなっていたとの指摘があるようだ。また、この事故では、車両横転、火災発生といったほかに車両が耐火構造になっていなかった、乾燥した冬の気候、大阪湾から吹く西風にあおられた、その上、超満員と数々の悪条件が重なっていた。
日本の鉄道は1872(明治5)年の鉄道創業から長らく蒸気機関車が客車を牽引する方式が主力だった。「汽車」という言葉も、ここから出たものだ。
その後、1920(大正 9)年にはガソリンエンジン動力の「ガソリン動車」が出現する。そして、列車本数増加と運行コスト低減から需要の増加を背景に、1927(昭和 2)年の日本車輌製造を皮切りとして大手・中堅車両メーカー各社のほとんどが、一斉に気動車製造に参入するようになり、1930年代には、国鉄・私鉄を通じて広く普及した。ディーゼルエンジン動力の「ディーゼル動車」は、日本では1928(昭和 3)年に雨宮製作所の製造したものが登場したが、エンジン技術の未発達から、戦前にはほとんど普及しなかった。
現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線である桜島線(さくらじません)・大阪市此花区の西九条駅から桜島駅間は独立した路線ではなく、西成鉄道鉄道国有法により買収した西成線の一部を1961(昭和36)年の大阪環状線全通時に分離したものである。
当時の西成線は、大阪駅から臨海部を結ぶ路線であったため昭和時代の始めごろまで閑散路線であったが、日中戦争(1937〔昭和12〕年~1945〔昭和20〕年)により軍需産業が発達し、沿線に多数の工場が建設され、通勤客が激増していた。1940(昭和15)年1月15日のこの事故の起った翌年には電化工事が決定していたが、輸送能力は限界に近づいており、しかも単線区間があったため運転本数を増やすことが出来ず、朝夕のラッシュ時には乗車率300パーセント以上に達していたという。そのことが、脱線転覆に伴う炎上事故の際脱出を困難にし、惨事を大きくしたが、これを契機に、ディーゼルエンジンに力が注がれ、西成線では、事故後ガソリン動車の使用を中止し、電化工事が前倒しで行われた。工事は急速に進められ、事故の翌年には完成している。
太平洋戦争の敗戦後、石炭の価格が高騰、石炭事情の悪化もあり、1950年前後にはディーゼルカー(動車)が隆盛を極めることになった。
桜島線は、戦後も沿線工場への貨物輸送や通勤路線という目的から昼間は閑散とした状態が続いていたが、2001(平成13)年3月31日にハリウッド映画のテーマパークであるユニバーサル・スタジオ・ジャパン (運営母体についてはUSJを参照) 開業後は、そのアクセス路線としても賑わっているようだ。また、吹田~安治川口間には貨物列車が運行されている。
西成線列車脱線火災事故の起った安治川口駅隣には慰霊碑が建立されている。
それにしても、以下参考に記載の鉄道事故 を見ていると、地震や台風などの天災のように鉄道事故 も忘れた頃にはに起るものなんだよね~。
その後の国鉄の重大事故の中でもこのガソリンカーの事故はそれらを上回るものであった。ただ、この時の事故車両に乗車していた車掌は、横転により片側からしか脱出できなくなっていた窓から脱出しようとする乗客を可能な限り助けていたため、下半身に大火傷を負い、収容先の病院で死亡したという。そんな、国鉄職員が当時にはまだいたのだということが何かほっとさせてくれる。
3年前の2005(平成17)年4月25日、同じ西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線(JR宝塚線)塚口~尼崎駅間で発生した「JR福知山線脱線事故」では、事故現場の近くに住んでいる人たちが乗客の救出のため必死の努力をしているにもかかわらず、肝心の、電車に乗り合わせていたJRの2人の運転士が乗客の救助もしなかった。又、事故が起きた約3時間後、JR西日本大阪支社天王寺車掌区の区長ら職員43人が懇親目的のボウリング大会を楽しんでいた(事故があったことを知っていた者も数名いながら)といった報道を聞いたときには、それが、任務だからか?、上司の命令によるものか?どうかは知らないが、JRが国営から民営になっても変らぬ体質、国鉄時代からの職員も親方日の丸体質が変らぬものなのか・・・私達には信じられないことばかり。こんなことをおかしいと思うほうがおかしいのか?。星新一のショートショートじゃないけれど、気違いにいるとまともな人間がそこの人から見ると気違いに見えるということなのだろうか?。これから先、余命の少ない私達は、そんなややこしい時代ではない、良き時代に育ってきたことを仏に感謝することにしよう。
(画像は、事故車両の同形車〔キハ42000形の後身のキハ07系〕フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
鉄道省 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E7%9C%81
鉄道事故 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E4%BA%8B%E6%95%85
JR福知山線脱線事故 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/JR%E7%A6%8F%E7%9F%A5%E5%B1%B1%E7%B7%9A%E8%84%B1%E7%B7%9A%E4%BA%8B%E6%95%85
asahi.com:朝日新聞 尼崎・列車脱線事故特集
http://www2.asahi.com/special/050425/
星新一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E6%96%B0%E4%B8%80

関西汽船・女王丸が瀬戸内海で機雷に触れ沈没

2008-01-28 | 歴史
1948(昭和23)年1月28日、 阪神~多度津(香川県)間を航行する関西汽船の女王丸(401トン、長さ48.9メートル乗客定員306人)が瀬戸内海牛窓沖で機雷に触れ沈没。死者・行方不明188人を出した。(朝日クロニクル「週間20世紀」)。
瀬戸内海は、本州、四国、九州に挟まれた内海で、沿岸地域を含めて瀬戸内(せとうち)とも呼ばれているが、古来から、畿内と九州を結ぶ航路として栄えたところである。東西に450km、南北に15 - 55km、平均水深:37.3m、最大水深:105mの内海は複数の島嶼(とうしょ。〔「嶼」は小さい島の意〕)群で構成され、医師であり博物学者であったシーボルトを初めとして数多くの欧米人から高く評価された景勝地であり、19世紀後半の1860(安政6)年、日本では明治維新直後に瀬戸内海を訪れたシルクロードの命名者でもあるドイツ人の地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen,1833年 - 1905年)の旅行記により「広い区域に亙る優美な景色で、これ以上のものは世界の何処にもないであらう。将来この地方は、世界で最も魅力のある場所のひとつとして高い評価をかち得、沢山の人を引き寄せるであらう。」と世界中に紹介されているといい、当時よりは、環境も変化しているが、今もなお風光明媚な風景として絶賛される地域である。特に牛窓は「日本のエーゲ海」と称される多島美の景観地である。
1934(昭和 9)年3月16日、日本初の国立公園として瀬戸内海国立公園が指定されている。
関西汽船株式会社は、大阪市港区弁天6丁目に本社を置商船三井(住友系の旧・大阪商船)系列会社の海運会社で、瀬戸内海においてフェリー航路の運航を行なっている。1942(昭和17)年に、大阪商船(後に三井船舶と合併し大阪商船三井船舶→現・商船三井)内航部を分離独立し設立された。
1945(昭和20)年8月15日に ポツダム宣言を受諾し終戦を迎えた。第二次世界大戦の敗戦からすでに2年5 ヵ月以上が経過して占領下で少しずつ戦後復興の歩みを始めた1948(昭和23)年の今日・2月28日に、関西汽船、阪神-多度津航路女王丸が大阪、神戸から岡山、小豆島、四国方面への乗客を乗せて渡航中に岡山県牛窓沖合で機雷に触れ沈没するという海難事故(女王丸事件)が発生したのである。
機雷とは機械水雷の略で、水中に敷設され、艦船が接近又は接触したとき、自動または遠隔操作により作動する水中兵器をいう。第一次世界大戦・第二次世界大戦でも機雷は大量に使用された。第二次世界大戦末期、米軍は、対日戦において機雷を戦略目的に使用(飢餓作戦・1945年3月27日~8月14日、延1,200機のB29が作戦)し、日本近海の海上交通遮断をめざして航空機(B29)等から大量の機雷を投下した。米軍の狙いどおり、港湾や海峡で船舶の被害が増大し日本の物流は麻痺状態となった。日本軍は機雷作戦による積極的戦果を求めず、港湾防御以外に敷設した例はそれほど多くない。(機雷戦参照)。※飢餓作戦についてより詳しいことは、以下参考に記載の「米軍関門海峡+主要港湾機雷封鎖作戦 日本飢餓作戦の実態」を見られるとよい。
ポツダム宣言受諾後,降伏条項の第1項としてSCAP(連合国軍最高司令官総司令部 。日本では「GHQ」という通称が用いられるが、連合軍最高司令官が正式。 SCAP : SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWER)指令が交付される。日本政府は一連の指令によって「すべての機雷と機雷原および航行の障害物を除去すること」をはじめ、船舶航行の安全確保にかかわるさまざまな義務を負うことになった。以下の一般命令第1号参照。
一般命令第1号(1945年9月2日)
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/GHQFILM/DOCUMENTS/surrender.html#order
機雷除去(掃海)作業は東京湾、呉、佐世保、長崎、神戸などの重要港から順次すすめられ、1948(昭和23)年末には主要港について安全宣言が公示されたが、多くの海域は依然として危険なままであった。関西汽船「女王丸」は、そういう時代の中で起った海難事故である。機雷除去(掃海)作業のことについては以下を参照されるとよい。
海上自衛隊掃海隊群/航路啓開業務について
http://www.mod.go.jp/msdf/mf/special1.htm
戦後、朝鮮戦争が勃発した。この朝鮮戦争は、第二次世界大戦終結後アメリカを中心とした連合国の占領下にあった日本の政治・経済・防衛にも大きな影響を与えた。政治的、防衛的には北朝鮮を支援した共産主義国に対抗するため、日本の戦犯追及が緩やかになったり、日本を独立させるためのサンフランシスコ平和条約締結が急がれ、1951(昭和26)年9月8日に日米安保条約と共に締結された。さらに警察予備隊(のちの自衛隊)が創設されたことで事実上軍隊が復活した。経済的には、国連軍の中心を担っていたアメリカ軍が武器の修理や弾薬の補給・製造を日本に依頼したことから、工業生産が急速に伸び好景気となり、戦後の経済的復興に弾みがついた(詳細は朝鮮特需を参照の事)。 
又、この朝鮮戦争には、GHQの指示により、日本の海上保安庁掃海部隊からなる特別掃海隊も派遣され、死傷者を出しながら国連軍の作戦遂行に貢献した。(何故、戦争を放棄した日本が朝鮮戦争に掃海部隊を派遣したのかは、派遣の経緯参照されるとよい。
朝鮮水域は戦闘地域であり、戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、大東亜戦争後の我国の初めての参戦ともいえるものになっている。この戦争での戦死者の遺族は靖国神社への合祀を求めているそうだ。
日本は、アメリカに勝てないとわかっている戦争をいきなり仕掛け、そして、負けたのに、アメリカさんは、その戦争責任の追及も曖昧に、敗戦国日本のために親切に、自由や平等などを教えてくれ、平和憲法まで与えてくれた。そんな結構な憲法の改憲はダメッタラダメと後生大事にしながら、法解釈をいい加減に、親切なアメリカさんの忠実なポチとして、言われるままに何でもハイハイとしてきた。一体、何時までそんなことを続けているんだろうね~・・・(×_×)。
(画像は、1948年牛総沖で沈没した現場付近を捜索中の船。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)
参考:
関西汽船 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%A5%BF%E6%B1%BD%E8%88%B9
関西汽船株式会社
http://www.kanki.co.jp/
デジタルミュージアム インターネット博物館・戦 時 下 に 喪 わ れ た日 本 の 商 船
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/
日本の島々: 瀬戸内海のこと
http://islands.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_d4cc.html
瀬戸内海は、シーボルトによって発見された???
http://www.mmjp.or.jp/askanet/rediscoverofhistory_setonaikai.htm
海難事故 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E6%95%85
ポツダム宣言 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80
帝国議会に対する終戦経緯報告書(外務省)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/WA10.HTM
国立国会図書館・GHQ/SCAP Records, Civil Affairs Section
http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/senryo/CAS.html
映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る-
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/GHQFILM/DOCUMENTS/index.html
米軍関門海峡+主要港湾機雷封鎖作戦 日本飢餓作戦の実態
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/us-strategy/kiga.htm
海上自衛隊掃海隊群
http://www.mod.go.jp/msdf/mf/index.htm
日本、極秘裏に参加   朝鮮戦争ぼっ発50年
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/anpo/t000620.html

国旗制定記念日

2008-01-27 | 記念日
今日(1月27日)は「国旗制定記念日 」
日本記念日協会の「今日の記念日」を見ると、”1870(明治3)年の今日、太政官布告の商船規則により、日の丸のデザインと規格が示されたことに由来するもの。”・・・とあった。 ※明治3年1月27日(旧暦)=グレゴリオ暦(西暦1870年2月27日)
しかし、どこが制定したのかは、記載されていない。
当時の海事に関する法規「商船規則」その他の布告の発布等については以下を参考に記載の「日本財団図書館(電子図書館) 船舶法及び関係法令の解説」を参照されるとよい。
1854(嘉永6)年に、幕府触書にて大船製造に際して船旗章(ふなじるし)を「日之丸」とした(※1)。明治になって広く各国と交際するようになり、明治新政府は太政官布告第57号(「郵船商船規則」=後年単に「商船規則」と呼ぶようになる)に於いて「日本国船に掲げる国旗は白地に日の丸」と定めた(※2参照)。
太政官布は明治初期において太政官によって公布された法令の形式である。商船規則は、わが国最初の船舶法である。
1885(明治18)年12月22日、内閣制が発足したことに伴い、太政官制は廃止された。そして、翌1886(明治19)年2月26日には、法令の効力や形式を定式化するため、公文式(明治19年勅令第1号)が制定され、太政官布告・太政官達という法形式は廃止された(内容は以下参考に記載の「中野文庫 - 公文式」参照)。しかし、1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法(明治憲法)には、内容が違憲でない限り有効なものとして扱う旨の明文の規定があった(76条1項。以下参考に記載の「憲法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生」参照)。従って、太政官布告・達が対象が明治憲法下で法律事項とされる場合(天皇に立法権があるが、帝国議会の協賛を必要とする)には法律としての効力を有し、命令事項である場合は命令としての効力を有するものとされた。
日本の法律には、文章で書かれた「成文法」と、文章には書かれないが、ある事実が慣習として定着したものを法として認める「慣習法」とがある。つまり、大日本帝国憲法が発布されるまでは、議会がなかったので、世の中のきまりは、法律の代りに、太政官布告や慣習によって行われてきたのであり、帝国憲法が発布されてから9年後に、法例という名の法律(明治31年法律第10号)ができ、この第2条により日の丸は慣習法上の国旗となった(以下参考に記載の「中野文庫 - 法例」参照)。だから船舶法は、その翌年の明治32年に日の丸が慣習法上の国旗であることを前提として、日本の船舶に国旗を掲げることを義務づけているが、船舶法は国旗掲揚を義務づけているだけであり、太政官布告57号は国旗の寸法等を定めているだけである。
日本の国旗が、一般的に日の丸の旗と呼ばれるが、正式には日章旗と呼ぶ。当時の規格は現行とは若干異なり、縦横比は7対10、日章(日の丸)は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置とされていたが、現在は、1999(平成11)年8月13日に公布・施行された国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)により、縦横の比率は2:3、日の丸の直径は縦の長さの5分の3、日の丸は旗の中心の位置となっている。
1999(平成11)年8月13日に公布・施行された「国旗及び国歌に関する法律」では、国旗と共に、国歌は、君が代とすることが定められた。
国歌とは、その国を象徴する歌のことであるが、君が代は、同法で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代に林廣守が作曲したものであり、1893(明治26)年、文部省告示「小学校祝祭日大祭儀式規定」が公布され、小学校の祝日・大祭日の唱歌に『君が代』『一月一日』『紀元節』等8曲が定められた(※3)。この「君が代」のことは、前に書いたブログ8月12日は「君が代記念日」でも書いたので、そちらで見てください。そこでも書いたように、この君が代の歌を国歌とすることと国旗の掲揚については、賛否両論があり、これに対して、私は、余り意見を述べることは好まない。ただ、「日の丸」は、元首の訪問などの国際間の儀礼、国連などの国際的会議、オリンピツクなどの国際的行事の場で、日本の国旗として世界中の国々から認められており、且つ、1870(明治3)年以降長きにわたり国際慣習法上日本の国旗と認められていることは確かなことなのである。それを、あえて、「国旗及び国歌に関する法律」として定めたのには理由があり、そのことは、以下を読まれるとよいだろう。
国旗・国歌のページ
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/hinomaru.htm
最後に、社団法人国旗協会と言うものがあるのは知っているかな?この協会の主な目的は、”国民の理想を表わし、国を象徴する国旗の正しい理解と普及に努め、健全な国民の育成に資すると共に、世界の人々との間に相互理解の精神をつちかい、明るい日本と平和な世界の建設に寄与することを目的とする”こと。そして、主な事業は”① 国旗掲揚活動の推進 ②国旗知識の普及及び啓蒙活動の推進 ”となっており、この協会が設立されたのはそんなに古いものではなく、1966(昭和41)年6月28日 であること。そして、内閣府大臣官房管理室の管轄にあるのだが、同内閣府本府等所管公益法人一覧の中では数少ない専用のHPを持たない法人であるということを付け加えておこう。毎年1月2日、皇居では新年の一般参賀が行われるが、その模様を見るとほとんどの人が日の丸の小旗を一生懸命振っているが、このような小旗なども、この協会や協力団体・ボランティアの人達が小旗を配っているようだね。多分、今日の記念日の記念日協会への登録はこの協会がしているのだろうと推測は出来るよね。
※1~は以下参考に記載の「日の丸・君が代関連年表:戦後篇」によるもの)
(画像は日章旗「日之丸」)
事典国旗 こっき
http://www.tabiken.com/history/doc/G/G250L100.HTM
国旗及び国歌に関する法律 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%97%97%E5%9B%BD%E6%AD%8C%E6%B3%95
「国旗・国歌」について ‐ 内閣府
http://www8.cao.go.jp/chosei/kokkikokka/kokkikokka.html
学校における国旗及び国歌に関する指導について (通知)/ 文部省初等中等教育局
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/11/09/990906.htm
「国旗・国歌」反対強制一問一答集
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/20000110.html
【朝日新聞 社説】国旗・国歌 「強制は違憲」の重み 清谷防衛経済研究
http://kiyotani.at.webry.info/200609/article_21.html
世界の国旗・国歌と観光名所の世界60秒ツアー
http://hukumusume.com/366/world/
8月12日)は「君が代記念日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/dc8c382bf497cb5a313c3a1488c27433
世界の国旗図鑑
http://www.sarago.co.jp/nfgrp/index.html
国旗・国歌のページ
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/hinomaru.htm
(財)日本オリンピック委員会
http://www.joc.or.jp/index.asp
内閣府本府等所管公益法人一覧(法人の概要)/内閣府ホームページ
http://www8.cao.go.jp/koueki-co/kanri04.html
国旗,国歌の由来等参照
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/11/09/990906j.htm
諸外国における国旗,国歌の取扱い
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/11/09/990906i.htm
日本財団図書館(電子図書館) 船舶法及び関係法令の解説
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1997/01275/contents/003.htm
商船規則の二重廃止/網際情報館
http://www2s.biglobe.ne.jp/~law/law/zatsu/shousen.htm
日本記念日協会・今日の記念日(1月27日)
http://www.kinenbi.gr.jp/
日の丸・君が代関連年表
http://www1.jca.apc.org/anti-hinokimi/archive/chronology/index.html
中野文庫 - 公文式
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm19-1.htm
中野文庫 - 法例
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hm31-10.htm
憲法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生(国立国会図書館)
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html