今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

こだまの日

2005-07-31 | 記念日
今日(7月31日)は、「こだまの日」。
1959年(昭和34年)に特急こだまが、狭軌鉄道での世界最高速記録163キロを樹立し、世界に「シンカンセン」としてその名を馳せた日である。この実験は新幹線の実現のために行われたもの。我が国の大動脈、東海道新幹線が実際に開通したのは、1964年(昭和39年)、東京オリンピックの開催された年である。
こだまとは、東海道・山陽新幹線の各駅停車タイプの列車の愛称。また東海道新幹線開業以前は、 国鉄が東京駅~大阪駅間を東海道本線経由で運行していた特急列車の愛称であった。私の我楽多のコレクションの中にJRの「切符袋」がある。新幹線の切符などを買ったときの切符入れである。表紙には、こだまの写真やイラストが描かれている。こだまの特徴はなんといっても、親しみのあるその丸い顔である。しかし、この丸みのある顔も、現れた当時はいかにも速そうな印象であったが、今では流線型の尖った顔の列車が主流となり、こだまは「のろくて邪魔」な存在として扱われており、とうとう配車の運命にあるようだ。
思い出せば、私が若い頃、大阪の会社を辞めて東京へ就職したが、当時は、まだ、新幹線はなく、夜中に神戸から、夜行の「銀河」に乗り、翌朝ついたのを思い出す。東京と神戸・大阪間の交通には時間を要し、その当時は、まだ、東京に住む、関西人は非常に少なかった。だから、私などのように、のんびりとしたなにわの言葉で商売していた人間は、関西人に接したことのない人達から、そのはなし口調が可笑しいと、良く笑われたものである。その2年後くらいに、東海道に新幹線「こだま」が開通した。初めて、こだまに乗った時は、本当にその速さにびっくりした。そして、その頃から、東京と大阪の距離がぐんと縮まった。新幹線が出来るまで、時間がかかるので、神戸の実家へも帰らなかったが、出来てからは盆と正月くらいは帰って来るようになった。そして、世の中も変っていった。私が東京へ行った頃は、まだ、繊維の街大阪が経済の中心であった。しかし、時間的距離の短縮と共に、だんだんと、経済の中心も大阪から東京へ移っていった。今、鉄道も、飛行機を相手にして、スピード競争をしている。スピードが速くなるにつれて、地域間の距離が短くなる。そのことに、よって、色々と地域に変化をもたらしている。新幹線の駅が出来たことによって、成長している街。逆に取り残され、衰退していく街。時間と距離の反比例の問題は奥が深い。大阪にあった本社も東京に移って行き大阪の地盤が沈下していった。今日「こだま」の時代に、紙の切符入れなどを見ながら色々と昔のことなどが思い出された。ま、こんな紙くずのような我楽多でも、結構ノスタルジーを感じさせてくれるよ。
そういえば、新幹線「こだま」の愛くるしい丸顔だけでなく、人間の顔も昔に比べて丸顔は少なくなり殆どの人の顔が細面のとんがった感じの顔になってきたね~。コレクションの古雑誌など見ていると昔の人のふっくらとした丸顔のほんわかとした写真を見ていると心が和んでくる。何か今流行のとんがった顔からは、電車だけでなく人間もきつく冷たい感じを受けるのは私だけだろうか。
(画像は、コレクションの「切符袋」表紙には、こだまのイラストが描かれている。)
参考:
こだま (列車)(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%A0%E3%81%BE_(%E5%88%97%E8%BB%8A)

明治最後の日

2005-07-30 | 歴史
今日(7月30日)は「明治最後の日」
1912(明治45)年、明治天皇の崩御により「大正」と改元された日である。
明治天皇の死と新天皇の即位は王の死とその継承、再生を意味する最大の国歌儀礼であった。この皇位継承儀礼は、死の直後の新天皇の践祚に始まり大喪儀(たいそうぎ=大喪)を経て、大正天皇の即位礼、大嘗祭まで3年4ヶ月にわたって繰り広げられた。これらの儀礼のうち、大喪儀は明治42年に定められた皇室服喪令の「大喪」の規定に拠っており、践祚、即位礼、大嘗祭は同年2月11日の紀元節に、帝国憲法発布20年を記念して制定された登極令(とうきょくれい)にしたがって挙行された。なお、大喪儀の次第については、当時規定がなかったため、明治30年に京都で行われた英照皇太后《孝明天皇妃夙子(あきこ)》の大喪儀を前例とし、これを拡充する形で営まれた。
明治45年7月30日午前零時43分、明治天皇が没すると、わずか17分後の午前1時から践祚の儀が行われた。大正天皇は、宮中正殿で践祚して、第123代の天皇となり、時を同じくして、皇太子妃節子(さだこ)の立皇后式がおこなわれた。践祚にあたり、神器の剣《草薙の剣(くさなぎのつるぎ)の形代(かたしろ)》と《璽(じ)八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)》が、侍従によって明治天皇のもとから新天皇のもとに移された。宮中の賢所に祀られる鏡《八咫鏡(やたのかがみ)》と天皇の身辺に置く剣・璽からなる「三種の神器(じんき)」として歴代の天皇によって受け伝えられてきたが、旧皇室典範で、「祖宗(そそう)の神器」として始めて公的性格を与えられ、登極令で践祚にさいしての「剣璽渡御(けんじとぎょ)」が規定された。剣璽とともに、内大臣によって御璽(ぎょじ)と国璽(こくじ=天皇の印と国家の印)が新天皇のもとに移された。践祚と同時刻に、掌典長が奉仕して賢所で祭典が執行され、皇霊殿、神殿に践祚が奉告された。皇霊殿は天皇の祖先の神霊、神殿は天神地祇(てんじんちぎ)を祀る宮中の神社でともに明治前期に新たに作られ、賢所とあわせて宮中三殿と呼ばれる。同日、改元の詔が出て、大正への即日改元が行われた。大正改元は明治維新にさいして定められた、一世一元制による最初の改元であった。
明治天皇の死は、電報が即時にうたれて、そのあくる日、世界各地の新聞に出た。当時、日本人の力は明治天皇と結びつけて記憶されており、この時代には、他のどの日本人よりも、明治天皇は世界にたいして日本を代表する人物だった。帝国憲法と旧皇室典範(明治22年)を基本法とする近代天皇制国家は、政治、軍事の大権をもち国の最高祭司である現人神・天皇を絶対君主とし、皇位を原型として形づくられていた。そのため、皇位継承は、国家にとって最も重要な手続きであり、明治維新直後から、その儀礼が神道に基づいて整えられてきた。明治天皇の死に3年先立ってつくられた登極令は、神道形式による皇位継承儀礼の集大成だったのである。(週間朝日百科・日本の歴史より)
この日は、崩御した明治天皇を記念して、1913(大正2)年から1926(大正15)年まで祭日(「明治天皇祭」)になっていた。この、「明治天皇祭」は、1927(昭和2)年からは、1852(嘉永5)年9月22日の明治天皇の誕生日を太陽暦に換算した11月3日を「明治節」という祭日にした。そして、1946(昭和21)年、この「明治節 」は、平和と文化を重視した日本国憲法が公布されたことを記念して、1948(昭和23)年公布・制定の祝日法で「自由と平和を愛し、文化をすすめる」国民の祝日(文化の日)に定められ、今日に至っている。
因みに、元号は敗戦後、旧皇室典範と登極令が廃止され法的根拠がなくなった。元号の根拠となっていた旧皇室典範と登極令の廃止を受けて政府は1946年(昭和21年)、いったん元号法案を閣議決定したが、GHQに拒否された。現在の元号法(昭和54年法律第43号)は(1)元号は政令で定める(2)元号は皇位の継承があった場合に限り改める、の2項目によっている。
明治神宮外苑・聖徳紀念館には、明治天皇の御降誕~崩御まで奉納された80枚の壁画が飾られており、、明治天皇御在位の主要な歴史的出来事が全て判るようになっている。興味のある方は、明治神宮外苑へ行かれては・・・。私は。この80枚の中の40枚を持っており、いずれ、私のHPで40枚の絵葉書を公開したいと思っている。
(画像の左は、明治41年神戸沖で行われた海軍大演習記念絵葉書の「明治天応御影」抜粋分。何故か、これら絵葉書などには、明治天皇の写真による御影はなく、全て、絵で、描かれたものである。右は、明治神宮外苑・聖徳紀念館に飾られている絵の1枚「不豫」田邊至筆画である。)
参考:
旧皇室典範
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kyukousityutennpann.htm
日本国憲法
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/kenpou/index.htm
元号について
http://www.nunochu.com/japan/gengo.html

フィンセント・ファン・ゴッホ(画家・ひまわり)の忌日

2005-07-29 | 人物
1890(明治23)年 の今日(7月29日)は、燃えるような代表作『ひまわり』の絵などで世界中の人々を惹きつけてやまない天才画家フィンセント・ファン・ゴッホ (Vincent Willem van Gogh )が亡くなった日。 <37歳>
ゴッホは1853年3月30日オランダに生まれ、教師、牧師、画商など職を転々としたのち、27歳で画家となる。以後10年間、精力的に活動。表現主義を予告する独自の世界を築いた。1886年、36歳のときにパリへ移住。弟のテオが画商をしていた関係で、ドガやロートレックなどとの出会いに恵まれ、彼らから印象派の技法を学んだ。また、ジャポニズムのなか、日本の浮世絵の特徴である明快な色使い、影の無い世界にも大きな影響を受けた。そして、1888年、アルルへ向かった。それから死ぬまでの2年間の作品が、最もすばらしいものであったといわれている。
彼の画家としての出発は遅く、37歳で悲劇的な死を選ぶまでの、わずか10年の間に2000点を超える作品を残しているといわれるが、ゴッホの最も代表的な作品は「ひまわり」であろう。ゴッホは、全部で12点の 「ひまわり」を描いたそうだが、その内7点が、ゴッホ芸術の最良期であるアルル時代の作品であり、その前のパリ時代に5点描いているという。
日差しの強い南仏の町アルル、気の合った画家たちを集めて芸術家村を作るという夢を見て借りた通称「黄色い家」に、画家の仲間達を招待していたが、来たのはゴーギャンだけだったらしい。兎に角、そのゴーギャンを迎え入れる部屋に飾ろうと考え、燃えるような情熱を傾けて描かれたのが一連のひまわりの絵だそうだ。
しかしそのゴーギャンとの共同生活はたった2ヶ月で不和となり、ゴーギャンに自画像の「耳の形がおかしい」と言われると、ゴッホが自らの耳を切り落とすという衝撃的な事件の後、ゴッホに奇行が目立ち、アルルの病院からサン・レミの精神病院に収容され、治療していたが、最後はパリ近郊のオーヴェル・シュル・オワーズに移り、1890年7月27日、この地で、猟銃で自殺をはかり2日後の29日に死亡したという(腹部に銃創があることなどから、不審者を恐れた住人に撃たれたと考える研究家もいるらしい)。
ゴッホには色々な奇行がみられるが、精神学上から見ると、彼の絵に多く用いられている鮮烈な黄色は、精神の不安定さを表しているともいわれているが、アルルで描かれた黄色いひまわりは、いずれも生気に満ちていて、今にも燃え上がらんばかりに、生命を輝かせており、これから住むはずであった共同体の仲間を暗示したものだとされている。
今でこそ、有名なゴッホの絵を世界中の人が、高額で手に入れようとするが、彼が生前に売れた絵はたった1枚のみであり、彼は、貧困と精神的な病気の苦痛等に苛まれる人生を送ったというから哀れな人生だよね。えてして、天才とはそうしたものかも知れないね~。
ゴッホの描いた2000点もの遺作は、画商をしていた弟テオの奥さんが所蔵していたそうたが、金に困って二束三文で売られたりして、その後散逸。最近ゴッホ美術館がオランダにできて、収集・保存活動が続けられているという。そういえば、2年前(2003年)、日本で開催されたオークションに洋画家の故中川一政氏が所有していたコレクションが出品され、その内の1点「農婦」の絵がゴッホ美術館の鑑定により真作であることが判明し、話題になったのを思い出した。まだ、探せば、どこかに埋もれているかも・・・?
(画像は、ゴッホ自画像、インターネット美術館より借用)
参考:
フィンセント・ファン・ゴッホ (Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フィンセント・ファン・ゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホ:インターネット美術館
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/h-inb1/h-pim/h-goh/IPA-inb370.htm
名画デスクトップ壁紙美術館 ゴッホ;《切られた4本のひまわり》
http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/FourCutSunf.html
2003.02.08朝日新聞/幻のゴッホ国内に
http://kiemon-web.hp.infoseek.co.jp/gohonofu.html
色彩のイメージ~黄~
http://members.at.infoseek.co.jp/iron_savior/yellow.htm

なにわの日

2005-07-28 | 記念日
今日(7月28日)は、「なにわの日」。「な(7)に(2)わ(8)」の語呂合わせから。
それでは、大阪を意味する「なにわ」と言う言葉に、あなたならどのような漢字を当てるだろう?
これを、GOOGLEで調べた人がいる。そうすると、日本のホームページで使われているものは、(1)難波、(2)浪速、(3)浪花、(4)波華、(5)浪華の順だそうである。しかし1位の「難波」は、たいていの場合「なんば」と読むから、ここは「浪速」と「浪花」の対決となり、そうすると、「浪速」:「浪花」=14万3000件:7万1200件=2:1の割合で「浪速」の方がよく使われているということだそうだ。ふんふん、これは以外に、懸命な使われ方だね~。
原始時代、大阪平野の内陸部は海水の河内湾であり、のちに河内湖になり、河内潟になってきた。日本で一番古い記録である『古事記』と『日本書紀』には、「ナニワ」という言葉が使われており、『日本書紀』の神武即位前紀に、 「皇師(みいくさ)遂に東にゆき(中略)、方(まさ)に難波碕に到(いた)る。奔(はや)き潮有り手太(はなは)だ急なるに会う。名づけて浪速国と為(な)す。 亦(ま)た浪花と曰(い)ふ。今難波と謂ふは訛(なま)れるなり」。とあり、潮流が早いので浪速といい、後に難波となまったということである。
豊臣秀吉の大阪城築城は単に城づくりだけでなく、城下の市街地の開発を含めたものであり、中でも東横堀川の開削は、外堀として城の防御を固めるほか、相当に低湿地であった船場地区に盛土をして土地造成を図り、また水運を確保し物資の運搬を容易にするなど様々な目的があった。 江戸時代に入って徳川氏によって大阪城の再建、船場・島之内の開発がはかられたが、市内の堀川の整備は、主に開発商人によって盛んに行われ、道頓堀川ー元和元年(1615)を初めとするが、その内、幕府管轄の「公儀橋」は一割も無く、大半はお上に頼らず民衆が架けた、「町橋」 だったそうだ。昔から、「水の都」などとも言われていた大阪は、運河に囲まれた街であり、その心意気は江戸の八百八町ならぬ、「なにわ八百八橋」と言われ、大阪は川と橋の街として有名であった。「天満橋」「天神橋」「難波橋」の難波三大橋を始め、淀屋橋、水晶橋などの市内の橋。淀川、大和川という大河に架かる枚方大橋、大和橋。心斎橋、四ツ橋など今は地名に名前を残すだけの橋もある。当時、川は流通の中心で、「出船千艘・入船千艘」と形容され、諸国の物産を積んだ、菱垣廻船が安治川港に集まり、伝馬船が堂島・船場・中ノ島などの蔵屋敷や商家に荷を運んでいた。
しかし、以下参考の知ってるかい「なにわ名物開発研究会」 の「なにわ名物白書」には、「“なにわ”という言葉から連想されるもの」は? の問いに関する回答を集計をしたものがあるが、その中に、大阪の橋や川といったものは出てこない。「“なにわ”の有名な場所」と言えば ?・・の問いに、3位道頓堀(26,2%)が出てくるだけである。因みに、「“なにわ”という言葉そのものから連想されるもの」は?の質問に対しては、1位大阪城 (17.2%) 2位たこ焼き(8.2%) 3位商人(商売人)(7.9%)であり、大阪商人を連想する人も1割といない。私などが、若い頃(昭和30年代)に大阪の本町で、仕事をしていた頃は、まだ、大阪華やかなりし頃であり、東京に対抗してというよりも、当時産業の中心であった繊維関係などにおいて、圧倒的に大阪がリードしていた。「“なにわ”という言葉から連想されるもの」が大阪城とたこ焼とは、ちょっと寂しい気はするね~。
「ナニワ」の話は、それまでにして、大阪弁は、大阪地方の方言で、じゃ~、大阪弁といえばみな同じかと言うと、大阪弁にも、大まかに、「なにわことば」と言われるもののほか、河内弁。泉州弁などがある。「なにわことば」は昔の船場・島之内の商人などが使っていた言葉で、一般には、この「なにわことば」を、大阪弁と呼び、私などが大阪で商売をしていた昭和30年代にはまだ使われていたが、今では、この言葉も余り正確には使われていないようだ。ここにあるのは、私のコレクションの中の絵葉書の1枚であり、道頓堀の風景である。多分大正ごろのものと思うが、この絵葉書の面白いのは、絵はがきの説明が、大阪弁(なにわことば)で書かれている点である。
写真では読みにくいので、説明通りに書いてみよう。
○道頓堀絵葉書より
エライニギヤカデ オマッシャロ 、コ々ガ名代ノ道頓堀ダンガナ、
カゝリノ蓙ハ、浪花蓙デ、次ガ中座、角蓙、朝日座、弁天蓙ノ五ツガオマスヨッテニ、
何時モ何時モウデヤウデヤ見物人ガエライギョーサン居りマッシャロ、
ココカラ千日前へ行キャハルトマタ賑ヤカダッセ、行キマホカ
以上であるが、ドウデッカ?ゴッツウ ノスタルディーダッシャロ・・
今日はチョット 大阪弁ノ 勉強シナオシマヒョカイナ~。
大阪弁に興味が出来たら以下のHPも覗いてみるといいよ。
大阪弁~なにわことば~講座
六稜大阪学講座「なにわことば三昧」INDEX
大阪弁完全マスター講座
全国大阪弁普及協会
参考:
知ってるかい「なにわ名物開発研究会」
http://www.kuidaore-osaka.com/2top/fumi/07_magic/naniwa/
「ナニワ」の由来
http://www.osakahonjou.com/naniwa.htm
大阪ページ(大阪府立中之島図書館 )
http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/osakatop.html
ここの錦絵にみる大阪の風景 道頓堀展 ~描かれたなにわの華~など面白いよ。

政治を考える日

2005-07-27 | 記念日
今日7月27日は、「政治を考える日」
1976年(昭和51年)7月27日,、ロッキード事件で、当時の首相田中角栄氏が逮捕され、日本の政治に多大な影響を与えた事から、政治を改めて考えて見ようというもの。このロッキード事件は、アメリカのロッキード社が、日本に飛行機を売り込もうとして、日本の政界に多額のワイロを贈ったとされる疑獄事件である。
1970(昭和45)年、ロッキード社のコーチャン(副会長)が、「トライスター」を日本の全日空に売り込む為、商社である丸紅に売込みを依頼した。 この頃、アメリカの他の飛行機会社2社も、それぞれ日本の別々の商社と組んで飛行機を売り込もうと考えていた。そのため、ロッキード社と丸紅は、当時の総理大臣・田中角栄に、全日空にロッキード社の飛行機を買うよう働きかけてくれと要望し、謝礼にと丸紅の3人の幹部が、5億円を田中総理の秘書を通じて渡した。この事件の解明の発端は、日本政府高官に巨額の金が渡っていたいたことが米議会での当事者(コーチャン副会長ら)の証言があって初めて明らかになったことが特徴的である。右翼の大物や大企業の幹部などが次々と疑惑容疑で現れた。当時「総理大臣の犯罪」として、大騒ぎになった事件である・・・・。「よっしゃよっしゃ」で有名になった首相であるが、最高権力者にあるものが「よっしゃよっしゃ」と疑獄事件の中心人物になっていたというのは前代未聞のことであった。この事件の後、首相の座に着いたのは弱小派閥のクリーンなイメージの三木武夫であり、この疑獄事件も徹底的に究明し、国民の支持を集めたものの足元の与党内から「三木おろし」と呼ばれる激しい攻撃にさらされ、抵抗したが、結局は、退陣に追い込まれている。そして、それ以降も自民党の議員の中からは色んな贈収賄容疑者が出てきた。昨年(2004年)の報道でも、「診療報酬改定をめぐり贈賄罪で起訴された日本歯科医師会前会長らが、自民党橋本派に対し、小切手で1億円を渡していたことが関係者の話で分かった」と報道されていた。選挙に金のかかるのは良くわかるが、その為に、特定の利益団体と結びついていくことが、今の政治を悪くしているのだろう。最近のある政党の議員のように、人のことを非難ばかりしている議員が、架空の秘書の名前を使ってその人に出た給与を使い込んだりする事件もあった。いろんな法律で規制が行われているが、それでも、その網の目をくぐって金のために悪いことをする人が現れる。政治家もどんどん小者になっていく。ここのところは、政治家だけでなく、官僚や公務員の税金の無駄遣い。中には、それは詐欺でしょうと言う事件もあるがそれを犯罪とも思わない無神経ぶり。官も政も腐りきっている。大事な選挙を単に名前が売れてるとか、格好いいとか、女性であるからとか、特定の業界と癒着した政治家などを選ぶ国民にも全く責任がないとは言えない。政治三等国の日本の将来が危ぶまれる。嘆かわしいものだ。今、小泉首相の郵政民営化を巡って、郵政族などを中心に、自民党反対派の抵抗が強く、議案の廃止を画策している。小泉首相は、参議院の結果次第で解散総選挙を匂わせている。郵政民営化は小泉首相の公約である。その公約をした人を国民は選んだのだし、その公約をした人を首相に選んだのは自民党である。民営化の中身の論議は別として、民営化に反対するのはおかしい。又、自民党の抵抗勢力の出方によって、「自民党をぶっ壊す」と公言しているも小泉首相である。解散総選挙になれば、自民党は敗北する可能性大だろう。政治を正すチャンスになるかもしれない。今の民社党も頼りない。一度、ぶっ壊して、政界再編を行い官と政治のあり方を見直す機会にするのもよいだろう。
(画像は、小島功漫画「解散剣」だだの手入れか?。7月17日朝日朝刊)
参考:
ロッキード事件
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/rokkido.htm