今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

くるみの 日

2011-09-30 | 記念日
日本記念日協会で今日の記念日を見ると「くるみの日 」があった。その由来を見ると、“9と30で「くるみは丸い」と読む語呂合わせと、くるみの出回る時期にかけて日本一のくるみの名産地、長野県東御市(同市HP※1 )などの、くるみ愛好家が制定したもので、くるみの食材としての素晴らしさ、用途の広さなどをアピールするのが目的で、設けられたそうだ。
(1)
どんぐりころころ ドンブリコ お池にはまって さあ大変
どじょうが出て来て 今日は 坊ちゃん一緒に 遊びましょう
(2)
どんぐりころころ よろこんで しばらく一緒に 遊んだが
やっぱりお山が 恋しいと 泣いてはどじょうを 困らせた
どんぐりコロコロ』(原題:団栗ころころ)。作詞は、青木存義作曲は、梁田貞(1885年-1959年)である。
大正時代に作られた唱歌(広義の童謡)で、小学校用の教科書(音楽)で使用されたことを契機に広く歌われるようになり、その普及ぶりから金田一春彦に「日本の三大童謡」の一つと評されているという(Wikipedia)。 
今日は「くるみの日」なのでクルミ(胡桃)のことを書くつもりが、私など神戸に生まれ、以来ずっと神戸に住んでいるものには、同じ被子植物のひとつクルミ科のクルミよりも、ブナ科のクヌギ・カシ・ナラ・カシワ・クリなどの果実(正確には種子ではない)の総称であるドングリ(団栗。「しいの実」とも言われる)の方が親しみがあるものだから、ついこの歌が出てきてしまった。そのため、最初からちょっと脱線するが・・・悪しからず。
この『どんぐりコロコロ』の歌詞の内容は、作詞者青木の幼少時の体験が元になっているそうで、青木は宮城県宮城郡松島町の大地主のいわゆる「坊ちゃん」として生まれ育ったという。広大な屋敷の庭には「どんぐり」が実りナラの木があり、その横には大きな「池」があったそうだ。青木は朝寝坊な子だったそうで、それを直したいと母親が知恵を絞り、庭の池に「どじょう」を放した。どじょうが気になって、青木が朝早く起きるようになるのではないかと考えてのことであったという。本作品は、当時の思い出を元に制作されたものだと言われる。
ただ、2番までの歌では、この歌は、山から池に転がってきて、どじょうと遊んだ後、どうなったのだろう?山に帰れたのだろうか?・・・、どんぐりが可愛そう・・・など、色々考えてしまう人もいるかもしれないが、それについては、ここでは触れないが、この歌には、3番や4番も出来ているらしい。以下参考の※2、又、Wikipediaの「幻の3番」の歌詞のところなど読まれると、嗚呼そうなのかと納得するよ。面白いので興味のある人は読まれるとよい。
なお、歌詞に出てくる「どんぶりこ」は池に落ちた音の擬音語だが、”「どんぐり」に引きずられて「どんぐりこ」と間違えて歌われることも多い(NHK『ことばおじさん』p.141。14)”らしいが、この間違い発言が、今あるサイトなどで話題になっているようだ。
それは、先日(2011年9月14日)の野田佳彦首相の「正心誠意」(※3参照)の所信表明演説への各党の代表質問に対しての首相の“誠心誠意”の回答が、野党の目にはどう映ったか?・・・。
自民党の石破 茂政調会長の皮肉たっぷりに述べた以下の言葉がとりあげられているのだ。
「どんぐりコロコロどんぐりこ。イラ菅辞めたぞ、さあ大変。ドジョウが出てきてこんにちは。やっぱり自民が恋しいと、泣いてはドジョウを困らせた」(※4参照)。
これを読むと分かるように、「どんぐりコロコロどんぐりこ」と、先に述べたと同じように「どんぐり」に引きずられて「どんぐりこ」と間違えて歌っているのが分かる。

この皮肉たっぷりな「どんぐりこ」発言は、朝日新聞の夕刊コラム『素粒子』(2008年12月9日付)が、麻生太郎首相(当時)を揶揄した「どんぐり」の替え歌を掲載(上掲の画像が当時の記事)したのを覚えていての意趣返しのようだが、折角皮肉るなら、歌を間違えて後からやじられないようにはしないとね~。
石葉がどんぐりの歌に例えた「イラ菅」は、ダメ菅とも言われた菅 直人前首相のことで、「どじょう」は、野田首相のことだろうが、「自民が恋しいと、泣いてはドジョウを困らせた」・・・のは誰なのだろう?
「自民が恋しい」と自民党などとの大連立を呼びかけたのは、自らをどじょうと言っている野田首相だが、「綱領すらない政党は基礎的要件を欠く」として連立は困難と冷たく拒否し、どじょうを困らせているのは、谷垣禎一自民党総裁だったのじゃ~ないかな~・・・・。
回り道をしたが、この話はここまで。次、本題に入ろう。
日本列島が、現代と同じような気候環境になったのは弥生時代頃と言われており、水田を営むのに適した沖積平野が現在の姿に近い状態になるのもこの時期であり、この頃形成された水田稲作を中心とした生産活動と文化が戦後までの日本の基本的な生活様式として存在していた。
しかし、後期旧石器時代の日本列島は、まだユーラシア大陸と陸続きであったとされ、亜寒帯針葉樹林に覆われていて、当時の人々の食料としては草原に生活いていたナウマン象オオツノジカ(大角鹿).など大型獣への依存度が高かったと考えられ、これら大型獣を獲物に求めて移住しながらの狩猟を主体とした生活をしていた。
その後、氷河期 (最終氷期)の終わる約1万2千年前頃になると、日本列島の、気温・海水面が上昇(温暖化)し、対馬暖流の流入が止まったといわれており、こうした環境の変化かにより、動植物相に大きな変化をきたした。
先ず、動物相の変化としては、なぜかナウマン象など大型の哺乳類が日本から姿を消していった(気候・環境の変化だけでなく、人口の増加と乱獲にも原因があったのではないか)。しかし、この頃、日本列島はすでに大陸と海で隔てられ、獲物を求めて大陸へ移住することは困難となっていた。
その後は、大型獣を獲るための手槍にかわって、小・中型獣を狩猟するための尖頭器(せんとうき、point=投げ槍用の先端部)をつけた投げ槍や、石鏃(せきぞく)を付けた弓矢が考案された。特に弓矢は、すばやく動き回る小型獣を捕獲するのに有効であったためこれが主に使われたようだ。狩りの獲物でもっとも多いのは、シカ、イノシシで、他にノウサギやタヌキ、ムササビなどがいる。しかし、これらの狩りは、夏は木々の葉が繁り、獲物が発見しづらく、また子育ての時期であり、この時期に捕獲してしまえば、後に数を減らすことになるので狩りは主として冬に行われるようになった。しかも、獲れる時と獲れない時もあり、食料が安定的に確保出来ず、食料不足の状況が続いただろう。
一方、植物相の変化としては、気候の温暖化が進むにつれて、東北日本は落葉広葉樹林(ブナ林=ナラ林)が、西日本は照葉樹林(シイ、カシ林)で覆われるようになった。
この新しく日本列島に広がった森林の中には、採取可能な食べ物類が非常に多かった。小型獣では十分な食料を確保できなかった縄文時代の人々の目が豊かな実り多い森そのものに移っていったのは当然だろう。
その中でも秋にとれる堅果(けんか=種実類)と呼ばれる堅い皮や殻に包まれた木の実類は、栄養のバランスという点でも、ほかの食物にはない長所があることから、主食といえるほど重要なものであったようで、現在でも食べているクリ(栗)、クルミのほか、ドングリ類(ナラ、カシ、シイなどの実)やトチの実の殻(から)が縄文時代の遺跡から多く発見されている。
他にも、カヤ、ヤマモモ、サンショウ、ヒシ、ノビルなど、約40種類の植物が、縄文時代の遺跡から発見され、食料とされていたことが分かっているようだ。又、山菜(タラの芽、ウド、ワラビ、ゼンマイなど)やキノコあるいは根茎類(ヤマイモ、ユリの根、カタクリの根など)なども腐(くさ)りやすく遺跡には残っていないが、実際には多く食べられていたようだ。
当然、これら植物性食料資源の何を主とするかは地域によっても異なるだろうが一般に、ナラ林の方が照葉樹林より生産性が高い、つまり、多くの食料を手に入れることができると言われるが、それは、ナラ林で注目されるクリ(栗)にあるのだろう。
クリは、二次林(原生林が伐採や災害によって破壊された後、自然に、または人為的に再生した森林。※5参照)を形成する植物であり、森を切り開いて作られる集落の周囲に生育しやすいとされている。そのためか、東北日本のナラ林帯に位置する縄文集落の土層からクリの花粉が非常に多く検出されているようだ。
1994(平成6)年に青森市三内丸山の地中から縄文時代前期中頃から中期末葉(約5500年前-4000年前)の大規模集落跡・三内丸山遺跡が発掘されているが、小型獣、魚類、膨大な貝類と共に発見された多数の堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻。さらには一年草のエゴマ(荏胡麻)、ヒョウタン(瓢箪)、ゴボウ(牛蒡)、マメ(豆)などといった栽培植物も出土している。
特に注目されるのは、多数出土したクリの花粉分析から、これらには、野生の植物集団の特徴であるDNA多型が見られなかったことから、三内丸山の人々は、ここに集落ができる前に広がっていたナラ類やブナの森の自然の恵みのみに依存した採取活動だけではなく、居住が開始されると、集落の周辺に、在来種のオニグルミ(鬼胡桃)を経て、クルミ属、さらにはクリ林へと人為的に堅果類の樹木を多数植栽し、一年草を栽培するなどしていた可能性が考えられるという(※6参照)。三内丸山遺跡のような巨大な集落は、西日本では発見されていないようだ。
そして、これら植物性食料資源の活用方法の開発が急がれた縄文時代の人々の欲求が生み出したのが、縄文土器だといわれている。
縄文土器の形には、胴長で筒形の「深鉢」」と、口が広い逆円錐形の「浅鉢」の2種類に分類されるが、縄文時代の、前半頃は口が広くて深い形の「深鉢」が占める割合が高く、土器の基本形として継続された。この形は、この土器を用いることで、前時代の「生で食べる」ことと「焼いて食べる」ことに「煮て食べる」ことが新たに加わった。
この器はスープやシチューのように汁を蒸発させないでじっくり煮るのに好都合であり、筋肉や干し肉あるいは植物の繊維などが煮ることによって食べやすくなった。貝を入れるとなおさら温かくてうまいスープが食べられるようになったが、この土器の出現は、気候の変化に伴う植物相の変化と密接な関係があったらしい。
新しく日本に広がった落葉広葉樹の森林の中で採取可能な食べ物類が非常に多く採取できたが、クリ、クルミ、カシの実などはアク(灰汁)が少ないので、そのままでも食べることが可能であるが、ドングリ類(クヌギ・カシ・ナラ・シイなどの木の実の総称)やトチ(栃)の実などは、「アク抜き」無しでは食べられず、縄文時代後期には、これらを、水で晒(さら)したり、縄文土器で煮たりしてアクを抜く技術が開発されていたようだ。特にトチの実のアク抜きには、水でさらしたうえ、灰を混ぜて煮るといった相当の手間をかけないと難しいことから、縄文時代の人々はアク抜きの不要な「クリ」から「ドングリ」へ、さらに「トチの実」へと、アク抜き技術も発達させていったのだろう。
イモ類も含めて球根類には毒をもつものが多い。この毒も長時間水にさらせば抜くことが可能である(根をすりつぶして、アルカリ性である灰汁と反応させ、その後沈殿させる)こうして、食料確保の必要性から可食食料の幅を広げていったと考えられている。それに、縄文土器を用いての加熱処理、特に煮沸には消毒という効果もあり、食の安全にも効果があったろう。
又、縄文時代中頃以降に「浅鉢」が急増するが、「浅鉢」は、現代のボウルに相当する「混ぜ」たり、「こね」たりするための容器のことで、食料を調理するために使われた土器である。「浅鉢」によって、それまでの食料をそのまま煮炊きしただけで食べる食生活に、調理した加工食品を食べる習慣が加わった。
縄文時代の保存食として「縄文クッキー」があるが、この成分を分析すると、ニホンシカやイノシシなどの肉に栗やクルミなどのでんぷん質を加え、野鳥の卵の材料に塩と野生酵母を加え200~250℃で焼いたものであったそうだ。栄養価も高く、優秀な保存食だった。
このような縄文土器が、食料の安定確保に大きく貢献することとなり、結果として、土器を持つ生活は、定住的な生活様式や人口増加の現象を導き出すこととなった。
ただ縄文時代を通じて、人口は東日本に多く西日本に少なかったという。基本的に西日本での人口密度は東日本の1/10にも満たず、人口密度が東北地方と逆転するのは弥生時代に入ってからであるという(※7)。
西日本の照葉樹林帯では、ドングリの大量備蓄などに特徴づけられるが、縄文時代後期の遺跡に比較的多くみられるというが、これは、あく抜きの技術もこの頃伝わってきたからではないかと言われている。元々生産性の低い照葉樹林帯で生活を営んでいた西日本の人々は食糧難に苦しんだとも言われており、それが、西日本に稲作以前の時期に伝来していたとされる焼畑農耕に依存した照葉樹林型の採集・半栽培文化を展開していたことと関連付けられており、それが、その後の水田稲作文化の急速な展開を可能にしたとも言われている。・・・・余計なことを書いたが、このような食文化のことを書くのが目的ではないので、そのようなことは、Wikipediaの照葉樹林文化論又、以下参考の※7のどんぐりと生きる:照葉樹林文化とナラ林文化など参照るとよい。
秋になってたわわに実る木の実(クリ・クルミ・トチなど堅果類)は、保存に最適なので、縄文時代の人々の何よりもありがたい命の糧であったことは間違いない。
クルミ(胡桃、山胡桃、英: Walnut、Black walnut、学名:Juglans)はクルミ科・クルミ属の総称である。原産地はヨーロッパ南西部からアジア西部とされ、北半球の温帯地域に広く分布する。
その核果の仁(果実の核で種子の別称)を加工したものを、ナッツと呼んでいる。ただ、クルミとして利用されるのはクルミ属の植物の一部にすぎない。日本で自生しているクルミの大半は「オニグルミ(鬼胡桃)」で九州から北海道にかけて広く分布しており、食用としての利用は古く、紀元前7000年前から人類が食用としていたとも言われている。
日本では縄文時代から、オニグルミを中心に食料として利用されていたと考えられている。文献資料においては『延喜式』に貢納物のひとつとしても記されており、『年料別貢雑物』では甲斐国や越前国、加賀国においてクルミの貢納が規定されており、平城宮跡出土の木簡にもクルミの貢進が記されているようだ(Wikipedia)。
そして、オニグルミは日本に持ち込まれ、人工的に栽培されて作られた変種ではなく、マンシュウ(満州)グルミの亜種だと考えられているようだ。
オニグルミは、栄養も豊富で、トチやドングリなどの木の実類と違って、渋抜きせずに食べることができるが、現在、広く市販されるテウチグルミやシナノグルミに比較して種子がやや小さく、殻が厚めで非常に固いので、仁を綺麗に取り出すのは容易ではない。その代わり味は濃厚だそうである。日本においてクルミ属で自生するものには、他にヒメグルミがあるが、わが国では、一般に野生のクルミ全般をオニグルミといっている。
欧米で単にクルミという時は、ペルシャグルミ(一般にセイヨウグルミともいう)を指しているようで、日本には、明治初年にアメリカから導入され、栽培が始められたという。又、このペルシャグルミが、中国に導入され、植栽、改良され変種を作ったものが、テウチグルミ(手打胡桃。カシ【菓子】グルミ、トウ【唐】グルミとも呼ばれる)で、江戸時代中頃には、日本に入ってきて、現在.、国内では、長野、東北地方で主に栽培されているようである。手打ちグルミの名は、果実の殻が薄くシワが少なく、手で砕きやすいところから生まれた名前らしい。又、カシ【菓子】グルミの名は、料理や菓子の材料に使われるところからの名前のようだ。
このペルシャグルミとテウチグルミの2種を交雑してできた改良種が
シナノグルミで、主に長野県で栽培されているようだ(クルミの名など※10、※11などを参照)。
現在、クルミの生産はアメリカ・カリフォルニア州と中国が多いが、日本では長野県がで全国一(平成20年の生産量が158t。第2位は青森県38t。平成20年産特産果樹生産動態等調査【農林水産省】)で、今日の記念日「くるみの日」を日本記念日協会に登録している長野県東御市(旧小県郡東部町)を中心に東信地区が一大生産地となっている。
そもそも、クルミは、殻が非常に硬く簡単には割れないため、人間が木の実を常食としていたはるか昔から、この硬い殻を割るための様々な型の道具が考案されてきたが、ドイツでは、二つの木片の端を結合して梃子の作用で割る・・・という合理的な道具が昔から使われていたという。これに人の形を装飾としてつけたものをプレゼントとして贈る習慣がすでに16世紀にはあったらしい。
ドイツのベルヒテスガーデンの1650年の記録には"Nusbeiser"(くるみを噛むもの)という語が残っており、また、1735年には19世紀まで玩具産業の街として知られていたテューリンゲン州ゾンネベルクでくるみ噛み人形が作られたとされている。
現在知られているような、人形型のくるみ割り器「クルミ割り人形」(上掲の画像参照)が生まれたのは、1870年代頃で、現在のドイツ、ザクセン州のエルツ山地地方のザイフェンという小さな村でのことであったとされる。
しかし、ここでつくられた古くからあるクルミ割人形は、恐い顔をしていたようだが、それは、この土地の貧しい玩具職人たちが、自分たちを圧迫する人間たちを、兵士とか憲兵、山林監督官、あるいは国王等、怖い顔で威張りくさって庶民を虫けらのように扱う人種、いわゆるお上の代表人物に仕立て上げて、硬いクルミを割る労働をやらせていたかららしい(※12)。時代と共に、昔のようないかめしい怖い表情のものは少なくなり、優しい表情のデザインのものが多くなっている。
「クルミ割り人形」の構造は、直立した人間型で、顎の部分が開閉するようになっており、そこから後ろへレバーが出ている。レバーを上に引き上げると大きく口を開け、そこへ木の実を挟み、レバーを下方へ押し下げることにより木の実を砕くようになっている。
なお、この「クルミ割り人形」は、木の実を割るために用いられる人形型の道具であり、クルミに限らずヘーゼルナッツその他の木の実にも用いられるようだ。
ただ、これを書いていて、オニグルミの核は、セイヨウグルミなどよりもっと硬く、クルミ割り器を使っても人の手では割れないほど硬い。それを5000年も前の素朴な石の包丁しか持たなかった時代に縄文人がいとも簡単に大量のオニグルミを真っ二つに割って食べていたらしいが、どのような方法で割っていたのか・・・?と疑問に思ったのだが、以下参考の※9によると、オニグルミを1~2時間、水に浸し、クルミの殻に水分がしみて膨張したものを、強火で炒ると、殻の水分が急に蒸発して縮む時にひびが入って少し口があくので、そのすき間に刃物を入れれば、簡単に二つに割れるらしい。クルミ割り器などを使わず、そのような割り方を編み出した縄文人はたいしたものだと思うよね~。・・・世界に誇る日本人の技術力は、このような縄文人のDNAを受け継いできているからだろうか・・・。今、改めて、感心している。
チャイコフスキーの「くるみ割り人形」は、「白鳥の湖」「眠りの森の美女」とともに三大バレエの一つに数えられるが、「くるみ割り人形」は、E.T.A.ホフマンの『くるみ割り人形とネズミの王様』の童話をもとに作曲されたバレエ音楽(作品番号71)を使用した2幕3場のバレエ作品である。童話が元になっており、ストーリーもくるみ割り人形とはつかねずみの戦争のようなファンタジー系となっている。(バレーの作品には複数の台本があり、内容も若干違うようだが、そのことは以下参考の※13、※14を参照されるとよい)。
バレエは内容的にメルヘンチックな雰囲気を持っており、誰もが楽しめる。又、バレーの内容は、クリスマスイヴの明るく楽しい夢の世界の話なので、世界的にクリスマス・シーズンに上演されることが多いようだ。
このバレエは、チャイコフスキーの音楽の魅力によるところが特に大きい作品とも言われるが、チャイコフスキーも自分自身で色とりどりの音楽を楽しんでいたのではないだろうか。
このバレエ音楽は、演奏会用組曲の形でも親しまれているが、全曲(15曲)の演奏時間は約1時間40分(第1幕60分、第2幕40分)。録音や演奏会などでは組曲や抜粋で演奏されることもあるが、チャイコフスキー自身が8曲を選んで、作品71aとして発表したものがあり、これは演奏時間も25分程度で大変良くまとまっているので、チャイコフスキーの管弦楽作品の中でも最もよく親しまれる曲となっている(バレエ組曲「くるみ割り人形」作品71a 参照)。
私は、クラシックファンでもないが、ひょんなことから、CDの「Classic Collection」を全巻を購入したが、全ての人のものを聞いてはいないが、このコレクションの中の、チャイコフスキーのこの曲(作品71aは、上掲のCDに含まれている)は明るく楽しい曲なので何度も聞いている。どの曲もいいが、「花のワルツ(第2幕)」は、全曲中もっとも華やかで有名な曲だ。以下で聞けるので好きな人は聞いてみるとよい。
YouTube-花のワルツ チャイコフスキー
クルミは、殻が非常に固いので、それを利用して、手のひらにクルミを握り込んで転がすと握力の鍛錬になるほか、老化の防止になるなどの効用もあるというので、何処へ旅行に行ったときか忘れたが、今は亡きおふくろに土産に買ってきた(このページ冒頭の画像ののもの)が余り使っていなかった。今は、私が、机の引き出しに入れておき、ときたま、暇なときなどに、気分転換も兼ねて利用している。
最後に、考古学の研究によれば縄文期の人々のとるカロリーの半分以上は木の実だったという。現代のおやつ的な木の実に比べると、近代の米や麦にあたる重要な役割を担っていた訳だ。
木の実(ナッツ)には、子孫を残すために必要な成分が凝縮されているため、ビタミンを中心として良質な栄養素が豊富に含まれており、炭水化物、アミノ酸、脂質、ビタミン、ミネラルがバランスよく、高い活性状態で含まれているなど、ほかの食物にはない長所があるらしい。健康に有益な食物としてナッツを適当に食べるのは良いかもしれない。ただ、その際、無塩で、ロースト(焙煎)していない新鮮なナッツを選ぶようにしなくてはいけないらしい(※15 、※16、※17参照)。
参考:
※1:長野県東御市HP
http://www.city.tomi.nagano.jp/
※2:どんぐりころころ
http://blog.goo.ne.jp/knockon1981/e/555f27171cfb58955229ccf9b501b179
※3:正心誠意 【氷川清話】
http://ameblo.jp/netgikai/entry-11017220955.html
※4:谷垣総裁「綱領すらない政党は政党としての基礎的な要件欠く」 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=DwONKzgDCVY
※5:ELCネット:二次林
http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=2047
※6:公式ホームページ 特別史跡「三内丸山遺跡」
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/
※7:縄文時代の環境、その1-縄文人の生活と気候変動
http://ofgs.aori.u-tokyo.ac.jp/kawahata/chishitsu_news_n669_p11-20.pdf#search='縄文時代の環境、その1-縄文人の生活と気候変動'
※8:照葉樹林文化とナラ林文化
http://www.enyatotto.com/donguri/ikiru/bunka.htm
※9:ECO JAPAN:木の実を生かす縄文人の知恵
http://eco.nikkeibp.co.jp/article/column/20100414/103613/
※10:木のメモ帳:樹の散歩道:クルミいろいろ 何やら名前がややこしい
http://www.geocities.jp/kinomemocho/sanpo_kurumi.html
※11:GOOの樹木図鑑
http://www005.upp.so-net.ne.jp/goostake/GOO/SCNAMEK1.HTM
※12:連載エッセイ「ドイツ我楽多市」 第8回 「くるみ割り人形1 怖い顔?」
http://www.kumpel.jp/essei/essei08.htm
※13:「くるみ割り人形」の基礎知識
http://homepage3.nifty.com/masahirokitamura/nutcracker-g.htm
※14:ストーリー辞典:くるみ割り人形(原作E.T.A.ホフマン版)
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/meisakudrama/meisakudrama/kurumihofuman.html
※15:細川順讃のトータル健康法:食物の効用:ナッツ(堅果・種実)
http://www.seimeiken.com/total-health/food-power/18.html
※16:木の実を食べてますか?毎日、一握りのナッツを食べよう
http://www.rda.co.jp/aliveidea/aliveidea060915.html
※17:ナッツの栄養
http://the-nuts.kakubetsu.com/
草木名のはなし
http://www.ctb.ne.jp/~imeirou/sub8.html
クルミ(Adobe PDF)
http://www.kudamono200.or.jp/JFF/hinsyu/tokusankajyu/tokupdf/kurumi1.pdf#search='延喜式 オニグルミ'
曲目解説:チャイコフスキー/バレエ音楽「くるみ割り人形」
http://oekfan.web.infoseek.co.jp/note/tchaikovsky/nutcracker.htm
くるみ博物館【くるみについて】
http://www.jpwalnut.jp/museum/walnut/
小さなミュージアム
http://www.cal-ny.com/
どんぐり図鑑
http://www.enyatotto.com/donguri/donguri.htm
平成20年度六反田遺跡発掘調査成果報告会:食にまつわる縄文人の工夫と祈り
http://www.shiga-bunkazai.jp/download/pdf/090307_rokutanda.pdf#search='六反田遺跡 食にまつわる縄文人の工夫'
シナノグルミ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%8E%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%9F

近松門左衛門の浄瑠璃『大経師昔暦』に登場するおさんと茂兵衛が姦通罪で処刑された日

2011-09-22 | 歴史
「おさん、茂兵衛」というのは、江戸時代に実際に京都で起きた今で言うところの不倫事件を脚色した小説、戯曲の登場人物であり、近松門左衛門の浄瑠璃、世話物『大経師昔暦』(だいきょうじむかしごよみ。)に、その実名で登場する。当作は、『堀川波鼓』(ほりかわなみのつづみ。)、『鑓の権三重帷子』(やりのごんざかさねかたびら。)とともに近松三大姦通物といわれている(※1の世話物24作品参照)。
京都・烏丸通の大経師・浜岡権之助(のち意俊〔いしゆん〕)の女房さん(当時19才)と手代の茂兵衛が下女たまの手引きによって密会を重ね、のち、駆け落ちし、3人は丹波国柏原挙田(アグタ)に隠れ住んだものの、天和3年(1683年)8月9日、幕吏(幕府の役人)手下の者に見つけ出され捕縛連行された。奉行所において詮議の末、不義密通(姦通)の罪で、獄(罪人を閉じ込めておく所【獄舎】)に繋がれ、同天和3年9月22日(グレゴリオ暦1683年11月10日)、市中引き回しの上、九条山(三条通り東山につきあたるところ)西麓の粟田口(京の七口の1つ)処刑場において、さんと茂兵衛は(はりつけ)、たまは獄門に処せられた。
『諸式留帳』には、「天和三年十一月 からす丸四条下る大きやうし(大経師)さん 茂兵衛 下女 右三人 町中御引渡し 粟田口にて 磔-さん 茂兵衛 獄門-下女たま」とあり、処刑ののち、5日間、ここで晒された。のちになって粟田口刑場跡からさんと茂兵衛の墓が発見され、山科区大塚西浦町の宝迎寺の墓地に移されたそうだ(※2)。
この実際に起きた事件を題材に、いち早く小説に取り上げたのは、当時浮世草子作家として地位を築いていた井原西鶴であり、この姦通事件のあった3年後の貞享3年(1686年) には、『好色五人女』(5巻5冊)の「中段に見る暦屋物語(おさん茂右衛門)」として書き上げていた(茂右衛門、実説は茂兵衛)。それから33 年後、近松が、その三十三回忌を当て込んで近松の『暦屋物語』(※3参照) を脚色し、『大経師昔暦』の題で、人形浄瑠璃として書き上げ、正徳5年(1715年)春ごろ大坂・竹本座(コトバンク参照)で初演をし大ヒットした。
同題材を、おさんの積極的な恋情と、それにつき動かされていく茂兵衛(近松では茂右衛門)・・・といったおさんの愛欲本位に扱った西鶴の『好色五人女』に対し、近松は、姦通の動機を、おさんが夫意俊(いしゅん)の下女お玉(近松ではおりんの名で出てくる)への邪恋を懲らしめるため、お玉と寝所を取り替えたことによる、暗闇の中での人違いでおきた偶然の過ちとし、事件がおさんの両親、お玉の伯父赤松梅竜(ばいりゅう)など、周囲に及ぼす悲劇を克明に描いている点に特色がある。又、二人が京の町を引き回された後、処刑されようとするとき、おさんの父母の菩提寺・黒谷の東岸和尚が駆けつけ、衣の徳によって二人の命を救う・・・・といった結末になっているのは、この作品が年忌浄瑠璃として作られたものだからだろう。
当作品は元文5年(1740年)近松門左衛門の十七回忌追善の切浄瑠璃として、『恋八卦柱暦』(原本本文は※4:「近代デジタルライブラリー」でみることが出来る)と改題して上演され、その後もっぱらこれが上演され、さらに増補され、歌舞伎や浄瑠璃で上演された。
近代以降は新解釈脚本も多くつくられ、第二次世界大戦後は、『大経師昔暦』を、下敷きにした作家の川口松太郎の小説(オール読物所載「おさん茂兵衛」。後に『近松物語』と改題。1954年)が劇化され新派(コトバンク参照)の当り狂言になり、続いて、当小説を、依田義賢が脚本を執筆し、溝口健二監督が『近松物語』と題して映画化した(※5、※6参照)。
冒頭掲載の画像が、1954(昭和29)年11月公開の大映映画『近松物語』のポスターである(Wikipediより)。
舞台は暦発行の権利を持つ大経師の家。主人の以春は金にも厳しいが、女狂いも絶えず、そんな夫を諌めるつもりで女中部屋に寝ていたおさんと、お玉に礼を言いに来た茂兵衛が鉢合わせになり、そこへ主人がやって来るという、偶然が誤解を招き、二人の逃避行が始まる。逃避行の間に、二人は真実の愛に目覚め至福のまま、磔の刑場に運ばれて行く。
茂兵衛役の長谷川一夫香川京子(おさん)の息もぴったり合って、二人の愛を知った演技に説得力がある。それにしても、進藤英太郎(大経師以春)の憎たらしい演技は天下一品である。
1950年代は日本映画の黄金期であり、当時映画を見るのは、時代の最先端の情報を全身に浴びているような充実感があった。特に「近松物語」が公開された1954(昭和29)年は質的にも日本映画史上のひとつのピークだったといえる。黒澤明の「七人の侍」(ベネチア国際映画祭銀賞)はこの年に公開され、世界のトップクラスの監督にも大きな影響を与えた。前年の衣笠貞之助は、「地獄門」がこの年カンヌ映画祭でグランプリを得た。
これらに負けない素晴らしい映画を作ったのが溝口健二監督である。
彼は、ベネチア国際映画祭で、前々年の「西鶴一代女」(☆)、前年の「雨月物語」(☆)に続いて「山椒大夫」(☆)で銀賞を受賞と、3年連続で入賞するという快挙を成し遂げている。そして、この年に「近松物語」(☆)に公開した。
余談だがこの年には、木下恵介の「二十四の眸」が大ヒットした。十五年戦争の被害をしみじみと語ったこの映画は全国民に感銘の渦を巻き起こし、戦争・再軍備への警鐘をならした。又、特撮怪獣映画「ゴジラ」の第1作もこの年だが、単に怪獣映画ではなく、水爆実験反対と言うメッセージが含まれていた。
このころスターで輝いていた女優は、「二十四の眸」(☆)の高峰秀子、美人の鏡と仰ぎ見られていた原節子(「山の音」など)、それに、「近松物語」(おさん)や、「山椒大夫」(安寿役)などで清純さと懸命さを与えていた香川京子であった。
当時、時代劇では、いかにも強そうなスターたちが、英雄豪傑を演じ、ラブシーンなど抜きで、チャンバラを演じていた。その代表が、「七人の侍」の三船敏郎であるが、歌舞伎ゆずりの和事演技で成熟に達していたのが長谷川一夫である。お子様向き連続時代劇で人気上昇を続けていたのは中村(萬屋)錦之助であった。そして、この頃の悪役の代表が、進藤英太郎であり、「山椒大夫」での進藤演ずる山椒大夫のいかにも憎々しげな演技は、今でも強烈に私の脳裏にも焼きついているが、「近松物語」でも、大経師以春で、その憎らしさを思う存分発揮している。
そんな中で、関西歌舞伎の和事の女形だった長谷川も剣をもって華麗なチャンバラを演じていたが、余り強そうでないので、子供たちには人気は高くなく私も余り見ていなかったが、当たり役となった「銭形平次」などは面白かったので殆ど見ている。
だから彼のファンの中核をなしたのは、女性層であった。二枚目スターとは、本来、歌舞伎の言葉で、ラブシーンのある美男子のこと(※8参照)。一見して頼りないくらいの優男が演じ、立ち回りは殆どやらない。そんな二枚目の典型のような長谷川の人気の源は、相手役の女性との粋で色香の匂うやり取りだ。恋愛がらみの情緒纏綿(じょうちょてんめん。=情緒が深くこまやかなさま。情緒が心にまつわりついて離れないさま)たる演技はお手のもの。
彼は、映画館の客席の女性がみんな自分にウインクされたと思い込むような演技を心がけたというが、そんな、彼の“流し目”は誰も真似の出来ない色気たっぷりのものである。多くの話題作があるが、大衆映画一筋だった彼が例外だが、本格的な芸術作品に取り組んだのがこの溝口の「近松物語」である(今までの映画のところで、☆印のあるものは、以下参考の※9:「懐かしの映画館 近松座」で名場面のワンシーン入り解説があるので参照されるとよい。
この映画「近松物語」は、近松の浄瑠璃「大経師昔暦」をベースに、西鶴の「好色五人女」の中の「中段に見る暦屋物語(おさん茂右衛門)」を組み合わせてよりリアルな感じ(人間の真実を描いたもの)に仕上げられている。
西鶴と近松の作品の扱い方などは先に簡単に触れたが、以下参考の※10:「国立劇場二月文楽・・・「大経師昔暦」 - 熟年の文化徒然雑記帳」を見ると分かり易いだろうから、これから映画「近松物語」のDVDなど見るのであれば、その違いを知っておくのも良いだろう。
この映画の結末は、映画が始まって直ぐのシーンとそれを眺めながらの登場人物の会話で暗示されている。

ある日、縛られ馬に乗せられ不義密通の罪で刑場に運ばれていく一組の男女が町を通り過ぎる。
その時、商家からその光景を眺める以春は、傍らの妻に言った。

「これから磔にかかって、晒し者にされんのや。本人だけやない。家の恥や。女子のすることは恐ろしい。武家が不義者を成敗することができなんだら、家は取り潰しや」
「あんなあさましい目に遭うくらいなら、いっそご主人に討たれてしまった方がええのに・・・」
大経師の若い妻、おさんがそれを眺めていた。そんな夫婦の会話から離れたところで、女中たちの正直な反応がある。
「男はどんな淫らな真似もできるのに、女子も同じことしたら、何で磔になるのやろ。えらい片手落ちの話やな」とお玉。
「人を殺したり、お金盗んだのと違うのに」、「ほんまに、あんなの可哀想や!」と別の女中達。
「それは可哀想や。気の毒やと思うけど、人の道はずしたらいかん。それが御政道の決まりや」・・・女中たちに不満をぶつけられて、茂兵衛はそう答える。

この時、この光景と同じようなことが自分たち、大経師の家で起こるとは誰もが、想像だにしなかっただろう・・・。
現代で言う不倫は、古くは姦通、不義密通といった。今の世と違って、姦通罪は、立派な犯罪行為であり、その罪は死罪と相場が決まっていた(※11 )。
特に問題となったのは人妻が他の男と関係を持った場合であり、夫が武士である場合、妻と相手の男を斬り殺す「女敵討」(めがたきうち)が認められており、姦通の現場を見つけたら、夫はこれを成敗しても罪に問われることはなく、逃げたら追いかけて討ち果たしても良い。と言うよりも武士にとってはそれが義務でもあった。
しかし、本当に妻を斬り殺してしまうのは可哀想だとか、大騒ぎして「御家の恥」を世間に知られると恥になるので、穏便に済ますことも多かったようだ。尚、正妻のある男が他の婦女と私通(夫婦でない男女がひそかに肉体関係をもつこと。密通)しても姦通罪は成立しない。
姦通罪は、夫を告訴権者とする親告罪とされていたので、被害者が訴えない限り表沙汰にならない。姦通現場に乗り込むなど動かぬ証拠を掴まないかぎり奉行所など司法機関が訴えられた二人の関係を見極めるのが難しい。
一時の感情のもつれで訴えられればきりがなく、当事者間か双方の家主地主など土地の顔役が話し合う内済(示談のようなもの)を命じ、お互い冷静に話し合い、それでも成立しなければ訴訟を受け付けていたようだ。内済を経て訴えるため、実際には内済金を支払って解決することが多かったようであり、内済金の相場もその土地や身分などで自然と決まり、世間では常識のように知られていたようだ。武家は訴えると「御家の恥」を世間に知られるだけでなく、当主の「家内不取締り」を理由に減俸などの処分を受けることがあり、訴えるリスクが高く、一時的な激情で行動をするものではない限り、まともな武士は内済金で済ませるのがふつうだった。
このような姦通罪には、明治に入って文明開化の時代になって以降も旧刑法が適用されていたが、同法は、第二次世界大戦後施行(1947年に5月)された日本国憲法の男女平等が定められ(14条)、同条に違反するとされ、同年10月26日の刑法改正によって廃止されるまでは存在していた。
しかし、不義密通は大罪にも関わらず、研究によると、江戸時代には、奔放な浮気妻は意外に多かったようであるが、夫の寛容に許されている事も多く、特に、幕府のお膝元の江戸とは違って、関西地方ではその反応も微妙に異なり、姦通の罪を犯した者の過半が当事者間の金銭の遣り取りなどの内済で処理されていたようであり、その意味から、一般庶民の恋の暴走などがそれ程、世論の好奇の対象となるほどのものではなかったがようなのだが、このおさんと茂兵衛は、町人であるのに、どうして、このような重罪に課せられ、そして大事件になってしまったのだろうか・・・?
それは、事件の舞台となった大経師の家の家柄とその家の妻と手代による不倫であったからのようだ。
もともと、不義密通の罪は、武家を初めとして社会的に影響力のある者がこのような世界に踏み込んだときの大罪であり、一夫一婦制を範とすべき者たちが侵した秩序破壊に対するペナルティーとして科せられたものであった。
経巻や書画類を表装・表具を職とする表具師のことを「経師(きょうじ)」(※13参照)というが、大経師は、その元締めであり、朝廷の御用を務め、更に、を扱い、造暦にあたった賀茂・幸徳井両家(暦道参照)から新暦を受け、『大経師暦』(※5)を発行する権利を与えられ、町人階級ながら、苗字帯刀をも許された、学識もあり、格式の高い由緒ある家柄であった。
しかも、この暦の発刊の独占権により相当な財を成していたようである。だから、おさんとて、大変な家のお内儀なのであった。そんな格式ある大経師の家の内儀と手代との不義密通であったから、世間での好奇の対象ともなり噂も拡大し、内済ではすまされず、厳しい法に照らして処罰されたのだろう。
それと、この事件が起こった背景には、大経師の以春とおさんの年令も関係しているようだ。
西鶴の書いているところによると、大経師の美人女房と歌われたおさんは、京の男たちの注目の的になるほどの美しい女であった。なかなかうるさい男であるが、もうすっかりやもめ暮らし(妻をなくして一人生活をしていた男の意)が長くなっていた大経師の以春が藤の花見時期に藤の一房をかざして歩いて来るその美しい姿を見た途端、これこそが望み通りの女であると、決めたが最後、大枚をはたいて仲人女を立て、あっという間に女房にしてしまったというから、以春はこのおさんには惚れており、大事にはしていたようで、おさんもまた、望まれて輿入れした幸せを実感しながら、仲睦まじく3年の月日を送っていたという。
輿入れから3年経った年におさんは、茂兵衛と不義を犯し、捕らわれ処刑されるが、この時、19歳だったと言うから、裕福な商家に育った美しい少女だったおさんは世間のことも恋愛のことも、まだよくわかっていない14歳のときに、傾き始めた実家の為に30歳も年上の以春の後添え(後妻に同じ)に入っていたことになる。
事件は、実家が金に困り家を質に入れたその金の利子にも詰まっていると実の兄から泣きつかれたおさんが、亭主に何とかしてもらおうとすがるが、吝嗇(りんしょく)家故に断られ、そのくせ女狂いの絶えない以春は妻以外の女中のお玉に恋慕(れんぼ)している。このような中、お玉の寝所に忍び込む以春の魂胆の醜悪さをお玉の口から知ったおさんが、それを懲らしめようとして女中部屋に寝ていたお玉と寝所を取り替えたことによる、暗闇の中での人違いでおきた偶然の過ちと・・・というか、まだ少女のように幼い若妻の浅はかな振る舞いが誤解を招いたことが種で不義密通の疑いをかけられ、二人の逃避行が始まるのだが、この事件、不義密通というよりも、恋に目覚めた少女と若い美男手代との純で激しい恋物語であった言えるだろう。
戦国時代からの家父長権の確立の過程で、女性にだけ貞節を求め、近世に至って「武家も町家も不義は御法度」と家父長制的家(家制度参照)の存続、血統の維持から、自由恋愛、自由結婚(当時は、馴合夫婦〔婚姻届けを出さずに夫婦として暮らしている〕と呼ばれていた)は法的に強力に禁じられていた。一方、男性は武家も町家も経済力さえあれば、何人でもを囲うことができ、そうした意味では明らかに近世社会では性規範のダブルスタンダードがまかり通っていたといえる。
おさんは金銭万能の社会に絶望し、愛にも失望していた。一方の茂兵衛は主人以春の誤解から、不興を買い、手代の地位を追われる。亭主に愛想をつかし、家に見切りをつけたおさんは、自分の実家のための金の工面に奔走している茂兵衛を追って逃走する。不義密通となれば、家の暖簾に傷がつくどころか取り潰しになる。以春は大経師の家を傷つけることを恐れて追っ手を出し懸命におさんを捜し求めた。だが、おさんは彼の家へ戻る気持はなかった。そんな二人が運命の必然によって結びついていき、逃避行を重ねる。
封建社会の矛盾やエゴイズム、そんな不条理に追いつめられた二人は、逃避の間に一度は琵琶湖畔で死を覚悟し死への道行きをする。
映画の中盤、行き場のなくなった、おさんと茂兵衛が湖に浮かぶ小舟の上で遂に「死」の選択をするシーンは、この映画の見せ場にもなっている。
参考の※9:「懐かしの映画館 近松座」の「近松物語」でそのシーンを見ることが出来る。それがここ である。
徐々にスクリーンの上手から現れてくる一隻の小舟にはおさんと茂兵衛の二人が乗っている。

茂兵衛 「いまわのきわなら罰もあたりますまい。この世にこころが残らぬよう一言お聞きくださりまし。茂兵衛はとうからあなた様をお慕い申しておりました。」
おさん 「えっ、私を。お前の今の一言で死ねんようになった。死ぬのはいやや、生きていたい。茂兵衛・・・。」

宮川一夫のカメラが映し出す徹底した映像の静寂と沈静。そこに醸し出される調和の美は、モノクロ画面の極致であり、溝口の演出の妙である。
実際に死のうと決心していたおさんが、茂兵衛の「愛」の告白によって、真実の愛に目覚め狂ったように激しく燃え上がった。そして、心中の道を選ばず、愛に生きることへ転換する。ここで二人の間は、それまでの主従の関係から恋人同士に変わると共に、以後の運命が決定され、ラストの「愛の勝利」へと加速度的に流れていくことになる。
逃避行中に役人に捕らわれた二人の罪状は、「不義密通の罪」。
背中合わせに縛られ馬に乗せられ、磔の刑場へ運ばれていく。
その光景は、彼らがこの映画の冒頭で見た引き回しの男女の表情と決定的に違っていた。その時の男女の顔はうな垂れて、晒し者にされる羞恥心に懸命に耐える者の表情だった。しかし、おさんと茂兵衛の表情は背中合わせになりながら、手を固く握り合って何と幸福そうなことか。
二人は「不義密通の罪」の罪で処罰されることを承知の上で、当時の不条理な法に敢然と立ち向かって処刑され道を選んだ。映画では、原作のおさんを現代風に解釈し、自分をはっきりと主張する凛とした女に描いており、それを、見事に香川が演じている。
大経師の家は、不義者を出したかどで取りつぶしになった・・・・・・。

しかし、大経師家が断絶をしたのは貞享元年(1684年)12月のことで、姦通事件は副次的なもので、断絶の理由は主として「当該役所の京都所司代を差し越えて、江戸奉行所へ暦板行(印刷し発行すること)の独占権を願い出、京都所司代稲葉丹後守の怒りを買ったこと」によるものらしい(※14、※2参照)。
おさんと茂兵衛の不義事件の後、続いて「浜岡権之助改易事件」という当時の暦の改易事件によって、格式の高い暦屋の大経師家が取り潰される事件が起こった(闕所〔けっしょ〕処分が下され、繁栄を誇った大店は没収。以春は京を追放された)。だから、このような大事件を取り上げた西鶴が、『好色五人女』の巻三の題を『暦屋物語』とし、近松も作品に『大経師昔暦』と題しているのだ(当時の暦の改易については(貞享暦を参照))。
尚、西鶴の『好色一代女』が本当に「好色」であるのと違い、『好色五人女』に登場する五人は皆、一途に恋する女たちである。私は近松よりも西鶴のこのような作品が好きである。
近松の『大経師昔暦』は菊池寛の『藤十郎の恋』(※15)の下敷きにもなっており、「藤十郎の恋」は、松竹から東宝への移籍第1回作品(1938年公開)である。監督は、山本嘉次郎が監督し、助監督は黒澤明が勤めた。長谷川は、前年松竹からの東宝への移籍のごたごたで暴力団員に顔を切りつけられ、再起不能といわれていたが、芸名も松竹時代の林長二郎から長谷川一夫と改め、この作品で入江たか子と共演、見事復帰した。
この映画は、1954年公開の「近松物語」に次いで、翌・1955(昭和30)年6月にも大映映画へ社長として迎えられていた長谷川と京マチ子の共演で、森一生監督作品として作れれている。
近松は、浄瑠璃だけでなく、歌舞伎の作者としても優れた作品を書いており、特に、坂田藤十郎という名優のため、多くの作品を提供した。
元禄時代(1688年~1703年)の文化は、元禄文化と言われるが、主に京都・大坂(大阪)などの上方を中心に発展した文化である。特色として庶民的な面が濃く現れているが、必ずしも町人の出身ばかりでなく、元禄文化の担い手として武士階級出身の者も多かった。
歌舞伎は上方(京都・大坂)を中心に、元禄歌舞伎(※16)と称される一時代を迎えるが、この時期、近松は歌舞伎作者として、上方の歌舞伎で活躍していた。「西の藤十郎・東の團十郎」と江戸にも名優が登場し、江戸歌舞伎の萌芽が見て取れる。
江戸の初代市川團十郎は猛々しい荒事芸を創造し人気を得ていたが、上方では、後の細やかな情を表現する「和事」(わごと。※16)に繋がる「やつし事」(やつしごと。※16)が評判を呼んでいた。「やつし事」とは、身分の高い人物が、地位を追われて流浪するさまを演じる芸であり、藤十郎は、落ちぶれた若殿が、町人に身をやつして遊郭へ通う「やつし事」を得意としていた。
映画では、「元禄11年(1698年)春、京都四条河原の都万太夫座(現:京都南座。コトバンク参照)の一代の名優坂田藤十郎と、布袋屋梅之丞座(コトバンク参照)に江戸より初上りの中村七三郎コトバンクも参照)との競演が人気を煽っていた。藤十郎は七三郎の初日の舞台をひそかに見て、さすが江戸髓一の七三郎の芸と気魄に、油断ならぬ相手と痛感せずには居られなかった。」・・・そして、藤十郎は、近松の『大経師昔暦』の濡れ場をいかにしてリアルに演ずればよいか悩み、女(四条の料亭「宗清」の女房お梶)を自殺させてまでもその芸をきわめようとする残酷非情な藤十郎の芸道精神を描いた大作である(ストーリーは、 goo映画参照)。
この作品を観た観客は、主演の長谷川一夫と藤十郎をダブらせてしまうではないか。そして、今の女性なら全く不実な役どころを演じているのが、もし、長谷川一夫じゃなかったら・・・その役者をブン殴ってやりたいくらい憎いだろう。
元禄時代以降、近松は歌舞伎の世界を離れ、浄瑠璃作者に専念するが、近松と上方歌舞伎の繋がりは、その後も続いた。

ところで、不倫の話だが、今の時代、男性の74%は不倫経験アリ(週刊ポスト2010年9月24日号。※17参照)というのだから、これが本当なら、もう、一般人の殆どの男性が不倫しているということであり、こうなると「結婚式」などで愛を確認しあっているのは何のためだろうかと思ったりする。
最も、自然界でオスが次々とメスを求めるのは、強い子孫を残すための自然の成り行きだとも言うが・・・。最近、日本では、かっての肉食系男子は減少し、草食系男子が増えていると言われている(女性は男性と逆)。
この「肉食系」と言葉は、もともと主に若者の傾向を表す言葉であることから、肉食系は、恋愛に関して異性に対しての振る舞いや積極性の強さの度合いを表す時に用いられており、その対義語が草食系である(Wikipedia)・・・らしいが、そうすると、上述の最近の男性の不倫が増えている理由は、草食系の男性が肉食系女性に食い物にされているということになるのかな~。
今の時代、男性の不倫が家庭で発覚すればそのリスクは恐らく女性の不倫よりもズット代償が大きいと思うのだが、そんな危険を顧みず、大胆不敵にも74%もの男性が不倫をしているのかと、最初は、一寸、今時の男性もたいしたもんだ・・・と思ったりもしたのだが、・・・・。よくよく考えると、今の世の中、昔と違って、女性化した男性が、男性化した女性に適当に遊ばれているのかも知れないな~。
冒頭の画像は、1954年11月公開大映映画『近松物語』。.Wikipediaより)
参考:
※1:南条好輝の近松二十四番勝負
http://www.k.zaq.jp/nanjo/nk5.html
※2:京風:おさん・茂兵衛
http://blog.goo.ne.jp/ue1sugi2/e/ee81114d48202756e1b94045afcd8abc
※3:生きて想いをさしょうより
http://www.libresen.com/rosehp/day/dayikite/ikite-index.html
※4:近代デジタルライブラリー:-恋八卦柱暦-本文 -
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992831
※5 :近松物語 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD12360/index.html
※6:人生論的映画評論: 近松物語(1954年) 溝口健二
http://zilge.blogspot.com/2008/12/54.html
※7完璧な映像芸術の粋   溝口健二 「近松物語」
http://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/62453581.html
※8:二枚目(にまいめ) - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/ni/nimaime.html
※9:懐かしの映画館 近松座
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/movie.htm
※10:国立劇場二月文楽・・・「大経師昔暦」 - 熟年の文化徒然雑記帳
http://blog.goo.ne.jp/harunakamura/e/8e20746b9a136b92ba49b087295baabf
※11:江戸時代の刑罰
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/keibatu.htm
※ 12:国立国会図書館 「日本の暦」―日本全国の地方暦
http://www.ndl.go.jp/koyomi/rekishi/03_chihou.html
※13:経師・表具師
http://tobifudo.jp/newmon/name/kyoji.html
※14:諏訪春雄通信54
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f06/suwa54.htm
※15:青空文庫・菊池寛 藤十郎の恋
http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/503_19916.html
※16:文化デジタルライブラリー:歌舞伎事典
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/main.html
※17:男性の74%は不倫経験アリ、相手の3分の1超が仕事関係(NEWSポスト)
http://www.news-postseven.com/archives/20100927_1263.html
「近世女性の罪と罰-不義密通の世界」
http://homepage2.nifty.com/akibou/kennkyuuno-to.htm
良香の文楽・浄瑠璃メモ
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/193057/49983/62005383
藤十郎の恋 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p24335/
西鶴一代女 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD14923/index.html
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http://100.yahoo.co.jp/
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2011-09-18 | ひとりごと
その軽さや容貌、それに、都内で開かれたイベントでのハトの真似などから「ハトポッポ」と揶揄されていた鳩山由紀夫首相。自分の思いついたことを閣議にも諮らず口にして問題を引き起こすが、何か問題が起こると他人のせいにして自分は何も責任を取らないことから「ズル菅」と酷評されていた菅直人首相。
まわりから止めろやめろと言われながら居座っていた菅首相が退任決意後の今年(2011年)8月29日の民主党代表選で、「どじょうはどじょうの持ち味がある。金魚の真似をしても出来ません。」と自らを「どじょう」に例えた「どじょう演説」で中間派の支持を得て、見事民主党党首に選ばれ、新首相に指名されたことから、 野田佳彦内閣は、マスコミから「どじょう内閣」などと呼ばれている。
野田氏が代表選の演説で自らを「どじょう」に例えたくだりは、書家・詩人の相田みつをの作品に出てくる「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」を下敷きにしたものだそうだが、作品は、民主党の輿石東参院議員会長の紹介で知ったという。
この演説が、脚光を浴び、マスコミが「どじょう、どじょう」と騒ぐものだから、今、世間ではどじょうブームが興っているようで、「どじょう」を収めた作品集「おかげさん」を出版するダイヤモンド社(東京)には書店から注文が殺到しているらしい。又、どじょうの柳川鍋も大繁盛とか・・・。
私が子供の頃など、何処でも、獲れたのであろううなぎ(鰻)と同じように、町中の辻や市場の魚屋などで、どじょう(泥鰌)を捌いて売っている姿をよく見たものだが、最近は獲れなくなったのかまた、どじょうそのものを食べる人も少なくなったのだろう・・どじょうを売っている魚屋や食べさせる店も余り見なくなった。
私は現役時代日本国中あちこち、出張ばかりしていたが、飲兵衛なので夕食時には地元の料理屋で、一杯やりながら地元の産物を食べるのが楽しみであったが、たしか、静岡県島田市に上から読んでも下から読んでも同じ屋号の「やぶや」というどじょう料理で有名な店があった。出張先の人に教えてもらった店だが東海道を行き来している「通」の人は、わざわざ途中下車して食べに寄るといわれた。
私など、今は何でも食べれるようになったが、もともとは子供の頃から魚が嫌いだったので、魚類は本当に新鮮な良いものでないと今でも食べない。どじょうは泥臭いので特にそうだ。しかし、ここのどじょうは、大きくて新鮮なので、蒲焼・竜田揚げ・柳川と何を食べても美味しかったのを思い出す。
それに、どじょうといえば、私など若い頃は宴会で、盛り上がってくると、必ず誰かが、「どじょう掬(すく)い」を踊っていたことも思い出す。「出雲名物 荷物にならぬ 聞いてお帰り 安来節」 といった『安来節』とともに、踊る伝統的な「どじょう掬(すく)い」は、かって代表的な御座敷芸であったが、正式な歌や踊りがどんなものかはよく知らないがいろいろとあるらしい。
宴会の席などでは、手ぬぐいを頭に巻いて、手に笊(ザル)を、腰にビクを付けて割り箸を鼻の穴に差込むなどして「あら、えっさっさ~」の掛け声とともに周囲の手拍子をもとにひょうきんさを前面に踊っていたが、凡そ、以下YouTubeでの踊りのようなものだった。
安来節 – YouTube  
http://www.youtube.com/watch?v=TRJR4UoDNzw
この愉快な踊りの由来は、江戸時代末期にまで遡り、安来で、ドブロク徳利を抱えた「飲ン兵衛」達が、近くの小川で捕ってきたどじょうを肴にいつもの酒盛りを始めた時、ほろ酔い気分も手伝ってか、そのどじょうを掬う仕草を安 来節に合わせて即興的に踊ったのが始まりと聞いていたが、『安来節』(男踊り)のどじょう掬いは実は、この周辺の名産である安来鋼(ヤスキハガネ)を作るたたら吹き製法の際に原料として使われる砂鉄採取の所作を踊りに取り込んだものとされているようだ(※1参照)。
今日安来市では、「安来どじょう祭り」が行われるようだが、どじょうブームで、今回の祭りは賑やかになるだろう(※2参照)。
今日、「どじょう」を題に、このブログで「ひとりごと」を書こうと思ったのは、安来市で「安来どじょう祭り」が今日開催されることを知ったからで、普通のどじょうの話を書くつもりではなく、どじょうにかこつけて、「どじょう内閣」誕生のことを書きたかったからだ。その意味では、これからの話はちょっと、面白くないかも知れないが、とりあえず、鳩山内閣成立から野田内閣成立までを簡単に辿ってみよう。
日本がデフレ不況からの脱出が出来ずに苦しんでいる中、第45回衆議院議員総選挙において民主党が単独政党としては総議席の3分の2に迫る史上最多の308議席を獲得した。
そして、衆参両院の首班指名選挙で国民新党社会民主党を連立与党(民社国連立政権)として、民主党代表の鳩山由紀夫氏(以下氏は称略)が第93代内閣総理大臣に任命されたのが、今からまだ、たった2年前の、2009(平成21)年9月16日のことであった。この非自民勢力による政権(非自民・非共産連立政権)の誕生は実に1993(平成5)年の細川内閣以来16年ぶりの出来事であった。
脱官僚・政治主導を掲げた鳩山内閣発足当初は、その支持率も70 %を超えていた(NHK調査で72 %。※3参照 )が、首相自身や小沢一郎(当時民主党幹事長)の金銭問題、普天間基地移設問題を巡る混乱もあり、8ヵ月間で21%に低下した(ここ参照)。
特に後者の普天間基地移設問題の対応の不味さは、日米関係を悪化させ、沖縄県民の反感を買い、社会民主党の連立離脱をも招き、党内からも鳩山への退陣要求(鳩山おろし)が起こったことから、鳩山は民主党代表を辞任し、同時に小沢も幹事長から退任させた(詳細は鳩山由紀夫内閣を参照)。
そして、内閣総辞職後行われた2010年6月4日の民主党代表選挙は、時間的制約の事由から投票権は国会議員のみに限られ、一般党員やサポーターの参加は見送られたが、民主党にとっては党首選挙の結果がそのまま次期内閣総理大臣を決めることが投票の段階であきらかになっている初の選挙となった。
この選挙では、小沢の党運営に不満を持っていた枝野幸男仙谷由人らが支援した菅直人が、一新会(小沢グループの1つ)の一部の支援を受けて立候補を表明した「反小沢」の色彩が強い「七奉行の会」からは距離を置く、樽床 伸二との2名だけの選挙戦が行なわれ、後継代表・首相には勝利した菅副総理兼財務相が就任した。因みに、この菅内閣の財務相には野田佳彦が副大臣から昇格する形で就任しているが、閣僚の中でも日本の財政を預かる最も重要ともいえる財務相に初入閣での就任は初めての例であり、戦後の大蔵大臣時代を含めても比較的異例の抜擢である(日本の大蔵大臣・財務大臣一覧 参照)。
しかし、翌月の7月11日投開票の民主党にとっては政権交代後、初の与党としての大型国政選挙である第22回参議院議員通常選挙で、菅の消費税をめぐる発言の迷走などがひびき、現有議席数を大きく落とし、結果、参議院で過半数を失うねじれ状態を作り、党内での求心力も低下した。それは選挙後の、NHK調査で菅内閣支持が参議院選前の6月の61%から39%に下落していることにも表れている(以下参考の※3参照)。
その2ヵ月後の9月に行われる党代表選では小沢に近い議員グループが小沢を擁立する動きとなり、党内を2分する全面対決の様相となったことから、鳩山らは、小沢の出馬見送りと引き換えに参院戦敗北などの責任者でもある枝野幹事長、仙谷官房長官の更迭や小沢の要職での起用、トロイカ体制(小沢・鳩山・菅の3人の指導者により組織を運営する体制)に輿石東参院会長を加えた「トロイカ+1」の新体制(挙党一致体制)の構築などを菅に要請するが、調整が取れず、最後の菅-小沢会談も物別れとなり、鳩山もこれまでの菅続投支持から一転、小沢支持を表明。代表選において両陣営の激しい多数派工作が行われるが、菅は”報道各社による世論調査”で、小沢を大きく上回る支持を得たことを背景に攻勢を強め、選挙戦で”マスコミなどで金銭問題が取りざたされている”小沢を徹底的に非難する形で、再選を果たした(2010年9月民主党代表選挙」も参照)。
余談だが、この選挙は、小沢を嫌うマスコミの徹底的な小沢批判と、そのようなマスコミ情報を絶対的に正しいものと信じて踊らされている国民の世論(民意ともいう)」を利用した菅の勝利といえるだろう。しかし、なぜ小沢がマスコミにこれほど嫌われ批判されているかなどは、マスコミが報道するはずもなく、ネットでの意見以下参考の※4、※5など一読しておくのも良いだろう。凡そ、殆どの国民は情報をマスコミ報道でしか得る手段をもっていないのが実情で、そのような中でのマスコミが言うところの「国民の民意」などというものは、マスコミ自信が報道を通じてつくってきたものだということを知っておかなければならないだろう。
私も、菅が首相の座に就きたい思いから、マスコミの言う”国民の民意”を見方に、今の民主党をつくり上げるのに伴に努力してきた仲間、というよりも、むしろ最大の功労者とも言えるかもしれない小沢を排除したいがために、過激に誹謗・中傷して選挙戦に勝利したその翌日(2010年09月15 日)に、このブログで、これからの菅政権の危うさを予測し、もし、この菅政権が上手くゆかなかったとき、その結果については、異常なまでの報道の仕方で民意を作り出したマスコミと、それに踊らされている国民も責任を感じるべきであろうことを書いておいた・・・ことをここに付け加えておこう(民主党代表戦「菅代表再選」参照)。
それはさておき、この代表選挙後に行われた内閣改造・民主党役員人事では、非小沢系を要職に起用し、「脱小沢」を鮮明にしたことにより、菅内閣の支持率は急速に回復(NHK調査65%)するが、代表選期間中に発生した尖閣諸島中国漁船衝突事件への対応(船長の釈放決定には裏で仙谷の動きがあったようだ。)が批判を浴びたことなどにより、支持率は再び低下に転じたが、東京地検特捜部が、2度までも小沢を嫌疑不十分で不起訴としていたものを、昨・2010(平成22)年10月、小沢に対して検察審査会が2回目の起訴相当議決をし、今年・2011(平成23)年1月に強制 起訴されたことを受け、菅は今年(2011年)1月4日の年頭記者会見の対小沢出処進退発言(※6、※7参照)などでやや支持率回復。民主党は小沢を裁判確定まで無期限の党員資格停止処分(※8参照)にした。
以後も政権の低迷は続き、前原誠司が自身の外国人献金問題で外務大臣を辞職した外、菅自身にも外国人献金問題が浮上する(3月11日)が、同日に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)及びそれに付随する形で福島第一原子力発電所事故が発生。そのため、野党も復興対策を円滑に進めるために国会での外国人献金問題追及もうやむやに・・・(※9)。
しかし、4月に行われた統一地方選で与党が敗北するなど、与党・民主党内でも菅政権に対する不満が募り、小沢を中心とする民主党一部勢力が「菅おろし」への動きを活発化させるようになる。
そして、6月2日には、菅の地震・原発災害への対応が不十分であるとして野党の自民・公明両党により内閣不信任決議案が衆議院本会議に提出・上程された。これに対し、小沢に近い議員を中心に野党の不信任案に同調する動きが強まり、鳩山も同調する構えを見せ、一気に不信任決議の可決や党の分裂が懸念される事態となったが、菅は不信任決議投票の本会議を前に鳩山と会談し、自らの退陣を匂わせて不信任決議案に反対させる合意を取り付け、その後の民主党代議士会で菅首相の震災対応に「一定のメド」後の退陣表明をしたことを受け、小沢グループは不信任案に同調する方針を撤回し、当日の衆議院本会議での内閣不信任決議案は否決された(菅おろし参照)。
しかし、その後、退陣の時期はあいまいになったまま推移し、6月12日菅首相の「菅の顔が見たくなかったら自然エネルギー買取法案を国会で通せ」発言が出てきた。
そして、ねじれ国会の中、党幹部が国会提出議案につき野党との調整を進めている中で、6月27日には自民党を離党した浜田和幸参議院議員を総務大臣政務官に任命。与野党から批判が相次いだ。
6月18日に海江田万里経産相が定期検査が終わった原発は再稼働するよう促す「安全宣言」を出したが、それが政府としての公式見解であるかどうかが論点となるが、7月6日には国会で菅首相が玄海原発再稼働はストレステスト前提と突如表明し、閣内不統一が批判の的になる。又、7月5日の被災地での「上から目線」の放言により在任9日目で松本龍復興担当相が辞任したことにより、首相の任命責任が問われた。このようなことで、7月の内閣支持率は16%(不支持率68%)と麻生太郎内閣の最終支持率15%に迫った。そして、同月、民主党と自民党の支持率もそれぞれ13.6%:23.4%と大きく逆転した(※3参照)。
一旦退陣する意向を示唆しながら続投への意欲を見せ、前党首鳩山から「ペテン師」と厳しく非難されながらも、3ヶ月間首相の椅子に居座っていた菅も、2011年8月26日14時から行なわれた民主党両院議員総会で自らの退陣条件としていた「特例公債法案」と「再生可能エネルギー固定価格買い取り法案」が本日の参院本会議で成立し、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の対応に「一定のめど」がついたとの判断を示し、同日をもって民主党代表を辞任することを表明した。
それに伴い、8月29日(月)の両院議員総会で新代表が選ばれる段取りとなり、同日、代表選挙を行った結果、5候補が立候補したが、いずれも過半数に達せず、第1回目の投票で小田・鳩山グループの推す海江田経済産業相の143票に次ぎ、反小沢の仙谷党代表代行や岡田克也党幹事長が担ぐ、野田財務相が予想外の票を伸ばし102票を獲得した。
過半数を獲得した候補がいなかったため決選投票となり、「どじょう演説」で、小沢への批判票と共に中間派の票を集めた野田が215票を獲得して177票を獲得した海江田を逆転し、第9代民主党代表に選出された。
この民主党の代表選挙での野田の勝因の一つは、先にも述べた態度を決めかねていた「中間派」議員の心をわしづかみにした野田の“名演説”だった。「どじょう発言」は1回目投票前に飛び出した。「ルックスはこの通りです。どじょうはどじょうの持ち味がある。金魚の真似をしても出来ない。」
代表戦で野田氏を支援した若手の衆院議員は「どじょうは野田選対で考えたキーワード」と明かしたという。
また、「どじようですが、泥臭く国民のために働いて政治を前進させる」との言葉にも見られるように、格好は悪くても、一歩一歩政策を実現する姿をイメージしてもらおうと思った」とも述べているという(朝日新聞8月30日夕刊)。
日本大学芸術学部の佐藤綾子教授(パフォーマンス心理学)は、「イメージ戦略」が当たったと評価している。どじょうは泥臭さを連想させ、政界のドロドロとした世界で生きていく逞しさを感じさせると共に、大衆的で親しみも持ちやすい。
民主代表選1回目の投票は、マスコミもなども殆どは小田、鳩山両グループが推す海江田が勝つだろうことは予測していたが、又、その際5候補が乱立していることから、過半数は、確保できないだろうとも予測していた。そして、決選投票では、以外に大勢いる中間派の票の行方がどう出るかが左右するであろうと注目していた。そして、民主党の代表戦では選挙前の演説が左右するとも・・・。
野田は、自分を泥臭いどじょうに例え、華やかな金魚と対比させたことで、一歩一歩良い国にしてゆくという今の日本一番大切なことを訴え、見事、中間派の多くの票を獲得した。野田は演説が得意であった。
決選投票では、第1回選挙で立候補した5人の立候補者で2位までに至らなかった3位から5位の候補を支持した人たちが殆ど野田支持に回った。これら3人の候補者は、全員野田が掲げる増税推進には、反対する立場の人たちであったが・・・。
民主党新代表に選出された野田は、翌日の両院議員総会で就任のあいさつを行い、 「ここに集っている皆さんとしっかりと手を携えて、心を引き締めて重責を背負っていく決意だ。 ノーサイドにしましょう。もう・・・」と挙党態勢を呼びかけ、また、政権運営を雪だるまに例え、「あの人が嫌いとかこの人が嫌いとか内輪もめをしていたら、雪だるまは転がり落ちてしまう」と強調した(※10動画参照)。
9月2日、国民新党との連立により、民主党が政権交代を果たして満2年で3人目の野田佳彦首相が誕生した。
野田内閣の閣僚を見ると、政権の安定を優先して党内抗争を回避するため、幹事長には、小田に近い輿石東参院議員会長に、鳩山由紀夫政権の官房長官だった平野博文氏を国対委員長にするなど、小沢、鳩山グループのほか、一度野田を支援するとしながら増税路線に反対し対立候補となっていた前原誠司を政調会長にするなど、代表選では政策面を争ったものも含めて各グループから満遍なく起用した。
そのようなことから、野田「どじょう内閣」の支持率は、67%(日経)~53%(朝日)と、発足時の支持率は鳩山(70%超)、菅内閣(60%超)には及ばないものの、それでも最後の「ダメ菅内閣」の3倍以上には増えた。ANN(テレビ朝日系列)の調査では、民主党の支持率も約10ポイント上昇し、10カ月ぶりに自民党を上回り(※11)、鳩山、菅と2代続きの竜頭蛇尾に愛想が尽きたかと思いきや、まだ過半数の国民が辛抱強く望みを繋いでいるのだから、「どじょうはどじょうの持ち味」を生かして、「どじょう演説」が選挙に勝つための単なる「イメージ戦略」だけだった・・・などと後に言われないように努力してしてもらいたいものだ。
しかし、財務大臣に、野田と同じく増税派の安住 淳を起用しているが、“野田政権が、東日本大震災の復興財源を確保するための臨時増税について、「原則5年、最長10年」としていた増税期間を、「15年から20年超」に延長することを検討していることが分かった。」”・・と、臨時増税が、永久増税になるかも知れない危険性があると心配している記事が7日付け日経新聞で報じられている(※12)。
菅政権の財務大臣時代から野田は財務省の言いなりであるとマスコミなどで論じられていたが・・・・、9月10日TV大阪「たかじんnoマネー」の”はやぶさの感動再び!”の番組の中で、今回の代表戦でも、財務省の組織内候補者として、代表選を闘い、財務官僚が裏で物凄い応援をしたからこそ、あれだけの票をとれたのだといっているのを耳にした。それが、真実かどうかは知らないが、どうも、財務省の望む増税路線を推進していきそうである。
民主党代表戦の対立候補は4人とも復興のための早急な増税に反対意見であり、当然4人を応援した人たちも同じ考えで合ったろうと思うのだが、この人達はこれからどう対応ゆく気なのだろうか。今のようなデフレの中で、経済は低迷している時に、世界一の借金国となった日本の震災やその後に起こった台風による洪水被害への復興。原子力事故やエネルギー不足の問題など解決しなければならない国内問題は山とあるものの何をどのような手順で勧めてゆくかを間違うと日本は沈没してしまうだろう。国民に増税を強いる前に、民主党が公約していた、国会議員の定数削減や国家公務員の給与引き下げなど・・・民主党の公約してきたことを、真っ先に手をつけなければいけないだろうと思うのだが・・・。
それと、今の日本を取り巻く厳しい国際情勢の中で政治の要とも言える外交や、安保などをこなしてゆけるのか・・・。鳩山、菅政権はこの問題で国の信頼を失ってしまったといえる。どじょう内閣の閣僚の顔ぶれを見ていると、防衛・外務、それに財務などの重要な閣僚が、いずれも実績の無い素人といえる人達ばかりであり、これでは政治主導による公務員改革どころか、公務員の下請け内閣になりそう気がするのだが・・・。
2011年9月5日(月)の「天声人語」に「どじょう料理は精がつくとされる。ただ『日本食材百科事典』(講談社)によると旬は夏で、泥鰌(どじょう)鍋も夏の季語である。寒くなると冬眠のため身がやせ、味が落ちるという。ひと冬がやっとこさの政権ならば、日本の再建を託すに値しない。とはいえ、自民党への懐古が募る気配もない。」とあるように、我々国民は、鬼っ子のような前政権の後に誕生した野田新政権のハネムーン期間は、暫く、その様子を見守るしかないのだろうが、何しろ国難続きの今は、悠長なことは言っておれない。「はなから金魚の輝きは求めない」ものの、確実に一歩一歩着実にやるべきことを進めてもらいたいものだ。
アメリカ大統領選でのオバマ大統領の勝利演説では「Yes, we can!(そうさ、われわれはできるんだ)」を繰り返し、その演説に米国民のみならず世界の人々が感動を呼んだものだが、演説で政治が出来るものではない。米国を率いて2年半、結果的に、オバマは有効な手はなにも打てず、先月の50歳の誕生を前に、経済の建て直しに「険しいとは思っていたがこれほど急な坂だったとは思っていなかった」と弱音を吐いていたという。
今年7月月29日発売の英誌「エコノミスト」の表紙絵には、「Turning Japanese : debt,default and west's new politics of paralysis」(日本化:負債、デフォルト、そして西欧の新たなまひ政治)という見出しで、噴煙を上げる富士山を背景に米ドルを象徴する緑色の着物姿のオバマ米大統領とユーロのマークが入ったかんざしを挿したメルケル独首相の絵が掲載され、アメリカと同じように英国の政治状況を「日本みたいになるぞ」と皮肉られている(詳しくは以下参考の※13参照)。
つまり、バブル景気崩壊以降、政治家が痛みを伴う決断、財政再建に手をつけず先延ばしにしてきた日本の政治状況は、アメリカや英国などの反面教師にされているのである。この記事を読めばオバマもへ込むだろうが、日本の政治家はどれほど真剣なのだろう。
そして、アメリカ経済も先行きへの不安が強まる中、大手格付け会社「スタンダード・アンド・プアーズ」(S&P)が、今年8月5日、アメリカ国債の格付け(ここ参照)を初めて最も高い「AAA」から一段階引き下げ、「AA+」に格下げしたが、ムーディーズも21段階中4番目の「Aa3」としている。これは他の先進国と比べると最低水準にある。
しかし、S&Pによる、日本国債の格付けは、既にリーマンショック後の不況による税収減や、過去最悪の予算を組むなど財政膨張路線をとる民主党への政権交代などが重なり急速に財政が悪化したためとして、今年1月に米国より低い「AA」から「AA-」に格下げされているのだ(※14)。
続いて今度は、ムーディーズが、8月24日に、日本国債の格付けをこれまでの、21段階のうち、上から3番目の「Aa2」( 2009年5月)から、もう1段階引き下げ、中国やチリと同水準の「Aa3」とした。その理由として、日本が多額の財政赤字を抱えている上、増え続けていることを挙げており、また、政権が変わり続けたことで一貫した経済・財政政策がとれていないことや、そこへ、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故の影響で景気回復が遅れていることなどを挙げている。証券会社の人からは、日本政府の対応次第では、もう一段の引き下げもあるかもしれないと聞いている。
・・・にもかかわらず、皮肉にも、米国債の格付けが下がり、デフォルトの危険があるとして、ドルが急落(=円高)しているのに対して、日本国債の格付けが引き下げられても円は下がるどころかこれ以降も円高が続いており、輸出関連企業等に打撃を与えているなど、日本は、より深刻な状況にあるのだ。
このような厳しい状況下の日本では、生まれたての「どじょうっ子」だからと言って、「不慣れ」だ、「不手際」だを大目に見る余裕もなくなっていることを肝に命じてやって欲しいものだが、発足当時から軽い大臣がたばこ税がどうのこうのとつまらぬことを言って、党内不一致をあらわにし、その他ボロボロつまらぬことでマスコミを騒がせてたと思うと、鉢呂吉雄経済産業相が東京電力福島第一原発の周辺自治体を「死のまち」と表現し、福島視察後記者団に「放射能をつけちゃうぞ」などと言って服の袖をなすりつけるようなしぐさをするなど不適切な言動をしたとして、内閣発足から9日目で早々と辞任をしている。
その後任には誰がなるのかと注目していたら、なんと菅第2次改造内閣の内閣官房長官していた枝野幸男が後釜に・・・。経済産業相になるのだが、経済通とも思われず、ただ、白を黒、黒を白とでもいえる弁護士上がりなので、失言はしないかも知れないが、福島第一原発事故の情報を国民に正しいく伝えず、過少に伝えていた責任は菅同様に大きいはずだが、守りのどじょう内閣は、野党からの質問に失言をしないだけのためにそんな人を、選んだのだろうか(※15参照)。
今月13日の衆院本会議で臨時国会の日程を4日間にすると強行採決し、野党から相反発を喰らい、その後与野党協議で14日となったようだが、素人のような閣僚ばかりで、国会での質問が恐くて逃げているのか知らないが、卑下するように自分をどじょうと言う野田内閣は、その弱みを隠すためにひょっとしたら強権内閣になるかも知れない危険性を感じさせた。
同じく今月13日朝日新聞で、、民主党政権の公務員制度改革などを批判し、閑職に追いやられていた経済産業省の官僚・古賀茂明が26日付で同省を退職することになったと伝えていた。
何でも、彼は枝野経済産業相に「仕事をさせて欲しい」と直談判をしたらしいが、逆に退職を勧められたという。
15日の代表質問で、みんなの党の渡辺喜美代表が「しがらみない改革のため、古賀さんを起用すべきだ」と枝野に迫ったが、枝野は、「個別の人事について答えは差し控える」との答弁するにとどまったという。
彼は優秀な官僚であるが、自民党政権や鳩山政権で、国家公務員制度改革推進本部事務局の審議官を勤め、年功序列の見直しなど大胆な制度改革を提案したが、財務省を中心に反発が強まり、2009年2月から官房付きとなり、実質的な仕事をさせて貰えなくなっていた。要するに、公務員制度改革などさせるものかと干されていたのだ。
枝野は”弁護士であり、財務省所管の公益法人「印刷朝陽会」の理事にも就いている義父から毎年献金を受けている。印刷朝陽会の理事長は大蔵省からの天下り役人であり、「天下り法人理事から献金を受け取る」のは「不適切な関係」ではないかと週刊誌(サンデー毎日2010年6月27日号: p. 133)に書かれていた”ようである(Wikipedia)。
鳩山内閣が掲げる政治主導の一環として2009(平成21)年から行政刷新会議が内閣府に設けられ、枝野は、鳩山、菅第2次改造内閣と2期に亘り行政刷新担当大臣(2期目は内閣官房長官兼務)として、事業仕分け作業をリードしたが、パフォーマンスだけは目だったものの、たいした成果はあげておらず、特にやらなければいけない国家公務員の天下り防止など公務員制度改は殆ど成果をあげていないが、官僚の援助がなければ何も出来ないような今のどじょう内閣で、公務員制度改革など本当に出来るのか。またまた、元気な蓮舫のパフォーマンスだけに終わるのではないか・・・。
兎に角、財務省主導の増税路線を進むどじょう内閣は、公務員改革の前に、震災復興財源にあてる臨時増税として法人税率の実質的凍結や所得税税増税だけは、早々と打ち出した。これなど、管政権時代の財務大臣のときから、財務省に洗脳されていたことなのだろうと、そう思って新聞を読んでいると、朝日新聞9月17日朝刊には、野田総理に、「松下政経塾出身と言ってほしくない」と16日の参議院本会議で、代表質問に立った江口克彦参院議員(みんなの党)がかっての松下政経塾時代の教え子であった首相を痛烈に批判にしていたことが伝えられている。江口氏は「『政治家の使命はいかに税金を低く抑えるかにある』との松下さんの考えを理解しているなら、増税を簡単に口にできない」と追及している。本会議終了後、江口は朝日新聞の取材に「かって『官僚主義を排す』と語った首相が今は官僚の言いなり。松下さんは天上で泣いていると思う」と述べたそうだ。・・・・こんなデフレの時に、やるべきことをやらずに増税から入るなど、東北地区の震災復興を目指しながら、日本の国そのものを破壊しかねない内閣となりそうだ。
ここしばらく続いたお寒い内閣の再現というより、もっと寒い内閣になるかもしれないと思うと、末恐ろしい気がするよ・・・。それでも皆さんどじょうはお好き!
(冒頭の画像は、2011年8月30日朝日新聞夕刊より借用)
参考:
※1:安来節保存会ホームページ
http://www.y-hozon.com/
※2:安来どじょう祭り 9月18日(日) : ようこそ安来へ -安来観光協会公式サイト
http://www.yasugi-kankou.com/index.php?view=5168
3:図録時事トピックス:菅内閣の支持率推移(歴代内閣との比較)
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/j005.html
※4:なぜマスコミは小沢嫌いなのか|永田町異聞
http://ameblo.jp/aratakyo/entry-10252411439.html
※5:阿修羅「小沢一郎事件」とは・・・
http://www.asyura2.com/11/senkyo117/msg/503.html
※6:「小沢氏は出処進退を明らかにすべき 首相の考え変わらず」:イザ!
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/481254/
※7:『平野貞夫の国づくり人づくり政治講座』 第85回 ―「 日本政治の現状(47) 」―
http://www.cmf-world.jp/web/koso7/koso7_column_tosa2_98.html
※8:党員資格停止 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E5%85%9A%E5%93%A1%E8%B3%87%E6%A0%BC%E5%81%9C%E6%AD%A2
※9:2次補正審議再開 菅首相の外国人献金問題で一時中断(msn)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110721/plc11072111150013-n1.htm
※10:野田新代表「もうノーサイドに」 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/stream/m_news/vn110829_6.htm
※11:野田内閣支持率54.6% 民主党支持が自民党上回る
http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/210905014.html
※12:野田内閣、早くも本性露呈!“財務省傀儡”で庶民いじめ
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20110907/plt1109071542005-n1.htm
※13:レックの色々日記 : オバマ&メルケル、着物&富士山
http://blog.livedoor.jp/j1bkk/archives/1805192.html
※14:為替王 : 【過去の日本国債格付け推移】
http://blog.livedoor.jp/kawase_oh/archives/51750099.html
※15:原発事故の共同責任者・枝野氏の経産相起用に疑義を呈す:
http://yama-pp.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-76e8.html菅を国会喚問せよ、外国人献金問題をうやむやにするな:イザ!
http://kashiwataro.iza.ne.jp/blog/entry/2429860/
菅の外国人献金問題が再燃の気配 - ゲンダイネット
http://gendai.net/articles/view/syakai/130654
和鋼博物館
http://www.wakou-museum.gr.jp/
裏金疑惑の西松建設 関連政治団体/政界に4億2000万円
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-12-21/2008122115_01_0.html
西松建設の違法献金事件 - Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/nishimatsu_kensetsu/
時事ドットコム:【図解・政治】内閣支持率の推移(最新)
http://www.jiji.com/jc/v?p=ve_pol_cabinet-support-cgraph
発足以来最低 菅内閣支持率16.1% | 日テレNEWS24
http://www.news24.jp/articles/2011/07/11/04186168.html
■明快図説■民主党の党内人脈図
http://mainichi.jp/select/seiji/graph/minsyujinmyaku/index.html
島根県やすぎ観光サイト
http://www.city.yasugi.shimane.jp/kanko/

我輩は猫である』の主人公のモデルとなった猫が死亡した日

2011-09-13 | 人物
人の忌日を書くときに、私は、「カテゴリー」を「人物」としているが、今日は、「人物ではなく『我輩は猫である』の主人公の「我輩」(猫)とそのモデルとなった「猫」のことなどを書くことにしたのだが、私のカテゴリーの区分に問題があり、どこに含めてよいか分からないのでブログの内容から、猫ではあるが、ここで書くことにした。
吾輩ハ猫デアル』は、夏目漱石(本名:夏目 金之助)が劇作家となったスタートの小説である。
1905(明治38)年1月、高浜虚子の主宰する『ホトトギス』に10回にわたり断続的に連載(1906(明治39)年8月迄)された後、3分冊の形で出版された(上編:明治38年11月、中編:明治39年11月、下編:明治40年5月)。
冒頭掲載の画像が初版本(「アサヒクロニクル週間20世紀」1905年号より借用)であるが、初版は菊版・紙装、角背、天金アンカット本、ジャケット付きの凝った装丁だった(本の部分の名称は※1参照)。この上篇の挿絵を担当したのは、フランス留学から帰国したばかりの画家・中村不折であった。
文語体が幅を利かせていた時代に「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」という平易な口語体と、猫を主人公とした奇抜さがうけて、『ホトトギス』に連載した当初から読者の反響しきりだったという。
漱石は、単行本化にあたって、その「序」で「自分が今まで「吾輩は猫である」を草しつヽあった際一面識もない人が、時々書信又絵葉書杯(等、など)をわざわざ寄せて以外の褒辞を賜わったことがある。自分が書いたものが斯(こ)んな見ず知らずの人から同情を受けていると云うことを発見するのは非常に有難い。今、出版の機を利用して是等の諸君に向かって一言感謝の意を表する」と書いている。(※2:「青空文庫」の「吾輩ハ猫デアル」参照)。
文豪・夏目漱石は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)、江戸の牛込馬場下(現:新宿区喜久井町付近)に、当地名主をしていた夏目小兵衛直克の末子(五男)として出生。しかし、子沢山で母親が高齢での出産でもあり、余り望まれた子として生まれた状況ではなかったらしく、又、当時明治維新後の混乱期であり、生家は名主として没落しつつあったからなのか、翌(明治元)年から父・直克に書生同様にして仕えた男でもある塩原昌之助のところへ里子(里親参照)に出されるが、1876(明治9)年9歳の時夏目家に引き取られる(ただし、実父と養父の対立などで21歳まで夏目家への復籍が遅れたという)など、生まれこそ江戸の名家だったが、決して裕福で仕合せなな生活をした人ではなかったようだ。
病気で大学南校を中退せざるを得なかった長兄が、成績の良かった末弟:金之助を見込み、大学を出て立身出世をさせることで夏目家再興の願いを果たそうとの後押しなどもあり、1884(明治17)年、無事に大学予備門予科(のちの第一高等学校)に入学。1889(明治22)年、この東大予備門での同窓生であった俳人・正岡子規との出会いが漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになった。このとき、子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まり、このときに初めて漱石と署名、以降これを号として使うようになる。
漱石は虫垂炎を患い予科二級の進級試験が受けられず落第し、私立学校で教師をするなどしていたが、以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席。特に英語が頭抜けて優れていたという。
1890(明治23)年東京帝国大学(現:東京大学)英文科へ入学するが、その3年前、1887(明治20)年に長兄、次兄が、同大入学の翌年には嫂・登世(三男の嫁。漱石はこの登世に恋心を抱いていたため、深い傷を受けていたとも)と、近親者を相次いで亡くしたことから、この頃より、厭世主義神経衰弱に陥り始めたともいわれるが、1893(明治26)年に同大大学院に入った翌年に、肺結核が発覚し、治療をはかるも効果は得られなかったことから、神経衰弱が酷くなっていたようである。
そのようなことから、1895(明治28)年、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、その後、愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)へ(松山は子規の故郷であり、2ヶ月あまり静養していた。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している)。その後、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり、1895(明治28)年に、貴族院書記官長の中根重一の娘鏡子と見合い結婚をしているが、わがままに育てられた鏡子夫人は、慣れぬ結婚生活からヒステリー症状を起こすこともままあり、これが漱石を悩ませ、漱石をより、神経症に追い込んだ一因ともされているが、夫婦仲はそれほど悪くはなかったようだ。
ただ、1900(明治33)年、漱石は官費でイギリスへ留学。1903(明治36)年に帰国するが、漱石の妻・鏡子の回想によれば、漱石はイギリス留学中に精神に変調をきたし、帰国後も不安定な状態は続き、今日なら家庭内暴力として訴えられかねないようなことも家族に対してしていたらしい。そのような不安な日々は、翌年(1904=明治37)年の5月頃まで続いたようであるが、夫人はそんなときの漱石を「頭の悪いとき」と表現し、病気だからと諦めてていたという(※3:の中の『漱石の思ひ出』参照)。
漱石が所属していた俳句雑誌『ホトトギス』では、小説も盛んになり、高浜虚子や伊藤左千夫らが作品を書いていた。そうした中で、帰国後、漱石は一高と、東京帝大で教鞭をとりながらも、学者として生涯を送るか、創作者として世に出ようかと迷いに迷っていたようだが、虚子の勧めもあり、意を決して後者を選ぶこととなった。それが1905(明治38)年1月に発表した処女作となる小説『吾輩ハ猫デアル』である。だから、この小説は漱石が精神の不安定な日々の中で書かれたものであるが、『吾輩ハ猫デアル』を執筆し始めた当初は、同書初版本「序」後段にあるように「趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠(なまこ)のような文章である、たとえ此の一巻で消えてなくなった所で一向差支えはない」と考えていたようである(※2:『吾輩ハ猫デアル』参照)。
又、後に書かれた『処女作追懐談』(※2)には、初めて書いたこの回を、虚子が読んで、「これは不可(いけ)ません」と云うので、虚子の話を聞いた上で、書き直したら、「今度は虚子が大いに賞(ほ)めて。それを『ホトトギス』に載せたが、実はそれ一回きりのつもりだった。ところが虚子が面白いから続きを書けというので、だんだん書いて居るうちにあんなに長くなって了(しま)った。というような訳だから、私はただ偶然そんなものを書いたというだけで、ただ書きたいから書き、作りたいから作ったまでで、つまり言えば、私がああいう時機に達して居たのである。」・・・と書いている。
『吾輩ハ猫デアル』の主人公は苦沙弥に飼われている雄猫「吾輩」であるが名前はない。
この小説を書き始めた当初、漱石は原稿紙の書き出しに三四行明けたまゝ、まだ名はつけておらず、名前は「猫伝」にしようか、それとも書き出しの第一句である「吾輩は猫である」をそのまま用いようかと決しかねていたようであるが、虚子の意見をいれて「吾輩は猫である」として発表したことが、漱石に『ホトヽギス』への執筆をすすめた虚子の回想として書かれている(※4の夏目漱石ライブラリ 漱石の生涯 小説執筆時代Ⅰ参照)。
最初は、余り自分の作品に自信がなかったようだが、猫の目を通して、人間生活の断面を、痛烈な風刺をきかせて、ユーモラスに描くうち、読者のたしかな手応えに強い自信を抱くにいたった。
そして、漱石は1907(明治40)年4月、朝日新聞社に三顧の礼をもって迎えられ、後顧の憂いない立場で幾多の名作を書くことが可能になったが、この官から民への異動は、今日とは違い、明治と言う時代においては、常識を超えたものであり、当時センセーションを巻き起こす出来事であったようだ。
『吾輩ハ猫デアル』の中では、「吾輩の主人は滅多に吾輩と顏を合せる事がない。職業は教師ださうだ。學校から歸ると終日書齋に這入つたぎり殆んど出て來る事がない。家のものは大變な勉強家だと思つて居る。當人も勉強家であるかの如く見せて居る。然し實際はうちのものがいふ樣な勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書齋を覗いて見るが、彼はよく晝寐をして居る事がある。時々讀みかけてある本の上に涎をたらして居る。・・・・(中間略)・・・吾輩は猫ながら時々考へる事がある。教師といふものは實に樂なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寐て居て勤まるものなら猫にでも出來ぬ事はないと。夫(それ)でも主人に云はせると教師程つらいものはないさうで彼は友達が來る度に何とかゝんとか不平を鳴らして居る。・・・(中簡略)・・・主人は毎日學校へ行く。歸ると書齋へ立て籠る。人が來ると、教師が厭だ厭だといふ。」と書いており、案外これは本音で、教師が向かなかったのだろう。
何か漱石が、処女作である『吾輩ハ猫デアル』を書くにいたった経緯などを中心に書いたてしまったが、漱石のことなら、以下参考の東北大学附属図書館(※4)の中にある夏目漱石ライブラリで、ほとんどのことが分かるようになっているので漱石に興味のある人はそこへアクセスするとよい。
ここまで、肝心の『我輩は猫である』の主人公「吾輩」(猫)のことなどあまり書いていないので、これから少し、作品の内容と「吾輩」()のことなどを書いてみようとおもうが、先ず、以下の画像を見てください。

上掲の画像は、岡本一平画「漱石先生」である(以下参考の東北大学附属図書館(※4)所蔵。同サイトのデジタルコレクションで検索すると原画が見られる)。
岡本一平は、夏目漱石から漫画の腕を買われて1912(明治45)年に朝日新聞社に紹介されて入社し、マンガに解説文を添えた「漫画漫文」という独自のスタイルを築き、その洒脱で洗練された画調と、人間味に富んだユーモラスな文章が大衆の人気を集め、また権力に抗する庶民的な感覚は、政治漫画において鋭く発揮されたという。漱石は一平の作品が風刺や皮肉をベースにしながらも、まったく不快感を与える部分がないことを指摘し、「今の日本の漫画家にあなたのやうなものは一人もない」「(文章も)大変器用で面白く書けています」と大絶賛している『岡本一平著並画『探訪画趣』序』(※2)。余談だが、歌人として有名な岡本かの子(大貫カノ)はその妻、画家岡本 太郎は息子である。
漫画評の中に「あなたの太い線、大きな手、変な顔、すべてあなたに特有な形で描かれた簡単な画は、其時我々に過去は斯(こ)んなものだと教えて呉(く)れるのです。」と書かれているが、この「漱石先生」の画も、描かれた年代はよくわからないが、漱石が『我輩は猫である』を書いた頃の様子をよく表しているのだろう。
『我輩は猫である』の「吾輩」(猫)の飼い主・珍野 苦沙弥は、中学校の英語教師。偏屈な性格で、胃が弱く、ノイローゼ気味。これらの人物描写は、漱石自身がモデルとされているようだ。妻と3人の娘がいる。あばた面で、くちひげをたくわえ、その顔は今戸焼のタヌキとも評される。頭髪は長さ2寸くらい、左で分け、右端をちょっとはね返らせる。吸うタバコは朝日。酒は、元来飲めず、平生なら猪口で2杯。実業家に対する尊敬の度は極めて低い。役人や警察をありがたがる癖がある。・・・・とあるのを見ても、当時の官と民の立場を見ていると、当時は漱石自身、そう思っていたのだろう。
手火鉢らしきものを横に、座卓を前に推敲をしている漱石の横で、その様子を眺めている黒い猫は何を思って見ているのだろうか・・・・?今戸焼は、古くから現:東京都台東区浅草今戸で産出する土器で、素焼きの土器を今戸焼と総称したくらい色んなものが盛んに製造されたようだが、瓦職人が余技で焼き始めたともいい、不細工な顔形を今戸焼きの福助とか今戸焼きのお多福とか悪口にした(※5)と言うから、我輩も苦沙弥先生の顔は、余り良い顔といった見方はされていなかたようだ。上掲の岡本一平画「漱石先生」など見ていると、今戸焼きのタヌキ・・・て感じがしないでもない。洋服姿ですましているかってよく見た千円札の漱石の写真などとは、イメージは大分違う。
ところで、猫のことであるが、漱石が『我輩は猫である』を発表して、ほぼ10年後の1915(大正4) 年に新聞に連載した『硝子戸の中』(※2)で、漱石は飼っていた猫について触れている(二十八)。
訪ねて来た人が猫を見て「何代目か」と問われ、何気なく「二代目です」と答えたがあとで考えるとその実三代目になっていた・・・という書き出しで始まる。初代は「宿なしであったにかかわらず、ある意味からして、だいぶ有名になった」というから小説に出てくる「我輩」の猫をいっているのだろう。 
二代目は、主人にさえ忘れられるくらい短命で、誰がどこから貰って来たかよく知らないが、手の掌に載せれば載せられるような小さい子猫だったらしい。「ある朝家のものが床を揚(あ)げる時、誤って上から踏み殺してしまった。」らしく。手当ての甲斐も無く1日2日後に死んでしまったという。
「その後へ来たのがすなわち真黒な今の猫である。」・・・とあるので、『硝子戸の中』を書いた当時の猫が三代目と言うことになる。
『硝子戸の中』では、続いて、「私はこの黒猫を可愛がっても憎がってもいない。猫の方でも宅中(うちじゅう)のそのそ歩き廻るだけで、別に私の傍(そば)へ寄りつこうという好意を現わした事がない。」と書いており、その後の文を読んでも、漱石が猫好きとは思えない。
漱石は猫だけでなく犬も飼っていた。『硝子戸の中』の中での扱いは、猫より犬の方が大きい。Hさん (漱石が習っていた謡曲の師匠ではないか)から譲り受けたというその犬に、漱石はイリアッドに出てくるトロイ一(トロイア戦争)の勇将の名前ヘクト-の名を与える。
にもかかわらず、理由はわからないが、この小説の主人公でもあり、本編の語り手でもある珍野家で飼われている「吾輩」(猫)には名前が無い。
主人公「吾輩」のモデルは、漱石37歳の年に夏目家に迷い込んで住み着いた、野良の黒猫だ。つまり、先に述べた初代の猫。
『我輩は猫である』文中に「我輩が此家へ住み込んだ當時は、主人以外のものには甚だ不人望であつた。どこへ行つても跳ね付けられて相手にしてくれ手がなかつた。如何に珍重されなかつたかは、今日に至る迄名前さへつけてくれないのでも分る。我輩は仕方がないから、出來得る限り我輩を入れてくれた主人の傍に居る事をつとめた。朝主人が新聞を讀むときは必ず彼の膝の上に乘る。彼が晝寐をするときは必ず其脊中に乘る。是はあながち主人が好きといふ譯ではないが別に構ひ手がなかつたから已を得んのである。」(第一)とあり、小説上の「我輩」も実際に夏目家で飼われていた猫同様余り珍野家の家族からは相手にされなかったが、好きというわけでもないご主人の傍らにいることにしたようだ。飼い主の苦沙弥先生、つまり、漱石と気ままな猫とは案外相性がよかったのかもしれない。
生まれて間もなく捨てられた名もない「吾輩」は第六話に、毛色は淡灰色の斑入(ふ‐いり。地の色と違った色がまだらにまじっていること)とある。苦沙弥先生の家に転がり込むが、人間は不徳(身に徳の備わっていないこと。人の行うべき道に反すること。不道徳)なものだと車屋の”黒”(大柄な雄の黒猫。)から教えられ、吾輩は、人間観察を鋭くするようになる。猫ながら古今東西の文芸に通じており哲学的な思索にふけったりする。又、人間の内心を読むこともできる。そして苦沙弥先生やそこにやって来る門下生・寒月、美学者の迷亭、詩人の東風など太平の逸民(俗世間をのがれて隠れ住んでいる人。官に仕えず気楽な生活を楽しむ人の意)たちに、滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせる。
「我輩」は、隣宅に住む二絃琴の御師匠さんの家の雌猫・三毛子に恋心を抱いているが、残念なことに、三毛子は、「吾輩」が自分を好いていることに気付いていない。それでも、名前のない吾輩のことを教師の家にいるものだから町内で唯一、先生と呼んでくれるのが嬉しい。
『我輩は猫である』は、当初、長編として書くことを想定していなかったため、第十一回の完結まで結構(全体の構造や組み立て。構成)なしで書き継がれた『猫』の各篇に、共通する主題を見つけるのは難しいし、中心となる登場人物も誰彼と入れ替わっており、小説らしい筋書きはあまりないが、日露戦争前後の上級社会への諷刺を苦沙弥先生やその門弟寒月などの滑稽な登場人物の中に織り込ませた戯作風の作品となっている。ここに登場させられる主要人物は、猫の主人である中学教師をはじめ、金持ちやいわゆる大学出と思われる文化人、すなわち当時のエリート達で、それも比較的身のまわりにいる人達である。これらは新生明治を現場で引っぱった人々であるが、それらエリートを猫の目をもって風刺し、また彼らの会話・行動を通して互いとその社会を風刺しているのである。
漱石は小説『我輩は猫である』の広告文を書いているが、この広告文も猫の口を借りた有名な小説の1節「吾輩は猫である。名前はまだない。主人は教師である。」から始まり、続いて「迷亭は美学者、寒月は理学者、いづれも当代の変人、太平の逸民である。吾輩は幸にして此諸先生の知遇を辱(〔かたじけの〕)ふするを得てこゝに其平生を読者に紹介するの光栄を有するのである。」・・と、これらの人間を持ち上げておいて、「……吾輩は又猫相応の敬意を以て金田令夫人の鼻の高さを読者に報道し得るを一生の面目と思ふのである」……と、最後に鼻の高い金田令夫人を皮肉っぽく紹介しているのが面白い(初出は1905(明治38)年11月15日「東京朝日新聞」とある。※2、「猫の広告文」参照)。
広告文中に登場する我輩とその主人苦沙弥以外の人物を簡単に説明しておこう。
美学者・迷亭(めいてい)は、苦沙弥の友人であるが、ホラ話で人をかついで楽しむのが趣味の粋人で、近眼で、金縁眼鏡を装用し、金唐皮の烟草入を使用する。
迷亭は、漱石との交友のあった美学大塚保治がモデルともいわれるが漱石は否定したという。また、漱石の妻鏡子の著書『漱石の思ひ出』には、漱石自身が自らの洒落好きな性格を一人歩きさせたのではないかとする内容の記述があるようだ。
水島 寒月(みずしま かんげつ)は、苦沙弥の元教え子で、理学士。なかなかの好男子で、戸惑いしたヘチマのような顔をしている。近所の実業家金田の娘・富子に演奏会で一目惚れする。寒月は、寺田寅彦がモデルといわれている。彼は、漱石の元に集う弟子たちの中でも最古参に位置し、特別に遇されていたようだ。
最後に鼻の高さを皮肉られている金田令夫人であるが、「令夫人」とは、他人の妻を敬っていう語であり、苦沙弥に嫌われている近所の実業家・金田の細君のことだが、この細君、苦沙弥の元教え子である理学士の水島寒月と自分の娘との縁談について珍野邸に相談に来るが、主人の苦沙弥と迷亭がお金持ちだといばっている夫人を嫌って失礼な応対をする。怒った夫人は車屋に騒がさせ主人に嫌がらせをする。この金田夫人、巨大な鍵鼻の持ち主で「鼻子」と「吾輩」に称されている(三)。高い鼻には「鼻にかける」などという慣用句があるように、日本では、イメージとして高慢・プライドの高いことなどに関連付けられるが、この人物もその象徴のような扱いとして取り上げられており、彼女の鼻について苦沙弥たちは、何度も議論し、話題にしている。猫の「吾輩」もそんな横柄な金田夫婦を「金田のじいさんを引掻いてやりたくなる。妻君の鼻を食い欠きたくなる」・・と嫌っており、そんな婦人の鼻の高さを皮肉たっぷりに紹介しながら、実際にどれだけ嫌味な人かを読者に紹介するのを楽しんでいるようだ。
この『我輩は猫である』では、三章の中で、金田家・富子と寒月の結婚話から、地位やお金によって人を見る俗社会の金田家の人々と 苦 沙 弥 ・迷亭の対立が引き起こされるがこの大きな対立が、『吾輩は猫である』の中のシニカル(cynical)の中心になっているといって良いだろう。
金田夫人が娘との縁談について珍野邸に相談に来る三章が一番面白く、また、この小説の言いたいことを象徴しているようだ。
そして、最後(十一)で、主人公の「吾輩」は水がめに落ちて死んでいくが、ここに、この小説での結論的なこと全てが、語られていると思うが、その要約を以下に書いてみよう。
苦沙弥は生来の胃弱がますますひどくなり、早晩胃病で死ぬ。金田のじいさんは慾でもう死んでいる。死ぬのが万物の定業(じょうごう。その報いとして起こる結果が定まっている行為)で、生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬだけが賢こいかも知れない。諸先生の説に従えば人間の運命は自殺に帰するそうだ。油断をすると猫もそんな窮屈な世に生れなくてはならなくなる。恐るべき事だ。何だか気がくさくさして来た。そんな時、しばらく姿を見せなかった寒月が故郷で結婚して細君を連れて来た。また、苦沙弥の元書生で、金田家で働いていた多々良三平も結婚することになった。三平が自分の艶福(えんぷく)の前祝にと持ってきたビールを自分一人で飲み真っ赤になっているのを見て、もし三平のように前後を忘れるほど愉快になれば空前の儲け者と、飲んだことの無い、ビールの残りものを飲み、酔ってよたよた歩いていて、足を滑らせ大きな水甕に落ちてしまう。甕から上へあがろうとあがくが、足をのばしても届かず、幾らあがいても出られず苦しむが、それは無理を通そうとするから苦しいことを悟って、自然の力に任せて抵抗しない事にしたら、次第に楽になってくる、否、楽そのものすらも感じ得なくなる。日月を切り落し、天地を粉韲(ふんせい。こなみじんにすること)して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。・・・・それが吾輩の最期であった。
この最後(十一)の章のある「下篇自序」(※2)には、「「猫」の下巻を活字に植えて見たら頁が足りないから、もう少し書き足してくれと云う。書肆(しょし。書物を出版したり販売する書店、本屋のこと)は「猫」を以(もっ)て伸縮自在と心得て居るらしい。いくら猫でも一旦、甕(かめ)へ落ちて往生した以上は、そう安っぽく復活が出来る訳のものではない。頁が足らんからと云うて、おいそれと甕から這(は)い上る様では猫の沽券(こけん。人の値うち。体面。品位。)にも関わる事だから是丈(これだけ)は御免蒙(ごめんこうむ)ることに致した。」・・・とある。続いて、「「猫」の甕へ落ちる時分は、漱石先生は、巻中の主人公苦沙弥先生と同じく教師であった。甕へ落ちてから何カ月経(た)ったか大往生を遂げた猫は固(もと)より知る筈(はず)がない。然し此序をかく今日の漱石先生は既に教師ではなくなった。主人苦沙弥先生も今頃は休職か、免職になったかも知れぬ。世の中は猫の目玉の様にぐるぐる廻転している。明治四十年五月。」・・・とあり、朝日新聞社への『入社の辞』(※2)と同月に書かれたこの文章にはこの頃の漱石に小説を書くことへの自信と余裕の表れが読み取れる。
小説ではなく、実際に夏目家で飼っていた猫は、1908(明治48)年の今日・9月13日に死亡したらしい。その際、漱石は、親しい人達に「いつの間にかうらの物置のへっつい(竃=かまど)」の上にて逝去」したと猫の死亡通知を出している(※6)。
そして、この猫が亡くなる直前と死後の様子は、漱石が、朝日新聞社に三顧の礼をもって迎えられた年の2年後に発表した「猫の墓」(※2:『永日小品』所収)という随筆に淡々と綴られている。以下その部分である。
「妻はわざわざ其の死態(しにざま)を見に行き、それから今迄の冷淡に引き更えて急に騒ぎ出し、出入の車夫を頼んで、四角な墓標を買って来て、表には猫の墓と書いた墓を立て、墓の裏には「此の下に稲妻起る宵あらんと」と安らかに眠ることを願った一句を添えた後。子供も急に猫を可愛がり出した。
墓標の左右に硝子の壜を二つ活けて、萩の花を沢山挿し、茶碗に水を汲んで、墓の前に置いて、花も水も毎日取り替えられた。そして、名も無い猫の命日には、妻が屹度(きっと。必ず)一切れの鮭と、鰹節を掛けた一杯の飯を墓の前に供え、今でも忘れた事がない。ただ此の頃では、庭迄持って出ずに、大抵は茶の間の箪笥の上へ載せて置くようである」・・・と。
夏目家の人々は、猫が生きている間は、自由に行動させるというか放置していたというか、外見的には、少々冷淡と見えるところもあったようだが、死んでからの処置など見ていると、そんなに猫そのものを根っから嫌っていた訳でもなさそうだ。この「墓の前」の後段など、漱石の猫の面倒を見続けた夫人への愛情と感謝がそこはかとなく滲んでいる。
最近の異常なまでのペットブームの中でのイヌや猫など動物の猫可愛がり(無闇矢鱈に可愛がること。)はしていないが、私も戦後間なしの子供の頃、野良犬を拾ってきて飼っていたことがあるが、食時をやる時以外は、殆ど放ったらかしの放し飼いで、夜以外鎖で繋いでいることは少なかった。家の近所で勝手に遊んで、食時頃になるとその時間を覚えていて帰ってくる。雑種であるが賢い犬だった。その頃までは、そんなに動物を飼っている人も少なかったし、そのような飼い方が普通であったように思う。しかし、ちゃんと名前だけは付けてやっていた。
普通、何処の家でも、飼っている犬や猫に名前を付けるのが一般的だと思うのだが、漱石は、犬にはちゃんと名前をつけているのに小説上の「我輩」の猫にはどうして名前が無いのだろうか?
そのことについて、以下参考に記載の※7:「夏目漱石『吾輩は猫である』第三章を読む・副題:名前のない猫と登場人物」には以下のように記されている。
「鏡子夫人の書いた『猫の話』を読めば、実際、子供や漱石が「猫はどうした」「猫が来た」と呼んでいることが分かる。つまり、夏目家では猫を「猫」と呼んでいた可能性がある。当時、動物をペットとして飼っても、今の感覚と少し違うだろう。 だが、小説の登場人物として、猫に名前をつけることは、簡単である。猫の世界だけでの名前をつけても良かっただろう。しかし、なぜ猫に名前をつけなかったのか。・・・」とあり、漱石は実際に飼っていた猫にも名前は付けていなかったようなのだ。その点は、私も良く理解できないところであるが・・・。
同サイトでは、この点を考えるためにも、『吾輩ハ猫デアル』の「我輩」が猫である事に注目し、「我輩」の主人の名がなぜ珍野 苦沙弥なのかなど、登場する人物に漱石がつけた名前の意味などを見ながら、この小説の「我輩」が何故「猫」でなければならないのか?そして、なぜ猫に名前がないことが重要なのかを、この小説の主要な章となる第三章を中心に検証をしている。
その中で、この小説に登場する重要人物の1人でもある「我輩」の主人「苦沙弥」の横にいて、よく登場する細君も「細君」と呼ばれるだけで、その名は出てこない。猫の「我輩」と、もう一つの批判の目が、「細君」なのであって、「この細君の客観的な批判は、主に家の中の人物(主人・迷亭・寒月)に向けられている。猫と細君という批判をする二つの人物に名前をつけていないことは面白い共通点である。逆に、批評される人には、名前(個性)が必要だったと考えることも出来るだろう。」・・・と書いている。なかなか面白いので、興味のある人は読まれると良いだろう。

参考
※1:「本」の部分の名称(大阪府立図書館)
http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/osaka/book_bui.html
※2:青空文庫:作家別作品リスト:No.148:夏目 漱石
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person148.html
※3:猫とネコとふたつの本棚
http://www.nekohon.jp/
※4:東北大学附属図書館
http://tul.library.tohoku.ac.jp/
※5:落語「今戸の狐」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/163imadonokitune/imadonokitune.htm
※:6夏目漱石の「猫の死亡通知」(はがき)
http://www.geocities.jp/sybrma/322nekonoshiboutuuchi.html
※7:夏目漱石『吾輩は猫である』第三章を読む・副題:名前のない猫と登場人物
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/issue/pdf/9/9-02.pdf#search='漱石の思ひ出 迷亭'
吾輩は猫である - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p18350/
Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/
落語あらすじ事典 千字寄席:くしゃみ講釈(くしゃみこうしゃく) 
http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2005/07/post_3e7c.html




まがたまの日

2011-09-06 | 記念日
日本記念日協会の今日・9月6日の記念日に「まがたまの日」 がある。
記念日の由来には、“「古くから健康を守り、魔除けとなり、幸運を招くとされる勾玉(まがたま)。その出雲型勾玉を皇室や出雲大社に献上している島根県松江市に本拠を置く株式会社めのや(※1)が制定。日付は数字の6と9の形がまがたまの形と似ていることから、この二つの数字を組み合わせた6月9日と9月6日を「まがたまの日」とした。”・・・とあった。
勾玉は、日本では古墳時代の遺跡からも発掘されているように、古代日本における装身具の一つであった。祭祀にも用いられたと言われるが、詳細はよく分からないようだ。
日本独自に発達した不思議な形の玉(ぎょく)で、多くは、Cの字形またはコの字形に湾曲した、玉から尾が出たような形をしており、丸く膨らんだ一端に孔(穴)を開けて紐を通し、首飾りとしたようである。孔のある一端を頭、湾曲部の内側を腹、外側を背と呼ぶそうだ。
多くは翡翠(ヒスイ)瑪瑙(メノウ)水晶(石英)滑石琥珀(コハク)鼈甲などで作られている。
冒頭の画像は、島根県の東部(出雲地方)に位置する松江市内の骨董店で買ってきた翡翠の勾玉であるが、別に骨董品と言うわけではない。私は、現役時代出張が多く、社用で山陰地方へもよく行ったが、骨董好きの私は出張の序でに時間があると土地の骨董店などを覗いて歩いたものだが、同骨董店の主人によればこのような石(翡翠)は、昔、店の近くでよく採れたものだが、今はもう採れなくなったと言っていた。
この勾玉は、そこの主人が、相当前に自ら採取してきたものをつかって、自分で作ったものだと言う。色は深い緑色で見た目には余り美しいものではないjが、みやげ物店などで売っている色の綺麗な輸入物の細工品ではなく、これは正真正銘この地で採取した貴重なものだというので、松江へ行った記念として、骨董品を買った序でに家人への土産用に買ったものだ。もう30年以上も前のことである。
その形状は、元が動物の牙であったとする説や、母親の胎内にいる初期の胎児の形を表すとする説などがあるようだが、日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古く、現在では縄文時代極初期の玦(けつ)状耳飾り(※2、※3参照)が原型であると考えられており、縄文中期にはC字形の勾玉が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化するが、縄文時代を通じて勾玉の大きさは、比較的小さかったようだ。
語の初出は記紀で、『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記が見られるが、語源は「曲っている玉」から来ているという説が有力。ただ、「曲がる」という言葉には悪い意味合いもあることから今日では「勾玉」と記すのが一般的になっているようだ。
「まがたま」と言えば、」なんと言っても、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物(三種の神器)の一つとして知られている。
三種の神器とは、以下の3点である。
「神璽」=「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま。または「八坂瓊の御須麻流五百箇御統(御須麻流)」〔やさかにのいおつみすまる〕)
「神鏡」=「八咫鏡」(やたのかがみ)
「神剣」=「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ。別名 草薙剣〔日本書紀〕ともいう)
鏡と剣と勾玉は、古来日本民族が愛し崇敬してきた対象であったが、とくに皇宮に永く継承されている「三種の神器」は、日本全体の祖神ともいうべきアマテラス(天照大御神、天照大神)の時代に端を発し、それが現在まで継承されているものであり、日本の歴史においては特別重要な意味をもっている。
記紀神話によれば、国産み神産みにおいて、神世七代イザナギ(伊邪那岐、伊弉諾)が、黄泉の国から帰還したあと、日向の地で(みそぎ)を行なうと様々な神が生まれ、最後にアマテラス・ツクヨミ(月夜見尊、月読命)・スサノオ(素戔嗚尊、建速須佐之男命)の三貴子を生み、イザナギは、三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。
しかし、『古事記』によれば、末子のスサノオがそれを断り、母神イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊弉弥)のいる黄泉国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまうが、根の国(黄泉の国への入口とされている)へ向う前に姉のアマテラスに別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、アマテラスに彼が高天原に攻め入って来たと疑われ、誤解を解くためアマテラスとの誓約(占い)によって潔白を証明し、高天原に滞在することになったものの、その後のスサノオの粗暴な行為に怒ったアマテラスが天の岩屋に引き篭ってしまった(岩戸隠れ)為、高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
そこで、八百万の神々(※4、※5参照)が天の安河(かってアマテラスとスサノオが制約に際し向かい合った河)の川原に集まり、どうすればいいか相談をし、オモイカネ(思金神)の案により、アマテラスを岩戸から連れ出すためのさまざまな儀式をおこなった。
先ず、常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせ、天の安河の川上にある堅い岩を取り、鉱山の鉄を採り、鍛冶師のアマツマラ(天津麻羅)を探し、後の鏡作部の祖神イシコリドメ(伊斯許理度売命、石凝姥命)に命じて八咫鏡を作らせ、後に玉造連(部)の祖神となるタマノオヤ(玉祖命。『古事記』に登場。『日本書紀』では、豊玉神(トヨタマノカミ)」〔第二の一書〕)に命じて、八坂瓊の五百箇の御須麻流の珠(「八尺」は通常よりも大きいことを意味し、「瓊」は赤色の玉のことであり、古くは瑪瑙(メノウ)のことであるという。御須麻流は、日本書記では御統。みすまる。多くの勾玉や管玉を、紐で貫いてまとめて輪にしたものらしい)を作らせ、八咫鏡と共にフトダマ(布刀玉命、太玉命)が捧げ持つ榊の木に掛けられている。岩戸の前でアメノコヤネ(天児屋命、天児屋根命)が祝詞(のりと)を唱え、アメノウズメ(天宇受賣命、天鈿女命)が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、力強くエロティックな動作で踊ると、高天原が鳴り轟くように八百万一斉に大笑いした。この声を聴いたアマテラスが何事かと岩戸を少し開き、「自分が岩戸に篭って闇になっているというのに、なぜ、アメノウズは楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、それを喜んでいるのです」というと、アメノコヤネとフトダマが、アマテラスの前に鏡を差し出し、鏡に写る自分の姿がその貴い神だと思ったアマテラスが、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けたとき、岩戸の脇に隠れていたアメノタヂカラオ(天手力雄神、天手力雄神)がその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。すぐにフトダマ注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」と言った。こうしてアマテラスが岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。高天原に光が戻った後、八百万の神は、スサノオに罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放する。(※6、※7の『古事記』上巻、『日本書紀』巻第一・第六段、第七段参照)。
因みに、『古事記』では、この説話の後に、スサノオとオオゲツヒメ(大気都姫神)による食物起源神話が挿入されているが、『日本書紀』では同様の話が、ツクヨミがウケモチ(保食神)を斬り殺す話として出てくる。又、高天原を追放され、出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降ったスサノオは、その地を荒らしていたヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智)に食われることになっていた少女クシナダヒメ(奇稲田姫、櫛名田比売)と出会う。両親より、クシナダヒメを妻として貰い受けることでヤマタノオロチの退治を請け負い、クシナダヒメの形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、ヤマタノオロチを退治する。そしてヤマタノオロチの尾から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)をアマテラスに献上した( これについては、出雲の豪族が帰順のしるしに大和朝廷に献上したのだという解釈もある)。これで、三種の神器が揃ったことになる。
葦原中国平定が終わった後に、アマテラスの命を受けて、アマテラスの孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が、天孫として、アメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤノミコトの五伴緒(いつとものお)を従えて、葦原中国を統治するため高天原から地上(日向)に天降りしている(天孫降臨)。
地上に降りる際、さらに、アマテラスは、ニニギノミコトに三種の神器とオモイカネ、アメノタヂカラオ、アメノイワトワケ(天石門別神)を副えとくに「神鏡」については、「この鏡を私(アマテラス)の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。オモイカネは、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った・・・という。〔※1:※2:の日本書紀第九段一書(一)のところを参照〕。
アメノイワトワケは又の名をクシイワマドノカミ(櫛石窓神)、トヨイワマドノカミ(豊石窓神)といい、御門の神であると記されている。天孫降臨の段に登場する神の多くはその前の岩戸隠れの段にも登場しているが、この神だけは岩戸隠れの段には見えない。アメノイワトワケは古来より天皇の宮殿の四方の門に祀られていた神であり、フトダマの子ともいう。
このニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が皇室の祖先になったとされている神であり、「三種の神器」は瓊瓊杵尊から神武天皇まで引き継がれ、神武天皇が即位してからは、ずっと皇宮に祀られてきた。
しかし、現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇と言われている第10代崇神天皇の5年(紀元前93年)に、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた為、翌・6年(紀元前92年)、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた二神(天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
その際、「神璽」はそのまま皇居に置き、「神鏡」と「神剣」は、天照大神の神霊と共に、同天皇が皇女である豐鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)が斎王(いつきのみこ)としてあずかり、笠縫邑(現在の桜井市 三輪)の檜原神社に祀ることとなった。
更に、理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第4皇女倭姫命がこれを引き継いで、垂仁天皇25年(紀元前5年)に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座したといわれている(詳細は元伊勢参照)。尚、同時に宮中を出された倭大国魂神は渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀ったとされる。
「三種の神器」の内の「神剣」は、次の第12代景行天皇の御宇になって皇子の日本武尊(ヤマトタケル)が東国遠征の途、伊勢神宮で叔母の倭姫命より授けられ、東征途上の駿河国で、この神剣によって野火の難を払い、草薙剣の別名を与えたとする説が広く流布している。
 日本武尊は東征の後、尾張国で結婚した宮簀媛(ミヤズヒメ)の元に剣を預けたまま近江国の伊吹山の荒ぶる神を討伐しに行くが、山の神によって病を得、途中で悲運の死を遂げ、ヤマト(大和)に帰ることができなかったが、宮簀媛は剣を祀るために熱田神宮を建てたという。
そのため、八咫鏡は伊勢神宮の皇大神宮に、天叢雲剣は熱田神宮に神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は皇居の御所に安置されているという。
ところで、スサノヲがイザナギの怒りを買って高天原を追放れる前にアマテラスに別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、アマテラスに彼が高天原に攻め入って来たと疑われ、誤解を解くためがアマテラスとの誓約をして潔白を証明し、一時、高天原に滞在することになったことを先に書いたが、イザナギを迎えた時、アマテラスは、すぐに八坂瓊之五百箇御統珠を、その頭髪と腕に巻きつけ、弓、剣を携えて対決姿勢をとっている。そして、記紀では、この二神は天は安河を挟んで誓約(宇気比・誓約)の際に、まず、アマテラスがスサノヲの持っている「十拳剣(とつかのつるぎ)」を受け取ってそれを噛み砕き、吹き出した息の霧から三柱の女神(宗像三女神)が生まれ、次にスサノオが、アマテラスが持っていた「八坂瓊之五百箇御統珠」受け取ってそれを噛み砕き、吹き出した息の霧から五柱の男神(五皇子)が生まれた。これによりスサノヲの心が清いことが証明されたと書かれている。
しかし、『日本書記』には各段に補足として、色々書かれているが、第六段一書(二)には、“スサノヲが天に昇ろうとする時に、一柱の神・名はハカルタマ(羽明玉)がお迎えして、瑞八坂瓊之曲玉を献上した。スサノヲはその玉を持って天上を訪れた”としている(※7参照)。
島根県松江市玉湯町玉造には、『延喜式神名帳』や『出雲国風土記』にも記載のある古社玉作湯神社がある(※8の玉作湯神社も参照)。その祭神は風土記には、意宇郡の忌部神戸(いんべのかんべ。現在の忌部神社が鎮座している地域)として、「忌部神戸、郡家の正西廿一里二百六十歩。國造、神吉詞を奏しに朝廷に参向する時、御沐の忌玉作る・・・」とあり、境内には玉作部の足跡を示す遺跡が出ており(※9、※10 も参照)、当社の祭神の櫛明玉命(クシアカルタマ)は、“出雲国の玉作の祖”と平安時代の神道資料である『古語拾遺』(※11)に出ている。
ここの祭神には、別名が多く、羽明玉・豊玉・天明玉・櫛明玉など、があるが、『日本書記』第六段一書(二)でスサノヲが、高天原に上るとき、ここの祭神である羽明玉(古語拾遺に櫛明玉命)がつくった勾玉がスサノヲ通じて、アマテラスに献上されたとしている。
天孫降臨の際、櫛明玉命は随従の五部の神の御一人として、玉作の工人を率いて此の地方に居住し、命の子孫一族が此の地の原石を採って宝玉の製作を司ったと伝えられる。
櫛明玉命の別名をみると、すべて玉に関する神の名のようであるが、古代、玉に関する氏族には、玉作連と玉祖連の系統があったようで、ここ、櫛明玉命は玉作連の系統で、玉祖に関しては、周防国(山口県)の玉祖神社が有名(※8の玉祖神社)のようだ。
大阪府八尾市神立にある玉祖神社(※12)は、710年(和銅3年)に周防国の玉祖神社から分霊を勧請したもので、その際、住吉津から上陸し、恩智神社(※12)に泊まった後、現在地に祀られたとされており、天明玉命(櫛明玉命)を祭神としているそうだ。又、八尾市大窪521番地には、御祖神社跡地があり、社殿もなく、ただ跡地には碑のみが立っているが、ここの神は今は、玉祖神社に合祀されているという。以下は、『河内名所図絵』に描かれた玉祖神社である(※13の5-15に玉祖神社の画像あり)。

又、大阪市中央区に玉造稲荷神社がある(※12、※14)。
宇迦之御魂大神(稲荷神)を主祭神とし、下照姫命稚日女命月読命軻偶突智命を配祀し、社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していたという。
蘇我氏物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承もあるそうだ。
豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、当時は豊津稲荷社と称していた。以下は、寛政8年から10年(1796~98)に刊行された摂津国の観光案内書『摂津名所図会』に掲載されている豊津稲荷社である(※15の巻之三 東生郡 ・西成郡2-36に画像ある。以下の画像もクリックで少し大きなものに拡大する)。
江戸時代には伊勢参りの出発点とされるなど、昔から交通の要所であり、大坂から東へ向かう古道(街道)のいくつかがここを経由し、奈良、八尾、信貴山方面へつながっていた。
現在の「玉造」の社名は、鎮座地の地名によるもので、同社鳥居の横には玉作岡と云う石碑があり、碑文の裏には、難波の高台の内に位する玉造稲荷社の所在地は、古代には玉作岡と言われて、このあたり一帯には古代、玉作部に所属する曲玉作りの集団の居住地であったという伝承が記されている。
この地に居住していた玉造部と、先に述べた高安(現在の八尾市神立地区)の玉造部との間に、玉祖道を通じて交流があったといわれているそうだ。又、玉作岡の石碑裏には、その後に、この高台一帯が仁徳天皇の営まれた高津宮であり、難波長柄豊埼宮であり、後期難波の宮の地であったと言ったことも書かれている(昭和49年、大島靖大阪市長書)。だから、大阪で、最も古くからの由緒あるところだという。
なにか、勾玉のことを書こうと思っている間に、神代の話をだらだらと書いてしまったが、最後に、以下参考の※16:「オロモルフのホームページ」の『卑弥呼と日本書紀』第四版 第九章の“九・五 『倭姫命世記』に記された《伊勢神宮》への遷宮経路”の中で、書かれていることを追記しておこう。
“神武天皇が即位してからずっと皇宮に祀られてきた天照大神の神霊と「神鏡」「神剣」の伊勢神宮への巡幸は、“大和朝廷の勢力を周辺に定着させ、同時に鉄や玉や稲の産地を確保し、そして東海方面への出口にあたる伊勢に新しい根拠地をもうける・・・といったさまざまな意図があった”と推理している。だから、“皇女が神子(巫女)となっての御巡幸ではあるが、その実体は多くの武人をしたがえ、各地方の豪族たちを威圧する堂々たる大和朝廷軍の行軍だったろうと考えており、だからこそ日本武尊が東国に遠征したとき、最初にこの”伊勢神宮“に寄って、「天叢雲剣(草薙剣)」を倭姫命から借り受けたのであろう・・・”としている。
天子の位を受け継ぐために践祚し皇位を継承するには「三種の神器」を先帝から受け継ぐことが必要とされるが、天皇さえもその実見を許されないといわれる神宝とは本当はどんなものなのだろうか・・・。
過去の歴史を検証すると、古代において、「鏡」、「玉」、「剣」の三種の組み合わせは皇室だけに特有のものではなく、大和王権に臣従する過程で、各地の豪族が恭順の意を表すためにこの三品を差し出しており、また壱岐市の原の辻遺跡では最古の鏡、玉、剣の組み合わせが出土されているように、今では、各地の豪族が一般に支配者の象徴としていたものと考えられているようであり、後鳥羽天皇など神器がない状態で即位した場合もあり、必ずしも「三種の神器」の継承が即位の絶対条件ではなかった場合もある。
又、皇位そのものの証明が三種の神器の所持を以て挙げられるため、南北朝正閏論に於いては神器が無いまま即位した北朝の正当性が否定される根拠の一つともなっている。
そのため、明治天皇が身罷り、大正天皇が即位の際、「三種の神器」として歴代の天皇によって受け伝えられてきた「剣」「璽」「鏡」が、旧皇室典範(※16の“伊藤博文著『皇室典範義解』現代語訳”を参照)で、「祖宗(そそう)の神器」として始めて公的性格を与えられ、1909(明治42)年公布の登極令 (明治42年皇室令第1号)で、践祚にさいしての「剣璽渡御(けんじとぎょ)」が規定された。
そして、践祚にあたり、神器の剣(草薙の剣)の形代と璽(じ)の八坂瓊勾玉が、侍従によって明治天皇のもとから新天皇のもとに移された。なお、三種の神器のうち神鏡は宮中三殿の賢所の神体であるため、この儀式では動かない。
先にも書いたように、現在、皇位継承のシンボルともいえる三種の神器は、歴史上の記述から、崇神天皇の御宇に「神鏡」と「神剣」は伊勢神宮、熱田神宮に、「神璽」のみが皇居に保管されていることになっているので、皇居には、八咫鏡と天叢雲剣の形代があり、八咫鏡の形代は宮中三殿賢所に、天叢雲剣の形代は八尺瓊勾玉とともに御所の剣璽の間に安置されているとされている。
天皇が即位のときに継承される三種の神器のうち「八坂瓊勾玉」以外は、後に、新たに作られたものと言うことになるのだが・・・・。
このようなこと、あまり、詮索はしたくないが、皇位継承問題では、このような物の承継よりも、これからの皇位継承者(皇嗣)の方がどうなってゆくのかが心配だ。
肝心の「まがたま」そのもののことは、殆ど書いていないが、そのことは、参考に記載の※1、や※17。※18など見られると良い。
参考:
※1:株式会社めのや 本社 : ショップリスト- アナヒータストーンズ
http://www.anahitastones.com/shop/details/000372.html
※2:けつ状耳飾けつ状耳飾(玦状耳飾)
http://www.awakouko.info/modules/xpwiki/301.html
※3:玦状耳飾系統・起源論概観(Adobe PDF)
http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/study/kannihonkai.pdf#search='玦状耳飾り'
※4:八百万の神々
http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/
※5:八百万の神々
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/index.htm
※6:古代史獺祭 列島編 メニュー 
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/index.htm#map_shoki
※7:日本神話の御殿
http://j-myth.info/index.html
※8:玄松子:全掲載神社
http://www.genbu.net/
※9:出雲国風土記登場地
http://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/izumo_fuudo/izumofudoki/fudoki/fudokif/
※10:古代豪族入門
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7.html
※11 :古語拾遺
http://www.kamimoude.org/jshiryo/kogojyuui.html
※12:神奈備神社名鑑
http://kamnavi.jp/index2.htm
※13:早稲田大学コレクション:河内名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [著] ; 丹羽桃渓 画
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_02472/index.html
※14:玉造稲荷神社公式サイト
http://www.inari.or.jp/
※15:早稲田大学コレクション:摂津名所図会. [正,続篇] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_03651/index.html
※16:オロモルフのホームページ
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/
※17いずもまがたまの里「伝承館」
http://www.magatama-sato.com/
※18第241回活動記録 謎の四世紀 成務天皇の時代 勾玉の起源
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku241.htm
今日のことあれこれと・・・「明治最後の日」2005-07-30 | 記念日
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戸原のトップページ
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