今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

親鸞 (浄土真宗の開祖)の忌日

2005-11-28 | 人物
1262年の今日(11月28日)は、「親鸞 (浄土真宗の開祖)」の忌日。[1173年4月1日生] <数え90歳>
6世紀前半、日本に伝わった仏教は、高度な外来文化として受け入れられ、長い間日本では、学習の対象となるものであった。仏典を読み解き、仏教についての概括的な知識を見につけ、仏教の言葉や思考方法に従って思索を進め、その内容を表現できるようになるのは、容易ではなかった。
仏教が伝わって、2世紀余りが過ぎた奈良時代になると、寺院の中に閉じ籠っていた僧侶達の中に寺院の外に出て仏教的なものを外に広めようとする者たちが現れた。律令制度が緩み、停滞を隠せなくなった平安時代中期以降の貴族社会の一部に現世を越えたものえの関心が芽生えると、現世に究極の価値を認めない仏教の教説に対する関心が高まり、個人救済的な性格の濃い浄土教がさまざまに説かれるようになった。法然や親鸞の仏教は、人間のあるべき姿を考え、戒律を守り、学問を重ねて真理を知ることによって、人間が一歩一歩仏に近づいていくことを教えているのではない。法然と親鸞は、そういう仏教を捨て、あるべき人間ではなく、あるがままの人間を凝視するところから出発して仏教を捕らえなおそうとした。そして、人間の姿を見つめることによって到達したのは、凡愚で罪深い人間が、仏になったり、近づいたりすることは不可能に近いという立場であった。そこでは、仏は人間の理想や模範ではなく、人間を救う絶対的な存在である。人間の模範としての仏ならば、仏はいかなるものかを、知識、学問によって説明することが出来るが、人間から隔絶している絶対的な仏は、信仰の対象以外にはありえないということであった。平安時代までの仏教では、仏は人間と連続的なものと考えられていたのに対して、法然や親鸞は、仏と人間を無限の両極に引き離し、そして、その仏と人間を結ぶ唯一のものが「念仏」であるとした。人間は阿弥陀如来の姿や型を見ることも考えることも出来ないという。仏のことを思量する力を持たない人間が、その名を唱えることによって仏の慈悲にすがる。それが浄土教の教えだという。(週刊朝日百科・日本の歴史「鎌倉仏教」参照)
学問ではなく、信仰の立場で仏教をとらえなおすことが鎌倉仏教の課題であったとすれば、その先駆者となったのが法然(ほうねん、長承2年4月7日(1133年5月13日) - 建暦2年1月25日(1212年2月29日))であった。比叡山に上り、30年の厳しい修行の末に絶対的な阿弥陀如来と、凡愚悪人でしかありえない人間とをつなぐものは、仏の名号を称えること以外にないと確信した。そして、念仏が信仰の根本であるとすれば、それ以外の宗教的な実践は不要と考えた法然は比叡山より、降りて、京都の町にくだり、新しい立場を説き広めた。親鸞が法然の弟子となったのは法然が山を下りてから26年後のことである。その頃、法然の教は多くの人に受け入れられていたが念仏の方法をめぐっては、様々な解釈が生まれていた。
浄土宗では念仏を称えれば、悪人を含む全ての人が浄土へ往生できて成仏できるとする絶対他力を唱えている。そのため中には、念仏を称えて極楽往生が決まるのであれば一度念仏を称えた後は、どんな生活をしてもかまわないなどと言う主張も表れ、念仏の教を受け入れた人々の一部を過激な行動に走らせることにもなっていた。その過激な行動は、仏教の秩序を乱すものとして、比叡山や南部(奈良)諸大寺の非難を受けるようにもなっていた。そして、承元元年(1207)専修念仏禁止の弾圧によって、師法然は土佐へ、親鸞は越後国府へ流罪となる。親鸞この時35歳であった。配所では藤井善信という俗名を名乗り「僧に非ず俗に非ず」という生活を送る。4年後に赦免されたがその後も越後に留まり生活。この間に恵信尼(えしんに)と結婚、信蓮房が生まれる。(この頃、今の国府別院の地に住んでいたと伝えられている。建保2年(1214)、常陸国(茨城県)へと旅立ち、法然の教え(浄土宗)を発展させて作った浄土真宗の開祖である。その宗派の成り立ちの経緯から、真宗とする宗派もある。別名に一向宗とも言われる。
「一向宗」といえば、後の戦国時代には、「一向一揆」の存在があった。加賀の国などでは、一向宗門徒の農民たちによる自治国家までが誕生しているほどで、当時の「一向宗」の宗教勢力は強大になっていた。彼らの「自治」や「独立」の動きが特に旺盛な地域などでは、大名が地域を支配する上でどうしても一向宗の勢力が邪魔になる場合もあった。そう言った場所では大名と一向宗門徒の対立は激化し、一向宗の僧侶たちが先頭に立って、大名の軍勢と戦場で戦う場合も多くあった。「仏法のために死ねば極楽浄土に行ける」と信じていた彼らの戦いぶりは、名うての戦国大名にさえ、恐れらるものだった。戦国時代中期には、一向宗の総本山だった「本願寺」と織田 信長が対立したため、織田家と各地の一向宗門徒との戦いが激化したのは歴史上有名な出来事である。今、イラクで、米軍がイスラム原理主義の人たちのテロなどに悩まされているのを見ても感じることだが、天下を統一しようとする信長にとっても、戦って死んだら極楽浄土へいけると信じ込んでているような人達の集団と戦うのは大変なことだったろうな~。
神戸元町に、浄土真宗「本願寺神戸別院」がある。西本願寺直属の別院でありながら、お寺とは思えないエキゾチックな建物。神戸では別名「モダン寺」と呼ばれている。神戸へこられた時には是非一度見学されては・・・。
(画像は「本願寺神戸別院」別名「モダン寺」)
参考:
親鸞 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E
「本願寺神戸別院」別名「モダン寺」
http://www.modan-t.or.jp/
松岡正剛の千夜千冊『歎異抄』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0397.html