今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

京都市電全線廃止の日

2005-09-30 | 歴史
今日(9月30日)は「京都市電全線廃止の日」
1978年9月30日 京都市電がこの日限りで全線廃止 。
1903(明治36)年8月22日は、東京電車鉄道の路面電車が新橋~品川で営業を開始し、東京で初めて路面電車(チンチン電車)が走った日であり、この日が「チンチン電車の日」とされているが、実際に、日本で初めて路面電車が走ったのは1890(明治23)年5月4日に、上野公園で開催されていた内国勧業博覧会の会場内であった。
しかし、実際には、古都、京都が日本の路面電車の発祥の地である。日本で最初に電車を開通させたのは、1895(明治28)年2月1日現在の京都駅近くで、東海道線の東洞院踏切から伏見の京橋までである。この鉄道を敷設したのは京都電気鉄道という私鉄である。この鉄道が敷かれたのは岡崎で開かれた第4回内国勧業博覧会の見物人を京都駅から運ぶのが目的であり、こちらも同年4月1日に開通している。大正7年6月30日この京都電気鉄道を京都市が買収し、受け継ぎ、京都市電として長い間、京都の「チンチン電車」と呼ばれて親しまれ、市民の足となってきたが、他の大都市と同様に1978(昭和53)年9月30日にて全線廃止された。私なども、仕事や観光で京都へよく行ったが、碁盤の目のような京都の市街地を走る市電は、土地勘のないものでも、走っているところが良くわかって安心して乗れた。京都は市電の最もよく似合う町であったような気がするが・・・、今でも、残っていればよかったのにと思う。
「チンチン電車の日」のことは、私のブログで、取り上げたので、興味のある方は、ここでご覧ください。
(画像はマイコレクション「ちんちん電車の絵葉書」より、北野線「北から二条城前電停を望む」の景。昭和35~6年頃に撮影のもの。)
参考:
京都市交通局のあゆみ ~年表~
http://www.city.kyoto.jp/kotsu/history/t_hist.htm
京都市電の配線跡を探る
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/9689/



招き猫の日

2005-09-29 | 記念日
今日(9月29日)は「招き猫の日」。
日本招き猫協会が制定。「くる(9)ふ(2)く(9)」(来る福)の語呂合せとか・・。この日を中心に、伊勢の「おかげ横丁」の招き猫まつり等、全国各地で記念行事が開催される。
よく商店の片隅やカウンター上で、片手を高く掲げてお客さんを呼び寄せる姿をした「招き猫」。日本ではお馴染みの「招き猫」は何処でも見かけるものだが、非常にたくさんの種類があって、「招き猫」の愛好家も多い。ところで、この招き猫の種類ってどのくらいあるのだろう。一寸調べてみると、・白の招き猫は福を招く、黒の招き猫は災いを防ぐ、赤の招き猫は病を防ぐ、黄金の招き猫は運を開く。左手上げの招き猫は人を招く、右手上げの招き猫は金運を招くと、いった具合である。
しかし、もともと、猫が「福を呼ぶ物」として愛されているのは世界的に見ても珍しいようで、日本以外では古代エジプトやタイ位しかないのだそうだ。
むしろ、ヨーロッパでは悪魔の使者として忌み嫌われる時代すらあったらしい。でも、最近、その愛らしい姿は、海外でも人気があり、日本のお土産として買って帰る人も多くなったそうである。今は、ペットブームで、中でも、猫は、犬と共に最も愛されている動物であるが、犬と比べ、日本における、飼い猫の歴史は、以外に短いのである。
日本に、今の飼い猫が輸入されたのは,仏教の伝来とともに船に乗せられたネズミ対策のための猫が最初と言われている。 それは6世紀くらいのことで,文献では,705 年の『日本霊異記』に猫の記述があり,また『宇多天皇御記』に889 年に天皇の飼っている黒猫の記述がある。 その後,平安時代の『源氏物語』や『枕草紙』(1000年頃)にも猫の記述があるが,この時代はまだ綱をつけて飼い,上流階級や一部の人が飼っていたが、一般的ではなかったようである。一般人が猫を飼い始めたのは、戦国時代から江戸時代に入ってだろうと思う。
江戸時代初期の御伽草子で動物を主人公にした「猫のそうし」があるが、この物語は史実との関係で興味深いものである。
この物語の出発点は、1602(慶長7)年8月中旬の法令(禁制)にふれている。引用すると、「慶長七年八月中旬に、洛中に猫の綱を解きて放ち給うべき御沙汰あり、ひとしくお奉行より、一条の辻に高札を立て有り、其の面にいわく、
一、洛中猫の綱を解き、放し飼いにすべき事。
一、同猫売買停止の事
この旨相背くにおいては、かたく罪科に処せられるべきものなり、よってくだんの如し」・・・とある。
猫を放し飼いにすると猫を捕まえて売買する手合いが現れるので、猫の売買を禁じているのが面白い。これ、本当かな?と思うかもしれないが、この立法は史実なのである。
 この史実に見られるように、「猫をもって鼠を制する」為に、猫を放し飼いさせたもので、それまでは、猫を首綱に繋いで飼うのが普通であったことは、「石山寺縁起」の図を見ても判る。このように、中世の絵画を見ると猫は繋がれて飼われているが、その後の近世の猫たちは、繋がれていない。こうした飼い方の変化は、この慶長七年八月の猫の放し飼い法令から始まったのだよ。しかし、最近、猫の放し飼いによる、トラブルが相次いでいる。犬と違って、猫は、他人の敷地などどこにでも入り込み糞をしたりするので、ネズミ捕りの役目もなくなったいまや、昔と同様に、猫は放し飼いせず、家の中で育てるようにするのがよいのではないかな?。
参考:(紐につながれている猫。石山寺縁起より。石山寺蔵。週刊朝日百科「日本の歴史別冊」より借用)
招き猫の部屋 - さまざまなな招き猫コレクション、由来や歴史の紹介
http://www.linkclub.or.jp/~luckycat/index.htm
日本招猫倶楽部のページ
1993年に創立された全国的な招き猫の愛好家組織
http://www

パソコン記念日

2005-09-28 | 記念日
今日(9月28日)は「パソコン記念日」
1979(昭和54)年、日本電気(NEC)がパーソナルコンピュータ (personal computer]) PC-8000シリーズを発売し、パソコンブームの火附け役となった。
世界初のCPUが日本の電算機メーカーであるビジコン社との共同開発により誕生し、1971年にインテル社から発売された。
世界初のパソコンは、1975年に発売された MITS社の組立式マイコンキットAltair8800で、日本では翌1976年に発売されたNECのTK-80が日本初のパソコンであると言われているそうだ。パソコンは、その後、開発競争が進み、大型コンピューターの分野で不動の地位を築いていたIBMが、パソコン市場の急成長を見て、ついにパソコンを開発。このIBMパソコンのOSをマイクロソフト社に以来したのが、きっかけとなり、、マイクロソフト社がMS-DOSを開発。これがIBMパソコンに搭載された。この頃、日本のパソコンはNEC製パソコンが主流で、1979年、NECは8ビットCPUを搭載したパソコンPC-8000シリーズを発売し、 その後、PC-9801を初めとするPC-9800シリーズは、 1990年代前半まで日本のパソコン市場において独占的シェアを保ちつづけていた。この頃、海外のパソコンが日本の市場に参入できない最大の理由に、日本語処理の問題があった。この問題を解決し進出してきたのが、マイクロソフト社が開発したOSウィンドウズで、1983年に発表されたWindows1.0である。しかし、ウィンドウズが普及し始めたのは、Windows3.0以降で、ついに、1995年に発売されたWindows95が世界的な大ヒットとなり、世界は勿論、日本でも今やWindows搭載のパソコンが市場を制覇している。
思えば、私がコンピューターを知ったのは、1963(昭和38)年頃、東京に本社を置く、大手シームレスメーカーの工場である。当時、急成長をしている工場で見たのであるが、とてつもなく大きなコンピューターが、とてつもく広いスペースにビッシリと並んでいた。しかし、この工場が4~5年後には経営不振に陥るが、その理由が、在庫管理が出来なかったことによっている。一体、あのコンピューターは何に使っていたのか?と、言うと給与管理にしか使っていなかったのである。要するに使いこなせていなかったのである。このようなことは、その後の私の知っている大手流通業などでも長い間多く見られた。アメリカ式の合理的経営手法を取り入れた大手流通業は、大型のコンピューターを導入し、在庫管理や販売管理に使っており、毎月、毎日、凄い量の資料がアウトプットされ、如何にも進んだ経営をしているようであったが、全国の店舗などから送られてくる膨大な量のデーターを、一箇所の情報処理センターで処理することから、量的、時間的な問題で、そのデーターの信頼性は、いかにも頼りないもので、本当に欲しいデーターが、欲しい時に出力されないため、結局、現場では、勘に頼る原始的な管理をしなければならなかった。このようなことは、他の業界でも同じ様な状況ではなかっただろうか。これらの諸問題を、解決したのは、職場の卓上でも使える小型の端末が出来てからである。小型の端末が現れて、現場のデーターが現場で処理され、そのデーターをホストコンピューターに送ってデーターに置き換え、即、そのデーターが、現場に反映されるようになって、一気に、あらゆる分野の管理が進み、経営に生かされるようになった。そして、ついに、ウインドウズ搭載の小型パソコンが登場し、さらに、簡単に誰でもが扱え、詳細なデーターがスピーディーに処理されるようになった。私の勤めていた企業も先進的な企業であったので、ウインドウズが出たときには、各部署と主要なポストについている人のところには全て、パソコンを設置していた。従業員にも提携先メーカーのパソコンを安く斡旋し、家庭や出先でも使えるようにしていた。物好きな私もWindows3.0が出たときから、パソコンを購入し、仕事に使っていた。私の場合、そのときは、ワードやエクセルを使っての報告資料の作成が主であったが、今までの報告資料が単なる文書や数字の羅列であったものを、グラフなどを使用して、目でわかるようにした。特に、経営分析資料など、レーダーチャートにしたことで、問題点が一目でわかるようになり、今まで、統計に弱い人といわれた人でも問題点がわかるようになり好評であった。その後、デジカメが発売され、画像が使えるようになり、パソコンは、情報伝達の手段としての非常に有効な道具となった。今やパソコンなしの仕事も生活も考えられないくらいである。現役を退いても、ネットでいろいろtな人と交流が出来る。有難いことである。ただ、技術開発の進歩が早すぎ、パソコンの買い換えやメンテナンスが大変なのがユーザーの共通の悩みではなかろうか・・・。
(画像は、通販のパソコン。)
参考;
日本電気(NEC)
http://www.nec.co.jp/
パソコンの歴史
http://arigato.web.infoseek.co.jp/pcjisaku/column031123.html#h2_001

女性ドライバーの日

2005-09-27 | 記念日
今日(9月27日)は、「女性ドライバーの日」
1917(大正6)年9月27日、栃木県の渡辺はまさんが、日本の女性としては初めて自動車の運転免許を取得したという。
最近は、女性ドライバーが増えてきたよね~。それも、ただ単に運転するだけでなく、色んな社会分野への進出も目覚しい。
2002年の内務省の統計を基にまとめた調査によると、男性ドライバーの違反行為に関しては、、「無謀運転」「飲酒運転」、「スピード違反」といった、路上での危険な運転の多いことが挙げられている。一方、女性ドライバーが最も多く関与した違反行為には「交通妨害」や「迷惑駐車」などが挙げられている。自動車保険金の請求状況からみると、女性が追突事故を起こすのは、男性の2倍の確率で駐車は苦手らしい。
さらに過去10年間において、女性ドライバーの急増により、スピード違反や飲酒運転などの深刻な違反行為で逮捕される女性ドライバーも増えているらしい。それでも、2002年にスピードの出し過ぎによる事故で亡くなったドライバーの数は男性907人に比べ、女性は238人と比較的低い数字にとどまっていると報告されている。
私などの生活とも、身近な関係にあるタクシーなどでも、男性の乱暴な運転や横柄な態度に比べ、女性の丁寧な運転と愛想のある応対は、乗っていて気持ちが良い。商品の運搬や引越し荷物の運搬、宅配などの物流現場でも丁寧な荷扱いやきめ細かさ、商品に対する知識などが強みで、女性のトラックドライバーが活躍しており、これら女性ドライバーを求めている人が増えている。今、少子高齢化を背景に、将来の労働力不足が懸念される中、労働集約型産業の物流業界などにおける女性ドライバーの進出が大いに期待されるところである。
ただ、最近、国土交通省が、女性専用タクシーの実験運行を行う方針を打ち出したという。鉄道関係で女性専用車が好評なことからタクシーでも、という発想だろうが、不特定多数の乗客を運ぶ鉄道では、痴漢に遭ったり、酔っぱらいに絡まれたりという経験を持つ女性が後を絶たないことから、それ等への配慮から、女性専用車が導入されているのはそれなりの意義もあるのかは知らないが、個別輸送機関のタクシーで、そういう事態は起こり得ないはずであり、一寸、疑問を感じる。タクシーで接客のサービスや態度に問題のある男性乗務員が、相変わらず多いことから、鉄道駅構内乗り場などに、女性運転手のタクシーだけが駐車できるところがあると、安心して乗れていいだろうな~とは思うが・・・。そうなると、男性ドライバーから、逆差別だ・・とのクレームがあるかも・・・・。ただ、乱暴ではないけれども、反面、運転に対する身体的機能ではやはり、男性に劣るようであり、その点は、十分自覚し、注意をしてもらいたいものだ。
(画像は「ブライダル、神戸観光用ポート・キャブ」。写真は以下参考の近畿タクシーHPより借用)
参考:
女性ドライバー,高齢者ドライバーの増/昭和63年度、運輸白書より
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa63/ind000403/002.html
女性の運転を考える:MOTORSPORTS DOCTORのHP
http://www.motodoc.jp/free/f_mp3_lady/free_mp3.html
タクシーの歴史/日本に初めて自動車が入って13年後、早くもタクシーは誕生した。
http://www.taxi-tokyo.or.jp/TAKKUN/zukan/rekishi.html
近畿タクシーHP
http://www.threeweb.ad.jp/~taxikobe/

「八雲忌」小泉八雲の忌日

2005-09-26 | 人物
今日(9月26日)は「八雲忌」小泉八雲の1904(明治37)年の忌日です。
「怪談」や「知られぬ日本の面影」など、数々の名作を著した、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの出世地は去年、パラリンピックが開かれていたギリシャ・アテネの西の方のイオニア海に浮かぶ小島レフカダの「リュカデイア」と呼ばれる地で、それは「放浪」を意味するといわれているらしい。辛く苦しい前半生、20年に及ぶアメリカ大陸での放浪を経て1890(明治23)年米国の雑誌特派員として41歳で来日。日本文化に強くひかれ、島根県の松江中学に英語教師として赴任した。彼は、松江在住中に、身の回りを世話してくれた武家の娘小泉セツと結婚。松江に居を構えて日本の伝統文化の研究にとり組んだ。その旧居は平屋建瓦ぶきの日本家屋で、元々は松江藩士の武家屋敷として建てられたもの。隣接の「小泉八雲記念館」は、1984(昭和59)年に旧居との調和を配慮し、長屋門と塀とを配し、土蔵づくりをモチーフとした純和風様式に建て替えられている。記念館には八雲の使った文机などの遺品や、関係資料が多数展示されているらしい。 私も松江へ仕事で何度か行っており、その際、一度訪れたことがあるが、中には入っていない。
松江での生活、1年3ヶ月後には、熊本の第五高等学校へ転任し、3年間勤めた。当時の学長は、世界に柔道を普及させた人物として知られている嘉納治五郎である。その後、神戸で新聞記者として働いたこともあるらしい。
来日して以来、日本人よりも「日本」を愛し、日本の女性を妻とし、1896(明治29)年には日本に帰化して、名前も小泉八雲と改めた。この名前は「古事記」からとったものとか。後に、東京帝国大学で英文学講師となる。この間日本の自然と伝統に彩られた生活文化を欧米に精力的に紹介。此の世よりも夢の世を好み、「浦島太郎」を心から愛した人だという。1904(明治37)年9月26日夕、狭心症のため14年余りを過ごした異国の地で此の世を去った。八雲の墓は雑司が谷霊園(東京都豊島区)にある。この霊園には、有名人の墓も多く、東京帝国大学・英文学講師でハーンの後任になった夏目漱石他、永井荷風などの文人、竹久夢二、東郷青児などの画家、漫画家のサトウハチローも眠っている。
「ハーン」のことを、「ヘルン」と呼ばれることがあるが、これは、松江へ赴任した際、ハ-ン自身の発音が「ヘルン」に近かったらしく、当初松江の学校関係者は「ヘルン先生」と呼んでいたらしい。ハ-ン自身もこの読み方が気に入ったらしく、「ヘルン」と刻印の印鑑や蔵書印があるそうだ。
本の「怪談」は、日本の古典、民話から取材した短編集で、日本各地に伝わる恐い話、不思議な話の怪談傑作集である。「耳なし芳一の話」「ある鏡とつり鐘の話」「食人鬼」「ろくろ首」「雪おんな」「青柳物語」など十八編を収録している。
私は、この「怪談 」が、映画化(1965.年1月。文芸プロ=にんじんくらぶ )され、見に行ったのを思い出す。 原作の「怪談」 の中から、「黒髪」 「雪女」 「耳無し芳一の話」 「茶碗の中」 の4話をオムニバス形式で撮ったものだった。この映画は、カンヌ映画祭審査員特別賞を受賞している。この中で私の好きなのは、やはり、 「耳無し芳一の話」 だ~。たしか、中村賀津雄 が芳一を演じていたよ。ある阿弥陀寺に琵琶法師として有名な芳一という盲人が住んでいた。この琵琶を聞きたいと現れたた平家の怨霊に誘われるがまゝついてゆくと、そこには居ならぶ武士等が威儀を正して待って居り、正面の御廉の中から「壇之浦の合戦を弾奏せよ」との事で、琵琶を奏でると、厳然としてゐた武士たちは涙を流し、婦人等は嗚咽の声を出して泣いてゐる。この後、毎夜、芳一が琵琶を抱えては出てゆくのを不審に思った和尚が後をつけてみると、真暗やみの中で平家一門の墓を前に、琵琶を奏でている芳一がいた。平家の怨霊から芳一を守るため僧侶は、芳一の身体中に般若心経を書いたが、両耳だけ経文が書かれていなかったため、怨霊がその耳を引きちぎって立ち去ったというのが物語のあらすじ。
本・「怪談」の巻頭に収められているこの「耳なし芳一」の物語は、江戸時代には、既に語りつがれていた物語で、一夕散人著「臥遊奇談」という1782(天明2)年に出版された木版本の話を、妻のセツが八雲に語って聞かせ、それをもとに書かれたものだそうだ。因みに原典では「耳きれ芳一」、民話の世界では「耳きり団一」として伝えられているものだそうだよ。
ハーンは幼い頃、左目を失明し、残る右目も極度の近視であったらしい。セツから「耳なし芳一」の話を聞かされたときは、目の見えない主人公に強く感動して、執筆しながら芳一になりきっていたとか・・・。
(画像は、小泉八雲旧居。写真は以下参考の小泉八雲記念館より借用)
参考:
富山大学附属図書館ヘルン文庫
http://www3.toyama-u.ac.jp/lib/hearnlib.html
根岸泰子のページ・耳なし芳一のはなし」とその原典・『臥遊奇談』現代語訳
http://www.gifu-u.ac.jp/~kameoka/Gayu_mJ.html
ラフカディオ・ハーン:日本の庭-『知られざる日本の面影』より-
http://www.gifu-u.ac.jp/~kameoka/Hearn.html
小泉八雲記念館
http://www.san-in-tabi.net/kankou/map2/matue/koizumi.htm