今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

北朝鮮が東部沿岸からテポドンを発射した日

2007-08-31 | 歴史
今日(8月31日)は、北朝鮮が東部沿岸からテポドンを発射した日。
1998(平成10)年の今日(8月31日)、 北朝鮮が東部沿岸から弾道ミサイルテポドン」を発射。
第1弾は、日本海に、第2段は日本上空を越えて三陸沖(三陸海岸参照)の太平洋に落下した。
北朝鮮が、新たに開発していた全重量約33t〔トン〕)、全長25.8mの2段式液体ロケットである「テポドン1号」の試射とみられ、日本全土が射程距離に入ることから、日本政府(小渕内閣)やマスコミ・世論はこの時敏感に反応し、北朝鮮が新型の弾道ミサイルの発射実験を行ったとして、1993(平成5)年5月のノドン発射(北朝鮮によるミサイル発射実験 〔1993年〕参照)の際には表に現れなかった北朝鮮に対する極度の反発が起こった。
弾道ミサイルの発射実験である証拠を得るため海上自衛隊護衛艦などを駆使して落下した物体を捜索したが、遂に発見できなかった。同国はこれを人工衛星の打上げで、打上げは成功したと発表したが、衛星の電波は全く観測されていない。また、地球軌道(人工衛星の軌道参照)上の人工物体を監視しているアメリカの北アメリカ航空宇宙防衛司令部 (NORAD) もそのような人工衛星は確認できないとした。
日本政府は、これを弾道ミサイルテポドンと判断し「極めて強い遺憾の意」を北朝鮮政府に伝えるとともに、KEDOへの資金拠出を凍結した。(北朝鮮によるミサイル発射実験 〔1998年〕参照)。
この打ち上げ事件を契機として、日本独自に衛星による偵察を行う能力を保持すべきとの動きが与・野党で一致。同年11月には、情報収集衛星(偵察衛星)の開発・打上げ計画が決定した。
過去に遡ると、1993(平成5)年5月29日の準中距離弾道ミサイル「ノドン1」発射から約2週間後の6月11日、米朝共同声明(以下参考に記載の「データベース『世界と日本』文書名:米朝共同声明1993年6月11日参照)が発表され、北朝鮮は今後も核拡散防止条約を遵守する意志を示した。また、翌年の1994年10月21日、米朝枠組み合意(以下参考に記載の「米国と朝鮮民主主義人民共和国間の合意枠組み1994年10月21日」参照)により北朝鮮への軽水炉提供が行われることになった。このことにより、本ミサイル発射実験に関しては、北朝鮮は「瀬戸際外交」を成功させたといえる。だが、昨・2006(平成18)年のミサイル発射においては、このような見返りを再び得るどころか逆に制裁を受けることになる。
2006 年6月、北朝鮮が「テポドン2号」の開発を完了させ咸鏡北道花坮郡舞水端里((ムスダンリ)にある発射台への装填など発射準備をしているようだとの動きは、日米の偵察衛星(日本の場合は情報収集衛星)などにより掴んでいた(同年5月~6月、にかけて発射間近であるとの報道もされていた)。この情報に基づき太平洋へイージス艦を派遣するなど、米韓と協力しながら情報収集に努めていた。
そのやさき、同年7月5日、北朝鮮から7発のミサイルが日本海に向けて発射され、すべて数分後に日本海に着水した。そのうち1発が舞水端里から発射されたテポドン2号(射程3500~6000キロ)である可能性が強いとしている。
北朝鮮側もミサイルの発射を認めており、その後、政府は、ミサイル発射の凍結を定めた日朝平壌宣言に違反する重大な問題だとして北朝鮮に抗議するとともに、制裁措置として北朝鮮の貨客船万景峰(マンギョンボン)号の入港を半年間禁止することを決めるなど制裁処置を講じることになったことは、誰もが知っているとおりである。(詳細は北朝鮮によるミサイル発射実験 (2006年)を参照)。
その後、主として北朝鮮の核開発問題などに関してアメリカ、韓国、北朝鮮、中国、日本、ロシアの6カ国協議が続けられてきたが、北朝鮮の瀬戸際外交をめぐる関係国の思惑には、少なからぬ相違があり、早期決着の見通しはたたない状況であったが、急遽、日本などはそっちのけで、米朝間中心の話し合いで、核問題解決の方向に進んでいるように見えるのだが・・・。最終的にどんな決着となるのかな~~?以下参照。
北京で米朝会談 非核化作業部会の事前調整2007年8月13日(月)
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/world/e20070813012.html
(画像は、弾道ミサイル。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
テポドン1号
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%9D%E3%83%89%E3%83%B31%E5%8F%B7
原子力百科事典 ATOMICA
http://atomica.nucpal.gr.jp/atomica/14040122_1.html
北朝鮮核問題略年表
http://www.gensuikin.org/nw/nk_chrono.htm
米国と朝鮮民主主義人民共和国間の合意枠組み1994年10月21日
http://www.gensuikin.org/e_asia/us-dprk_frmwk.htm
社団法人 原子燃料政策研究会
http://www.cnfc.or.jp/j/proposal/asia96/saito.html
Aerospace
http://www004.upp.so-net.ne.jp/weapon/aerospace.htm
データベース『世界と日本』文書名:米朝共同声明1993年6月11日
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19930611.D1J.html
日朝平壌宣言
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%9D%E5%B9%B3%E5%A3%8C%E5%AE%A3%E8%A8%80
六者会合 - Wikipedia
http://www.jaip.org/2003spring/03.htm
北朝鮮、ミサイル6発を発射…テポドン2号は失敗か : 北朝鮮の核問題(YOMIURI ONLIN)
http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4100/news/20060705it04.htm

宿題チェックウィーク

2007-08-30 | 記念日
8月30日「宿題チェックウィーク」
夏休み最後の一週間は、「宿題チェックウィーク」だそうだ。日本の小学校・中学校・高等学校の夏休み期間は全国一律ではなく、その土地の気候や風土により期間の長短があるだろうが、一般的には、夏休みの期間は7月20日頃~8月31日頃までだろう。大学の場合は、カリキュラムや前期試験・中間試験の時期により異なるが、概ね7月下旬または8月上旬頃~9月下旬までであり、一般的に小学校・中学校・高等学校のそれよりも長めに設定されている。
そんな楽しい夏休みに子供たちにも1つだけ厭なことがある。それが宿題ではないだろうか?。
宿題(しゅくだい、英:homework)は広く一般に、学校等で教師が児童・生徒・学生(学習者)に課す自己学習の課題全般を宿題と呼んでいるようだが、宿題を出す意図や理由は様々で、教師によっても違うが、多くは授業の理解度の確認や学習者の意識調査の為であるようだ。
一般に、宿題の課し方は、初等教育から中等教育の時期にあっては、プリントやワークシート、問題集など、与えられた学習課題に取り組み解答するもの、あるいは作文や新聞作りなど、自己の意見・考えをまとめるものなどが多い。やがて、中等教育から高等教育へと進むにつれて、与えられた課題や自らが学習・研究した内容などをまとめ、小論文の形式にしたレポート課題へと発展する。
宿題の多くは提出期限があり、その期限内に指定された内容を学習して提出することが求められる。内容が不十分であれば再提出を求められることもあるし、期限内に提出できなければ、成績から減点されることもあるようだ。8月も後残すところ1日となった。そんな宿題の出来ていない子が、今、必死に宿題にニ励んでいることだろう。
先日のお盆に近所のお寺にお参りに行ったが、そこでも、お母さんに宿題を何もしていないとおこごといわれている子供たちを見た。私自身、子供時代を振り返ってみると、休みの間は、近所の子供たちと毎日毎日海や山へ出かけたり、夜遅くまで野球などして真っ黒になって遊んでいた。誰も同じで、親に手伝ってもらったりしながら宿題の工作をしたり、休み中の日記をまとめて書いたりしていたものね。よくは知らないが、アメリカの学校の場合は基本的には宿題はないときいてはいるのだがどうなのかな?。
いずれにしても、学校が始まるまで後、何日もないぞ・・・。今日、あたりからはお父さんお母さんも大変なのじゃ~まおかな?・・・(^0^)。
このごろは、企業でも大企業ではお盆に合わせ8月15日前後の1週間ほどを夏期休暇に取る所が多いが、中小企業ではなかなか難しいところも多いだろう。工場などは、機械を止めればよいが、そうも行かないサービス業などは交代制で休んでいるね~。
学校等での宿題の期限遅れや未提出に対する処置は、会社等において「与えられた仕事を期限までに実施する」ことの厳しさに比べれば一般に緩やかであろうが、「提出期限を守ること」の厳しさは学校の宿題を通して身につけるものと考える人も多いようだ。期限が決められている大きな仕事や、期限こそ決められていないものの今後取り組むべき重要な課題などを転じて「宿題」と呼ぶのは、この辺りに由来する。
そのような、学校などからどちらかというと強制された義務的な「課題」などである「宿題」に対して、人には、それぞれ、そのような義務的なものではなく、もっと、自分自身のために自ら取り組むべき「課題」、つまり、解決しなければならない宿題・・といったものもあるだろう。
小学校や中学校、高校生などにしても、自分の不得手と知る学科などを修得する、身体能力が少し劣っていると思えば何とか、休みを活かしてそれを強化する・・といったように、遊ぶことも大切であるが、夏休みのような折角の長い休暇日をどのように活かしたか・・その活かし方が、その子の将来に、相当影響を与えてゆくだろうね~。
企業などでも、近年、夏季休暇を、昔のような盆の里帰りのためだけでなく、海外への長期旅行のためにまとめて取得する人も多いようである。休みをどのように使うか・・・それも、その人にとっては人生の課題の1つと言えるかも知れない。子供の夏休みと同じで、遊んでリフレッシュするも良し、日頃なかなか出来ない親孝行をするも良し、そして、何かのテーマーに取り組んでやってみるのも良い。なにをするのもその人次第である。
人が生きていくには、それぞれが、それぞれに、違った課題を持っていることだろう。一体、それがなになのかは、人によって違うだろうから、これだといえるものはないだろう。
少し、今日のテーマーである宿題から話がそれるが、神戸や新潟でとんでもない大きな地震による災害があった。世の中には、このような何か不幸な出来事に遭遇したり、大惨事や災害で犠牲者が出たりすると、必ずと言っていいくらい、「神や仏がいるなら、どうしてこんなことが起こるのか!」と言う人がいる。
こんな、不幸なことが起こった時、人は、何故か「」や「」を持ち出すが、平和で平穏な日々を送っているときには、神や仏のことなどを殆ど気にもかけず、感謝をすることもない。
私たちは、子供の頃から、食事の前には、たとえ家族との食事のときであっても、当たり前のように手を合わせて「いただきます」と言ってから、食事を戴いた。それは「命をいただく」ことへの感謝の意味であり、「食べるということを通して動物や植物のたくさんの命を、自分の中に受け継がせてもらいます」という気持ちの現われだったのである。ヒトは「食べる」ことがなければ生きてはゆけない。生きてゆくためにヒトはヒト以外の動物や植物などのたくさんの命を自分の中に受け継いで生かされているのである。そのことへの感謝の気持ちが「いただきます」の言葉である。今、人間は、有り余るほどの食べ物を、簡単に手に入れられるようになって、「いただきます」の言葉の意味を軽んじているというか忘れている。その結果、「食べ物」という「命」を軽く見るようにもなり、それが、自分や他人の「命」の重さをも軽く見るようになってきた。それが、今の日本の現状・人の命を軽視することにつながっているといえるかも知れない。
「人間の運命よ。お前はなんと風に似ていることか。」 「人間は行きたいほうへ行くがよい。人間はしたいことをするがよい。しかし人間は、自然がえがいている道へ、必ずまた戻ってくるに違いない」ゲーテ
「平らな道でもつまずくことがある。人間の運命もそうしたものだ。神以外に誰も真実を知るものはないのだから。」チェーホフ
格言にもあるように、人には「宿命」というものがある。前世から定まっており、人間の力では避けることも変えることもできない「宿運」である。
十分に四諦の道理を知らない凡夫 (ぼんぶ)が、人を生かすことについての神や仏の意志がどこにあるか?・・・などわかる由もない。ただ、人生において、なにをなさねばならないかは、私たちが生涯の間いつも学ばなければならない宿題であるともいえる。
釈迦初転法輪において、まず迷いの現実が苦であることと、その苦は克服しうるものであることを明らかにした。しかも、苦は単に苦として外にあるのでなく、我々がそれをどう受け取るのかで変わってくることを説いて、「煩悩」こそがすべてを苦と受け取らせる原因であることを明らかにした。したがって、この煩悩を正しく処理すれば、苦に悩まされない境地をうる。その道こそ、いっさいの自己愛を捨て、他に同化することにあるので、その根本は自己の本姿に徹することである。つまり、本来、執着すべきでない自己に執着することこそ、苦の原因である。
少年犯罪の多発や、学びも働きもしない「ニート」の増加といった世相に心を痛める京セラ創業者・名誉会長/稲盛 和夫氏は、「心の持ちようで、人生は地獄にも極楽にもなる」もの。「心は人生で一番大事なもの。合理主義の時代で、心というつかみ所のないものを学校が教えなくなり、世の乱れを招いています。仏教、キリスト教、イスラム教と、教えは違っても人間として正しい道は普遍的です」と説いている。そして、「人生の目的は地位や名誉ではなく、人格を磨くこと。人生80年とすると、最初の20年で社会に出る訓練をし、40年は働く。残る20年は、死ぬための準備期間です。魂の旅立ちでもある死を前に、心からの信仰を得たかった。60歳で得度するはずが、仕事が忙しく、65 歳から仏門に入り、「大和(だいわ)」という僧名を持つ臨済宗の僧侶となり、伝道者としての活動をしておられる。私も現役時代に会社の講師としてこられたときの口演を一度聞いたことがあるが、本当に、人格者としても立派な人である。私も 残り人生の準備をきっちりとしておかなければならないと思いやってはいるのだが・・・。
(画像は「文房具と小学生」以下参考に記載に素材のプチッチより借用)
宿題 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%BF%E9%A1%8C
神 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E
凡夫 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A1%E5%A4%AB
『科学』11月号巻頭言「いただきます」の意味
http://www.iwanami.co.jp/kagaku/KaKa200501.html
--世界傑作格言集--
http://kuroneko22.cool.ne.jp/
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86
アントン・チェーホフ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%95
--人生の格言・名言集--
http://kuroneko22.cool.ne.jp/kakugen.htm
第11課 人生の意味(試練)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~vct/nyumon11.html
聖書から人生を考えよう 神がいるなら、どうして!?
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/e/5ada39d63a360e7bdf5d20faef7d04fb
苦難は魂を磨く試練/京セラ創業者・名誉会長/稲盛 和夫さん(YOMIURI ONLIN)
http://osaka.yomiuri.co.jp/kokorop/kp51012a.htm
稲盛和夫 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%9B%9B%E5%92%8C%E5%A4%AB
素材のプチッチ
http://putiya.com/index.html


ケーブルカーの日

2007-08-29 | 記念日
今日(8月29日)は、「ケーブルカーの日」
1918(大正7)年の今日(8月29日)、大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道=近鉄)の子会社生駒鋼索鉄道が、奈良県生駒山鳥居前から宝山寺間で、日本初の(ケーブルカーを開業させた。
今は、鳥居前~宝山寺間の宝山寺線0.9km に、宝山寺~生駒山上間の山上線1.1km の2区間からなっている。宝山寺線は日本最初の営業用ケーブルカーで、生駒聖天と呼ばれている宝山寺への足であり、山上線は生駒山上にある遊園地「スカイランドいこま」への足となっている。
ケーブルカーとは、山岳の急斜面などを、鋼索(ケーブル)が繋がれた車両を巻上機等で巻き上げて運転する鉄道である。鋼索鉄道(こうさくてつどう)ともいう。
1914(大正3)年の東京・上野公園で東京府主催の東京大正博覧会(以下参考に記載の「東京大正博覧会」参照)が開催されたが、その時、とりわけ入場者を喜ばせたのが第1会場と第2会場を往復できるエスカレーターと、不忍池の上に張られたケーブルカー(ロープウエイ)であったという。このように、かって、一部ではロープウェイやゴンドラリフトなどの「普通索道」のことをケーブルカーということもあるが、日本では今では、「鋼索鉄道」だけをケーブルカーと称することが一般的となっている。
この日本初のケーブルカー生駒ケーブルを建設したのは、鹿島建設である。同社のHPを見てみると、鹿島の軌跡の中に「生駒鋼索線(生駒ケーブル)」建設の当時のことが詳しく掲載されていた。
そこには、珍しい大正7年8月に開通した生駒鋼索線開通当時の写真が掲載されている。「一両の登山電車と通り過ぎるのを待つ駕籠、ひとりは草鞋、後ろは地下足袋を履き、2人とも腰には煙草入れとキセルをぶら下げている。駕籠に乗っている人は着物姿だ。その後ろは草鞋履きで薪を背負った樵(きこり)のようである。急な斜面をを登った山頂にある神社仏閣には一般的に駕籠が使われていたようで、駕籠や馬が沿線で客を待つ様は昭和初期まで見られたという。(以下参考に記載の「鹿島の軌跡生駒鋼索線(生駒ケーブル)」参照)
生駒山宝山寺は、真言律宗大本山の寺院。生駒聖天(いこましょうでん)とも呼ばれる。本尊は不動明王鎮守神として歓喜天(聖天)を聖天堂に祀っている。生駒山は伝承によれば斉明天皇元年(655年)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。その当時は都史陀山 大聖無動寺(としださん だいしょうむどうじ)という名であったという。江戸時代の1678(延宝6)年に湛海律師が再興し、歓喜天を祀った。この時が事実上の開山のようで、江戸時代には、宝山寺は商売の神として大阪庶民の信仰を集め、また、京都の皇室や江戸の徳川将軍家郡山藩主柳沢家からの祈願もあり、聖天信仰の霊場として名高い。(以下参考に記載の生駒市デジタルミュージアム・宝山寺〔ほうざんじ〕参照)
1914年4月30日に現在の近鉄の直系母体会社である大阪電気軌道(大軌)が初の路線である現、近鉄奈良線を開業させた際、生駒山の麓に生駒駅が開設されて宝山寺の参詣者は大幅に増加したといわれる。駅の開設によって、大阪から峠越えで宝山寺へ参詣する二つの古参道(ひとつは、東大阪市上石切町にある鷲尾山 興法寺から生駒山の西側山腹に深く刻まれた辻子谷〔音川〕に沿って続く辻子越えの道。もう1つは、大東市中垣内二丁目を起点に、 龍間を経て荒池道〔八丁門峠〕を越え、宝山寺へ至る道)は姿を消したという。
しかし、その生駒山を貫く生駒トンネルの莫大な開削費用負担や、沿線人口が少なく観光客頼みであった輸送が雨天期になって減少したことで、大軌は「大阪天気軌道」と揶揄されたそうだ。(宝山寺と近鉄創業期参照)
宝山寺線は、1926(昭和元)年、輸送力増強のため、複線化が完成。このうち片方は戦時中に撤去されたが1953(昭和28)年には復活し、日本で、唯一の2つのケーブルカーが並ぶ複線だが、運用上はそれぞれが分離されており、それぞれ宝山寺1号線・宝山寺2号線と呼ばれている。山上線は1929(昭和4)年に開業し、1つのケーブルカーからなる単線で2つの途中駅がある。現在でも運転系統は宝山寺駅で2分割され、乗換えが必要。
1918(大正7)年の宝山寺線開業後、1928(昭和3)年11月、初代ケーブルの台枠を使用し、車体のみ更新がされた。1号車は「いのり」2号車は「めぐみ」という愛称で約70年もの間、宝山寺の参拝客者や地域の客に親しまれてきたが1990(平成12)年2月27日の「さよなら運転」を最後に長い役目を終え、両車共に廃車。 「いのり」は生駒山麓公園に寄贈され園内に展示されているようだ。2000(平成12)年3月18日車体、台車とも更新し、犬と猫をイメージした今までのケーブルカーとは全く違う斬新なスタイルで登場。「ブル」とか、ミケ」とかいう愛称をつけてもらい現在も子供たちに人気の車両となっているそうだ。また、鳥居前駅の名の由来となった大鳥居は現在、宝山寺境内に移転されている。(以下参考の近鉄HP/資料館・生駒鋼索線参照)
(画像は生駒ケーブル。 Wikipediaより)
参考:
Category:鋼索式鉄道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E9%8B%BC%E7%B4%A2%E5%BC%8F%E9%89%84%E9%81%93
近鉄生駒ケーブル
http://www2.neweb.ne.jp/wc/m-hirai/kikoma.htm
鹿島の軌跡「生駒鋼索線(生駒ケーブル)」
http://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki14/index-j.html
生駒市デジタルミュージアム・宝山寺〔ほうざんじ〕
http://www.city.ikoma.lg.jp/dm/14/1402hozanji/140200top/140200top.php
東京大正博覧会
http://creative.cside2.jp/kindai-daigakuin-nb/sosaku-hyoron/project/catalogue/ca-1914-03-02.html
近鉄HP/資料館
http://www.kintetsu.jp/kouhou/History/A10004.html
全国のケーブルカー(鋼索鉄道)
http://www.masaru.ac/zenkoku.html
博覧会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A

バイオリンの日

2007-08-28 | 記念日
今日(8月28日)は、「バイオリンの日」。
今日は何の日~毎日が記念日~によれば、1880(明治13)年の今日(8月28日)、東京・深川の三味線職人・松永定次郎が国産バイオリンの第1号を完成させたといわれているそうだ。
ヴァイオリン(violin)は、弦楽器の一種で、などで振動させることによって音を出す。ピアノと並ぶ非常にポピュラーな楽器である。
音響のしくみとしては、弦は弓でこすることで振動し、その振動はと内部にある魂柱を経て表板から裏板に伝わる。一方表板の振動は側板を通じても裏板に伝わり、全体で共鳴箱としての役割を発揮する。この時f字孔の存在によって音響はより効果的となるそうで、音色は弦の種類や運弓法によって変わってくる。音色は楽器ごとにも特色が出てくる。ただこれらの音の違いがどうして生み出されるのかは、音響学上はっきりしない点が多いいそうで、ストラディヴァリウスなどの名器がなぜ素晴らしい音を出すのかと言うと、元々の製作精度の高さと経年変化による恩恵が大きいとされているそうだ。 
ヴァイオリンの起源については諸説あるが、はっきりしたことはいまだにわかっていないそうだ。そもそもヴァイオリン黎明期である16世紀当時において「ヴァイオリン」や「ヴィオール」という言葉が何を指すのかに関してもあいまいな点があるそうだ。祖先としてはキタララバーブ(画像は以下参考に記載の国立民俗学博物館ラバーブ参照)、レベックリュートなどが考えられているが、何らかの形でヴィオール属の影響を受けている可能性が高いという。 
ヴァイオリンが世に登場してきたのは16世紀初頭と考えられており、現存する最古の楽器は16世紀後半のものだが、それ以前にも北イタリアをはじめヨーロッパ各地の絵画や文献でヴァイオリンが描写されているという。最初期の製作者としてはアンドレア・アマティガスパロ・ディ・ベルトロッティ(ガスパロ・ダ・サロとも)、ガスパール・ティーフェンブルッカーが有名だそうで、当時は舞踏の伴奏など、世俗音楽用の楽器として考えられていたという。
17~18世紀にはニコロ・アマティ、ヤコプ・シュタイナー(en:Jacob Stainer)、アントニオ・ストラディヴァリグァルネリ一族など著名な製作者が続出。特に卓越していたのがストラディヴァリで、ヴァイオリンの形態は彼の研究によってほぼ完成に至ったという。
「ヴァイオリン」は「ヴィオール属」とはいくつかの相違点が挙げられるが(ヴィオール属の特徴とヴァイオリン属との違い参照)、力学的に改良が施されて音量・音の張りに大きく向上が見られた。音楽文化の中心が宮廷サロンから劇場・ホールに移るにつれ、弦楽器においてこれまでになく大きな響きを持つヴァイオリンはクラシック音楽を形作る中心となっていったという。(詳しくは以下参考に記載の「ハフナ(HAFUNA)音楽談話室/ヴァイオリンとヴァイオリン音楽」や「楽器のトリビア」を参照されると良い)。
日本人が初めて西洋の音楽に接したのは1549(天文18)年の事で、ポルトガルの国王であったジョアン三世の要請により、東インド管区長として派遣され1549(天文18)年に来日したイエズス会フランシスコ・ザビエルによるものだそうで、イエズス会の報告書によると、1581(天正9)年に織田信長の前でクラヴォとヴィオラ(ヴィオール?)を弾いたところ信長は非常に喜んだという記録があるそうだ。また、1563(永禄6)年に来日した、ルイス・フロイスの「日本史」には、当時ポルトガル修道士がヴィオラ・ダ・ブラッチョを、ミサでの演奏用として日本の子供に教えたことが、書かれているともいう。このように、日本人が初めて、西洋のキリスト音楽文化に接したのは、450年位以前の話であるが、実際に西洋の音楽文化が日本に正式に取り入れられたのは、それから約330年経った1879(明治12)年音楽取調掛が設置され、音楽研究および西洋音楽をベースとした音楽教育(唱歌教育)の形成の取り組みが始められてからだと言う。
1880(明治13)年音楽取調掛の教師として来日したアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソンが手ほどきをしたのが始めであり、それからヴァイオリンは少しずつ広まっていった。
日本で初めてヴァイオリンを制作したのは、当時音楽取調掛の長であった伊沢修二が、雅楽器の製作者であった「神田 某」に依頼して作らせたのが初めてであると云われている(明治17~18年頃)。しかし、一説によれば1880(明治13)年に、三味線の製作者であった「松永定次郎」がニコライ堂のヴァイオリニストのヴァイオリンを模して作ったのが初めてであるとも云われているそうだ。1887(明治20)年頃になると「頼母木源七」もヴァイオリンの製作を始めたが両者とも長くは続かなかった。源七の指導により「山田縫三郎」が引き継いだが、本格的にヴァイオリンを制作し、日本のヴァイオリン製作の祖と言われているのは「鈴木政吉(1859~1944)」だそうである。(以下参考に記載の「ハフナ(HAFUNA)音楽談話室/ヴァイオリンとヴァイオリン音楽第三楽章 ヴァイオリニスト参照)
日本記念日協会の記念日には、「バイオリンの日」は無いのだが、先にも書いたように、松永定次郎が初めてであるとの説もあるようであり、このような「日本初」ものには、色々な説のあることが多く、ここではこれを正しいものとしておこう。(^0^)
♪権利幸福きらいな人に 自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい 
オッペケペー オツペケペッポー ペッポッポー・・・
オッペケペー節:川上音二郎が唄って一世を風靡したラップ調の唄。
明治も終わり頃になると、自由民権運動の活動家たちが新しい思想を広めるためにラップ調の「演歌」を生み出し、演歌歌手たちの伴奏にヴァイオリンは無くてはならないものになった。このヴァイオリンと演歌という組合せは大正時代になると更に普及し、演歌自体はやがて政治思想からは離れた享楽的なものに変化して行き、ヴァイオリンを片手に歓楽街を回る「流し」の演歌師などを生むことになる。
そういえば、私の家には戦前、押し込みの中に、親父のものだというバイオリンやアコーデオンを仕舞っているのを見て、お袋にどうしたのか聞いたことがある。お袋の話では、私の親父は青年時代、文学青年を気取って、戦前の神戸の繁華街新開地あたりで、自分の書いた詩をバイオリンやアコーデオンを弾き歌いながら配っていたのだと言っていた。その後、どうしたのか、気がついたときには無かったが、恐らく戦後親父が商売を失敗し、貧乏をしていた時に質種にでもなっていたのだろうね~。
(画像はヴァイオリンの外観 。 Wikipediaより)
参考:
ヴァイオリン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3
国立民俗学博物館・ラバーブ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%96
ハフナ(HAFUNA)音楽談話室/ヴァイオリンとヴァイオリン音楽
http://godmuses.hp.infoseek.co.jp/index.html
楽器のトリビア(アンサンブル"シュシュ”)
http://www.wcsnet.or.jp/~shokuchu/chouchou/gakki/gakki01.html
日本史 ルイスフロイス : 平凡社 - 電子書籍はeBookJapan : 総合図書
http://www.ebookjapan.jp/shop/title.asp?titleid=831
近代音楽-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E9%9F%B3%E6%A5%BD
雅楽 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%85%E6%A5%BD
今日は何の日~毎日が記念日~
http://www.nnh.to/08/28.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
鈴木政吉物語
http://www.suzukiviolin.co.jp/about/story1.html
川上音二郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E9%9F%B3%E4%BA%8C%E9%83%8E
自由民権運動
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jiyuuminnkennunndou.htm
ラップ-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%97
♪ヴァイオリン演歌♪ 其の一
http://homepage2.nifty.com/tanosiki/enka.htm
新開地 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%96%8B%E5%9C%B0


京都画壇の美人画の第一人者上村松園の忌日

2007-08-27 | 人物
今日(8月27日)は、京都画壇の美人画の第一人者上村松園の1949(昭和24)年の忌日。
上村 松園(うえむら しょうえん)、本名は、常子。1875(明治8)年4月23日 、京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれた。松園の中で、祖父は、上村貞八といって、天保の乱(大塩平八郎の乱参照)を起こした大阪の町奉行大塩平八郎の血筋をひいたものであると伝えられており、当時はお上のせんぎがきびしかったので、そのことはひたかくしに隠して来た。その祖父が京都高倉三条のちきり屋という名代の呉服屋に永い間支配人をしていたことから、葉茶屋の家号を「ちきり屋」としたとある。(荘園の幼少時代のことは、青空文庫上村 松園「あのころ」参照)余談ではあるが、珍しい名前だと思ったが葉茶屋に「ちきり屋」というのはむかしからよくある名だそうで、NETで検索してみると、今も京都のお茶屋さんに「ちきり屋」の名が見られた。
京の伝統文化に育まれた松園は、誕生前に父親が病で亡くなったため、母・仲子は女手ひとつで松園と姉の、2人の娘を育て上げた。幼い頃より絵画を愛し、母の支援により1888(明治21)年、14歳の時に京都画学校に入学、正式に四条派の鈴木松年(すずきしょうねん)に師事する。明治の女性が画家を志すなど、世間が認めるところではなかった時代、「女が絵の学校へはいるなんて・・・」、と言って叔父がさかんに母を責めたが、母・仲子は常に松園を理解し励まし支え続けたという(松園の 画学校時代のことは青空文庫の上村松園「画学校時代」参照)。
1890(明治23)年、第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞。それ以降天賦の才を花開かせた彼女は、明治・大正・昭和を、女性の目を通して、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」、「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」(松園のことば)を念願として女性を描き続け、次々と優秀な作品を発表した。
松園は自身の著『青眉抄』で、「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と述べ、「母子」、「青眉」、「夕暮」、「晩秋」等々の母を恋慕する、格調高い作品を残している。(母への思いは青空文庫上村松園「母への追慕」参照)
”青眉”というのはかつては嫁入りして子供ができると必ず眉毛を剃りおとしたもので、その剃りおとした眉を”青眉”といった。松園は”青眉”にたまらない魅力を感じるひとりであるらしく、眉目秀麗とはまた違った風情を添える”青眉”を『聖なる眉』と記し、『剃りたての”青眉”はたとえていえば闇夜の蚊帳(かや)にとまった一瞬の螢光のように、青々とした光沢をもっていて、まったくふるいつきたい程である』とも記しているが、いつの頃からか青眉の風習も消失し、松園は母の人一倍あおあおした瑞々しい眉を想い、絵のなかの女に描いていたのだという。(青空文庫上村松園、「眉の記」参照)。
そんな松園の気品あふれる作品群の中で、特異な絵が2枚ある。「花がたみ」と「焔(ほのお)」である。1915(大正4)年の「花がたみ」の題材である、謡曲「花筐(はながたみ)」は、継体天皇の皇子時代に寵を受けた「照日の前」が形見の花筐(花を入れる目のつんだ竹かご)を手に都に上り、紅葉狩りに行き逢(あ)った帝の前で舞うという内容である。208×127cmの大作である。松園は能面「十寸髪(ますがみ)」(以下参考に記載の能面 増髪参照)を狂女の顔の参考にしたという。
この謡曲は世阿弥の作と云われているが、その中に挿入されている「李夫人の曲舞(くせまい)」と云われる曲舞は、その父観阿弥の作をそのまま用いたものと見られており、物狂いとなった狂女を主人公とした狂女物の代表作と云われるものである。
継体天皇は、狂女を照日の前とは気付かず、車の前で狂女に舞を舞えと命ずるが、その時照日の前が、形見の花筐を手に舞ったのはこの「李夫人の舞」である。この舞は、中国前漢の第七代孝武帝が、世を去った寵姫李夫人を思慕し、甘泉殿の壁にその姿を写し、「反魂香」という香を焚いて仙術をもって一夜その魂を呼び寄せる物語の舞であり、故事"白居易『李夫人詩』"(以下参考に記載の白 居易「李 夫 人」参照)と関係がある。
天皇は、狂女の差し出した花筺を見て、狂女が照日の前と悟り、今は正気に戻った彼女を宮殿に連れ帰り、勾大兄を生む。531(継体天皇25)年に、後継を皇子の勾大兄皇子に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位(安閑天皇)と同日に崩御したという。
しかし、この継体天皇には出自を巡り謎が多い天応である。506(武烈天皇8)年に武烈天皇が後嗣を定めずして崩御したため急遽、越前国の男大迹(おおど)王(後の継体天皇)が大王に推戴され、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)で即位。武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。そして、526(継体天皇20)年、大倭(後の大和国)に都をおいた。継体天皇は507(継体天皇元)年に即位してから、大和に都をおくまで約20年かかっており、天皇家周辺で何らかの混乱があったとする見方もある。また『日本書紀』は『百済本記』を引いて、天皇及び太子、皇子が同時に死んだという説を紹介しており、何らかの政変によって殺害されたとの見方もある(「辛亥の変」説。(「辛亥の変」については、以下参考に記載の「今週のひと口知識第62回/日本の古代史(その15) 【辛亥の変】」参照)
ここでは、継体天皇の歴史について書くのが本旨ではないので、興味のある人は、後で、ゆっくりと、以下参考に記載の「継体天皇はどこから来たか」「『福井県史』通史編1 原始・古代」など見られるとよい。
このようなことから、照日の前が狂女となってまで、継体天皇を追い求めていったのは単に恋慕の情だけでなく彼女のお腹の中には既に、継体の子が宿っていたのではないかと推測する説もある。
白 居易「李夫人」の詩の最後には、「生きている時にも惑い、死んでのちもまた惑う。美しい女性は人を惑わして、決して忘れてしまうことはできない。人は木でも石でもなく、皆情を持っている。だから、城をも傾けるような女性の美には、めぐりあわぬがよい。」・・・とあるが ・・・、これも意味深だよね~。
また、1918(大正7)年の作「焔」(ほのお)の題材である、同じく世阿弥の謡曲「葵上」は、『源氏物語』の「」巻に登場する六条御息所の生霊であり、題にもなっている葵の上は一切登場せず、生霊に祟られ寝込んでいることを一枚の小袖を舞台に寝かすこと(出し小袖)で表現している。光源氏の正妻である六条御息所は賀茂の祭の際、葵上から受けた侮辱に耐え切れず、生霊(前ジテ)となって葵上を苦しめているのである。薬石効なく、ついに修験者が呼ばれ祈祷が始まると、生霊は怒り、鬼の姿(後ジテ)で現われるが、最後は般若の姿のまま、法力によって浄化される場面で終わる。
この絵について松園は、作画について”「焔」は私の数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵であります。中年女の嫉妬の炎・・一念がもえ上って炎のようにやけつく形相を描いたものであります。”といっている。後れ毛を噛む女の着物には藤の花と蜘蛛の巣が描かれている。189×90cmの大作で、大変な迫力をもって見る者に迫る絵である。この絵の題について、”謡曲「葵の上」には六条御息女の生き霊が出て来ますが、あれからヒントを得て描いたもので、最初は「生き霊」と題名をつけましたが、少し露わすぎるので、何かいい題はないかと思案の末、謡曲の師の金剛巌先生に相談したところ、「『生き霊』のことを『いきすだま』とも言うが、しかし『いきすだま』とつけても生き霊と同じい響きを持つから――いっそう焔とつけては”・・・と言われて、この名をつけたのだとか。(青空文庫上村松園「作画について」参照)
上村松園は、1948(昭和23)年に女性初の文化勲章を受章。翌・1949(昭和24)年の今日(8月27日)逝去した。享年74歳であった。 従四位に序せられている。
同じく日本画家の上村松篁(しょうこう)は息子、上村淳之(あつし)は孫にあたる。
(画像は、「焔」。「上村松園」画集全2巻より)
上村松園 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E6%9D%BE%E5%9C%92
大塩平八郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E
上村松園 作品 <株式会社シバヤマ>
http://www.shibayama-co-ltd.co.jp/uemura.htm
継体大王と越の国・福井県
http://info.pref.fukui.jp/keitaidaio/index.html
能 観世流 - 響の会 「花筐」
http://www.hibikinokai.com/guide/hanagatami.html
能「花筐」
http://www.syuneikai.net/hanagatami.htm
作家別作品リスト:No.355作家名: 上村 松園
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person355.html#sakuhin_list_1
図書カード:「青眉抄」について著者名: 宮本 百合子 
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card4229.html
「上村松園」画集全2巻【ユーキャン】
http://www.u-canshop.jp/syouen/index.html
能面 増髪(ますかみ)
http://www.nohmask21.com/masukami.html
反魂香 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E9%AD%82%E9%A6%99
白 居易「李 夫 人」
http://www.marute.co.jp/~hiroaki/sisyuu/si_23.htm
樟葉宮跡(枚方市)
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage489.htm
『福井県史』通史編原始・古代
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2%EF%BD%A53-01-02-03-04.htm
継体天皇はどこから来たか
http://inoues.net/mystery/wherefmkeitai.html
倭国と日本
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/WAandNIPPON6.htm
今週のひと口知識第62回/日本の古代史(その15) 【辛亥の変】(大阪CADセンター )
http://osaka-cad.co.jp/hitokuchi/hitokuchi_kodaishi/hitokuchi_060106.html
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